4-1 迷いと決意と、譲れぬもの
所々に低い断崖のある広い土地と、好き勝手に群生する木々。良く言えば自然の雄大さとも表現できるが、そこは、人の手が加わらなくなってから随分と経つ、ただの荒地だ。
荒地の風景は一枚の薄い膜を隔てたかのように微かに暗く色付き、歪んでいる。
それを切り取る大きな窓の硝子には、歪んだ風景を覆うかのように、鮮やかな紅が映り込んでいた。
柘榴石のような紅の正体は、長く緩やかにたゆたう髪。持ち主は、気の強そうな同色の瞳を持つ美しき魔族の女、ライラである。
彼女は、彼女達が拠点として構える古城の一室に居た。
拠点と言えど、それは彼女達の持ち物では無い。
周囲に広がる荒地と同じように随分と昔に打ち捨てられた、もはや元の持ち主の気配すら感じられなくなった古城だ。
窓が切り取る風景が歪んで見えるのは、城の周囲に強い結界が施してある為である。
この城を外界から隠し、外側からのあらゆる力の潜入を遮断するための結界だ。
結界の内側からは何の感慨も沸かない風景を眺めるることも出来るが、外側に立つものからは、巨大なこの城の姿を視界に映すことは出来ないだろう。
兎も角、その一室の窓際で、ライラは骨董品の洒落た木製椅子に足を組む格好で腰を降ろし、灰色の石壁に力なくその背を預けていた。
ぼんやりとした、普段の居丈高さの無い彼女の瞳には、己の指先が弄ぶものが映されている。
それは透明な小瓶だった。
透明ゆえ中身がはっきりと見えるが、その中には、何も納められていない。空の小瓶。
本来であれば、今頃、そこには誰かの血が納められている筈だった。
大地の支配者を封じたあの場所で出会った6人のうちの、誰かの血が。
その血はこの世界に住む誰のものよりも、強力な魔術具となる。そうして彼女達は魔法陣を完成させて、かつての主を……正確には“主の魔力”を復活へと導くという目的のもと、動いているのだ。
自分達が封印の綻びから復活を果たしてから、二百日と……どのくらい経っただろうか。
魔法陣はおよそ半分ほどが完成して、復活への軌跡は、順調に刻まれているように思う。
空の小瓶を見つめてそんなことを考えながら、ライラはつい半日ほど前の、シュノヴァとのやり取りを思い返した。
長い通路を抜けた先にある広い広い空間。不快な血の臭いに埋め尽くされた忌まわしき場所。
ヘザーベアネスから帰還したライラは、真っ先にその場所へと向かった。そこには“彼”が居る。
「シュノヴァ!」
ライラが苛立ち気味な声で彼の名を呼ぶと、案の定、彼は……シュノヴァはその場所に居た。
魔法陣を描き足している最中であったのだろう。傍らには彼の使いの魔物も居り、哀れにも血の贄となった人間が、魔物の立てた片膝の上でぐったりと横たわっている。
それもいつもの光景であったため、ライラはそのままシュノヴァに食って掛かろうと歩み寄り……横たわる人間の顔を見て、一瞬息を呑んだ。
血の気の失せたそれが、見知った顔……地下牢へと放り込んでおいた、あの小生意気な少女達の仲間であろう、少年のひとりであった故に。
(……遂に、見付かったのね)
ライラは目を眇める。
空間超えをして不運にも居城近くへ落ちた4人の少年達を初めて見た時から、そのうちの一人が、第三の世界でいう神官長クラスの強い魔術具となり得る存在であるという事実に、彼女は気付いていた。
あえてそれをシュノヴァへと告げなかったのは、言わずとも彼ならばいずれ気付くだろうと思った故か、それとも同様にその事実に気付いた筈のユーグベルが沈黙していた故か。
あるいは……
何にせよ、少年が魔法陣の糧となったという事実だけが目の前にある。
シュノヴァのことだ。初めから気付いていた可能性も多分にあるが……と、今気に掛けるべきはその事では無い。
「シュノヴァ、貴方……何のつもり?」
気を取り直してシュノヴァを見据え、ライラは言った。
彼は、相変わらず何の感慨も浮かべない冷えた目で彼女を見る。
「どういう意味だ?」
白々しさに、ライラは内心唇を噛んだ。
「地の精霊の場所に据えた人間に、扱いきれないと判りきっている魔装具を与えたでしょう。それに、魔装具に刻まれた召喚陣。あれが発動していたら、あの街が滅びるどころの話では留まらなかったわ。この世界ごと滅ぼすつもり?」
