3-7 届けられた声
最初の指輪が壊れた時と似たような現象。
魔のもの達の弾幕が突然止む。
ロドリグは両手を広げた態勢のまま痙攣し、展開されていた魔法陣も消滅していった。
……だが、決定的に違うのは、彼の表情。肉体へのダメージ。痙攣を続ける彼の顔に、もはや生気は無い。
「何でっ!!」
彼を狂わせる指輪へと。正に魔力を送り込む直前であった深冬は、殆ど絶叫した。
今にも涙が浮かんできそうなほどに、彼女はその表情を歪ませる。
あんなどうしようもないような者でも、救えなかったことが悔しいとでも言うのだろうか。
召喚の手の止まった魔物達の残りを紅き剣で貫き、魔族の女は、限界を迎えてくず折れる寸前のロドリグを静かに見据えた。
「元々、何の力も持たない人間だもの。身体の限界のほうが、先に来たってことよ」
淡々と、そう告げる。
限界、という言葉に反応したかのように、ロドリグの身体はゆらりと傾き……華奈と環は、倒れかける彼へと向かって全力で駆け出した。
一瞬遅れて、深冬も2人の後を追う。
「待て! 危険だ!」
フラットが思わず声を荒げて制止するも、彼女達は受け入れなかった。
華奈は重力のままに背中から地へ衝突する寸前であったロドリグの身体を受け止めてそっと横たえ、環も即座に傍らへと跪き、彼の瞳孔と脈を確認する。
力なく濁った瞳が何を映しているのかは判らなかったが、脈はあった。
「まだ生きてる」
その言葉を聞くや否や、一瞬遅れて到着した深冬が、彼の胸元に両手を当てて力を込め始める。
彼女の手のひらとロドリグの身体の境目から溢れる、柔らかな光。癒しの青。
騎士達は彼女達の元へと駆け寄りながら、魔族の女はその場から動かぬままで、その光景を見た。
「……理解できないわ」
心の中で呟いたつもりの言葉は、女の口から微かな音として漏れる。尤も、だいぶ離れた位置に居る華奈達には、その音は届いてなどいないであろうが。
理解できない。
女は再度確認するかのように、今度は心の中で呟いた。
自分達を妨害しようとした敵方の相手。生かしておけば、この街の者達にとっては脅威となる思考の持ち主。
彼はようやく消えようとしているのだ。
彼を利用していた女でさえ、手間が省けたとすら思っていたというのに。助けようとする意味が判らない。
騎士達も、どちらかと言えば魔族の女寄りの考えだった。
力を失った今、ロドリグに何が出来るとも思えないが、街人達にとっては望まれぬ存在であることは確か。
そもそも、外傷は殆ど無いとはいえ、魔力の駐留によって内部に様々な損傷を負った彼の身体が、幾ら深冬の回復術でも癒せるとは思えなかった。
けれども、彼は目を開く。
偶然にもその場所は精霊の御許。微かに生の光の戻った彼の目は、眩いばかりのその存在を捕える。
殆ど力の入らない、震える右手を、ロドリグは精霊へ向けて差し出した。
「……ようやく、手に入れた……私のものだ……あいつなどには……」
弱々しいしい言葉は途切れ途切れで、何を伝えたいのかはっきりと理解は出来ない。それでも判るのは、未だ執着が途切れていないという事実。
片方は石が失われ、もう片方は石の輝きが殆ど消えかけている、彼の“力”。
華奈は、精霊に向けて差し出された彼の右手に手を伸ばし……ふたつの指輪を、彼の指からむしり取った。
力ないながらもロドリグは驚愕し、その表情を悲しげに歪める。
目を据わらせた華奈は、彼の表情を見て青筋を浮かべ、無情にも指輪をその辺に放り投げた。
「か、返せ……私の……」
「黙れ小物がーーーッ!!」
ゴッ!!
一喝と共に、鈍い音が響く。
明らかに弱りきっているロドリグの広い額に、華奈が容赦のない手刀を喰らわせた音だった。
騎士達も魔族の女も、流石に驚愕して目を剥く。
立ち上がった華奈は片手を己の腰に当て、もう片方の手で、びしりと人差し指をロドリグへ突きつけた。
「人から与えられたもので偉そうにすんな! たかが押さえつけただけで、全てを得た気になるな!
理不尽とか何とか言って、お前は何か少しでも努力したのか!? そりゃあ生まれついてのものは無理かもしれないけどなー、だからと言って悲観して自分には無理だって諦めて、力が無いからって選べるものまで無いって決め付けて、結局自分で自分をちっさい枠の中に閉じ込めてたんじゃないのか!
