7.
三月中旬
笑顔というものは、周囲の人々を明るくさせるだけではない。ストレス解消の効果があるだけではなく、ガン細胞をやっつける細胞増加や、免疫力向上など様々効果をもたらす。
鏡の前の立つ。いつからだろうか?普段から、あまり笑わなくなったのは。おかげで口元は下がり、いつもムッとしたような表情だ。そのせいで、皆からはあまりいい印象はされていないだろう。
無理やり鏡に笑ってみる。気がつけば、笑い方を忘れてしまった。無意識の笑顔はできているのかもしれないが、いざ笑ってと言われるとできない。どうすれば意図的に笑うことができるのか。
下手な自分の笑顔を見てため息を吐く。その音でさえも、家の中の静寂に消えていった。
静かだった。二人暮らしでも広すぎるこの家に一人ぼっちだと、余計に寂しく感じる。
少女はそのまま荷造りしたエナメルバックを肩にかけると、家に鍵をかけ出ていった。
「いらっしゃーい」
玄関先で美帆に迎えられた。少女は誘導されるままに、家の中に入っていった。
今日から彼女の家に、二日間ほどお世話になる。元は彼女のほうから誘ってくれたので、ここはありがたくお世話になろうと思う。
二人は美帆の部屋に入った。前に一度来たことがあるが、相変わらず清潔感が漂う綺麗な部屋だ。あの宝木家の別荘ということもあって、広々としたこの部屋に一人で過ごしているのかと思うと、とても羨ましい。
派手な和風の外装の割に、部屋の中は茶色いフローリングのシンプルな仕立てだ。窓も大きく、昼間は太陽の明るさだけで充分過ぎるほど明るかった。
彼女に「適当に荷物置いといていいよー」と促され、ベッドの横にバッグを置くと、ホワイトカラーの丸テーブルの前に座った。
「前も来たけどさ。相変わらず広いね」
少女が言った。
「そうなんだよねぇ。寧ろ、広すぎてどこに何を置くかを迷っちゃうんだよ。今度、新しくドレッサーを部屋に置く予定なんだけど、これまたどこに置こうかなぁって思ってて」
「ドレッサーかぁ。モデルの仕事してるもんね」
「そうそう。正直、あんまりメイクはしたくないんだけどねぇ。まぁ、お金もそれなりに貰えるし、高校卒業するまでは続けようと思ってるんだ」
「その後はどうするの?」
美帆はベッドの上に、少女と向かい合うように座った。
「んー?私ね、将来は心理カウンセラーになりたいの。だから、東京の専門学校に入りたいなぁって思ってるんだ」
「へぇ、美帆が心理カウンセラーかぁ。確かに向いてるかも」
そう言うと彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
彼女には、人を癒す話術や雰囲気がある。きっと素質があるのかもしれない。実際に自分だって、彼女に助けてもらった一人だ。そのことには、とても感謝している。
ピンポーン…。ふと、家のインターホンが鳴り響いた。
「あ、きたきた。ちょっと待ってて」
美帆はそう言うと、急ぎ足で部屋を出ていった。下の階から、何やら会話が聞こえてくる。
階段を上がってくる音が聞こえた。それも、一人ではなく二人分だ。一体誰だろう?少女は部屋のドアをじっと見つめていた。
「いやぁ、久々だなぁ。美帆の家」
ふと、どこかで聞いたような声が聞こえた。
少女の心に再び、悪い予感が走った。美帆なら、そういったこともやりかねない。
「さてここでストップ。突然ですが問題です!部屋の中には、とある一人の女の子がいます。さて、それは誰でしょう?」
部屋の外で、美帆が呼びかけた。きっとそれは自分の事だろう。
なんだかんだ彼女も趣味が悪い。素直に会わせてくれれば、少しはスッキリするのに。
