2-3 汝、彼女に逆らうことなかれ
「うぇ」
水の殆どを失ったとはいえ根源的な美しさは決して損なわぬセオフィラスのほとりで、嫌悪感を露にした短い声が上がる。
声の主は、思いきり顔を顰めている華奈だ。
原因は神殿にて返答を得られなかった話の内容……頻発しているという行方不明者達の辿っているであろう行く末を聞かされた所為である。
華奈だけではなく、深冬も環も彼女と同じ感情を抱いていることが明らかである表情をしていた。
現在彼らは、ヴァレンティーネの街を出てセオフィラスの湖畔を歩いている。
先導するのは深冬。
普段は方向感覚というものには全くもって縁の無い彼女だが、現在は何かに導かれるまま、迷いなく足を進めていた。
そんな深冬の胸中にひとすじの不快感が走り、彼女はきゅっと上着の裾を握りしめる。
己のものでもあるのだろうが、その感情は、彼女を導く精霊の抱いたものだったのかも知れなかった。
「最悪なのは、魔法陣に血を使われてしまった人達は、魔法陣の発動と共に命を失うということだね。……俺達の主と、一緒に」
華奈達にその事実を説明していたフラットが、微かに眉を顰め、言葉を続ける。
かっさらわれて血を抜かれるだけでも最悪であるというのに、更にその仕打ちか、と。
嫌悪感に加え、華奈達の心中に怒りがふつふつと湧いてくる。
……急がなければ、と。
強く思った。
「急ぐ必要はあるが、だからと言って焦る必要はない」
少し逸った気持ちを見透かすかのように、パルスが呟く。
華奈達が彼の方を見ると、フラットが苦笑しながら言葉を付け足した。
「まあ、こう言うのも何だけど、魔法陣を描ききるのには相当の人数の血が必要になるからね。加護を受ける者達を探すだけでも一苦労だと思うよ」
「街の人が言っていた行方不明者の出るペースを考えると、少なくともあとひと月以上は猶予があると見て良いと思います」
カイリの言葉で、華奈達は街を出る時に彼らが数人の街人達に行方不明者について聞いていたことを思い出す。
街人達の話によると、ヴァレンティーネの近隣だけでも2・3日にひとり程度の行方不明者が出ているのだそうだ。
それでひと月以上の猶予とは……相当というが、魔法陣の完成までに一体どれほどの人間の血が必要になるというのか。
発動と同時に、どれほどの人間の命が失われるというのか。
ひと月と聞いて安堵しかけた心を、華奈達は慌てて引き締める。
決して余裕があるという訳ではないのだ。
「ともかく、魔法陣を発動させる条件を満たす為に、攫われた人達が殺されるようなことだけは無いというのは救いだね」
険しい顔を崩さぬ華奈達を安心させる為にと、極力明るい口調でフラットが言う。
それを聞いて、彼女達は多少安心したようであった。
だが。
(血を抜かれた後にどのような扱いを受けるのかは、ともかくとして)
心の中で、音としては紡がなかった言葉を彼は呟く。
己の主は、恐らく破格の扱いを受けているであろうことは想像がつくのだ。
かつて、精霊達とひとりの第二世界人の手によってヴィレイスを封じた時の膨大な知識、魔力、精霊達の加護。
封印の呪文と、開放の呪文。
それはかつてより第二世界のたったひとりの人間に受け継がれてゆき、そして、現在その全てを受け継ぐ者は主しか存在せず。
更に発動させる際に術者に掛かる負荷が大きいゆえ、術者は万全の状態で臨まなければならず、ヴィレイスの復活を強く渇望するという魔族達がその為に不利になるような行いをする筈が無い。
……更に付け加えるなら、主ならば己の命を盾に魔族達に脅しのひとつふたつ掛けているに違いないという確信もある。
だが、血を抜いてしまえば用済みとなる者達は。
魔族達にとって、魔法陣発動まで生命さえ維持されていれば問題のない存在だ。
抵抗出来ぬよう自由を奪って。
必要最低限の養分を送るだけでも、生命を維持することは出来る。
命を奪われるのと、果たしてどちらが楽だろうか。
不祥な考えが脳裏を過ぎり、しかし、フラットは微かに首を振ることでそれを払拭した。
行方不明者達のことも常に心に留めておかなければならないが、今、最も留意しなければならないことは他にある。
「それよりも、何があっても俺達が魔族に捕まるような事態にだけはならないよう注意することだな」
それについては、パルスが切り出した。
ふと、華奈が怪訝な表情をしたが、環が語意に気付いて「あぁ」と呟き、細い指で己の唇に触れる。
そうして、ぽつりと呟いた。
「魔法陣の完成が、早まってしまうから」
パルスは微かに頷く。
ああそうか、と、華奈も深冬も納得したようであった。
何せ、精霊自身から“精霊そのものの力をその身に宿せるほどの加護を持つ者”と称されてしまっているのだから。
「ハルちゃん、転んで流血とかしないようにね」
「何でピンポイントであたしだよ」
神妙な面持ちでのたまう深冬に、華奈は真顔で切り返す。
そこへ環の援護射撃が加わった。
「だってはるちゃんは血の気が多いしね」
「そんなことは……」
「不良学生とかチンピラとかと喧嘩したとかで三日に一回は流血しているのはどこの誰?」
「ぅ……」
「まなちゃんがちゃんと統計取ってるんだから。言い逃れは出来ないね」
「……」
環の怒涛の追い討ちにより華奈は言葉を詰まらせる。
