5-2 目覚めと慄きとガールズトーク
どろどろとした場所に、放り込まれた気がした。
そこには、沢山の負の感情が散らばっている。
拒絶感。喪失感。敗北感。焦燥感。絶望感。
自分までその感情に支配されそうになり、非常に不愉快だ。一刻も早く出て行きたいが、どうやらそれは難しいらしい。どうしたものか。
腕を組み、首を捻っていると、何だか良く知る気配を感じた。
懐かしさすら覚える、何かと隣に居るのが当たり前であった、その気配は……
(タカ)
弥鷹だと確信し、声を掛けた……つもりが、この場所では声を発することが出来ないようだった。
だが、弥鷹の気配が微かに反応したような気がする。こちらに気付いたのだろうか。
――――あぁ、そうか。
唐突に理解した。
これは、例のあれだ。敵さんが描いているという、魔法陣。
その一部に、弥鷹の血が。そして自分の血が、使われてしまったのだ――――
……あーあ、やっちまった。
これはバレたらタマちゃんどころか全員から拳の制裁喰らいかねないな。
そんな事を考えながら、華奈は目を覚ました。
重たい目蓋をゆっくりと持ち上げる。視界が判然としないので、何度か瞬きし、回復させようと試みる。
ようやく回復した視界にまず初めに映ったのは、思いのほか近くにある黒い人の顔だった。華奈は思わず慄いて飛び退ろうとするが、これ以上後退出来ないようである。
「……ハルナ?」
そっと、壊れ物にでも触れるかのようなか細い声で、パルスに名を呼ばれた。
どうやら華奈はベッドに横たわっており、身を乗り出したパルスに上から覗きこまれているようだ。寝顔を見られていたのかと思うと少々気恥ずかしいが、不安気に眉をひそめるパルスの表情を見れば、そんな些細な気持ちは霧散する。
心配を掛けてしまった。もう大丈夫だと、安心させてあげなければ。
そう思って、華奈は笑った。
「あははー、寝坊しちゃったかな?」
務めて明るい声を出したつもりが、喉がひりつき、掠れた声になってしまう。
そのせいだろうか。パルスはより一層眉根を寄せた。何かを堪えているようにも見える。これでは眉間に皺が常駐してしまうだろうと思い、華奈は手を上げて深い皺を刻むパルスの眉間に触れた。そのまま、指先でぐりぐりと揉み解してやる。
「皺が消えなくなるよ? ただでさえ顔怖いのに」
「……誰のせいだと思っているんだ」
「顔が怖いのは申し訳ないけどパルスを産んでくれた人のせいかと」
「そっちの話じゃないだろう」
眉間に触れていた手をパルスのそれに取られる。華奈の手を握り込んだまま額に付けると、パルスは、深く深く息を吐き出した。
ようやく安心してくれたのかもしれないと、華奈は思う。
「気分はどうだ? 痛みは?」
「うーん、身体の節々が痛いような気がする」
「老人か、お前は。まぁ、長時間寝ていたから無理も無いか」
「長時間て。どのくらい寝てたの? あたし」
「四日だ」
「ほわっと!? 四日!?」
華奈は再び慄いた。それほど眠ってしまっていたのなら、パルスのこの態度も無理は無い。
そう、この、先ほど取った華奈の手を甲の側から指を絡めて握り直し、親指でゆっくりと手のひらを撫でるのも。反対の手が顔に伸びてきて、目元や頬にそっと触れてくるのも。口調はいつも通りだが、表情や声が優しげなのも。
……いやいや、無理がある。一体どうしたというのだろうか。
四日間でこ奴に一体何が起きた。
あれか。自分に庇われたのがショックすぎて人格に異常をきたしたとか、そんな感じなのか。
華奈は嫌な汗をにじませ、そんな大変失礼なことを考える。
「どうした? やはり気分が悪いのか」
「いや、あのー……気分というか何というか、もしかしたら目が悪いのかも知れない。つかぬことをお伺いしますが、お兄さん、最近頭でも打ちましたか?」
「は? 何を言っているんだお前は」
パルスは訝しげに首を傾げ、更に顔を近付けてきた。
目が悪いと言ってしまったばかりに目を覗き込もうとしているようだが、華奈としては、これ以上顔を近付けられるのはどうにも宜しくない。
いや、もっと近付けたこともあるにはあるが、宜しくないったら宜しくない。
その時、扉の開く音が聞こえた。
パルスが少し身を起こして振り返ったため、距離が開く。華奈は何となくほっとして、自分も音のした方を見た。
開いたのは部屋の入口扉だったようで、そこには大きく目を見開く深冬と、口許に手を当てて驚いた様子を見せる環が立っている。華奈はにかっと笑ってみせ、空いている方の手をひらひらと振った。
