立春から十日
ここは雪が降らない。
が、寒い。
暦の上では十日ほど前に春は来ているのだが、彼岸は残念ながら訪れていない。
暑さ寒さは彼岸までという昔の人の格言をしみじみ感じる季節だ。
こんな日はひきこもって毛布にくるまりながら仕事をする《パソコンいじる》に限る。
前も言ったが、俺はゲームクリエイター。決してひきこもりのニートではない。
ひきこもり気味なのは否定しないが、パソコンいじるのだって、仕事なのだ。
具体的に何をやっているかというと、インターネットゲームの管理だ。荒らし屋がいないかとか、不具合がないかとかの確認、対処するのが俺の仕事だ。
平和な国の平和な頭が作ったゲームだ。 荒らし屋といっても、ただの暇人。ちゃんとかまってやるやつがいれば普通のプレイヤーになってくれる。
俺にとって問題は、まさしく嵐の如き苦情だろう。
より快適に、それは制作者側も望んでいる。だが……
サーバーが重いとか、ページ飛ばすとエラーが出るとかならわかるんだ。
子供が勝手に弄ってデータ飛んだとか、友人に使われて、パケ代がやばいんだとか……そりゃ俺たちのテリトリーじゃないだろう!!
溜め息しか出ないが、応じてやらないと、暴徒と化すからなあ……
思わず遠い目になった俺の耳に、呼び鈴が聞こえた。立ち上がると、毛布がぱさりと肩から落ち、ぞわっと背筋を寒気が撫でる。
俺は部屋着を一枚引っ掛け、玄関に出た。
部屋の戸を開け、変わった匂いが漂っていることに気づく。いや、その香り自体はごくごく一般的なものだが、うちでするのは珍しかった。
ふわりと甘いチョコレートの匂いだ。
そういや、今日はソラが台所を貸してほしいと朝から立っているんだったか。お菓子でも作っているんだろう。ソラは料理も上手いしな。
いや、嫁さん自慢じゃないぞ? その前にソラは嫁さんじゃない。
……と、そうこう考えているうちに、玄関に着く。扉の向こうの人物は想像がついていた。
「……よぉ、切崎」
「こんにちは、ハルトさん」
肌以外は見事に黒い少し幼さを残す少年。身も蓋もない言い方をすると、童顔。そんな少年が真っ黒なコートに身を包み、真っ黒なマフラーに顔を埋めた状態で挨拶した。
彼こそがネトゲ界で名を馳せる無双プレイヤーにして中二臭のする組織に属する胡散臭い友人、切崎 邪鬼だ。もちろん本名ではないが。
既にこのプレイヤーネームの時点で胡散臭さ抜群だ。
それはさておき。俺が中へ招き、一歩家に足を踏み入れるなり、小さな鼻をくんくんとした。
「チョコレート、ですか?」
「ああ。ソラがなんか作ってるみたいだ」
俺が答えると、切崎はにやにやとした笑みを向けてくる。
「時期ですねぇ……」
「はあ……?」
意味がわからん。ってか、その顔やめろ。気持ち悪い。何故俺を見る。
「全く、自覚なしに役得ですね」
「……はいはい、茶でも淹れるから黙って座ってろ」
俺は切崎を部屋にやり、台所へ向かった。
入り口で、はたと足を止める。
いつになく真剣な表情のソラ。手元はボウルやゴムベラなどの道具でよく見えないが、何やら繊細な作業をしているようだ。
邪魔をしたくはなかったが、近づいてから驚いて手元が狂った、なんてことになったら可哀想だ。俺はその場で声をかけることにした。
「ソラ、何してるんだ?」
ぴたっ、とソラの手が止まる。わかりづらいが、充分驚いたようだ。手元を狂わせなかったその精神力に感嘆。
まあ、それはいいとして。ソラはきょとんと俺を見つめた。
「ハルト? どうしたの?」
「……俺に来客。切崎が来た」
