5-3 不可解な提案
「……華奈?」
ふと、動きを止めて、弥鷹がぽつりと呟く。
あまりにも唐突だったお陰で、稽古の相手をしていた茅斗の木剣が、勢いを殺しきれずに弥鷹の頭頂部を直撃した。
「あでっ」と声を上げた弥鷹が自分の木剣を投げ出して頭頂部を両手で押さえ、その場にうずくまる。これに一番驚いたのは相手をしていた茅斗だった。上達してきたとはいえ、まさか当たるとは思わない。
それを見ていた愛花も「茅斗先輩のヒョロ剣が当たった……!?」などと言って読んでいた本を取り落とした。
「み、三鴨、悪い! 大丈夫か……?」
「ありゃりゃ……たんこぶ出来るかもね、これ」
茅斗が慌てて弥鷹の隣へしゃがみ込み、同様に駆け寄ってきた彩瀬が頭頂部を見ながら顔をしかめる。
声も無くうずくまるほど痛かったか、と、茅斗は思ったが、弥鷹の表情を見て首を傾げた。頭を押さえているため痛いは痛いのだろうが、目の前の絨毯をじっと見つめる弥鷹の思考がここに無いことが判ったのである。
少しの後、がばりと顔を上げた弥鷹が牢屋がある空間の通路の先、出口の方を見て、次にシャスタを見た。
弥鷹の表情には、焦燥とも怒りとも言いきれない複雑な色が浮かんでいる。
「どうかしたのですか?」
椅子に腰を降ろして稽古の様子を見ていたシャスタが首を傾げた。
「はっきりとは、分かんねぇけど……多分、あいつの……華奈の血が、魔法陣に使われた」
「!」
「えぇっ!?」
弥鷹が言うとシャスタは表情を強張らせ、彩瀬も思わずといった風に声を上げる。茅斗も愛花もそれぞれ驚いた様子を見せた。愛花は、折角拾い上げた本を再び取り落としている。
「血ぃ抜かれてから、何となく分かるんだよ。俺と同じようにされた奴らの気持ちっていうか、そういうの。魔法陣で繋がってるからかもしれねえけど……ともかく、それで今……」
華奈に呼ばれた気がした。
声には出さず、弥鷹は俯いて拳を握りしめる。
弥鷹の様子をじっと見ていたシャスタは、小さく息を吐いて肩を落とした。
「血を使われたヤタカさんがそう感じたということは、きっと正しいのだと思います」
華奈が大量の血を流す映像を思い出したのだろう。全員の表情が不安気に歪む。
けれど、と、シャスタは真っすぐに彼らを見て言葉を付け加えた。
「血を使われたということは、貴方がたのご友人が生きている証でもあります。魔法陣が発動するまで、魔族達もその方には手出し出来ないでしょう。挽回する術もある。どうか、負の方面ばかりに気を取られて、気持ちを落とさないでください」
弥鷹達は弾かれるように顔を見合わせる。
そうだ、恐らく助かるというシャスタの言葉を信じていない訳ではなかったが、これで証明されたことになるのだ。
だとすれば自分達に出来るのは、継続していざという時に邪魔にならないための準備を進めること。
気持ちを立て直し、そう思い直した時だった。
カツカツと、低めの靴音が通路から響いてくる。
何度も聞いたその音は、見張りであるユーグベルのものだ。予想通りの人物が通路の奥から現れ、迷い無い足取りでこちらへ向かってくる。
ユーグベルはこれまで見張りとして立っていた魔物に目配せをして下がらせると、いつも通り、牢屋の扉前まで進んだ。
華奈が血を使われたことを知ったばかりの弥鷹達は、自然、睨むような視線をユーグベルへ向ける。
ユーグベルはその視線を涼しい表情で受け止め、茅斗と目が合った瞬間にふっと微笑んだ。ぞわり。茅斗の背筋を悪寒が駆け抜け、茅斗は脂汗を流しながら弥鷹の背後へ避難する。茅斗の方が少し背が高いため、中腰というかへっぴり腰のような体勢だ。
結構時間が経つのに未だ慣れないようである。
まぁそれもそうか。慣れたら最後、茅斗先輩の何かが失われるであろう。と、弥鷹が苦笑していると、今度は自分がユーグベルに見られていることに気が付いた。
弥鷹の背後にいる茅斗を見ているのかと思えば、そうでも無いらしい。
「おい、お前」
美声に呼び掛けられ、弥鷹は思わずきょろきょろと周囲を見渡した。
そうしてから、俺? と、慎重に自分を指差してみる。
「そう、お前だ。こちらへ来い」
弥鷹は思わず青ざめ、冷や汗をだらだらと流した。
まさか茅斗先輩がなびかないからといって俺に鞍替えした……? いやいやそれこそまさか。俺を見る目に性的な気配は感じないし、そう簡単に心変わりしないだろ。多分魔法陣関連じゃね? いやしかし、魔族だし何考えてるのか分かったもんじゃ……
そんな思考に嵌まっては打ち消しながら、弥鷹はじりじりと後退しようとする。だが、背後に避難していた茅斗が弥鷹の背をぐいぐいと押していた。お陰で後退出来ない。この野郎俺を売る気だ、と、弥鷹は青筋を立てる。
