2-6 託されゆく想い
薄暗い洞窟を抜け、陽の光の眩しさに華奈達は目を眇める。
最深部は発光する石壁のお陰で随分明るかったが、やはり、大地の全てを照らす本物の光の恩恵には敵わないようだ。
「ん~、やっと光合成できるわ」
「ハルちゃん葉緑体持ってないでしょ」
伸びをしながらノリで言った華奈に、すかさず深冬からの突っ込みが入る。
環は微笑ましそうに繰り広げられるどうでも良いやり取りを見るが、騎士達は彼女らの口から出る言葉の意味が判らないようで、首を傾げた。
そんなどうでも良い会話をしながら足を進め、彼らはセオフィラスの畔へと辿り着く。
洞窟の最奥で見た、縮小図であろうと根拠無く確信した美しい泉とは違い、視界いっぱいに広がる湖は未だ干からびたままだった。
「スプライト……」
眉を顰めて湖を眺めたまま、深冬は呟く。
呼び掛けに応えたのか否か、すうっと、深冬の背後に精霊はその姿を現した。
『もう、大丈夫だ』
精霊は深冬を慰めるように彼女をやんわりと包み込んでから、湖の方へと向かう。
湖の中程まで進んだ精霊は、瞳を閉じてゆるりと両腕を広げた。
湖いっぱいに光が降る。
いや、虹色の輝きのその光は、水の粒だった。
細かな無数の水の粒が、セオフィラスに降り注いでいる。
「綺麗、だね」
「うん」
ぽつりと本心から、環と深冬が呟いた。
洞窟の中での光景も美しかったが、きらきらと輝く光の雨もまた、目を離したくない程に美しいものだ。
精霊がもたらす美しい光景はきっと他にもあるのだろうと、ふいに思う。
それらを取り戻してゆくのもまた重要な旅の理由なのだなと、彼女達は思った。
光の雨が止む。
姿を現したセオフィラスは、本来の姿を取り戻していた。
陽光を反射して輝く静かな水面に、透けるような水質。
全員が根拠無く確信した通りの、美しい姿。
何人かが、思わず感嘆の溜息を漏らす。
精霊はゆるりと振り返って満足そうに微笑んだ。
それから、深冬の元へと戻ってくる。
『深冬、我を人間がヴァレンティーネと呼ぶ街まで運ぶのだ。セオフィラスが戻れば元の姿を取り戻すことが出来るだろうが、様子が気になる』
深冬はパルス達に目配せした。
精霊を解放することが出来たのですぐにでも次の街へ旅立ちたいところだったが、街の様子は確かに気になるうえ精霊の頼みとあっては断る理由もない。
彼らは頷き合うと、ヴァレンティーネへと歩を進めた。
白い石畳に、白と青を基調とした美しい建物の数々。
美観を損ねないようにと整備された街並。
街の至るところに設置された噴水からは常に澄んだ水が溢れ、街に隣接する湖セオフィラスは、神聖ささえ漂わせながら存在している。
……どんなに美しいのだろうと。
足を踏み入れる前に聞いて期待を寄せていた本来の姿を、ヴァレンティーネもまた、取り戻そうとしていた。
セオフィラスに光の粒が降る様子を、街の人々も見ていたのだろうか。
華奈達がセオフィラス側から街へ戻ると、観光スポットなのであろう高台の柵から身を乗り出してまで湖をまじまじと眺める人々の姿が目に入った。
興奮し声を荒げる者、恍然と見つめる者、言葉を失い涙する者……
反応は人それぞれだが、セオフィラスの復活を喜び感動している気持ちは全員が同じのようだ。
喜びはしゃぎ回る子供達が、湖により近付こうと華奈達が戻ってきた道を駆けていく。
すれ違い様、華奈達は思わず表情を綻ばせた。
この子供達の笑顔も、街人達の感動も、自分達が取り戻したのだ。
自然と軽くなった足取りで進むと、至る所に設置された大小様々な噴水から弱々しいながらも水が溢れる様子や、建物の周囲を囲むただの窪みだと思っていた部分に澄んだ水が流れる様子が目に入る。
