4-8 透明な空の小瓶
「……え? ……えっ?」
戸惑った声がして、次いで、ばしゃんという水音が響く。声は彩瀬のもので、水音は、洗濯物を桶の中に取り落とした愛花が立てたものだ。
彩瀬は自分の見たものが信じられないようで周囲に視線を泳がせながらおろおろし、愛華は手を中途半端に上げた格好のまま静止して目を見開いている。
彼女達がそのような状態となったのは、鉄格子を挟んだ壁に映し出された監視映像が原因だった。
広い空間を俯瞰する位置から撮影されている映像。そこには、ライラと対峙する騎士と環、そして、魔物の角に貫かれ、倒れて動かなくなった華奈に寄り添う深冬と騎士達の姿がある。
茅斗が強張った表情で座った体勢から中途半端に腰を浮かせ、弥鷹は既に立ち上がり、鉄格子にしがみ付いて食い入るようにそれを見ていた。
やがて華奈の周囲に、赤黒い染みのようなものが広がっていく。
「……えっ、う、うそっ……!?」
彩瀬は戸惑いが顕著に表れた声を上げ、驚愕のあまり口許を両手で覆った。
非日常に放り込まれたという認識はしていた。魔物がいて、剣とか魔法とかがあって、戦いもある危険な場所だということも判っているつもりだった。けれども、分かっている“つもり”でしか無かったのだと思い知らされる。
華奈達なら大丈夫だと。きっと無事にここまで来て助けてくれて、全員で元の世界へ帰れるんだと。そしていつか、悪い夢でも見ていたのだという昔話をする日が来るんだと……
彩瀬は、心の何処かでこれが現実だと受け入れることを拒否していたのだと理解した。
目の前で見たではないか。
冷たい目をした魔族を。魔族がいとも容易く弥鷹を打ちのめすのを。
その結果弥鷹は血を抜かれ――――魔族の目的が完遂された時に、命を落とすのだ。
映像の中で力なく横たわる、華奈のように……
彩瀬の全身に震えが走り、ぼろぼろと涙が零れた。
弥鷹が拳を鉄格子に打ち付け、涼しい表情を崩さずに映像を見るユーグベルを睨み付ける。ユーグベルの傍まで苛立たしげに近付いた弥鷹は、鉄格子の間から腕を伸ばし、ユーグベルの胸倉を掴んだ。
「てめぇ……!!」
ぎりりと、胸倉を掴む手に力を込める弥鷹だが、ユーグベルは涼しげな表情を崩さない。
ちらりと目線だけを向け、ユーグベルは目を細めた。弥鷹を蔑むかのように。
「言っておくが、あの者達の命まで保障した覚えは無い。邪魔をし続ければいずれこうなるのは、自然というものだろう」
ユーグベルはそれだけを言って、煩わしそうに弥鷹の手を振り払った。ユーグベルを睨み据えたまま、弥鷹は鉄格子を両手で握る。
「絶対に許さねぇからな……!」
「許さなければ何をするというのだ? ……それ以前に、何が出来るというのだ」
ユーグベルは弥鷹達を嘲笑した。
弥鷹の頭に血が昇り、再び手を出しそうになる。……が、悔しいことに、ユーグベルの言うとおりだった。この状況で、一体何が出来るというのだろうか。
ユーグベルに斬りかかるか? ……自殺と同じだ。勝てないことは判っている。
そもそも自分達は、この場所から出ることすら出来ない。懸命に腕を伸ばしたところで、先ほどのように簡単に振り払われて終わりだ。
他に出来ることと言えば、せいぜい華奈が死なないように祈ることくらいだが……そのような神頼みなど、何も出来ないのと一緒である。
鉄格子を握ったまま、弥鷹はずるずると崩れ落ち、その場に膝を突いた。
壁面に映っていた映像が消える。
意図的に監視を止めたのか、監視役に何かあったのか。弥鷹達には判らない。
場が静まり返る中、ユーグベルが立ち上がった。
立ち去り際、彼は少しだけ牢屋へ目線を向ける。ひたりと、静かに彼を見据えるシャスタと目が合った。
その目には憤りを宿らせているようだったが、ユーグベルに対し、特に何を言うでもない。真意は読めないが、普段はよく回る口を噤むのは、娘が深手を負った原因の一端は自分にもあるとでも思っているからなのだろう。
娘達が界を渡ったのには騎士達が絡んでいるだろうと当たりを付けてはいたが、どうやら確定と考えて良さそうである。
ユーグベルはさもない考えを纏めるとふんと鼻を鳴らし、その場を立ち去った。
すぐに代わりの見張り役がやってくる。
茶色い肌の筋肉質な男に角と羽が生えたような魔物だった。
ユーグベルの気配が完全に遠のいてから、シャスタは表情を和らげる。
「皆さん、安心して下さい。ハルナさんは恐らく助かりますよ」
全員が弾かれるようにシャスタを見た。
「監視映像が途切れたのは、あの場に封じられていた精霊の封が解かれた影響でしょう。映像の最後で、既に解かれた二柱が顕現しているのも見えました。精霊が三柱も揃うのです。助からない道理も無いでしょう」