屋敷中に侵入者を妨害する罠を仕掛けていたことは、ライラも知っている。脆弱な人間の男など、初めから当てにしていない。
故に、水の精霊を解放されたことを受けいささか妨害に不安を感じ、男の力量不足を補うと共に監視する為に。また、邪魔者達の血の回収の為に。ライラがあの場所へと赴くことなど、判りきっていた事実だ。
何せ、シュノヴァ自身がそうするよう促したのだから。
そこへ仕掛けられていた、彼女の知らぬ魔法陣。力を制御出来なかった男の暴走。
彼女が巻き込まれることなど、厭わぬとでも言わんばかりに。
「それを咎めようというのなら、お前こそどういうつもりなのか問おう」
しかしシュノヴァは、彼の纏う雰囲気そのものを表したかのような声でそう言い放った。
「あれだけの備えをしておいたにも関わらず、血の一滴すら回収出来ぬとは。あの方の片腕の一端を担うお前ともあろう者が、堕ちたものだな。あまり失望させてくれるな」
更に言い連ねられる言葉に、ライラは不快そうに目を眇める。
「次は期待している」
最後にそう言って、シュノヴァはライラから視線を外した。
言外に次は無いと言い捨て、強制的に打ち切られた会話。
殆ど睨むように彼を見ても、もはや興味を失ったとばかりに、彼の視線はひくりとも動かない。会話の継続は不可能だろう。
そうしてライラはあの忌まわしき場所を後にした。己の問いの答えを得ることも出来ずに。
小瓶を弄びながら、彼女は小さく息を吐く。
かつては共に腹心として主へと従ったシュノヴァ。主の復活を初めに望んだのも彼で、その為であれば、ライラは協力を惜しまない……つもりだった。
だが、未だ見えぬ彼の真意に、惑う。
“できれば、一番近くで生きてきた人達の手で。この人に、気付かせてあげて欲しいかな”
ふいに脳裏を掠めたのは、少し前に聞いた少女の言葉。
払拭するかのように小さく首を振り、ライラは弄んでいた小瓶を握り締めた。
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「謝るんじゃねえぞ」
開口一番、目覚めた弥鷹は己を覗き込むシャスタにそう言った。
痕を残す傷が塞がっているとは言え、限界まで血を失った彼の顔色は良くない。けれど、瞳に宿る意志は強く、声もその意志を反映しているかのようだ。
実際、弥鷹が目覚めたらまず謝罪しようと思っていたシャスタは、肩透かしを喰らって口を噤む。
それでも表情へ滲み出る申し訳なさに、弥鷹は自嘲気味に苦笑した。
「あいつに勝てなかったのは、俺の問題。それにしても、魔族ってのは強いんだな……何も出来なかった」
己に内在する強い力に気付こうとも、手も足も出なかった銀の魔族。シャスタやユーグベルが微動だにしなかったのは、弥鷹があの魔族に敵わぬことを知っていたからなのだろう。
「おれは三鴨以上に何も出来なかったよ」
そう思う弥鷹よりも更に自嘲を含んだ表情で、シャスタの傍らへと立つ茅斗が言った。
「いつもタカ君やハルちゃんに頼ってばっかりで、ごめんね。痛かったよね……」
今度は茅斗達とは反対側から声が降りてくる。
ベッド上、弥鷹の枕元に正座し、手にした濡れタオルを彼へと伸ばしてきたのは綾瀬だった。
普段は綾瀬と愛花が眠っている天蓋付きのベッドは広く、そうしないと弥鷹へと手が届かない為なのだろう。申し訳なさそうな表情の彼女は、タオルで弥鷹の汗を拭ってくれる。
「弥鷹先輩とシャスタさんが居なかったら、私達は今頃命が無かったでしょうからね。本当に……ありがとうございました」
今度はシャスタや茅斗の方向から近付いてくる声。
浅く水の入った容器を手にした愛花だった。
愛花が容器を差し出すと、綾瀬はそれを受け取り、代わりにそれまで彼女の傍らにあったものを愛花に持たせる。こうやって、弥鷹が目覚めるまでずっと世話を焼いていてくれたのだろう。
「せめて。せめて、華奈先輩達が助けに来てくれた時に、足手まといにならないくらいには……なりたいですね」
綾瀬から容器を受け取った愛花が、ぽつりと呟いた。
それはきっと、彼女達の切実な願い。愛花、綾瀬、茅斗は、似たような切なげな表情で俯く。
そう、隣で戦えぬのなら、せめて。
目の前にいる友人達を守れるくらいには、強くなりたい。
気落ちする彼女達を見て、弥鷹は強くそう思った。
いざという時に、大切な人の足手まといになんてなりたくない。
