最終話
○登場人物
稲田景勝・いなだかげかつ(現代文担当、1組担任、35歳、冷静だが心の中は熱い)
福山蓮子・ふくやまれんこ(数学担当、1・2組副担任、24歳、損得勘定で物事を考える)
武中健吾・たけなかけんご(生物地学担当、2組担任、35歳、沈着で大人な人間)
森繁八重子・もりしげやえこ(日本史担当、44歳、3組担任、学年主任で頼りがいがある)
四島嘉津男・よしまかつお(古文担当、45歳、4組担任、生徒と同年代の娘がいる)
井之脇壇・いのわきだん(世界史担当、27歳、3・4組副担任、四島の弟分的存在)
北澄昌明・きたずみまさあき(体育担当、48歳、5組担任、独身でまだ好機を窺っている)
田蔵麻綾・たくらまあや(英語担当、22歳、5・6組副担任、新人ながらしっかりしてる)
鶴賀あかり・つるがあかり(物理化学担当、6組担任、29歳、結婚に対して執着がある)
渥美衣代・あつみいよ(帰宅部、遅刻・早退・欠席の常習)
安東菊恵・あんどうきくえ(バレー部、セッターで気が強い)
一場太志・いちばたいし(サッカー部、運動も勉強も学年トップクラス)
伊東紗和・いとうさわ(学級委員長、クラスをまとめるしっかり者で信頼もある)
岩瀬浩二・いわせこうじ(陸上部、駅伝メンバーで自分を強く持っている)
梶田希・かじたのぞみ(美術部、デザインに興味があって進路に悩んでいる)
北橋泰子・きたはしやすこ(バスケ部、万年補欠でセンスがない)
小林洋・こばやしよう(サッカー部・エースの座を一場と競う)
佐土原宏之・さどはらひろゆき(野球部、エース候補だが我が強い)
塩崎拓也・しおざきたくや(帰宅部、野方文和の親友で良き理解者)
篠永梢・しのながこずえ(手芸部、ロリータファッションをこよなく愛する)
高品悟・たかしなさとる(水泳部、自由形を専門にしている)
長岡純平・ながおかじゅんぺい(柔道部、体格はいいが気は弱い)
沼本香苗・ぬまもとかなえ(放送部、ラジオDJを夢見る)
野方文和・のがたふみかず(帰宅部、生まれつき体が弱く欠席も多い)
野口七海・のぐちななみ(合唱部、ピアノ担当でしっかり者)
蓮井新・はすいしん(帰宅部、松田佳彦とつるんでる不良)
林愛莉・はやしあいり(テニス部、ミスコンにも選ばれる美少女)
原本力・はらもとつとむ(野球部、捕手で体格も腕もいい)
藤井初音・ふじいはつね(合唱部、ソプラノ担当でマイペース)
古橋健太・ふるはしけんた(バスケ部、センターガードでスタメンをはる)
益子エミリ・ますこえみり(バスケ部、清楚でスレンダーなギャル系)
松田佳彦・まつだよしひこ(帰宅部、不良で世の中に執着が薄い)
松浦ひばり・まつうらひばり(バレー部、長身アタッカーだが気が弱い)
三池繁・みいけしげる(副学級委員長、草食系で優しいアイドル好き)
水橋範子・みずはしのりこ(漫画愛好会、少女マンガ大好きで自作してる)
宮里辰則・みやざとたつのり(学年一の秀才、何事もやってのける逸材)
桃田未絵・ももたみえ(帰宅部、転校生で心を開かない)
山口裕也・やまぐちゆうや(帰宅部、単位ギリギリで危ない)
吉澤麗子・よしざわれいこ(陸上部、駅伝メンバーで仲間意識が強い)
福山蓮子、3年1・2組副担任。
2月も下旬に入り、数ヶ月に渡った受験戦争もようやく下降線となってきました。1
組は伊東さんを始め、渥美さん、長岡くん、三池くん、山口くん、の残っていた5人も
合格を勝ち取り、無事にクラスの全員が進路を決めることが出来ました。第一志望には
行けませんでしたが、それぞれ肩の荷が下りて楽になれたことで一安心といったようで
した。それはこちらも同じで、皆の朗報を待つ歯痒い日々が終わったことで気は晴れま
した。
しかし、それはほんの一時のことでした。晴らせた気の何倍もの勢いで奈落の底まで
突き落とされました。稲田先生から「大事な話があります」と言われた時は、稲田先生
に何か起こったんだろうか、私が何かしてしまったんだろうかと考えましたが、実体は
