2-5 水の支配者、その御名
ヴァレンティーネへ向かっている間、ずっとずっと語り掛けられ続けていた。
『他の力も違わぬ。だが水が枯渇するということは、全ての生命が枯渇するということ』
知っている。
『世界の根源の一柱でありながら情けないことだが、今はお前に頼る他ないのだ』
知っている。
『見よ、雄大で美しかった筈のセオフィラスの今の姿を。このままでは、世界そのものがこれと同じ姿になる命運を辿るだろう』
知っている。
『お願いだ、ミフユ……助けてくれ』
……聞こえている。
だから彼女は迷いなく前にだけ進み、声の主を捜し出すことが出来た。
悲しげな表情のまま泉の中心に封じられた声の主に……精霊に、深冬はゆっくりと近づいていく。
薄青い地面が終わり泉に差し掛かっても、深冬は歩を進めることを止めなかった。
だが彼女がいくら歩を進めても、泉に沈むことはない。
まるでそこに地面があるかのように、泉から拳ひとつ分くらい上の中空を歩いてゆくのだ。
そうして阻むものの無い道を歩み終え、彼女は精霊の目の前へと辿り着いた。
天井近くまでそびえる、水晶のような、透明の巨大な石。
そっと右手を差し出して、世界の力を封じているそれに触れてみる。
『……よくぞ、来てくれた』
触れると、頭の中に直接声が響いてきた。
ずっとずっと聞こえていたものと同じ音色。
ふと、深冬は精霊を見上げる。
変わらず悲しげに瞳を伏せたままだったが、はっきりと、この存在が発したものだということが判った。
『何も知らぬ世界で暮らしてゆければ幸せであったろうに。世界まで跨いでかような場所へ呼び付けてしまったこと、申し訳なく思っている』
ううん、と、深冬は首を横に振る。
自分達にも全く関係のない話では無かったし、何も知らず、何もせずにいるよりはましだと深冬は思っていた。
それよりも。
「どうすれば、封印は解けるの?」
精霊の表情は動かない。
だが深冬は、美しいその存在が微笑んだように見えた。
『私の名を呼べばよい。お前が私を呼び私を求めれば、かような封印を破るなど容易いことだ』
「なま、え……?」
深冬は微かに首を傾げる。
この精霊に名前を教えて貰ったことなど無いのだから、当然のことだった。
『ミフユ、お前は私の名を知っている筈だ』
はっきりと、精霊は告げる。
深冬は精霊を見上げたまま目を伏せ、考えてみた。
いや。
考えるではなく、思い出すと言ったほうが正しい。
そう、深冬は、初めからこの精霊の名前を知っていた。
加護を得た時から。
……生まれた時から。
その名は、しっかりと深冬の中に刻まれている。
深冬は目を開き、笑みを湛え、精霊の名前を力強く紡いだ。
大きな影が深冬の方へと駆けていくのが見えて、パルス達は舌打ちする。
爆炎から逃れる為に後方へ飛んだ訳だが、彼らの位置からでは、深冬の元へ辿り着くのが魔物より遅れてしまうだろう。
だが、彼らが行動を起こすのより早く。
ふたつの小さな影が、まさに深冬に鋭い爪を突き立てようとしていた魔物に追いついていた。
それが誰かなど、考える必要もない。
泉の縁に差し掛かる辺りで魔物からほぼ一瞬遅れで大きく跳躍した華奈と環は、深冬と精霊の数メートル手前で前足を振り上げた魔物に追いついた。
両脇から飛び出してきた小さな存在に魔物は気付くが、気付いた時にはもう、遅い。
環の勢いを付けた鉄球が、華奈の見事な回し蹴りが、百獣の王の首の鼻っ柱に叩き込まれていた。
咆吼を上げながら、魔物は縁の方へと吹っ飛ばされる。
そして、その時。
「スプライト!!」
深冬が、力強く精霊の御名を紡いだ。
水晶の中の精霊が、カッと目を見開く。
水晶は一瞬にして命を絶たれた時の魔物のように光の粒となって霧散し、解放された精霊は、魔物の方へ向き直った深冬を背後から抱き込むようにして寄り添い、不敵な笑みを湛えた。
同じように微笑んだ深冬が、右腕を薙ぐ。
軽いその動きとはうらはらに。