「えー?誰?香苗でもいるの?」
「ざんねーん」
美帆はそう言うと、部屋に入り中に入るよう促した。
中に入ってきたのは、予想通り西村陽子であった。
不思議と前のような恐怖は無く、自然と彼女の姿を見ていることができた。
「あっ…心奈」
彼女は驚きを隠せないようで、口に手を当てて立ち止まった。
「先にお邪魔してるよ。陽子」
「え?あ、うん…」
そうだった。前に彼女と再会した時に、自分はまた逃げてしまったのだ。彼女のこの反応も、当たり前だろう。まして話し方も戻したのだ。きっと混乱しているに違いない。
「ささ、事情は話すからさ。とりあえず座ってよ。どうせだし、心奈の隣に」
「う、うん…」
西村は恐る恐る少女の隣に座った。そんなに恐縮しなくても、別に食べたりしないのに。
「それで美帆?これはどういうこと?…まぁ、なんとなく意図は見えるけど」
少女は問うた。
美帆は再びベッドの上に座ると、苦笑いを浮かべながら言った。
「あはは。ごめんね二人とも。裕人君と心奈が復縁するのはもちろんだけどさ、まずは昔の親友同士でまた仲良くならないとダメだなぁって思って。お互いに内緒で呼んじゃった」
「そんな事だろうと思った」
少女は苦笑いを浮かべた。一方の西村は、居心地が悪いようで、ずっと床を見つめていた。
「どうする?しばらく出てようか?」
美帆が言った。
「えっ?でも…」
「うん、お願い。二人でちょっと話したいから」
困惑する西村を無視して、少女は美帆に頼んだ。彼女は微笑むと、足早に部屋を出て行ってしまった。
ドアが閉まる音が響くと同時に、沈黙が走る。西村は顔を俯かせて、ずっと思い悩んだ表情をしていた。
「…陽子」
少女は彼女の名を呼んだ。それでも彼女は顔を上げずに、こちらを見てはくれなかった。
「…まずは、謝らないといけないね。この間はごめんなさい」
「…うん」
西村が小さく頷く。
「私ね。ずっと…ずっと悩んでた。でも、美帆や香苗と仲良くなって、二人とならまた、新しい自分としてやり直せると思ったんだ」
「…だから、口調も違ったの?」
「ああ…。そっか、前会った時はまだその口調で話してたんだっけ。うん、そうだよ。昔の私じゃなくて、また新しい私として、二人とスタートしようとしてた。でも、そんな時に陽子と再会しちゃったの。もう、どうすればいいか分かんないよね。挙句にムキになっちゃって逃げちゃうし。ホントバカだなぁ、私」
少女は自分を笑った。未だに彼女は俯いている。
「でもね。美帆に言われて気がついたの。新しい私じゃなくて、昔の、本当の私のまま、やっぱりみんなと仲良くなろうって。新しい私を作ったって、それは嘘の私。偽りの私と再会したって、陽子は嬉しくなんかないよね」
西村は無言のまま、少女の話を聞いていた。
いい加減嫌気がさした少女は、彼女の肩を掴んだ。「へっ?」と素っ頓狂な声を彼女があげる。
「陽子。今更かもしれないけど、改めて言わせて」
「え、ちょっと…」
少女は、彼女の体を手で包んだ。彼女の鼓動が伝わってくる。だいぶ緊張しているのか、鼓動はかなり早かった。
「…久しぶり。また会えて、嬉しいよ」
「っ…心奈…」
彼女はハッとすると、「…うんっ!」と答えてくれた。
「…ちょっと?また泣いてるの?やっぱり泣き虫な所は変わらないね」
「う、うるさいなぁ…嬉し涙なんだから、仕方ないじゃん…」
西村は少女に抱き着いたまま嗚咽した。
「ふふ、これからもよろしくね。私の親友、陽子」
「こちらこそ。心奈」
二人は顔を見合わせると、微笑み合った。
「さて、二人のいざこざも解けたところで本題に入ろっか」