青と白を基調とした街並は水が無くとも美しく感じることは出来たが、水と共存する姿の方が比ぶるべくもなく格別に美しいものだった。
心なしか薄暗く感じた街の雰囲気も、取り戻されたものたちの影響で明るく見える。
そのような考えを巡らせながら華奈達は歩き、彼らは、自然と街の中心部へと辿り着いていた。
円形の浅い堀に囲まれた、街の中でも一際大きく美しい建物。
その丁度正面に位置する、街の中で一番大きな噴水。
未だ弱々しいながらも元の姿に戻ろうとするそれを見て深冬が感動していると、ふっと、姿を消していた精霊が再び深冬の中から現れた。
精霊の表情も綻んでいる。
自分達と同じ気持ちなのだろうなと深冬は思った。
『少しだけ、手助けを』
そう言って、精霊は噴水に手を翳す。
すると、弱々しかった水が勢い良く吹き出した。
吹き出した水は一度だけ高く上がって花火のように弾けて虹を作り、そして、元の姿に戻る。
無論、直前までの弱々しいものではなく、加護が失われる前の本来の姿に。
澄んだ水を常に力強く溢れさせる噴水。
水飛沫が掛かることなど構わずに、華奈達はその姿を満足そうに見上げた。
噴水のある場所で同じことが起こっているのか、至る所から、街人達の喜びの悲鳴や歓声が聞こえてくる。
その声を聞きながら、水面に映る街並を眺めながら、彼らは感慨に耽った。
華奈達は突如として訳の判らない状況に放り出されて、パルス達は命を失う覚悟で臨んだ空間移動の儀式を越えて、ようやくひとつ、クリアすることが出来たのだ。
だが。
今回の精霊の解放で自分達の存在や足取りを魔族に気付かれたとするなら。
いや……もはや、気付かれたであろうと断定した方が良い。
洞窟の最奥に仕掛けられていた魔物は、自分達に反応して魔方陣により召喚されていた。
己の仕掛けた魔方陣が発動し召喚した存在の生命力が途切れたことは、仕掛けた者自身ならすぐに判ることだ。
ともかく、そのことにより今後魔族側の動きは激化する可能性が高く、安堵して気を緩めている暇など無いだろう。
……などと今後の敵の動きなんかを推測していたパルスが、突然背後から何者かに襲撃された。
思い切り突撃されたためパルスは倒れ込みそうになるが、寸でのところで踏みとどまり、噴水にダイブすることは免れる。
「……おい」
未だ自分に体重を掛け続ける襲撃者の正体が判っていたパルスは、青筋を幾らか浮かべて振り返った。
しかし襲撃者華奈は顔を真っ青にして彼ではない何処かを見て、口をぱくぱくとさせている。
あまつさえ、身を隠したいのかパルスの外套の中に潜り込んできた。
「何をしているんだお前は」
声が出ないのか出せないのか華奈からの返答は無かったが、代わりに外套の隙間から震える手を出して何処かを指差す。
その先にあったものを見て、パルスは思わず得物に手を掛けて何歩か引いた。
陽の光を浴びて一層輝く青白い肌。
限界まで見開かれた、血走る濁った眼。
右手をこちら側に差し出した変なポーズのままガクガクと超振動の如く痙攣するやたらと痩せ細った身体。
見たら絶対呪われると思わざるを得ない様相でそこにいたのは、この場所へ初めて訪れた時に思う存分恐怖を与えてくれた男性神官ホリスだった。
彼はどうやら何かに衝撃を受けてそうなったらしいが、はっきり言ってこちらの方が衝撃である。
しかもよほど急いでいたのか焦っていたのかそれとも性癖なのかは知らないが、人が通れるか通れないか程度に開いた神殿の扉に挟まっているような形で身体が半分だけ出ているものだから尚更だ。
フラットとカイリも思い切り引いており、深冬も手近にいたらしいフラットを盾にして懸命にホリスを視界に入れないようにしていた。
華奈はパルスの外套の中でぶるぶると震えながら「あれ怖い呪われるあれ怖い呪われる」と念仏のように呟いている。