そもそも理不尽なことされて嫌な思いしたんなら、街の人達にも同じ事すんな! 自分がやられて嫌なことは人様にもしちゃいけないって教わらなかったのかっ!
そんなだからハゲるんだよ! 毛根の育成からやり直せっ!!」
一息でそう言って、華奈はやり遂げた表情で額の汗を拭う。
「あー、すっきりした」
「ハルちゃん、多分もう聞こえてないと思うよ」
突っ込みを入れた深冬は、しかし、笑っていた。
恐らく手刀による一撃が原因でロドリグは気を失っていたが、息はある。3人ともが笑っている彼女達は、それだけで満足しているご様子。
黒い騎士は呆れ返り、息を吐いた。
「死にかけの相手に何をしているんだ」
「安心したまえ、峰打ちだ」
「手刀には峰しかないから、安心だね」
「……」
話が通じないらしい華奈と環に、パルスは頭を抱えるしかない。
その様子に苦笑を漏らしてから、フラットは深冬へ問い掛けた。
「どうして、助けたの」
「この人は、許されないことをしたから」
意外にも即座に返された答えの意味を理解しかねて彼が首を傾げると、深冬は穏やかに笑う。
「例えば――……」
続けようとした深冬の言葉は、不自然に途切れた。
「……またか」
代わりに、フラットが溜め息交じりでそう呟く。
彼らは全員が同じ場所を見ていた。
ロドリグから抜き取られ放り投げられた指輪が着地した辺り。その場所を中心として地に広がる、巨大なる魔法陣を。
その効力は判らない。
けれど、強制的に背筋を走る戦慄によって、危険度だけは認識できる。深冬は即座に空間唯一の出入り口である階段の方へ向けて、全力で冷気を放った。
その場所は一瞬にして凍結し、あらゆるものの侵入を阻む壁となる。
彼女達は空間内へ閉じ込められたが、それ以上に、これが発動した際に発現するものを外へ出すことの方が危険だと、そんな風に感じたのだ。
――そんな時だった。
『ようやく。あなたたちの声が、きこえる』
カイリの頭の中へ直接話し掛けるかのように、声が響いてきた。
高音で、闇夜に響く鈴の音よりも儚げで、幼い少女のような声。
それが誰のものであるのか、彼は一瞬で理解する。
『わたしの、声がきこえる?』
「……ええ、ようやく。貴女の声を聞くことが出来ましたね」
カイリは声の主を、尊き世界の力を、仰ぎ見た。
黄水晶の中へと捕えられた、精霊の姿を。
その声は、未だカイリにしか聞こえていなかった故だろう。
突然何事かを呟いたカイリを、他の5人は怪訝そうに振り返り、見る。
だが彼らは何が起こったのかすぐに察した。やはり、とでも言うべきか。ロドリグが身に着けていた指輪の力が、精霊とカイリとの対話を邪魔していたのだろう。
彼らが先程まで抱いていた危機感は、何処ぞへと消え去った。
世界の力が解放されるからには、この事態を回避出来ぬ訳が無いのだ。
ヘザーベアネスへと近付くにつれてカイリを導いてきたのは、呼びかけるような気配のみ。
深冬が言っていたように、その声までは聞くことが出来なかった。
封印のうえに、強い、強い妨害の上乗せ。気配を送ることすら、困難だったのかも知れないが……
今では、阻むものなど何も存在しない。
はっきりと彼へと届く、尊き声。
『闇のせかいの門が、ひらかれようとしている。街はうしなわれる』
「回避することは、出来ますか」
『たやすい』
封じられた精霊の幼い顔はひくりとも動かないが、カイリには、精霊が笑ったように見えた。
『あなたがわたしの力をてにすることは、たやすい。わたしをこのばしょから、連れてゆけばよい』
名を呼べば良い。たったそれだけ。
確信にも似たその思考は、カイリの表情にも不敵な笑みを浮かび上がらせる。
「ええ、共に行きましょう。
――クラッド」
静かに紡がれたその名。
目覚めの言葉により、精霊クラッドはゆるりと目を開く。
水晶は光の粒子となって霧散し、眠たげに半分だけ目が開かれた幼い面立ちの精霊は、両手を広げて霧散する光の中を降りてきた。
精霊は愛しむように、カイリの首へとその両手を回して頬を摺り寄せる。それから、正に発動する寸前の魔法陣を視線で撫ぜた。
カイリの肩へ片手を添えたまま伸ばされた、もう片方の褐色の腕。