穏やかに微笑む彼が、嘘を言うようには思えない。そもそも、シャスタが一時的な安心感を与えるための嘘を吐くような人物では無いことなど、長くはない付き合いながら判っていることだった。
弥鷹は大きく息を吐いて、床へ突っ伏した。茅斗も安堵の息を吐き、座り直して脱力する。
「うあああハルちゃん助かるってえええぇぇ! マナちゃああぁぁん、良かったねえええぇぇ!!」
ぼろぼろと涙を零しながら、彩瀬は未だ呆然としている愛花をガクガクと揺さぶった。
そうしてから、ひしっと抱き付いて嗚咽を零し始める。
「えぇ、はい……良かった。良かったです、本当に……!」
正気を取り戻した愛花は彩瀬を抱き返した。その眉根が寄せられ、愛花の顔が彩瀬の肩口に埋められる。
シャスタは立ち上がって彼女達の傍へ移動すると跪き、身を寄せ合う彼女達の背をそっと撫でた。
「申し訳ありません、親衛隊が付いていながら危険な目に遭わせました」
眉をひそめ、シャスタは言う。
弥鷹は床へ突っ伏したまま左手の肘から先を立て、ひらひらと横に振った。否定の意である。
「いやー、あれはあいつが勝手に飛び出しただけだから。そこは気にしないでくれ」
「ですが……」
「むしろ素直に守られておかないあいつの責任というか」
「負けず嫌いだからな……」
「危ないと思って思わず飛び出したんでしょう。猪みたいな人ですから。交通事故のようなものですあれは。目が覚めたら環先輩にこってり絞られれば良いんです」
弥鷹、茅斗、愛花と続き、最後の愛花の言葉には四人全員が同意した。
人が良すぎる彼らに、シャスタは苦笑を零す。
彼らの厚意にシャスタは甘えることにしたが、目の前で警護対象に怪我を負わせた騎士達は一体どう思うだろうか。特にパルスは……
浮かんだ考えを、シャスタは払拭する。
もどかしいが、巻き込んだうえに怪我を負わせてしまった第一世界の少女が早く回復するよう、祈るばかりだった。
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「本当に、助かりました。感謝致します」
「ありがとうございます」
三柱の精霊を前に、フラットと環が頭を下げる。意識を失ったままの華奈以外、全員がそれに倣う。
加護を得た環の力が加わったことにより、深冬の行使していた癒しの魔術の力が更に増幅され、また華奈自身の回復力上昇が促されたことにより、深く穿たれた華奈の傷は塞がった。
封印が解かれたことで場の制約が無くなり、精霊の力を完全に発揮できるようになったことも大きい。
それでもすぐには目覚めない程に華奈の傷は深かった。
失われた血も多く、もう少し遅れていたらと思うと、環の背筋が寒くなる。
正気を失った自分に語り掛け続けてくれたレイリアと、その声に気付くきっかけをくれたフラット。そして場を保たせてくれた全員に、感謝しなければならなかった。
『我が封印を解き、愛し子を癒すことが出来たのは、貴方達の力に他ならないでしょう。頭を上げてください』
穏やかな声がそう言った。先ほど環が解放した、聖の精霊レイリアである。
セミロングだが両サイドだけが長い美しい金の髪を揺らめかせ、白い衣を纏う女性の姿をしたレイリアは、先ほど顕現したスプライトとクラッドと並び、フラット達の目の前に浮かんでいた。
『まずはこの地に加護を戻しましょう。おふたりとも、手伝ってくださいますか』
『……ん』
『無論だ』
レイリアの言葉に二柱は頷き、三柱で向かい合うと、輪を作るようにして掌を合わせた。精霊達の周囲に無数の光の粒が浮かび上がり、やがて、波紋のように広がっていく。
波紋が収束し、光の粒が消え去ると、今度は足元が一気に明るくなった。
淡光花だ。
所々にしか咲いていなかった淡光花が広い空間を埋め尽くすようにして咲き誇り、その身を揺らし、淡い燐光を立ち昇らせている。
うわぁ、と、深冬が思わず感嘆の声を上げた。
美しい光景だった。
地上に出ればきっと、この比ではない景色が広がっているのだろう。
『封じられた精霊の気配を感じます。ここより北東の地、風車が立ち並ぶ場所に』
ややあって、レイリアが言った。
スプライトとクラッドも頷く。
『だが、まずは休息だな』
『すうじつも眠れば、きっと目をさます』
『道行きを焦る必要はありません。そのくらいの猶予はあるでしょうから』
精霊達はそう言うと姿を消した。
環は精霊達の居た場所へ向けてもう一度頭を下げると、背後を振り返る。
そこには、跪くパルスに上半身を抱き起された格好のまま目を閉じる、華奈の姿があった。持ち直したとはいえその顔色は青ざめ、血で汚れた様が痛々しい。
