2-2 魔法陣のつくりかた
部屋の片隅にうずくまり、やたらと疲弊し切った表情を浮かべる者がひとりいた。
彼はここ3日間、理不尽に己へと向けられる視線にひたすら耐え続けている。
視線は彼にとって、いつ終えるとも知れぬ拷問に近かった。
だがそれに負けてしまえば、恐らく元の世界へは戻れない。
ゆえに彼は強靭でもない心を必死で奮い立たせ、ひとりで戦い続けているのだったが。
現在、理不尽な視線の主は不在。
彼にとって数少ない休息の時間である。
「……戦士の休息ってやつかな……」
「茅斗先輩は戦士向きの肉体ではないと思いますが」
口から魂の抜けかけている茅斗の呟きに、びしりと突っ込みが入った。
容赦なく突っ込んだのは無論のことながら愛花である。
突然の別の世界での目覚めから3日が経つが、ここ、敵の居城の地下牢では、特に変化もなくただ時間だけが経過していた。
変わったことといえば、元々細い茅斗が更に幾らか痩せた気がすることと、暇だから娯楽をよこせーと弥鷹達が騒ぎまくった結果として本棚ひとつ分の書籍を獲得したことくらいである。
見張りは相変わらず茅斗の心労の元であるユーグベルだ。
しかし彼は常に弥鷹達を見張っているという訳ではなく、時折誰かに呼び出されてはしばしの間席を外し、その間は代わりに彼らの従属である魔物が見張りに立つ。
想像上の生きものでしかなかった異形の魔物を目の当たりにして弥鷹達は戦慄したが、流石に3日目ともなると慣れるものだ。
現在も鳥の身体に人間に似た顔を持つハーピィという魔物が数体見張りに立っているが、やたらと目付き悪いなー、などという感想くらいしか出てこない。
と言うより、茅斗としてはもはやユーグベルに見張られてさえいなければもうどうでも良くなっていた。
「それにしても茅斗先輩、あの視線によく耐えてますよね」
「あぁ、まあね……」
「でも大丈夫。見られたくらいじゃ死にませんから」
「いや、充分死にそうなんだけどな……」
人間はストレスで死ねる。
そう心の中で呟きながら、茅斗は励ましているのか何なのかよく判らない愛花の言葉に何とか応える。
愛花はそんな茅斗に哀れみを含んだ視線を向け、優しく優しく言葉を紡いだ。
「先輩、可哀想に……せめて奴がいない時くらいは、本でも読んで気晴らししてみたらどうですか?」
「本……なんてあったか?」
本という単語に、茅斗は興味を示して顔を上げる。
活字でも漫画でも本を読むことは好きな茅斗にとって、非常に魅力的な言葉だ。
「はい。先輩は奴と目を合わせないことに必死で気付いていなかったみたいですけど。娯楽をよこせー! と皆で騒いでみたら、件のユーグさんが本棚ひとつ分の書籍を支給してくれたんですよ」
ほら、と、愛花は牢屋の隅に鎮座する立派な本棚を指す。
見れば、弥鷹達も本棚の近くに座り込んで本を開いているようだし、愛花も一冊の本を抱えているようだった。
確かに本に集中していれば少しは気が晴れるかも知れないと、茅斗は思う。
むしろ本の世界にでもトリップしていないと今後この環境の中で正気を保っていられる自信が無い。
「そうか……諏訪は一体何読んでるんだ?」
茅斗がふと尋ねると、愛花は満面の笑みで抱えていた書籍を差し出した。
“淡光花の園の男と男 ~陵辱編~”
本の表紙には、第三世界の言葉でそのように書かれている。
「…………」
嫌な予感というかむしろ確信をして、茅斗はそっと書籍から目を逸らして沈黙した。
「……内容、聞きたいですか?」
「……いや、いい」
「主人公の男性は、それは見目麗しいものの普通の村人なんです。でもある日、大罪人と間違われて牢屋に入れられてしまいます」
「諏訪……」
茅斗の拒否を爽やかに無視し、愛花は本を開いてやたら生き生きとあらすじを語り始める。