弥鷹と組んでしょっちゅう喧嘩をしていた華奈に、どうやら言い返す資格など無かったようだ。
華奈はがっくりと肩を落とし、あれはあたしじゃなくてタカとチンピラの血の気が多いんだ……などとぶつぶつと自己弁護をし始める。
当然、誰にも聞き入れて貰える筈は無かった訳であるが。
セオフィラスの湖畔を通り過ぎてしばらく足を進めた頃。
唐突に、深冬が足を止めた。
彼女は目の前にそびえるものを見上げ、ゆっくりと、己の目線の高さまで視線を降ろしていく。
振り返り、彼女は告げた。
「ここ……かな」
語尾に不安の色が混じる。
全員が微かに首を傾げ、華奈に至っては思わず真顔で周囲を見渡した。
「ここ……って」
深冬が言葉で示した場所。
そこは確かに、神殿内で彼女が口にしていた“切り立った崖”には該当する。
しかし。
「崖……というか、壁?」
華奈がぽつりと言った言葉の通り、その場所は、進行方向の視界に収まる範囲全てに岩の壁が立ちはだかっていた。
いや、仰げば空が見えることから確かに崖というものの下にはいるのであろうが、崖の頂上は見えない。
大きな断層の下にいるみたいだね、と、空を仰ぎ眩しそうに目を眇めながら、環が呟いた。
「洞窟、と言っていましたね。この辺りに?」
環と同様見えない崖の頂上を眺めながら、カイリが問う。
深冬はこくりと頷くと、崖に向き直って己の正面を指差した。
「ここに」
深冬の指差した先は、崖でしかない。
全員が疑問符を頭上に浮かべるが、よく目を懲らしてみると、そこにはせいぜい指一本突っ込める程度の亀裂が入っているのが判った。
「深冬。いくらミニマムな深冬でもこの亀裂を通過するのは無理……」
思わず亀裂に指を突っ込んでみた華奈の髪を何かが掠め、ズガン、と、すぐ後ろの崖にその何かがえらい勢いで突き刺さる。
可愛らしい眼差しに殺意を宿す深冬が腰に帯びていた、ダガーだった。
彼女の素敵なコントロールで万が一顔面にでも刺さったら、無論、痛いなどというお話では済まされない。
殺意の気配が消えぬままに、深冬はにっこりと華奈に向かって微笑んだ。
華奈は言葉を失って青ざめたままゆっくりと亀裂から指を抜くと、じわじわと後ずさりして彼女の視界から外れようと無駄な努力を試みる。
抜け出すこと叶わぬ無言の圧力による地獄絵図を目にした野郎共の心の中に、深冬に「小さい」関連の単語は絶対言わないという固い意志が芽生えた。
蛇に睨まれた蛙状態の華奈は放置することにして、パルス達は亀裂の周辺の調査を始める。
触れてみても何の変哲もない岩壁でしかない。が、軽く叩いてみると、反響する音で亀裂の周辺のみ内部が空洞であるということが判った。
そして、亀裂の内部……
奥の方から微かに漏れてくる不穏な気配にも、気付く。
彼らの表情の変化に気付いた環がその視線を追うと、閉ざされた洞窟の奥の奥を見据えているようだった。
そっと、彼女は亀裂の近くの壁に触れる。
そうして、彼らが見据えるモノに気付くと共に、もうひとつの事実にも辿り着いた。
この場所は元々このような壁ではなく、奥へと続く洞窟の入り口として存在していたのだという事実に。
だが、そう……つい最近。
入り口は、誰かの手によって塞がれた。
触れた冷たい岩壁に、微かに残された魔力が伝えてくる。
塞いだのは……中に封印されているであろう、精霊自身だと。
封印される間際、残された全ての魔力を投じて。
己の力による抑制を失い暴走してしまった、不穏な気配を発するモノ達を、洞窟の中に閉じこめる為に。
ふと、彼女が隣へ視線を向けると、深冬と、多少やつれた華奈が己と同じように岩壁に触れ、同じ答えに辿り着いているようだった。
こくりと彼女達は頷き合い、岩壁から手を離す。
「さって。じゃあ、一丁ぶっ壊して潜入してみましょうかね」
ぶんぶんと、右腕を振り回しながら華奈は岩壁に拳の照準を定めるが、それはパルスに制された。
「いくらお前でも手を痛めるから止めておけ」
「僕がやりますから」
ぶっ壊す気満々だった華奈だったが、大の男2人に制されては諦めるしかない。
渋々と華奈は引き下がろうとする、が。
「みんな、下がっていてね」
穏やかだが有無を言わせぬその声で、壁を壊す為に武器を装着しているところだったカイリもその他の一同もぴたりと動きを止めた。
段々と激しくなる、大気の唸る音。
嫌な予感がして全員がゆっくりと振り返ってみると、そこには。
いつもの素敵な笑みを湛えたまま、巨大鈍器を凄まじい勢いでぶん回している環様が立っていた。
何だろう、この恐怖映像は。
一同の背中を、嫌な汗が流れていく。
ごくりと唾を飲み込んでじりじりと数歩後退し、一同が申し合わせたようにずばっとその場を離れた、その瞬間。
環様の一撃は大気を切り裂くほどの勢いで目標の壁に向かって振り下ろされていた。
ぱらぱらと降り注ぐ石片の雨と砂埃が収まると。
塞がれた部分どころかその周辺の壁にまで巨大なクレーター跡が穿たれたその場所に立っていた環は、振り返って穏やかな笑みを濃くした。
「さ、みんな、行きましょう」
「あれは暗殺者の目だった」「隕石が降った瞬間だった」などと、その時の様子を後に正気を取り戻したH.AさんやF.Mさん等が語っている。