愛花はユーグベルと弥鷹達を交互に見て、爛々と目を輝かせていた。
「変に勘ぐるな。俺は意外と一途だ。それに、お前は俺の好みでは無い」
「あ、そうですか……」
弥鷹は安堵のあまり脱力する。
代わりに茅斗が全身を強張らせ、木剣を盾に素早く後退していった。ユーグベルの視線を遮る位置、ベッドの後ろへと避難した茅斗を、よしよしと彩瀬が慰める。
愛花はつまらなさそうに息を吐いて、拾い上げた本の続きに視線を走らせ始めた。
しかし、では何だというのだろうか。
やはり魔法陣関係かと、弥鷹は別の意味で緊張しながらユーグベルへ近付いて行く。シャスタがずっと警戒してくれているのでそう酷いことにはなるまいと、腹を括った。
鉄格子を挟んで向かい合う位置まで近付くと、ユーグベルが落ち着いた声で告げる。
「賭けをしないか」
「……賭け?」
「ああ。精霊の解放が進んだ影響で、もはや向こうへ監視役を飛ばすのも難しくてな。お前達の監視しかする事が無く、暇なのだ」
何を言い出すのかと、弥鷹達は警戒を強めた。魔族側に、そのような不利な情報を弥鷹達にくれてやる利など無い筈だ。
ちらりとシャスタへ視線を向けると、少し悩む素振りを見せた後、こくりと頷く。弥鷹はユーグベルへ視線を戻した。
「賭けの内容と、方法は?」
弥鷹が言うと、ユーグベルは牢屋の扉へと手を掛ける。そうして、鍵を開け……扉を開け放った。
「!?」
「他の者は動くな。動けば殺す。お前だけ出ろ」
緊張が走るが、弥鷹達はユーグベルの言葉に従う。
そもそも今飛び出したとして、茅斗達はユーグベルに捕らえられるか殺されるのは判り切っているし、だからこそシャスタも下手に動くことが出来ない。
弥鷹が牢屋から出ると、すぐさま扉が閉められた。
弥鷹は全身に加護の力が巡るのを感じる。だが、あの時のように奢ったりはしない。涼しげな顔で立つ目の前の魔族をどうにか出来るなどとは思わない。
弥鷹に扉の前に立つよう言ったユーグベルは、通路を進み、ある程度の距離を取る。
二十歩ほどの距離が開いてから振り返ったユーグベルは、弥鷹へ向けて何かを投げてよこした。
木剣だった。それは弥鷹達が稽古を使う時に使用しているのと似たような形状で、同じものがユーグベルの手にも握られている。
形状が似ているのは稽古用のものを用意したのもユーグベルであるからして当然なのだが、意図が読めず、木剣を掴み取った弥鷹は首を傾げるばかりだ。
「少しはマシになったのかどうか見てやる。俺に一撃でも当ててみろ。そうすれば……」
にやりと。挑発的な薄い笑みを、ユーグベルは浮かべる。
「お前達が牢から出るのを、一度だけ見のがしてやろう」
「なっ……!?」
シャスタですら目を見開いて、驚愕を露にした。
情報を与える以上に、ユーグベルにそんな事をする利は無い。
「そうだな……期限は魔法陣が発動するまでで良いか。その時どうせお前は死ぬ。それまでは、何度挑んでも構わない」
「……お前に、そんな事する意味があんのかよ」
「言っただろう、暇なのだ。暇つぶしと思えば良い。そもそもお前は俺に一撃くれるのすら難しいだろう。例え上手くいって牢から出たとして、この場所から逃れられるとも限らん」
「…………」
「納得いかぬようなら、俺の賭けの景品はカヤトということにしよう。いつでも俺のものに出来るが、簡単に手に入ってもつまらんからな」
そう言って、ユーグベルは両手を広げてみせた。挑発的な笑みが濃くなる。
弥鷹は木剣を握り、じっとユーグベルを見据えた。
相変わらず意図は読めないが、案外本当に暇つぶしなのかも知れないと、弥鷹は思う。
一撃当てたとして、ユーグベルがこの口約束を本当に履行してくれる保障も無いが……弥鷹としては、彼の言葉に乗る意味は大きかった。
こうして牢から出て、加護のある状態でどの程度動けるのか。そして、その力が魔族の実力者相手にどの程度通じるのか、測ることが出来る。木剣を渡してきたということは、殺す気は無いということでもあるのだろう。そもそも、魔法陣に血が使われている以上、彼らに弥鷹を殺すことは出来ない訳なのだが。
しばし、睨み合った後、弥鷹は木剣を正眼に構える。
それを了承の意と捉えたのか、ユーグベルも笑みを消してゆるりと剣を上げ、弥鷹へその剣先を突き付けた。
やがて、どちらともなく床を蹴り、凄まじい速度で乾いた剣戟の音が響き始める。
「……ん? 待て、景品俺? 俺なの……?」
「か、茅斗先輩! タカ君が一発くらいなら当ててくれるよ! き、きっと大丈夫!」