「でもそれは、主人公に心奪われた保安官である牢番……あ、勿論男性ですよ? が、主人公に近付くために仕組んだことだったんです。傷心の主人公に優しい言葉を掛け必死に彼の心を掴み取ろうとする牢番。牢番の優しい言葉によって心癒されていく主人公。そうして惹かれ合ってしまった2人は、やがて淡光花の咲く場所で……」
「…………」
物語も佳境に差し掛かる頃になると、茅斗はもはや言葉を成す気力すら無くしているようであった。
というより、明らかに本の世界ではない何処かへトリップしかけている。
「おーい、愛花。それぐらいにしてやらんと茅斗先輩本当にくたばるぞー」
遠目で茅斗がいじられる様を見ていた弥鷹だが、同じ男としてちょっと気の毒に思えてきたのでちらりと助け舟を出してみる。
どうやら茅斗の反応に満足したらしい愛花はぱたりと本を閉じ、魂の9割が口からはみ出ている茅斗をひきずりながら弥鷹達の方へ戻ってきた。
「どうも済みません。茅斗先輩があまりにもいじり甲斐があるもので」
弥鷹達の元まで来た愛花は茅斗をそこら辺に放り投げ、彩瀬の隣へと腰を下ろす。
彩瀬を挟んで愛花の反対側へ腰を下ろしていたシャスタは、魂がはみ出ている茅斗を見て「仲が良いのですね」などとのたまい非常に微笑ましそうな笑みを湛えていた。
王子は王子で強者かも知れない、ということを、弥鷹はぼちぼち理解しつつある。
アク強いのばっかりかよ、と、自分のことは棚に上げて弥鷹は心の中で突っ込んだ。
「そういえば」
弥鷹がどこか遠くを見るような目付きをしていると、ぽつりと、彩瀬が呟く。
彼女はシャスタの方を見て、続きを口にした。
「今更かもしれないですけど……あのオバサン達、どうして未だにシャスタ様を牢屋に入れたままにしておくんですか?
魔法陣とか言っていたような気がしますけど、それって完成までにそんなに時間の掛かるものなの?」
確かに3日も共に過ごしておいて今更な問いではあるが、ようやく環境にも慣れ、そうした質問が出来るほどの精神的余裕が出てきたということでもあるのだろう。
環境に慣れる、とは言っても、風呂もトイレもあれば着替えも食事も出てくるという、牢屋であることと見張りがいることを除けば全くもって快適な環境ではあるのだが。
ひくり、と、微かにシャスタの眉が動き、彼はゆっくりとした動作で開いていた書籍を閉じる。
しばし逡巡してから、彼は弥鷹達に視線を巡らせた。
「結論から言うと、復活の魔法陣を描ききるのには相当の時間が掛かるでしょう。魔法陣は複雑かつ巨大なものです。描くこと自体にも時間を要しますし……
描く為の道具を集めるのにもかなりの時間が必要でしょうね」
「道具?」
「ええ。強力な効力を持つ魔法陣を描こうとする場合、膨大な魔力を持つ魔術具で描かなければなりません。本来であれば何百年も掛けて魔力を練り込んだインクなどを使って描くのです」
「何百年!?」
愛花が思わず声を上げる。
気の遠くなるような話だ。
「でも、本来ならってことは、あいつらは別な方法で描こうとしてるってことなんだろ?」
なかなか鋭い弥鷹の言葉に、シャスタは頷いた。
「ヴィレイスと共に封じられた筈のあの者達が封印の綻びから復活を果たしたのが、ほんの二百日ほど前です。あ の者達は主の早期復活を望んでいる。
ならば、取れる手段は二つです。ひとつは、全ての精霊の協力を得て、必要な魔術具を精製して貰うこと」
「でもそんなこと、精霊さんが許す筈ないですよね?」
こくりと、彩瀬の言葉に頷いてから、シャスタは続きを口にする。
「三つの世界を己のものにせんとする者の復活など、精霊が許す筈がありません。あの者達も期待はしていなかったでしょうが、協力が得られないことを知ると精霊を封じ、最後の手段を取ることにしたようです。
或いは……初めから、そのつもりでいたのかも知れませんが」
「その最後の手段ってのは?」
「既存するもので一番確実な魔術具を、あの者達は集めているのです。
……精霊の加護を受ける者達の、血を」
弥鷹達は一瞬、言葉を失った。