「は、はっ……ハルちゃああああぁぁん!!」
すぐさま目から涙を溢れさせた深冬が走り寄ってくる。パルスが華奈から手を離してベッド脇との距離を取ると、深冬は走る勢いはそのままにベッド脇で飛び跳ね、華奈の上にダイブしてきた。
「ぐふっ!」
「もうっ! 心配したんだからね! 目が覚めて良かったよおおぉぉ!」
「いや、深冬サン、ワタクシ今度こそ駄目かもしれない。フライングボディアタックによりみぞおちが……みぞおちが、やられ、た……」
「ふふっ、良かった。元気そうだね」
「タマちゃん、本当にそう思いますか? あたしの姿が見えていますか……?」
深冬に圧し掛かるようにして縋り付かれ、助けを求めようと伸ばした震える手を、小走りで駆け寄ってきた環に取られる。うんうんとにこやかに頷く環は、何故か高位神官様のような荘厳な服を着ていた。入室時に気になりはしたものの、華奈はみぞおちに受けたダメージによりそれどころではない。
そうこうしているうち、声に気付いたフラットとカイリが女子部屋へやって来た。
目を覚まし、早速いつものようなやり取りを繰り広げている華奈達を見て、彼らも安堵して表情を緩める。
「ハルナ、良かった」
「気分はどうですか?」
彼らもまた近付いてきて、華奈に声を掛けた。
みぞおちへのダメージが回復してきた華奈は、とんとんと深冬の背を叩いて少し離れて貰い、身体を起こす。腹部にひきつるような違和感を感じるが、自力で起き上がるのに問題は無いようだ。深冬がベッドから降り、涙を拭きながら手近にあった枕やクッションを集めて、半身を起こす華奈の背に当ててくれた。
甲斐甲斐しいその様子に、本当に心配を掛けてしまったのだと、華奈は反省する。
「うん、もう大丈夫。心配かけてごめん」
そう言って、華奈はぐるりと視線を巡らせて全員の目を見た。
全員がそれぞれに心配と安堵の色を乗せているのが判り、華奈としては、嬉しさを感じながらも身を縮めて苦笑するしか無い。
深冬が、ベッド脇の棚に置いてあったコップに魔術で出した水を注ぎ、華奈に手渡してくれた。華奈はありがたくそれをいただき、喉を潤して一息つく。
「あと、大幅に寝坊しちゃったみたいで、本当にごめん。この様子だと、精霊は開放できたんだよね?」
「あぁ、そちらは問題ないよ。次の目的地も判っている」
「じゃあさっさと次いかないとね。出発はいつにする? ってあたしが言えた立場じゃないけど」
「それなんだが、ここにはもうしばらく滞在するつもりなんだ。少なくとも、ハルナが回復するまではね」
「えっ、あたしもう大丈夫だよ? ただでさえ四日も遅らせちゃってるのに……」
「資金稼ぎも兼ねているから問題ないよ」
「でも……」
「まだ本調子では無いだろう? 無理させる訳にはいかないんだ」
「いや、しかしですね……」
「……は・る・ちゃん?」
華奈とフラットの応酬に割って入る声があった。
ぞわり。華奈の背筋が粟立つ。何故かフラットの背筋までもが寒くなった。
誰かといえば、ベッド脇に立つ環である。環は普段通りの穏やかな微笑みを浮かべているが、何故かその背後にどす黒い空気を背負っていた。
あ、ですよねー やっぱりこのイベント避けて通れないですよねー と、華奈は解脱の境地に達したかのような目でどこか遠くを見る。
環は振り返り、騎士達を見た。
騎士達はどういう訳か慄いて各自一歩後ずさる。
「女同士の大切なお話があるので、皆さんはしばらく部屋を出ていて貰える?」
「えっ……あ、はい……」
何とか受け答えるフラットだが、思わず敬語になってしまった。それくらい、今の環には底の知れない迫力がある。
「大丈夫、はるちゃんにはきちんと言い聞かせておくから。そういえばもうすぐ夕飯の時間ね。皆さんは先に食べていて? そうね、申し訳ないけれど、今夜一晩時間を貰えるかしら」
つまり、今夜一晩、華奈はこの状態の環と向き合わなければならないと。
深冬も気合の入った表情で腕を組んで仁王立ちしており、華奈への助け舟は望めなさそうだ。
気の毒に思いつつ、騎士達は環の言葉に従うほか無く、大人しく退室していく。
扉が閉まる直前、ベッドの上で自主的に正座になる華奈の姿が見えた。正座のことはよく判らない騎士達だったが、怒れる環を受け止めるにはあのくらい真摯な構えが必要なのだなと、それだけを思った。
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結局、華奈が黒いオーラを背負った環から解放されたのは、正座した足が痺れを通り越して感覚が無くなり、それから更にしばらく経ってからのことだった。