「なあ、シャスタ。お前、強いのか?」
殊更辛そうな表情を浮かべていたシャスタに問うと、彼は顔を上げ弥鷹を見た。
弥鷹の言葉を吟味するかのような間があり、やがて、彼の意図を察したシャスタは口を開く。
「私の国では、王族は最低限の戦闘技術を学びます。多くを指南することは出来ませんが、少なくとも今の貴方よりは」
「じゃあ、俺に教えてくれ」
じっとシャスタの目を見据え、弥鷹は言った。
若干複雑そうな表情を浮かべ、けれど、シャスタは小さく頷く。
「易しくはありませんよ。けれど、全ては貴方の体力が回復してからです」
「おう、こんなもん食って寝て筋トレすればすぐだ」
にぃっと、口角を上げて。少年らしく嬉しそうに、弥鷹は笑った。
敗北を喫しようと、彼は前だけを見ている。その事実に安堵して、愛花達も自然、笑みが零れた。
「そうと決まれば飯だ飯! って、俺はどのぐらい寝てたんだ」
「半日ほどです。先程出されたものを取ってあるので、食べられそうなら準備しましょう」
「あぁっ、シャスタ様、そんなことは私が……」
「おれも、三鴨と一緒に教わるかな」
「インドア派まっしぐらの茅斗先輩が戦闘とか想像もつきませんよね」
「……」
「愛花、茅斗先輩の出鼻を挫くのもほどほどにな。ところで綾瀬」
「ん?」
弥鷹に呼び掛けられ、シャスタを手伝おうと腰を上げかけた綾瀬が彼を見る。
「人の枕元に、スカートで座るのは止めた方がいいと思うぞ。色々見えぶっ!」
神妙な面持ちで告げた弥鷹の顔面に、水の入った容器での容赦のない制裁が下った。
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フラットの目測通り。ヘザーベアネスを発ってから7日ほどの行程を経たところで、華奈達の視界に深緑の広大な森が見え始めた。
あの森の中の何処かに次の目的地であるメルビナと呼ばれる場所がある。
流石に旅慣れてはきたが、数時間毎に設けられる休憩と睡眠時間以外はほぼ歩き通しであるため、体力があり余っている華奈はともかく、深冬と環の表情には疲労の色が見え始めていた。
それを決して口にしないのは、騎士達が自分達の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれているのを知っているから。そして、本当はもっと早く主を助けに行きたいであろう騎士達の心情を察しているから。
そのうえ、睡眠時間は交代で見張り番までしてくれているのだから、文句を言ったら罰が当たるというものだ。
「もう少しで着くだろうから。頑張って」
彼女達のそんな心情など騎士達は見通しているのであろう。フラットがそう声を掛ける。
精一杯、疲労を隠して、彼女達は頷いた。
「深冬、病み上がりなんだから、誰かに運んで貰ったら。姫抱っこで」
「っ!!」
華奈が真顔で言うと、深冬の顔が一瞬で真っ赤になる。少し前に経験したそのいたたまれなさを思い出したのだろう。
「ご希望とあらばそう致しましょうか、お嬢様」
「むっ! 無理です! イヤです! お断りしますっ!」
深冬の反応の面白さ故に会話に乗ってきたフラットの提言を、身振り手振りも加えて深冬は全力で拒否した。
盛大にお断りされた彼の表情が若干残念そうなものに見えたのは、果たして気のせいか。
「では僭越ながら、私めが抱えて差し上げましょう」
深冬いじりは続くらしく、華奈が見よう見まねで騎士の最敬礼をする。それは傍から見れば優雅な所作で、それなりに決まっていた。
「じゃあハルちゃん騎士にお願いしようかな!」
「はっはっは、遠慮なくこの胸に飛び込んできたまえ」
憤り頬を膨らませた深冬が、似非紳士風に両手を広げて待ち構える華奈の元へずんずんと進み出る。小柄な深冬を抱え上げた華奈は、腕の中のお嬢様に思い切り頬を抓られた。
「深冬おひょうひゃま、いひゃいのれすが」
「人をからかう方が悪いの。本当に恥ずかしかったんだからね!」
「あらあら」
姫抱っこ状態で応酬を繰り広げる2人の傍らで、環が笑う。
何をやっているんだか、と思いつつも、彼女達の明るい様子に騎士達は内心安堵した。
丸一日は深冬の体力回復に充てたため、ヘザーベアネスを発ったのは、屋敷の地下から街へと戻った翌々日のことである。