しばらくして、部屋に戻ってきた美帆が話を切り出した。
「改めて聞くんだけど…心奈。裕人君と、また会いたい?」
美帆が問うた。
「…多分私は、あいつに会いたいんだと思う。でもね、この間。美帆が見ないほうがいいよって言った時。あいつを、久々に見たんだ」
当時の気持ちを思い出す。本当は彼の前に立ちたいのに、どうしても恐怖で拒んでしまう自分がいることを、二人に話した。
「ふぅん。裕人君の笑顔が怖い、か」
美帆が唸った。
「大丈夫だよ、心配しなくても。ヒロ君は昔と同じ、ちょっとバカなヒロ君だから」
西村がフォローする。果たしてフォローなのかと言われると、多分悪口なのだろうけれど。
「それは、二人の話を聞いて分かってるけど…やっぱり、怖いよ」
「…怖いと思うから、怖いんじゃない?」
「へ?」
美帆が言った。
「裕人君が怖い。そうじゃなくて、昔みたいに『あのバカに一言文句言ってやる!』って思えばいいと思うよ。きっと昔は裕人君と、何度も喧嘩したんじゃない?」
「喧嘩…そうだね。数えきれないくらいしたと思う」
「なら、その時の気持ちを思い出してみて。喧嘩して、凄く文句を言ってやりたいって思うモヤモヤした気持ち。それを、今の裕人君にぶつければいいんだよ。大丈夫。私も話したけど、彼。押しに弱いから。ズイズイ言ってやれば、逆にこっちが呆れちゃうくらい、すぐに恐怖なんてなくなっちゃうよ」
「そうかな…?」
「そうだよ!私だって…って美帆!そういえばあの時のリンゴちゃん!どうしてヒロ君の前で言ったの!?」
突然思い出したかのように、西村が怒鳴った。
「ああ、そういえば言ったような気がするなぁ」
「おかげですっごく恥ずかしかったんだから!」
「あはは、ごめんごめん。後でリンゴあげるから許してよ」
「リンゴで逸らそうとするなぁ!」
彼女の叫びが、宝木邸に響いた。
「…リンゴちゃんって、何?」
少女が問うた。
「ああ!ダメ!絶対ダメ!教えないで!」
西村が顔を赤くしながら叫ぶ。
「えー?どうしよっかなぁ?結構面白い話なんだけどなぁ」
「ダメぇぇぇぇぇ!」
西村が顔をリンゴのように真っ赤にさせて叫んだ。
それからしばらく、二人の謎の口喧嘩が続いた。少女は訳が分からないまま、二人の会話を聞いていた。
話が改めて再開したのは、十数分後の事だった。
「さて、ごめんね心奈。話を戻そうか」
これまで笑顔で話していた美帆が、すぐに真剣な表情に切り替わる。彼女はこのオンオフができるところが羨ましいと思う。
「なんだっけ?ああ、そうだ。とにかくヒロ君の必勝法は、押して押して押しまくれってことだよ」
すっかり落ち着いた西村が言った。
「押しまくるって言ってもなぁ…私にできるかな?」
「何言ってんの!それが一番上手かったのは、心奈自身でしょ?昔通りに、また話せばいいんだって!」
「そうそう。結局、昔通りに話せばいいんだよ。今日、陽子と話したみたいにね」
二人が微笑みながら語りかける。
「そっか…。うん、そう思えばなんか、あいつに色々文句言える気がする。ありがとう、二人とも」
二人の応援のおかげで、彼への恐怖心はいくつか解れた。なんとか、行けそうな気がする。
「よかった。それじゃあ…裕人君と会うタイミング、どうする?」
美帆が言った。
「それなら、もう考えてあるんだ」
彼と会う機会が作れる。それが分かった時から、彼と会うならこの日がいいなと、ずっと思っていた日があった。
少女は二人に、その日付を口にした。
「…ふふ、心奈らしいね」
それを聞いた二人は、揃って微笑んでくれた。
もうすぐ彼に会える。少女―――明月心奈は、その日をとても待ち遠しく感じていた。