カイリも精霊に倣うようにして、魔法陣の方向へと片腕を伸ばす。
伸ばされた腕の動きは緩やかであったが、魔法陣を破壊した力は苛烈なものだった。
地鳴りが響き、激しく隆起する大地。
突進する岩の槍。
放射状に広がり行進するそれは、地面ごと魔法陣を破壊してゆく。
大地の力に貫き尽くされ、発動直前の強い輝きを失った魔法陣は、その力を発揮することは無かった。
「可愛い外見してるのにやること派手ですな」
廃墟の一角などよりも凄惨な状況になっている場所を眺めながら、華奈は思わず呟く。
巨大な鉤爪で何度も何度も執拗に引っ掻き回したかのような破壊の痕。地面という殻を破るかのように突出した岩の槍。先程までは、魔法陣が煌々と輝きを放っていた場所だ。
それをやらかした張本人達はというと、気を失ったロドリグの傍らで、改めて容態を確認している環と深冬の近くに立っている。
尤も、立っているのはカイリで、精霊クラッドは彼の肩にちょこんと手を沿え、背後をふよふよと浮いている訳だが。
『むりに、ちからを使った。めざめは遅いかもしれない』
幼い少女のような儚い声で、地の支配者たる精霊クラッドは、淡々とそう告げた。封印の解かれたその声は、今度は全員に音として伝わる。
「いずれ目覚めることができるなら、それでいいんです」
相変わらず穏やかな笑みを湛えて、環は返した。
命があっただけ奇跡だと、騎士達は思う。
『かのじょも、少しむりをした。少しの休息がひつよう』
彼女? と、彼らは顔を見合わせた。
その言葉がきっかけであるかのようにして、環の少し後ろへ控えていた深冬が、小さく乾いた笑いを浮かべながらその場へとへたり込む。
彼女のすぐ近くに居たフラットがしゃがみ込み、背を支えながら、心配げにその顔を覗き込んだ。
深冬は顔色が少し青白く、幾筋かの冷や汗が流れている。
『済まぬ』
突然、もうひとつの声が介入した。
高めだが、威厳と凛々しさを備えた、聞き覚えのあるその声。声の主は、深冬の傍らからすうっとその姿を現す。
『封印の近くであること。私の守護する物質の希薄さ。魔装具での妨害。多様な影響が重なり、ミフユは力を上手く引き出すことが出来ず、私も姿を現すこと叶わぬ状況であった。無理をさせて済まぬ』
「あはは、全然大丈夫だよ」
悲しげな面持ちで頬を撫でてくる精霊スプライトに、深冬は精一杯の笑顔でそう返した。尤も、顔色の所為で強がりにしか聞こえなかったが。
『かのじょは、少しやすめばよくなる。だいじない』
目覚めないロドリグの件もあるため一同の心配は深かったが、クラッドの言葉で胸を撫で下ろした。
眠たげなクラッドのその瞳を、凛としたスプライトの瞳が捉える。次瞬には、その瞳は緩やかに細められた。
『息災のようで何よりだ』
『あなたも。ぶじでよかった』
幼い面立ちのクラッドの頬をスプライトが撫でる。
精霊にそのような概念があるのかは判らないが、姉妹のようだと。深冬はぼんやりと考えた。
「人の存在を無視しないで欲しいわね」
カツン、という高いヒールの小気味良い音と共に降りてきた声で、和やかになりかけていた雰囲気が現実へと引き戻される。
何か仕掛けてくる様子が無かったため放置していた、紅い髪の魔族の女。
敵の、恐らく幹部クラスであろうその者と対峙しているという問題が、まだ華奈達には残されていたのだ。
女は神妙な面持ちで腕を組み、深冬をじっと見つめている。
視線が自分に向けられていることに気付いた深冬は、少したじろいで首を傾げた。
『魔の者よ。敵意が無いのであれば、去るが良い』
スプライトの目付きが厳しくなり、女を牽制する。
女は牽制には動じることをせず、軽く鼻を鳴らした。
「我々の手に一度は落ちた境涯でよく言うわ。まあ、今回は故あって引かせて貰うけど。その前に、そこの女」
組んでいた腕を解き、魔族の女は座り込んだままの深冬へと指先を突きつける。
「先刻、何か言いかけていたわね。最後まで聞かせてみせなさい」
深冬は何のことか瞬時には判らなかったが、フラットからの問い掛けのことかと思い立つ。むしろ、それくらいしか思い浮かばない。