環はまだまだ説教し足りない様子だったが、それでも中断してくれたのは、華奈の腹の虫が切ない音で鳴いたからである。
お腹が空くのは回復の良い兆候だ、と、環は現在宿の厨房へ食事を貰いに行ってくれていた。
華奈はというと、正座を崩したことで一気に足へ痺れが走り、ベッドの上にうつ伏せで悶絶中である。
無情にも、時々深冬がつんつんと華奈の足裏をつついていた。深冬なりの罰のつもりなのだろう。華奈は痺れに耐えることに必死でその手から逃れるのはおろか、声を上げることすら出来ずにいる。
はるちゃんはいつも無茶が過ぎる。
以前から危ない状況は幾つもあったけれど、今回は特に危なかった。
守ろうとしてくれるのは嬉しいけれど、周りに頼れる人がいるんだから、もっと頼らないと駄目。
迷惑が掛かるのもそうだし、それ以上に皆が心配する。
騎士の皆さんなんて、自分達が至らないせいで怪我をさせたんだと、責任まで感じてしまっている。
とにかく今は絶対に無理はせず、きちんと休むこと。
言うことを聞かない人には、今後絶対にアップルパイを焼いてあげません。
環の説教の内容は、おおよそそのような感じだった。
勿論、かいつまんで説明すればの話であり、実際は過去の事例を持ち出して言及したり深冬の援護射撃が入ったりなどするため、それはそれは長くなろうというものである。特に環も深冬も幼馴染で付き合いが長く、華奈の過去にやらかした経歴も色々とあるため、説教ネタもそうそう尽きるものでは無かった。
そのうえ、口を挟んだら殺られると思わせられる程の威圧感を放ちながらの説教である。華奈は視認出来る程の威圧を纏った環に説教を喰らった前科を何度か持つが、今回ほど命の危機を感じたのは初めてだった。
華奈は足の痺れと戦いながら、深く深く反省する。それはもう、今回が海より深いのだとすれば、先ほどまでのはせいぜい水たまり程度だと思える程に。
特に最後の一言が効いた。
環のアップルパイが今後一切食べられないだなんて、そんな人生は考えられない。
それに、環がそんな子供じみた事を言うのは本気でお怒りの時だけだ。つまるところ、それだけ心配してくれていたということなのである。
足の痺れがようやく取れてきた頃、環がワゴンに食事を乗せて戻ってきた。部屋で食べさせて貰えるよう、宿にお願いしたのだという。
食事は、深冬と環は普通の食事だが、華奈は柔らかい流動食のようなものがメインだった。米が無いため病人食定番のお粥では無く、芋のポタージュスープや野菜を潰して柔らかく煮込んだものである。
華奈としては初日に食べた餡かけ焼きそば的なものも気に入っていたが、四日間も胃に何も入れていないため仕方が無い。環様をこれ以上怒らせるのも避けたいところであったので、用意して貰った食事を大人しく頂いた。薄めの味付けだったが、たいそう美味しかった。
「そういえばこの宿、広い浴場があるんだよね」
食事を終えて食器を返してきた後、そう言ったのは深冬である。
深冬達はこれまで部屋付きの風呂を利用していたが、深冬が身体を拭いてくれていたとはいえ、華奈も風呂に入りたいだろうという話になったのだが……
食事の後、リハビリと称して部屋を歩き回った華奈がふらついて転びかけた。そのため、一人で入らせるのは危ないという流れになり、だったら三人で入れば良いという結論に至ったのである。
部屋から少し歩くが無理の無い距離であるし、何かあっても精霊様を宿す深冬と環が居れば大概の問題には対応できるだろう。
そのような訳で、華奈達は浴場へとやって来ていた。
日本の温泉ほど大層なものでは無いが、二十人ほどが同時に浸かれる広い浴槽と小さ目の水風呂、石鹸などが置かれた洗い場がある。
少し遅めの時間帯ということもあるのか、華奈達の他に人は居なかった。
単純に寂れた街ゆえ他に客が居ないのではと華奈は思ったが、環いわく、昨日辺りからはそうでも無いらしい。
「ふぃ~、極楽極楽~」
「ハルちゃん、おっさんくさいよ~」
頭にタオルを乗せて湯船に浸かる華奈に、深冬がお決まりのツッコミを入れた。
かくいう深冬も、気持ち良さげにふやけた表情を浮かべている。二人と並んで湯船に浸かった環は、微笑ましげに二人の様子を見ていた。
ようやく、三人の普段通りの空気が戻ってきたと言いたいところだが……
ふっと、環の表情が陰り、その眉尻が下げられた。
