5-1 邪道という名の悪夢
メルビナの宿屋へ戻ると、深冬と環は華奈の身を清めて着替えさせ、彼女達の部屋のベッドへ寝かせた。
その頃にはもはや早朝に近い時間帯であったが、自分達も休息を取ることにした彼女達は、その後、それぞれの部屋へ分かれて眠りに就く。
それから何時間もしないうちに、彼女達は、老人神官の襲撃を受けた。
深冬達の感覚からすると、まだ鶏が鳴き始めるかどうかといった時間帯で、正直に言えば迷惑極まりない話である。
老人神官は血圧が上がり過ぎて血管が切れるのではなかろうかという勢いで色々とまくし立ててきたが、要約すると……
昨夜、あなた方が神殿の方へ向かうのを神官の誰かが見ていた。翌日である今日、街に淡光花の光と精霊の加護が戻った。それはあなた方のお陰ではないのか。いやあなた方のお陰に違いない。詳しく話を聞かせて欲しい。そして街興しに協力して欲しい。
そんなところだった。
結局、最終的に言いたいことは変わらないようで、ブレないじいさんだと何人かが感心した程である。
ただ、目を血走らせながら喋る老人の興奮度合いが前日より増していたこともあり、華奈の近くで騒ぎ立てないで欲しかった環達は、最初に連行された神殿のような建物へ移動して話すことにした。
但し全員ではなく、華奈の容体を見る為に深冬を、何かあった時の為にパルスを宿へと残しての移動である。
老人神官との話し合いの結果、環達は、怪我人である華奈が回復するまでは街に滞在するつもりなので、その間だけという条件で、街興しとやらに協力することになった。
但し、協力と言えども実態は臨時就労とし、働いた分の報酬は貰うことも条件に加える。その代わり、自分達もきちんと滞在中の宿代諸々は支払う。
話し合いの中で、昨日危惧した何だかんだで街に取り込まれる可能性がちらほら見えたため、自分達はあくまで旅人ですというスタンスは変えない事にしたのだった。
二日が過ぎた。
環は老人神官の元へと臨時就労に出掛け、カイリもそれに付き添う形で不在である。
華奈は未だ目覚めない。華奈の眠るベッドの傍ら、椅子に腰を降ろしたパルスは、ぼんやりと華奈の顔を見下ろしていた。
その顔色は、二日前よりは血色が良くなったように思うが、未だ青白い。
痛々しい姿だと、パルスは思った。
自分が華奈をこのような姿にしたのだとも。
出会った時に、俺達が守るから問題ないなどと言っておいて、情けないことだ。パルスは乾いた笑いを浮かべ、自嘲する。
「お前がそこまで憔悴するのも珍しいな」
背後から声が掛けられた。声の主は、部屋の入口に背を預けて立つフラットだ。
フラットは、半ば苦笑しながら心配げに目を細めている。眠る時と深冬達が世話をする時以外はずっと華奈に付きっきりでいるパルスを、心配しているのだろう。
それは判っていたが、パルスはフラットを一瞥だけして華奈に視線を戻した。
「俺のせいでこうなった」
「いや。彼女達を守る約束をしたのは“俺達”だ。責は全員にあると、何度も話した筈だろう」
「だが……」
「だがも何も無い。お前だってそれは理解してるだろ。責を問うというなら、隊長である俺が一番重い」
この話を続ければ平行線となる。
そうとでも考えたのか、パルスはそれ以上何も言わなかった。
ふう、と、フラットは小さく息を吐く。そうしてしばらくの後、言葉を連ねる。
「お前が憔悴する理由は、他にもあるんじゃないのか」
苦笑と共に呈された言葉。
華奈の腹に、鋭い角が突き立てられた瞬間。その時の心境について、パルスは考えてみる。
一瞬、頭の中が白く染まった。
その後、瞬間的に焼けるような怒りが湧き上がり、それを塗り潰すようにして焦りが生まれた。弱々しい言葉を零し、体温を失っていく華奈を前にして、身体が震えた。その震えは、失うことに対する恐怖からくるものだった。
では何故失うことが恐ろしいと思うのか。
深く考えずとも、パルスの中で答えは出ていた。
最早、否定する気も無い。
ただ、それをフラットの言葉に対する答えとして口にするかどうかは別の問題であり、パルスは黙秘を選んだ。
今、言及するのも酷かとフラットが考え始めた頃。がちゃりと、扉が開く音が聞こえた。
宿の各部屋には風呂や洗面台が備え付けられており、そこへと続く扉から深冬が出てきたのである。深冬の手には、ほんのりと湯気を立てるぬるま湯が入った桶が抱えられていた。桶の中にはタオルが入れられている。
「ごめんね、二人とも。ハルちゃんを拭いてあげたいから、少しだけ出ていてもらえる?」