血を集める、とは、一体。
「……血って」
「言葉通りの意味です。あの者達は第三世界で、精霊の加護を高く受ける者達を攫い、その血を使って、魔法陣を描いているのです」
ざわり、と。
嫌悪感がせり上がってくる。
「ですが、幾ら高い加護を受けるとはいえども、一人分の血で描ける量などたかが知れています。その所為で完成までには相当の時間が……」
「待って。血を使うって……まさか、殺されちゃうの!?」
青ざめた顔を歪め、彩瀬が言葉を荒げた。
シャスタは頷きはしないものの、辛そうに眉根を寄せ、俯いてしまう。
「……いいえ。攫われた者達は殺されることはありません。魔法陣を描くのに使用した血の持ち主の生命が絶えれば、折角描いた魔法陣の効力が失われてしまうからです」
「じゃあ……」
「ですが」
今度はシャスタが、彩瀬の言葉を遮った。
その表情は、先程よりも殊更辛そうなものになっている。
「魔法陣の発動というのは、発動させる為の代価として相応の魔力を捧げるということ。魔法陣に捧げられた血の持ち主の命は、魔法陣の発動と同時に失われるでしょう。
発動の最後の鍵である、私の命と、共に」
ざわり、ざわり。
嫌悪感を通り越して、弥鷹達の中に怒りが湧き上がってきた。
比較的平和な世界で暮らしてきたゆえ、話を聞いただけでは現実のものとして受け止めきることが出来ていないのかも知れないが。
現実になったとすれば、それがどの世界でも許され得ることでは無いということは、理解出来る。
「って、ちょっと待て。ナントカが復活したらお前も死ぬのか」
ようやく顔を上げたシャスタは、こくりと首を縦に振った。
そんな、と、彩瀬は泣き出しそうな顔をする。
「……ですが、私の命などどうでも良いのです。それより」
「どうでも良くはないでしょう」
シャスタの言葉に、愛花がぴしゃりと突っ込んだ。
少しだけ目を見開いて、シャスタは愛花を見る。
「あなたの命をどうでも良いなんて言ったら、あなたを助けようとしている人達に失礼です」
話を聞いたことによる怒りの所為もあるのだろうが、愛花は厳しい表情でシャスタを見据えていた。
それでもシャスタは少し嬉しくて、目元を綻ばせる。
「そうですね、済みませんでした。ですが、まず私のことより、私と貴方がたの友人達の心配をしなくては」
「あ……」
「その者が持つ加護の力の大小により、魔法陣を描くことの出来る量が左右される。そして、彼らの持つ加護の力は強力なものです。第三世界の者達など、比べものにならない程に」
つまりは、もしヴィレイスの部下達にその存在が割れれば、最も狙われるのは。
「特に、魔の精霊の加護を強く受ける存在は数少ないと聞きます。あの者達にとって、何としても手に入れたい存在でしょうね」
急激に、不安が増した。
シャスタが話してくれた友人達の持つ加護は、火、風、地、であったと記憶している。
ならば魔の加護を持つ者は、第一世界の3人の中にいるということではないのか。
「私の友人達が付いているので、そのようなことにはならないと信じていますが。それより……」
言いながら、シャスタは友人の安否を懸念している弥鷹を見る。
だがそれは一瞬で、直後、通路の方から聞こえてきた足音の方をシャスタは睨み付けた。
ハーピィ達も一斉にそちらを見たことから、恐らくユーグベルが帰ってきたのであろうことが判る。
弥鷹達は特に慌てる様子もなく話を打ち切り、手にしていた書籍を読む態勢に入った。
ユーグベルが姿を現すと、ハーピィ達は彼の指示により彼の来た方向へと消えていく。
彼はそのまま通路の最奥に設置された椅子に座り、牢屋の中に一瞥のみをくれていつものように剣の手入れをし始めた。
ユーグベルを睨み付けていた視線を外し、シャスタはもう一度弥鷹を見る。
それから手元の書籍に視線を落として、心の中で、強く願った。
どうかあの者が、この場所へ足を踏み入れぬようにと。