発ってからしばらく、彼女達はどことなく元気が無かった。
街の宿で一瞬だけ感じたという嫌な気配が原因なのだろう。
道中何度かそれについて尋ねたが、やはり彼女達にもはっきりとその正体は判らないらしく、気のせいかも知れないし気にするな、の一点張りであった。
けれど、宿で華奈が呟いた名前を、騎士達ははっきりと覚えている。
タカ……正確にはヤタカというらしい、彼女達の友人。
騎士達の主と共に在るかも知れないその者に何かあったのだとすれば、主の身にも何か起きた可能性は捨てきれず、気のせいと安易に据え置くことは出来ないのだ。
それに、巻き込まれる形となった彼女達に、その友人達に、申し訳が立たない。
彼女達が普段通りの明るさに戻ったのは、そんな騎士達の心情を察した故なのかも知れないが……彼女達の気落ちした姿に遣る瀬無さを感じていた騎士達にとっては幸いなことだった。
彼女達の応酬を聞きながらしばらく歩いたところで、深緑の葉を生い茂らせる巨大な木がぽつり、ぽつりと生え始めた地帯へと、彼らは差し掛かる。
森の入り口といったところか。
間近で見ると群生するその木は巨大で、森へ踏み入ると深緑の葉が日光の殆どを遮り、先程まで歩いていた晴天の空が嘘であるかのような闇に包まれていた。
常闇の地、と告げた精霊の言葉を、華奈達は思い出す。
華奈は抱えていた深冬を降ろし、フラットは荷物からランプを取り出して火を灯した。
歩いているのは一応は舗装された人の為の道だが、周囲は先の見渡せぬ深夜の如き暗闇。いつ何処から、何が飛び出してきてもおかしくはない。
警戒を強める中、その予感は的中した。
微かな物音を聞いた気がして、華奈が黒い騎士と物音がした方向の間へと躍り出る。
だが、すぐさま強く腕を引かれて敵意の気配から隠すように後ろへと下がらせられ、華奈が庇う予定であった筈のパルスが飛び出してきた黒いものを切り伏せていた。
まるで闇そのもののような炎の如き揺らめきの中に、不気味な赤い双眸が光る魔物。さほど大きくは無く、何かの動物のような形をしているが、粒子となって消えたそれが何の形であったのかは判らない。
腕を掴まれたままで華奈が周囲を見渡すと、フラットとカイリの近くでも同じように何かが粒子となって溶けていくのが見えた。
どうやら魔物は一体ではなかったらしい。
それにしても……深冬も環も流石に慣れてきたのかそれぞれ得物を構えてはいたが、その瞬間には既に片付いてしまっている辺り、騎士達は流石と言うべきか。
華奈が感心していると、頭を鷲掴みにされ、くるりと正面を向かされた。
目の前にあったのは、苛立ちを隠そうともしない、眉間に深い縦皺の刻まれたパルスの顔。青筋が浮いているのは気のせいではあるまい。
「お前は馬鹿か」
これはお説教モードか、と身構えていた華奈に浴びせられたのは聞き慣れた暴言だった。戦闘開始である。
「あんだとこの野郎」
「何故俺の前に飛び出した」
「そりゃ魔物さんに気付いたからに決まっている」
「だからと言って俺を庇うような真似をするのが馬鹿だと言っている。危ないだろう」
「それを言うなら無理矢理その前に飛び出したあんたの方が危ないでしょ」
「俺とお前では立場が違う」
「何の立場だよ。一応は? 旅の仲間なんですから? 協力し合いながら美しい友情やら何やらを築くもんなんじゃないんデスカー」
ヘザーベアネスで、華奈は思い切りパルスに庇われ、怪我までさせているのだ。
その恩に少しでも報いたいと思っているだけであるのに酷い言いがかりだと、華奈は思う。
パルスは、あからさまに顔を顰めて溜息を吐き出した。
「話にならん。ともかく不用意に飛び出すな。判ったか」
「なぜあたしが黒い人の言うことなんぞ聞かねばならぬのじゃ」
頭を固定されているため視線だけでそっぽを向く華奈に、パルスの眉間の皺が更に深くなる。
目に見えて青筋の数が増えたパルスは、華奈の鼻を摘んだ。
「ふおっ、乙女の鼻に何てことすんだ! セクハラ! 皆の衆、セクハラよー! タスケテー!」
「何だそれは。言っても聞かないなら実力行使しか無いだろうが」
華奈の心境も理解できるがパルスの心境も然りな一同は、激化してゆく2人のやり取りを見守るしか無い。
苦笑を浮かべたフラットが進行方向へとランプを向けると、その先に、うっすらと幾つかの微かな光が灯っているのが見えた。