ホリスは声にならない声というかもはや怨霊の呻きにしか聞こえないものを上げながら扉の隙間からずるりと抜けだし、じわじわずるずると華奈達の方へ近づいてきた。
これはもう殺らないと呪われるだけでは済まないかも知れない。
何人かがそんな考えに行き着いたその時、ふわりと微笑みながら環が前へ出た。
「ホリスさん、どうされたんですか?」
声を掛けられたホリスはカッと見開いた目をぐわっと顔ごと環の方へ向ける。
だが環は誰もが裸足で逃げ出しそうなその恐怖映像を目の前にしても平然としているばかりか、可愛らしく首を傾けて返答を促すという偉業までやってのけた。
痙攣のし過ぎで疲れているのかホリスはゼェゼェと今にも本物の怨霊と化しそうな程の息づかいで、それでも何とか口を開く。
「い、今……精霊が……ふ、噴水がっああっあああぁぁぁ」
つい先程深冬の中へ消えてしまった精霊がいた辺りを指差し、ホリスはガクガクと不自然な動きで更に恐怖を振りまいた。
「ええ、街は元に戻ったんです。セオフィラスも、元の美しい姿に戻っていますよ」
環はにっこりと微笑む。
アレを相手にして普通に受け答えしている環の方が怖いかも知れないと、誰かがこっそりと思った。
環と話していて落ち着いてきたのか、ホリスは徐々に普通の様子(それでも立っているだけでホラーだが)に戻っていく。
胸元を押さえ己を落ち着かせてから、彼は口を開いた。
「……精霊とまみえることなど、奇跡のような恩寵を受ける神官の存在無くしては有り得ないこと。
私も長く神殿に仕えてきましたが、シュゼットの儀式に立ち会うことにより数度しかその御姿を拝見したことがありません」
一度息をついて、ホリスは澱んだ目を深冬へと向ける。
「しかしながら、先程貴女へと還っていった存在は、水を守護する精霊そのものとお見受けしました。もう一度聞きます。あなた方は一体何を?
……一体、何者なのですか?」
畏怖と敬意と疑念が入り交じった、澱んだ眼。
じっと見据えられて、深冬は上着の裾を握り締め、戸惑った。
最初にこの場所を出立する時に掛けたものと同じ言葉では、目の前の神官は納得してくれそうにない。
だが自分達が何なのか、何をしているのか答えるということは、精霊が封じられ世界が危機に瀕している事実を この神官に教えるということでもある。
この神官に際しては魔族に婚約者をさらわれている為、既に世に起こっている不穏な事象に巻き込まれてはいるのだが……それでも、不用意に何も知らぬ者に対して不安を与えることはしたくなかった。
澱んではいるが真っすぐな眼。
何かを返さなければという義務感だけで、どう答えれば良いのかも判らないまま、深冬は口を開きかける。
しかしその時、辺りに声が響いた。
『水の神官よ、聞け』
高めだが、威厳と凛々しさを備えた声。
先程その御姿を見て一目で判った時のように。
神官長の祈りや儀式を補佐してきたホリスには、その声の主が誰なのかなどすぐに判った。
『世界の各地で様々な不穏な事象が起きていることは知っているだろう。だがお前も知る通り我々は直接動くこと が出来ぬゆえ、彼らに動いて貰っている状態だ。
彼らは我々の使いであり、代行者である』
己が奉る対象であるものの声。
彼がそれを信じない訳にはいかない。
『彼らを阻むな』
彼がそれを受け入れない訳にはいかない。
彼の眼差しから疑念が薄れていく。
だが、代わりに、別の情が強く浮き出てきた。
遺憾、嫉み、悲嘆。
表情を見るだけで判る、そういった類の感情。
ぶつけどころのないそれらの感情を、彼は、必至に己の内側に押し戻そうともがいている。
何処から響くとも知れない声に対して真っすぐに視線を向けて、彼は、一言だけ呟いた。