空間全体に冷気が駆け抜け、絶対零度の鋭い氷柱が泉の縁に激突しようとしていた魔物を飲み込んで……
次の瞬間には、魔物ごと粉々に砕け散った。
泉と天井からの光をきらきらと反射しながら、数多の氷の粒が降り注ぐ。
それに混じって空中へと還りゆく、キマイラと呼ばれた魔物の魔力の光。
見たこともないその美しい光景を、パルス達は陸から、華奈と環は泉に落下しながら、恍然と見つめていた。
-*-*-*-*-*-*-
血臭漂う空間の中心にいた男が、傍目では判らぬほど微かに目を見開いて、壁のある一点を見る。
男の視界には壁しか映されていなかったが、男が見据えているのは壁などではなく、そのずっとずっと先にある光景だった。
すうっと、男は切れ長の目を細める。
強大な魔物を守りに据えた筈の一柱の精霊の封印が、解かれた。
第三世界の人間にそれが出来るとは思えない。
……ならば。
男はふわりと外套を翻し、血臭漂うその空間を後にした。
-*-*-*-*-*-*-
泉に、ふたつほど水飛沫が上がる。
静かだった水面が大きく揺れ波紋が広がり、飛沫の上がったところから華奈と環が顔を出した。
二人は息を継ぐと、水面から顔を出したまま空中を見上げる。
そこには未だ、氷の粒と魔力の粒子の共演が広がっていた。
共演が終わりを告げ、華奈と環はゆるりと顔を見合わせ……静かに笑い出す。
自分達が水中にいることも忘れて見とれていたことが可笑しかった。
「ああぁ、ふたりともずぶ濡れだ……大丈夫?」
笑い声ではっとした深冬が、おろおろと二人の様子を伺う。
二人が深冬を見上げると、精霊を背中にひっつけた彼女は水面から少し上の空中に浮いているようだった。
「深冬浮いてるし……卑怯者」
「えぇ……そんなぁ」
「精霊さんの加護の力、かな?」
三人のやり取りを見て微笑んでいる精霊を見る。
美しいが少しあどけない顔立ちをした精霊は、しかし、世界の力の一柱たることを感じさせるだけの存在感と威圧感があった。
精霊には、色々と聞きたいことがある。
が、水中からでは何であるし、陸の方からフラットとカイリが心配そうに呼び掛けているので、華奈達はとりあえず泉から出ることにした。
『まずは、礼を言わねばならぬな』
華奈と環の服を乾かす為にと火を起こし囲んだところで、精霊が言った。
今度は頭に直接響くものではなく、精霊の口から音として紡がれている。
華奈達とそう変わらないように見える外見のあどけなさに合う高めのものだが、威厳と凛々しさを備えた声だった。
『……それに、だ。空間をも超えかような場所へ足を運ばせるばかりか、世の命運をも背負わせることになってしまったこと……
我々全員が、申し訳なく思っている』
何人かが、首を横に振る。
今この場所にいることを悔いている者などいなかった。
全員の目を見て、そこに宿る意志を見て。
精霊は微笑む。
『お前達の御心、感謝する』
全員が、笑みでその言葉に応えた。
「乗りかかった船だし気にすんなってお嬢さん」
「精霊は創世の頃からの存在だ。お嬢さんではないだろう」
「ノリで言ったセリフ程度に真剣に突っ込まないで頂けますか」
「まぁまぁふたりとも……」
「それより、幾つかお聞きしたいことがあります」
火花が散りそうな華奈とパルスをカイリが諫める様子に苦笑しつつ、フラットが話を進行する。
『我が必要であると思うことを、まずは伝えよう。他に聞くべきことがあれば、その後にするが良い』
フラットは頷いた。
『デルヴィスからもあった通りだが……お前達には我々精霊全員の封印を解き、ヴィレイス復活の魔方陣が描かれているその場所へと運んで貰わねばならぬ。
だが、我の封印が解かれたことは魔族どもに気付かれた筈。此度もそうであったように、魔物や罠がお前達の進行を邪魔立てし、危険に晒される可能性が高い。
それゆえ、我々を宿し運んで貰う代償として、我々の力を行使する権限を与えようと思う』
「力……?」
何人かが首を傾げ、だが、すぐに思い至る。