空気や関係性が戻ろうとも、戻らないものもある。
華奈の腹部、胸とへその間。そのど真ん中には、魔物の角に貫かれた痛々しい傷跡が残っていた。貫通していたため、背中側にも腹ほどの大きさでは無いが似たような傷がある。
深冬、カイリ、環の力によって傷自体は完全に塞がったものの、痕を消すには至らなかったのだ。
恐らく、一生残るだろう。
あの時はそれが精一杯であったし、精霊の魔術とて万能とはいかない。あの状態で命を繋ぎとめられただけ上出来なのだ。だが、何とかならないものかと考えずには居られない。
環の視線でそのような考えを察したのか、華奈はカラカラと笑った。
「言っておくけど、これはタマちゃんのせいとかじゃないからね。自業自得で付いた傷だから。むしろ、助けてくれてありがとうって感じ」
その点についてはカイリにも後で改めて礼を言わねばなるまいと、華奈は思う。
「でも、そんな大きな傷……ハルちゃんも一応女の子なのに……」
「一応とは何だね、一応とは。深冬サンよりは立派だと思いますが?」
「……ハルちゃん。病み上がりだからってその事に触れたら容赦しないよ……!?」
どーんと胸を張ってみせる華奈の首に、深冬が両手で掴みかかった。首を絞められた華奈は、ぐえっと潰れた蛙のような声を上げる。
顔を青くした華奈が環に助けを求めてくるが、この場合、たいへん慎ましやかな深冬のコンプレックスの話題に触れた華奈が悪いので、助けてあげるつもりは無かった。ちなみに華奈はそこそこで、環は結構先輩らしいとだけ付け加えておく。
何とか息の根が止まる前に深冬の首絞めから脱した華奈は、浴槽の淵に突っ伏してぜえぜえと息を荒げた。
深冬は頬を膨らませて怒り冷めやらぬご様子だったが、ふと、何かに気付いたかのように目を瞬かせる。
「その傷のこと、騎士さん達には言わない方が良いかもね」
「えっ? あぁー、そっか。気に病むよなぁ」
「うすうす気づいてはいるかも知れないけれど……気に病む原因を広げないに越したことは無いね。特にパルスさんは、自分のせいだと思っているみたいだから」
「うん、凄く落ち込んでたみたいだもんね」
「……そんなに?」
突っ伏していた顔を訝しげに上げる華奈に、深冬と環は顔を見合わせてからしっかりと頷いた。
「だって、怪我して気絶したハルちゃんをずーっと離さなかったし」
「その後、宿屋さんまでお姫様抱っこで運んでくれたし」
「この四日間、私達がお世話する時と寝る時以外はずーーっとそばに付いてたし」
「憂い顔ではるちゃんの顔をじっと見ていたし」
「時々手を握ったり顔を撫でたりもしてたね」
「あら、そうなの?」
「あっ、そうか。たまちゃんはアルバイトしてたもんね。ちょっと声掛けづらいというか、ただならぬ雰囲気だったよ」
「あらあら……ですって、はるちゃん?」
二人の言に合わせて徐々に浴槽へ沈んでいった華奈は、顔の上半分を湯から出した状態でぶくぶくと息を吐く。それと共に、自分が目覚めたばかりの時の黒い人の状態を思い出し、思わず遠い目になってしまった。
「……やっぱり気にしてるのかぁー……」
「やっぱりって、何かそれらしきことでもあったの?」
「いや、起きた時にさ。何か気持ち悪いくらい優しいなーとは思った訳さ」
「そういえば、起きた時も手握られてたよね、ハルちゃん」
そこは見なかったことにして欲しいと、華奈は思う。
おやおやこれは、と。再び顔を見合わせた深冬と環は、にんまりと口許を歪めた。まだ十代であるが、世話焼きおばちゃんのような気持ちがむくむくと膨れ上がってくる。
「それって、あれだよね。もし一生残る傷ができたーなんて知ったら」
「責任を取って一生面倒見る、なんて言いだしかねない、よね?」
にまにまと揶揄するような笑みを浮かべる二人の視線を受けて、華奈は再び湯の中へ沈んでいった。
そんな事は無いと思うし、責任など感じられても困る。
けれども、起きた直後のパルスの態度や表情が、どうしても脳裏をちらついてしまう。自分の行動が、彼の心境に何かしら影響を与えてしまったのには違いないのだろうが……
華奈は、強制的に思考を振り払った。
二人は水を得た魚のように活き活きとからかう気満々のようだが、華奈としては触れて欲しくない苦手な分野であるし、急激に態度を翻されても対応に困る。
ただでさえ、血が使われたというそれ以上の爆弾ネタを抱えており、皆にどう話そうか、知恵熱が出そうなほど悩んでいるのだ。
自分の処理能力を超えるような状況は、勘弁して欲しかった。