深冬はそう言って華奈の眠るベッドへと歩み寄り、備え付けの棚の上に桶を置いた。
パルスは「ああ」とだけ短く応え、椅子から腰を上げる。
環が臨時就労で不在の間、深冬はこうして細やかに華奈の世話を焼いていた。身を清めるほか、少しでも体調が良くなるよう回復の魔術も行使したりなどしているようで、甲斐甲斐しいことである。
「隣にいる。済まないが、終わったら声を掛けてくれ」
「うん、了解です!」
湯桶に浸したタオルを絞りながら答える深冬に背を向け、パルスは部屋の入口へと向かう。
その時だった。
微かに、華奈が呻き声を上げた。
「……っ、ぅ……」
「えっ……は、ハルちゃん!?」
パルスは振り返り、思わず華奈の元へ引き返す。華奈は額に汗を浮かべ、僅かに首を捩っていた。うなされているように見える。
目を覚ました訳では無いが、意識を失ってから、こうして明確に自ら動くのは初めてのことだ。自然、緊張が走る。
「か、ぁさ、ん……」
母さん、と、そう聞こえた。
フラットも近くまで寄ってきて、痛ましげな表情で華奈を見る。
自分の世界のことを夢にでも見ているのか。死にそうな目に遭い、無意識的に帰りたいとでも願っているのか。そんな考えが、彼らの心中を過ぎる。
普段は明るく気丈に振る舞っている華奈だが、まだ年若い少女だ。母親に縋りたい気持ちくらい持ち合わせていても、何もおかしいことは――
「母さ、ん……頼むから、ラーメンに納豆とマヨネーズを入れて混ぜるのは……やめ、て……」
華奈はそう言って、がくりと力尽きた。
ついでに他の面々も、がくりと力尽きた。
母親の夢を見るには見ていたようだが、どうでも良い内容だったようである。
パルスは呆れ顔で息を吐き、今度こそ部屋から退室した。フラットも苦笑しながらそれに続く。
深冬は気の抜けた半笑いを浮かべながら、再び静かな寝息を立て始める華奈を拭き始めた。大好きなラーメンが、何にでも納豆とマヨネーズを入れれば良いと思っている華奈の母親の毒牙に掛かる夢は、華奈にとっては悪夢なのかも知れないと思いながら。
結局、華奈が目を覚ましたのは、それから更に二日後のことだった。
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古城の一室。
歪んだ荒地の風景が広がるその窓際で、ライラは骨董品の洒落た木製椅子に足を組む格好で腰を降ろし、灰色の石壁に力なくその背を預けていた。
美しい指先で、小瓶が弄ばれている。
いつかと似たような光景だが、いつかとの明確な違いは、小瓶の中身が満たされていることだった。
小瓶の動きに合わせてゆらゆらと揺れるのは、赤黒い液体だ。
揺れに合わせてちらちらと微かな燐光が散るそれは、間違いなく最高級の魔術具となるだろう。
それも、手に入れにくく最も滞っていた、魔の精霊の加護を受けるものだ。何としても手に入れねばと思っていた。意を決して手に入れた筈だった。だというのに、すぐさま同朋へ引き渡すことをためらい、こうして悶々とした思いを抱える状況に陥っている。
ぼんやりと揺れる液体を眺めていたライラは、部屋の入口へ視線を遣り、再び小瓶に戻してからため息を吐いた。
少し己の考えを纏めたいところであったが……せっかちな同朋は、その時間を与えてくれないようである。
ややあって扉が開け放たれ、予想通りの者がつかつかと入室してきた。
透けるような長い銀の髪。切れ長の、血色の瞳。
ライラと同じく、ヴィレイスの片腕と呼ばれた男。シュノヴァである。
シュノヴァはライラの元まで歩み寄ると、光の灯らない冷たい目で彼女の弄ぶ小瓶を一瞥した。
「手に入れたようだな。だが、何故すぐに引き渡さない」
「精霊の方を人任せにして引き籠ってる奴に言われたくはないわね」
「その精霊を封じた地に施してあった魔術があった筈だが。発動した形跡が無いうえ、精霊の解放を許しているな。どういうつもりだ」
「さあ、知らないわね。あの騎士共が解除したんじゃないの」
「……まあ良い。それを渡せ」
冷たい声の応酬の後、二人は静かに睨み合う。
ややあって、ライラは小さく息を吐くと、弄んでいた小瓶をシュノヴァへ投げ渡した。
小瓶を受け取ったシュノヴァは、すぐさま踵を返して部屋を立ち去ろうとする。
「待ちなさいよ」
声を掛けられ、シュノヴァは部屋の入口付近で立ち止まった。振り向きはしないが、ライラの言葉を聞く気はあるらしい。
「あんた、判ってるわよね。ヴィレイス様の肉体はもう……」