先程深冬が使った、腕のたったひと薙ぎで魔物を一瞬のうちに葬り去った絶対零度の力。
パルス達の世界で最高峰と言われる魔法師達ですら敵うかどうか判らないほどの、凄まじい力だった。
『但し、これは魔法ではなく、魔術と呼ばれる力だ。誤った使い方や無理な使い方だけは決してするな。己の身を滅ぼすことになる』
パルス達は神妙な面持ちで頷く。
華奈達にはその違いが判らなかったが、兎も角便利だからといって使い過ぎると危ないのだな、ということだけは理解できたので、頷いておいた。
魔法というのは言霊や魔方陣などを使って、空中や大地を流れる魔力を行使するもの。
それに対し魔術というのは本来は魔族や魔物のみが使用できる術で、己に内在する魔力を行使するというものである。
魔族や魔物にとって内在する魔力とは生命力に等しいものであるゆえ、無闇に使うということは己の命を脅かすことに繋がるのだ。
精霊の封印を解き精霊をその身に宿すことで、華奈達は“精霊そのもの”という強大な魔力を己の内側に得ることとなる。
だが元よりの加護の力はあれども、その強大過ぎる力を操るということは、それだけ危険が伴うということだ。
「えと……質問。精霊さんを魔方陣まで運ぶっていうのは、このままスプライトが一緒に来てくれるっていうことなの?」
ふと、深冬が己に寄り添う精霊を見て問う。
精霊は穏やかに目を細め、己の加護を受けるその者の頬に手を伸ばして愛おしむように撫でながら答えた。
『そうとも言えるし、そうとも言えぬ。精霊というものは己の守護すべき領域があるゆえ基本的にはその場から動かぬが、ミフユが我を宿すことにより、我はミフユを通して何所へでも発現することが出来るようになる。
そのことを利用し、敵陣の、我々を弾く結界やその内側にあるであろう魔方陣の元へ近付きたいのだ』
なるほど、と、深冬はくすぐったそうに眼を眇めながら納得した様子を見せる。
精霊はゆるりと深冬から手を離すと全員を見渡し、荘厳なる声で告げた。
『人間達がヘザーベアネスと名付けた場所へと向かうが良い。近くまでゆけばまた我の時のように、そこへ封じられた精霊の声を聞くことも出来よう』
ヘザーベアネス。
その名を反芻し、何人かが世界地図を思い浮かべる。
ヴァレンティーネから南西に位置する都市で、カヴェリーラからヴァレンティーネまでの距離とを地図上で比較すると、おおよそ5日程度の行程になるだろう。
「目的地を教えてくれるなんて……デルヴィスより親切なひとだな」
「お前……罰が当たっても知らんぞ」
誰もが思っていても口にしなかったことを思わず言ってしまった華奈に、静かな突っ込みが入った。
そんなもん知るかとばかりに華奈は突っ込みを華麗に無視し、続けて口を開く。
「あと、その……親切ついでに、捕まってる奴らが今どうしてるかなんて判らないかな?」
全員が思わず精霊を見るが、精霊は微かに眉を顰め、微妙な表情をした。
『先も言った通り敵地には我々を弾く結界が張られており、捕われた者達は結界の内部にいるゆえ、その様子を伺うことは出来ぬ。ただ、生命の気配は途絶えておらぬ。我から言えるのはそれだけだ』
精霊は申し訳なさそうに首を振るが、華奈達は満足した様子で笑みを作る。
無事なことが判れば、それだけで充分だった。
フラットが全員に目配せする。
全員が小さく頷いて立ち上がった。
「精霊よ、感謝します」
うむ、と、精霊は頷いて、出立しようとする彼らを見送りながら、その後ろ姿に声を掛ける。
『ヘザーベアネスへと発つ前に、一度セオフィラスへと足を運んで貰いたい』
空間の入り口付近にいた彼らは振り返り、頷くことでその言葉に答えた。
一部手を振りながら己に別れを告げる彼らに精霊は微笑むことで応え、彼らが空間を後にしても、彼らが消えた入り口の方をじっと見据える。
その表情は、今後困難に見舞われるであろう彼らの行く末を案じていた。