普段の明るく活動的な華奈からは考えられない姿だった。
そんな華奈の肩を抱いたまま、パルスは華奈を離そうとしない。
環は微かに眉をひそめた。自分のせいでこうなったのだと、思いつめてしまっているのだろうか。
「あ、あの……」
おずおずと、深冬がパルスに話し掛ける。
「パルスさんのせいじゃないからね。どちらかというと私のせいというか」
「……いや」
「ハルちゃん、猪みたいなものだし。きっと体当たりで何とかなると思ってたんだよ。事故だよ、事故」
深冬も環と同じように感じていたのだろう。しどろもどろに、何とか彼を元気付けようと考えているようだった。
「いや、それでも、俺達が守らなければならなかった。本当に済まない」
そう言って頭を下げたのはフラットである。倣うように、カイリとパルスも深冬と環へ向けて頭を下げた。
彼女達としては、そんな事をされても困るばかりだ。
「そっ、それを言うならハルちゃんがこんな風に育っちゃったのは幼馴染である私達の責任というか!」
「わたしなんて先輩でもあるのに……教育不行き届きで、本当に申し訳ないわ」
深冬と環も彼らへ向けて頭を下げる。
しばし、そのまま膠着状態が続くが、誰一人として頭を上げる気配は無かった。
埒が明かない。
ふっ、と、息を吐き出した環が、率先して顔を上げた。
「それより、街へ戻りましょう。はるちゃんを寝かせてあげないと」
そう言うと、ようやく全員がまばらに頭を上げ始める。
「そう……ですね。いつまでもこうしている訳には」
「そうだよっ! お風呂とかも入りたいし……って、たまちゃんも結構怪我してるっ!?」
「あら、そういえばそうね」
石つぶてが弾け飛ぶ中へ突っ込んでいった環も幾つか傷を負っていたが、掠った程度だ。
それらの小さな傷は「そういえばじゃないよもう!」と言いながらぷりぷり怒っている深冬によって、すぐさま癒される。
何かを思い出したのかフラットが顔を引きつらせ、カイリがそれを不思議そうに見た。華奈の治療に専念していた面々はあの時の環様の様子を見ていなかったようだ。知らぬが仏というやつである。
そうしたやりとりを横目で見ていたパルスが、華奈の膝裏に腕を差し入れて持ち上げ、立ち上がった。このまま運んでくれるつもりなのだろう。
環達は、洞窟を街へと引き返していった。
精霊の加護が戻った洞窟内は、足場以外の殆どの地面が淡光花で埋め尽くされており、淡い燐光で満たされている。
深冬と環は、淡光花や街の様子についてなどの明るい話題で、帰路の間中会話が途切れないよう話を振った。フラットとカイリは彼女達の気遣いを汲んで、会話に加わる。
パルスだけが口を閉ざし、険しさの残る表情を浮かべたままだった。
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カツカツと、鋭い靴音が響く。
足の動きに合わせて軌道上の淡光花が揺れ、淡い鱗粉のような光を散らした。
艶やかな身体と、美しい宝石のような髪が、その光に照らされる。
環達が去ってしばらくの後、ライラは洞窟内の広い空間へ戻ってきていた。
目的があったため、この場所から逃れる際にそう遠くまで転移した訳では無い。だが、魔術を使えば精霊に感知され妨害される可能性があるので、転移した場所から歩きである。それなりに面倒だった。
そのような面倒な行程を経て、目的の場所まで戻ってきたというのに、ライラは浮かない表情を浮かべている。
彼女が見下ろす地面には、黒ずんだ染みが広がっていた。
口の減らない、生意気な小娘が倒れていた場所だ。
濃密な魔力の気配が感じられる。
小娘は命を取り留めたのだろう。
だとすれば、ライラのやるべきことは一つである。
……だというのに、ライラはためらっていた。
腹の奥が苛立ち、己の行動に対する迷いが生まれる。
精霊の御許のすぐ傍だ。魔術を使わずともライラの存在を感知される可能性が高く、あまり時間を掛けることは出来ないというのに。
俯いて目を伏せ、眉根を寄せていたライラは、意を決して目を開いた。
背筋を伸ばして立ったまま、黒ずんだ染みの広がる場所へと手をかざす。
ポコン、ポコンと、幾つかの赤黒い液体の塊が、染みの中から空中へと浮かび上がった。液体は、ライラの手の動きに合わせて移動し、彼女が左手に持つ透明な小瓶の中へ、吸い寄せられるかのように収まっていく。
高さが彼女の小指ほどの長さである透明な小瓶は、赤黒い液体で満たされた。小瓶と同じ透明な材質で出来た蓋を被せ、ライラはそれを胸元へ仕舞い込む。
これで、彼女の目的は果たされた。
足元に大きな紅の円陣が現れ、同色の輝きが場を満たす。円陣が消えると同時、ライラの姿もその場から消え去っていた。