シュノヴァは何も答えなかった。
ぴくりと身体を揺らすことすらせず、その心中に何が渦巻いているのか、ライラには推し量ることが出来ない。
「お前はしばらく待機していろ。頭を冷やすと良い」
少しの間の後、シュノヴァはそう言って、今度こそ退室していった。
しばしその後ろ姿を眺めていたライラは、何も無くなった己の手元に視線を戻し、肺に溜まった息を吐き出す。
「あらぁ~、待機ですって、可哀想に。“紅魔の君”が落ちたものねぇ」
「ま、俺らが穴埋めしてやるから、安心しろよ」
シュノヴァと入れ替わるように入室してきた者達。その不快な声に、ライラは遠慮なく顔を歪めた。
「入室を許した覚えは無いわよ」
睨むように、ライラは入口を一瞥する。
だが、そこに立つ二つの人影は、堪えた様子も無くにやついた笑いを浮かべるだけだった。
一方は、緑色の髪の一部に白や赤の房が混じる男。もう一方は、薄紫色の髪を後頭部で一つに括った女である。
二人とも耳の先が鋭く尖り、魔族であることを示していた。見てくれは若く、整ってもいるが、にやついた笑いがその均衡を崩している。
「私達、“銀月の君”からの勅命で、虫達の足止めを承ることになりましたのでぇ。引き継ぎがてら、ご挨拶に伺ったんですぅ」
女の方の言葉に、ライラは更に目元をしかめた。言われた内容より、ねっとりと絡み付くかのような喋り方が、耳障りで気に喰わない。
虫達とは、あの騎士と小娘達のことなのだろう。ライラとしては、特に引き継ぎをする内容など無い。単純に、役目を取られたライラを嘲笑いに来ただけなのだとすぐに判った。
男の方は、頭の後ろで腕を組んでライラを見下ろすのみだが、表情を見る限り似たような意図なのだろう。
男の方をエバード、女の方をメイフェイアというこの二人の魔族は、ライラ達と同時期に封印の綻びから復活を遂げた者達である。その後、シュノヴァの命で、加護を持つ者を集める任を負っていた筈だ。
この二人を騎士達に充てるということは、多少厄介な高い加護の持ち主達をあらかた集め終えたのだろう。
「精霊の封印解除を三度も許して、引き換えに手に入れたのがあんな少ぉしばかりの血だけだなんてぇ。どうやったらそんな事が出来るんですかぁ? 是非教えて頂きたいですぅ」
ヴィレイスから二つ名を賜るライラは、彼のお方の部下としての位はこの二人よりも上だ。
だというのにメイフェイアがこのような態度を取るのは、この女がライラを追い落とす機会を虎視眈々と狙っているからに他ならない。
入室以降黙っているとはいえ充分に無礼なエバードは、争い好きで誰にでもこのような態度だ。この場合、ライラが腹を立てて彼らに手を上げれば良いとでも思っているのだろう。そうすれば、場合によってはライラと戦うことが出来る。
メイフェイアがライラを挑発するのはもはや恒例行事であるからして、元よりメイフェイアと馬が合うらしいエバードは、こうして二人揃ってライラの前に現れることが多かった。
くだらない連中だと、ライラは思う。
ライラとしてはこんな奴らの挑発になど乗る気は無いので、無視を決め込むのみである。
「あらあらぁ、落ち込みすぎて言葉も出ないんですかぁ? 本っ当に可哀想。私達がぁ、ちゃぁんと貴女の代わりを果たしてあげますからねぇ」
終始にやついた笑いは崩さず。最後にメイフェイアがそう言って、二人は退室していった。
ライラは二人の気配が完全に遠のいてから、脱力して息を吐く。
「随分と疲れているようだな」
そこへ、唐突に声が掛けられた。
思わず弾かれるように顔を上げたライラは、声の主を見て再び脱力する。
「何だ、あんたか……」
部屋の隅に気配無く立っていたのは、ユーグベルだった。彼は口許に薄い笑みを浮かべると、ライラへと近付いてくる。
「気配消して近付くのやめなさいよね。疲れてるのなんて、さっき部屋を出てった奴らを見れば判るでしょう?」
「それだけには見えないがな」
「…………」
ユーグベルは、ライラの近くにあったもう一脚の椅子に勝手に腰を降ろす。
そうしてライラの美しい顔をじっと見つめるが、ライラは視線を逸らして押し黙るばかりだった。小さく吐息のような息を吐き出しながら、ユーグベルもライラから視線を外す。
「まぁ良い。俺は俺の方で動くだけだ」
「……何をするつもりか知らないけど。痛い目を見ないようにだけはしなさいよね」
「お互い様だろう」
そう言って、互いを気遣う様相を見せる二人の口許には、微かな笑みが浮かべられていた。