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「深冬、精霊を宿すってどんな感じ?」
いつの間にやらひしめき合っていた魔物達が消え去っている薄青い通路を歩きながら、ぽつりと、華奈が口を開く。
うぅん、と、深冬は難しそうな表情で首をひねった。
「何ていうんだろう……なんかこう、ずばーんっていう感じ?」
意味不明である。
ふーんと、言っている本人より訳の判らなさそうな表情で、華奈は首をひねった。
「そもそも力っていうけど、何ができるようになったの? さっきみたいに敵を凍らせたりとか?」
「それもあるけど、水の力を使って想像できる範囲で色々なことが出来るみたい。例えば……」
頬に指を当てて思案しながら、深冬は空いている左手を胸元に差し入れ、素早く一閃する。
避ける間も無く、華奈の頬に赤い線が走った。
一同はぎょっとして思わず後ずさる。
にゃーとか姫がご乱心じゃーとかプリンを無断で食べて済みませんでしたーとかいう訳の判らんことを叫んでいる華奈に、まぁまぁと凶器を懐に戻しながら笑みを湛えた深冬が近づいて、己が傷付けた華奈の頬を捕えた。
深冬の小さな掌とそれが翳された華奈の頬の間に薄青い光が溢れ、収束する。
深冬の手が離されると、そこにあった筈の傷は綺麗に消え去っていた。
感嘆の声が上がる。
華奈も己の頬に触れて傷も痛みも無くなっていることに感心した。
「こういうことも出来るけど、でも、あんまり大怪我は治せないから無理はしちゃだめだよ」
全員が頷いてくれたのを見て深冬もうんうんと頷き、更に思案する。
あとはそうだなぁ、と、深冬は両手を広げた。
ぽん、ぽぽんと、空中に氷の花が咲いてゆっくりと地に落ちる。
可愛らしく綺麗なその光景に「おおー」と歓声が上がり、見物人のごとく何人かが拍手した。
更に深冬はきらりと目を光らせて素早く両手で懐のクナイを取り出す。
ぴんと水平に伸ばされた両手のクナイの先と深冬の頭のてっぺんから、絵本に描かれた鯨の潮吹きのように二又に分かれた水がぴよぴよと飛び出した。
水を出しながら、深冬はくるくると回ってみせる。
それを見て華奈は大袈裟にショックを受け、ふらふらとよろめいた。
「こっ……これは、伝説の人間スプリンクラー!!」
ぴっしゃーん、と、華奈の背後に衝撃の雷が落ちる。
どの辺が伝説なんだかよく判らないが、無駄に凄いのかも知れないのでフラットとカイリはとりあえず拍手をしてみた。
楽しそうに拍手しながら歓声を上げる環を他所に、華奈は地に崩れ落ちて拳を地面に叩き付け、心底悔しそうに叫ぶ。
「羨ましすぎる……っ!!」
くそう、あたしはデルヴィスに期待して待つしかないというのか……! などと言いながら、華奈は嘆いた。
そんなにネタ人間になれないことが悔しいのかとパルス達は思ったが、華奈のあまりにも悔しそうなその様子に、言葉にして突っ込める者はいない。
そもそも、精霊の力をこんな大道芸紛いのことに使っても良いのだろうか。
パルス達が一瞬そう考えた瞬間、可愛らしく笑いながらくるくる回っている深冬の背中から、にゅるりと何かが飛び出した。
吃驚して彼らは後ずさる。
深冬の背中から生えてきたのは何と、先程まで会話していた水の精霊スプライト様だった。
『ミフユ、魔術を使うのはいいが、あまり無駄使いはするな』
「ご、ごめんなさい……気を付けます」
深冬も止まればいいのに回りながら答えるものだから、精霊も一緒にくるくると回っている。
深冬が水芸を止めて止まると、うむ、気を付けろ、などと言いながら精霊はにゅるりと深冬の中(?)へ戻っていった。
何と言うか、先程まではあれほど威厳と壮大さを感じていたというのに、それらががらがらと音を立てて崩れ去っていく。
「なるほど。深冬ちゃんを通してどこにでも発現できるって、こういうことだったんだね」
ぽん、と手をついて環が言うが、そんなことより、精霊のイメージが崩れ去ったことの方が彼らにとっては重要だった。