「それに、万が一があっても将来の心配が無くなったじゃないですか。大事にしてくれますよ。良かったですね」
そんな中、顔を蒼白にした哀れな茅斗を、二人の少女がそれぞれの言葉で慰めていた。
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「タマちゃんのバイト姿見にいきたーい」
「駄目だ」
「だってもう体力戻ったよ。暇だよー」
「戻る訳が無いだろう。暇なら寝ていろ」
「リハビリもダメ? 黒い人で良いからちょっと修行つけてよ」
「駄目だと言っている。修行などもってのほかだ」
「あんまり抑圧すると歪んだ人格が育つって知っていますか」
「元々歪んでいるのだから今更だろう。良いから言う事を聞け」
「……けちー」
ぶーぶーと、華奈は唇を尖らせる。
パルスは大袈裟にため息を吐いて、ベッドから半身を起こした華奈の頭を押して枕へ押しつけた。その上に容赦なく布団を掛けられ、じとりとした視線で自分を見下ろすパルスを華奈は睨む。
今日は環とカイリがアルバイトとやらに出掛けるほか、深冬もそれに付いて行ってしまっていた。そのため華奈は、付きっきりのパルスと、部屋を出たり入ったりするフラットの二人に見張られている。
心配してくれているのは判るが、こんなに厳重に絶対安静状態を保たなくても良いのにと、華奈は思う。
感覚を取り戻すためにも部屋を歩き回るくらい許して欲しいものだが、それを、鬼姑の如く目を光らせたパルスが悉く阻止してくるのだ。食事の時もじろじろ見てくるので、居心地が悪い。
昨日のように対応に困る優しさを向けられないだけましだが、これはこれで腹が立った。
睨み合いを続ける二人を見て、部屋の入口付近の壁に背を預けたフラットが苦笑する。
「まあまあ。回復したらちゃんと連れていくから。今は大人しくしていて欲しいな」
「……はーい……」
フラットに言われて渋々返事をした華奈は、そっぽを向くように体の向きを変えて大人しく目を閉じた。
何故フラットの言う事は素直に聞くんだとか何とかパルスがぶちぶち言っているが、無視する。
そして、環のアルバイトとやらに思考を馳せた。
環はこの街に滞在している間限定という条件で、攫われた神子様の代理人として儀式などを務め、街興しに協力しているらしい。聖の精霊の加護を受け、神子と容姿も似ている環には適役だろう。
カイリは環がその仕事を受ける条件として付き人をしているそうだ。隙あらば環を街に繋ぎ止めようとする老人神官に対する見張りも兼ねている。
そんな環達の協力と、精霊を解放したことによって淡光花の数と輝きが一挙に戻ったこともあり、ここ一日二日でそれを嗅ぎつけた商人などがちらほらとこの街を訪れるようになっていた。
そのため、特産品の売り子が足りなくなり、深冬が駆り出されたという訳である。
深冬はこの街で出来るだけ稼ぐぞーと息巻いて出て行ったので、勿論アルバイトだ。
それらしい荘厳な服を着て出かける環に、初めは、何かコスプレが必要な怪しげな仕事でもさせられているのではと思った華奈だったが、よくよく考えれば騎士達がそれを許す筈も無い。
であれば、神子代理だなんてそんな姿の似合いすぎる環を見てみたいし、淡光花が戻った街の光景も見てみたい。深冬と一緒に売り子をするのも楽しそうだ。
そのために、まずは体力を回復しなければ。
そのような思考に耽っているうちに、華奈は寝息を立てていた。
規則的で静かなその音に、パルスはほっと息を吐く。
「眠ったか。やはりまだ調子が悪いんだろうね」
「……ああ」
昨夜から食事を取るようになり、華奈の顔色は随分と良くなったように思う。だが、未だ青白く、普段のような健康的な色合いでは無かった。あれだけ血が失われたのだから、数度の食事程度で戻るものでは無いだろうと彼らは思う。
それでも、深冬と環の魔術による助けと自身の体力の高さもあってか、華奈の回復は早かった。
勿論無理をさせるつもりは無いが、その点に関して、彼らはある程度安心している。
「パルス、お前も少し休んだらどうだ。交代するぞ?」
「いや、良い。このまま休める」
「そうか」
付きっきりでいるパルスをフラットは気遣うが、パルスはベッド脇の椅子に腰を降ろして腕を組み、背もたれに寄り掛かった。
それで本当に疲れが取れるのかと言いたくなるが堪え、パルスの好きにさせてやることにする。そうして自分も適当に休憩することにして、近くにあった椅子を引き寄せて腰を降ろし、足を組んで目を閉じた。
パルスは自分に背を向けて眠る華奈へ視線を落とす。
そっと、その頬へ指の背で触れると、ほんのりとした温かみが伝わってきた。