私の考えなんか遥かに超えてしまうほどの現実でした。現実とは思えないぐらいの現実
でした。
会議室の窓は普段は適度に開いているため、この季節はすきま風も入ってきて中々に
冷えています。扉を閉め、窓も閉め、適当な席に座ると、稲田先生は手にしていた紙袋
から袋を取り出し、こちらに差し出してきます。
「見てみてください」
袋はなんてことない普通のコンビニの袋。これが何なんだろう。そう思いながら袋を
開けて中を見てみると、注射器と小さめの包みがいくつか入っていた。最初は意味を理
解できなかった。それが何を指しているのかが全く分からなかった。私の中では現実味
のないものとしていたから。よくよく考えていくと、少しずつ意味が頭の中に滲み出さ
れていく。それでも、まだ完全とはならない。多分、理解することを理性が拒んでるん
だろう。
「これって・・・・・・」
自分の中では答えを出せず、顔を上げて稲田先生に訊いた。
「おそらく、クスリです」
何とも表現しにくい面持ちで稲田先生は発した。その言葉の重みに、体の中に張られ
ている無数の線の一つが切れた気がした。クスリって、あのクスリ。覚せい剤やら大麻
やら、絶対に危険とされているあのクスリ。どうして、それがここにあるっていうの。
まさか・・・・・・そんなはずない。
「伊東がこれを俺のところに持ってきました」
伊東さんが。
「ある生徒がこれを捨てるところを見た、と言いました」
その言葉に、一つ救われ、一つ落ちる。伊東さんがっていう事じゃないにしても、生
徒の物である事が分かってしまった。そして、伊東さんが稲田先生に渡して、私をここ
に連れてきたっていうことで、自然と可能性が絞られていく。どう考えても最悪な状況
しか浮かんでこない。
「それは・・・・・・誰ですか」
どうにも定まらない心境のままで聞いた。どう足掻いても、心を落ち着けて聞くこと
なんて出来ないのは分かったから。どんな名前が返ってこようと、どうなるのかは分か
ったから。
「桃田です」
その言葉は、予想通りに私の心をグッと締めた。血の気が引いた。当然、理解なんて
出来なかった。
「桃田さんがこれを」
「分かりません。ただ、伊東の言葉からすると桃田がこれを持っていたのは確かなは
ずです」
声が薄くなっていた。ショックのせいかは分からないけれど、少なくとも正常ではい
られなかった。泣きそうだった。涙目にはなっていた。稲田先生は気丈に自身を保って
いる。
「これを使ってるかもしれない、ってことですか」
「はい」
有りえないような現実を突きつけられた。信じられないし、信じたくない現実。偽り
であってほしいけど、真実かもしれない現実。目を背けたいけど、そうしてはいけない
現実。
「どうするつもりですか」
「とにかく、本人に話をします。まずはそれをしないと始まらない」
それはそうだけど・・・・・・それは開けていい扉なんだろうか。問題を解決へ導く
過程として通るべき道だとしても、それで生まれる幸せと不幸はどれだけの対比になる
んだろう。
「もし・・・・・・本人が認めたら」
「それはその時に考えます」
こんな事を考えたくなんてないけど、状況からしたら可能性はある。信じたいけど、
それは都合のいい考えのように思えてしまう。もう、何をどうしたらいいのかも分から
ないぐらいに頭がパンパンになっている。
「学校側には言ってないんですか」
「はい。とりあえず、本人と一度話をしてみたいんです。事が大きいから、きちんと
整理をしたい」
稲田先生の意見には同感だった。あまりに事が大きすぎる。学校側に丸投げするんじ
ゃなく、その前に自分自身の耳で桃田さんの口から真実を聞きたい。そうでないと、理
解も出来そうにない。
桃田未絵、出席番号28番。
そこは暗闇だった。長く広く果てしない黒。私がここにいることは間違いなくても、
それ以外には何もない。何かはあるのかもしれないけど、それは全く見えない。ここは
どこまでも続いてる空間かもしれないし、すぐそこに壁のある密室かもしれない。それ