「……精霊よ、彼らの為す先に、あなたの恩寵を受けた神官長の無事な帰還はあるのでしょうか」
その言葉が、彼の複雑な感情の全てだった。
彼は神官として、街やセオフィラスに起こった事象に対して胸を痛めていただろう。
初めて会った際に、街の置かれている状況について話してくれた時に伝わってきた感情に決して嘘は無かったと、華奈達は感じている。
しかし彼が一人の人間として最も胸を痛めていたのは、己の愛する者の安否だった。
当然だ。
華奈達とて、世界などという大層なものの顛末を常に見据えて動いている訳では、決して無い。
変な事象に巻き込まれた友人を助けたい。
今では他にも様々な想いが芽生えてはいるが、根本としてはたったそれだけの為に、華奈達は動いている。
世界の救済など、その先におまけのようにくっついてくる結果でしかないのだ。
シュゼットが何に巻き込まれ姿を消したのかなどホリスには知る由も無いだろうが、大切な人が精霊の言う“不穏な事象”とやらに巻き込まれているのかも知れないと察知してしまったら、己の手で助けに行きたいと願うのは当然のこと。
けれど、精霊はそれを行う使命を自分に与えてはくれなかった。
そればかりか、突然現れた誰とも知れぬ代行者とやらに疑念を向けた自分に対して、阻むなと、抑圧する言葉しかくれない。
現在神殿を任されているという立場も、街を離れることを許してはくれない。
ならばせめて、シュゼットが無事に戻るという確約が欲しい。
ホリスは返答をくれない虚空から視線を彷徨わせ、深冬の目を捉えた。
普段であれば恐怖で即刻逃走する深冬も、その視線だけは真摯に受け止める。
そうして、彼女は精一杯微笑んだ。
「大丈夫。元に戻ります、きっと」
彼女の言葉と同時に、ふわりと、彼女の背後に精霊が姿を現す。
精霊は真っ直ぐにホリスを見据え、不敵に笑った。
それは一瞬のことで、精霊はすぐに姿を消してしまったけれど。
彼女の言葉こそが答えだということが、ホリスには充分過ぎるほどに伝わっていた。
ぶつけどころのない感情は未だ渦巻くが、己の奉る存在の加護をこうまで受ける者の言葉を、己が信じない訳にはいかないだろう。
「精霊の御使いよ、貴女の言葉を信じ待ちましょう。ですから、どうか……」
そこで言葉を切って、ホリスはその場に跪いた。
両膝を折り、片腕を胸元に添えて深く頭を垂れる。
第二世界で祭事に使われる最上級の礼に似ていた。
「あ、あのっ、私達、そんな頭を下げられるほどたいしたものではないのでっ! やめてくださいっ!」
なんだかかえって申し訳なくなって、深冬は焦ってわたわたと手を振る。
ホリスはゆらぁりと顔を上げ、かくんと首を傾けて深冬を凝視した。
深冬はびくりと肩を震わせて冷や汗を浮かべる。
冥界の人にあっちの世界へ引きずり込まれるかのような緊張感が蘇り、視線を逸らした瞬間何かが起こるような気がしたので視線はそのままで深冬はじわじわと後退してみた。
「そうはいきませんんんんんんん!!!!」
「ひぃっ!!?」
冥界の人に突如ぐわっと詰め寄られて肩を掴まれ、深冬は本気で涙目になって悲鳴を上げる。
視線を逸らさなくても何かが起こってしまった。
「うっ、うたっ、宴!! そう、宴だ!! 街を救って頂いたお礼に宴を開かなくては!!」
「けっ…けけけ結構ですから!! 本当にたいしたことしていませんから!! だっ、誰かぁ、助けてええぇ!!」
「そうはいきませんんんんんんん!!!!」
ガクガクと超振動するホリスと一緒に振動する深冬。
助けたいのはやまやまだったが、巻き込まれるのが嫌なので一同は何歩か引いて見守ることしか出来なかった。
尤も、環だけは「あらあらホリスさん張り切ってるね」などとひとりほのぼのとしていたが。