集中して呼び鈴に気づいていなかったらしい。大きな銀色の目を見開いて、すぐに後ろの戸棚を開けた。そこから黒いマグカップを一つ出す。
「切崎さんのマグ、これだよね?」
「ああ。コーヒーは俺が淹れるから、ソラは気にせず自分のことをやっててくれ。ありがとな」
黒いマグカップを受け取り、俺はインスタントコーヒーの瓶を出した。適当に粉を入れ、電気ポットのお湯を注ぐ。インスタント独特の酸味のある匂いがする。嫌いではないが、俺は紅茶派だ。
お盆に切崎のカップを乗せ、何か茶菓子、と棚を見る。 ……生憎、ちょうど良さそうなものはない。
まあ、茶菓子がなくても切崎は文句を言わないだろう。突然来るやつが悪い。
マグカップとコーヒー瓶、手持ちサイズの電気ケトルを盆に乗せ、俺は部屋に戻った。
「で、今日は何の用だ?」
「あれ? ハルトさんってば、今日が何の日か本当に忘れたんですか?」
「……何かの記念日か?」
俺が首を傾げて問うと、処置なし、とでも言うように切崎は両手を上げ、肩を竦めた。
「今日は何日ですか?」
「立春から十日だから、十四日だろ」
「……それでもわかりませんか?」
切崎は何を言いたいんだ? 俺は寒いなあ、というくらいの認識しかないが……
痺れを切らして切崎が何か語り出そうとしたとき、控えめなノックがあった。
「どうぞ」
俺が答えると、静かに扉が開き、お盆を抱えたソラが姿を現す。
「あ、ごめんな。開けにくかっただろう。何か持ってるんなら声かけてくれりゃ開けるから」
「うん、大丈夫。ありがとう、ハルト」
微笑んだソラの銀糸がさらりと揺れる。相変わらず綺麗だ。
「これね、作ったの。切崎さんも来てるから、二人でどうぞ」
俺の知識が正しければ、ソラが作ったというそれは、紛れもなくフォンダンショコラというお菓子だった。
できたてのようだ。ほかほかと湯気のたつ生地の脇にクリームが添えてある。ちょこん、と乗せられたミントが可愛らしい。白い皿をそこらのパティシエもまっつぁおのセンスで赤いいちごジャムが彩る。細くしかれたオレンジマーマレードも彩りにいいアクセントを加えている。
「わあっ、ソラさん、ハイクオリティですね!」
切崎が珍しいくらいに素直な感動の声を上げる。
「初めてだから……上手くできてるかわかんないけど……」
いや、美味いに決まっている。見た目から美味しそうだ。
「切崎さん、甘いの嫌いじゃないですか?」
「好きですよ。ホワイトチョコレート以外は」
「普通のチョコレートは……」
「大好きです」
俺にはいまいち違いがわからないが、こいつなりのこだわりだろう。マグカップも黒というところからもわかるかもしれないが、こいつは黒という色に思い入れがある。……まあ、黒が好きというより、白が嫌いという説の方が有力だが。
「なら、ホットチョコレートもあるので、持ってきます。……ハルトのマグ、洗ってくるね」
「ん、ありがとう」
置きっぱなしだった俺の灰色のマグカップを持って、再びソラは出て行った。
「これでさすがにハルトさんもわかったでしょう?」
切崎がにやにや笑いを復活させる。だからやめろって。
……さっきの話を掘り返したようだが、やはり俺にはさっぱりだ。
「わかりませんか……ハルトさんはもっとパソコンより世の中を見た方がいいですよ」
「余計なお世話だ」
俺はテーブルに皿を置き、切崎の向かいに座りながら、ソラを待った。
ほどなくして、ソラは戻ってきた。今度は扉を開けてあげた。
ソラはいつも以上の綺麗な笑顔で俺を見上げ、思いがけない一言を口にした。
「ありがとう、ハルト。ハッピーバレンタイン!!」