「えっと……例えば、この人が死んでいたら、街の人達はもう嫌な思いをしなくても済むかもしれないし、それで気が晴れる人もたくさんいるよね。それも事実で、現実。一番簡単な方法だと思うよ。
けど、死んでしまった時点で、この人が自分の犯したことの重さに気付く機会は永遠になくなって、償うための機会も無くなっちゃう。
死んで終わりにすることより、生きて自分が悪かったことを認めて、嫌な思いをさせた人達に償っていくことの方が、ずっとずっと辛いよ」
「要するにハゲ様にはもっと苦しめと言っている訳ですね、深冬様」
華奈の茶々に、深冬は小さく笑う。
同じこと考えてるくせに、と、小さく呟いてから、彼女は続けた。
「ただ、それは単に私達の希望で、実際にこの人をどうするのかを決めるのは街の人達。街の人達が生きているこの人を見てどうするかは判らないけど、できれば、一番近くで生きてきた人達の手で。この人に、気付かせてあげて欲しいかな」
神妙な面持ちのまま静かに言葉を聞いていた女は、微かに唇を噛む。
そのような微かな変化になど誰もが気付かないまま、女は再び軽く鼻を鳴らし、深冬達から顔を逸らした。
「まあ、そんな予想以上の役立たず、私の知ったことではないし。好きにすればいいわ」
それだけ言い捨てて女が地を蹴ると、次の瞬間には女の姿が視界から掻き消える。
不思議な女だったと。女が消えた辺りを睨みながら、華奈は思った。
ふたつめの指輪の時の反応もそうであったが、敵にしては、行動にも言動にも謎が多い。
「ひああぁっ!?」
元々そういった細かい思考が苦手な華奈は、少々間の抜けた悲鳴らしきもので現実へと引き戻された。
悲鳴の先を見ると、顔を真っ赤にした深冬がフラットに抱え上げられ、足をじたばたさせてもがいている。
「いいっ、いいから、お、降ろしてぇっ!」
「降ろしたって一人じゃ歩けないだろ。小脇に抱えられるのとどっちがいいの?」
「う、ぅ……」
要するに姫抱っこという羞恥プレイに抵抗を試みていた深冬だったが、現状まともに歩けないのは事実なので、葛藤の末にフラットの厚意を受け入れることにしたようだった。
そんなふたりの様子を温かい眼差しで見守る環や精霊達と共に、青春しておるのう、などというじじくさいことを考えながら、華奈も生温かく見守る。
パルスはあくまで傍観を決め込み、やれやれといった風のため息を吐きながら、気を失ったロドリグを荷物の如く肩へと担いだ。
と同時に、深冬を見守っていた筈の華奈の視線が自分へと向けられていることに気付く。
何だ、と問う前に、華奈が真顔で言った。
「お姫様抱っこしてあげないの?」
「お前の頭はやはり湧いているようだな。そもそも両手が塞がるだろうが」
「そんな効率を求めた言葉を望んでいるんじゃないのだよ。大衆が求めるのは浪漫のみよ」
「何の浪漫があるのか理解しかねるな」
「判ってないなぁ。絵面的に面白すぎてあたしの笑いが取れるだろうが!!」
「取りたくもないがな。そんなに抱えたければ貴様が抱えろ」
「そんな掴みどころのない髪形の人なんて抱えたくありませんー」
「俺だって御免だ」
パルスがいつロドリグを放り投げるものかとはらはらしながらも、止めようのないものは放置することにして、カイリが話の方向転換を試みる。
「と、とりあえず、ロドリグの件もミフユさんの件もありますし、次の目的地等の話は戻って状況が落ち着いてからということにしませんか」
「そうね。構わないかしら?」
環が問うと、相変わらずカイリの肩にちょこんと手を添えてたゆたう幼い面立ちの精霊は、小さく縦に首を降った。
だが、戻るべき場所へと視線を移した目下夫婦漫才中以外の4名の視線の先には、更なる問題が立ちはだかる。
指輪の魔法陣が発動する際に、危機を感じた深冬が造り出した、上へと繋がる階段への扉を塞ぐ分厚い氷の壁。
深冬は疲労困憊。
溶かすための熱源になるようなものも無く、クラッドの力では階段ごと崩してしまいかねない。
割ってみるしかないか、と、カイリが歩み出ようとした、その時。
非常に輝かしい笑顔を湛えた環様が、愛用の巨大鈍器を構えて彼の前に立ち塞がった。
その笑顔に反逆できる者など存在する筈も無く。
数瞬後。空間内に、大気の唸り声ともの凄まじい轟音が響き渡った。