を確かめようにも、一歩を踏み出す術がない。この一歩先に地面があるのかどうかさえ
分からないんだから。もし少しでも動こうもんなら、一気に見えない底にまで転落して
いくかもしれない。言いようのない不安に苛まれ、私はただ孤独にそこにいることしか
出来なかった。
目が開くと、見慣れた色合いが入ってくる。横を向くと、見慣れた家具や物が並んで
いる。自分の体を眺め、私が私として存在していることに気づく。一時の安心に包まれ
ていく。そして、すぐに息をつく。もう、こんな夢を何度と見てきただろう。何の意味
も為さない、無の幻想。私を苦しむだけ苦しめて、現実へと押し出す。夢ですら、私を
幸福にさせてはくれない。でも、それでいい。夢でいくら幸せを得たところで、現実に
戻れば同じだけの空虚感を味わうんだから。知ってるんだよ、神様なんてこの世にいや
しない。
携帯を手に取る。9時3分。時間だけを確認して、適当に携帯は転がす。メールや着
信を気にすることはない。メールなんてしないし、着信もある方が珍しい。あっても、
親からだ。今日は夫婦でデートに行くから適当に夕食を摂ってくれ、ってぐらい。嘘は
とっくに分かってる。軽そうな文章にしてるけど、要はホテルに行く口実ってことでし
かない。
「あぁ、おはよう」
「おはよう」
起きて部屋から出ると、母親も同じように自分の部屋から出て来た。外出用のケバい
格好をしている。よく分かんないけど、バブルってやつの影響が未だに抜けきれてない
らしい。とてもじゃないけれど、血の繋がった家族として横を歩きたくはない。当時は
それなりにモテたみたいで、その栄光に縋るようにして続けてる姿に目を瞑りたくなっ
てしまう。
「私、出掛けてくるわ」
「どこ行くの」
「その辺、プラプラ」
どうせ、パチンコだろ。なら、そう言えよ。もうバレてるし、バレてもいい嘘をどう
してわざわざ言うんだ。あんたがどんな人間かぐらい、とっくに分かってるんだから。
休日に娘を家に置いて、一人で朝から夜までパチンコする堕落した女。当たったら景品
を抱えて上機嫌で帰ってきて、外したらその苛々を抱えて帰ってきて家の中でぶつける
最低な母親だ。
母親が出て行くと、家の中は静まった空気になった。一応、奥の部屋を確認する。父
親はいなかった。多分、競馬だろう。母親に劣ることなく、朝から夕方まで賭けに入り
浸りする人間だ。自分が働いた金をどう使おうが本人の勝手だけど、低すぎる勝率から
すると無駄遣いにしか見えない。「スリルや緊張感を金で買ってる」とあの人は言って
いた。可哀相に映った。
何もすることがなく、無理やりに立てる予定すらなかったから家にいた。ただ、時が
流れていくことに自らを乗せていく。思うがまま、気の赴くままに部屋で過ごす。特に
といって何もしない。テレビは見ない、くだらない。ゲームもしない、つまらない。音
楽も聴かない、心が動かない。新聞も読まない、嘘の固まりに思える。ただただ、時に
流されていくだけ。
昼過ぎに幻覚が起こった。得体の知れない、姿の察知できないものに襲われる。顔の
白い集団に罵声を浴びせられ、無数の汚い言葉に傷つけられ、自己崩壊していく。呼吸
が荒くなり、身を縮めて、耳を塞ぐ。それでも、それは体内で終わりなく続いていく。
ここから抜け出したい。その一心で隠しておいた摂取機を取り出し、快楽を体内に取り
込んでいく。全身の毛が立つような衝動、空を飛ぶようなこの上ない高揚、定まらなか
った心内も満たされ、最高潮まで気分は振り上がった。何があろうと、この安息に勝れ
やしない。
気分が良くなり、着替えて外へ出掛けた。何をしよう。やっぱり、買物かな。この前
も洋服買ったばっかだけど、まぁいいか。金ならあるし。目的を決めると、バッグから
小さめの振動が伝わってきた。携帯を取り出して手にすると、登録のない番号からの着
信だった。
稲田景勝、3年1組担任。
冬の休日の会議室に一人、暖房は入れているけど違った居心地の悪さを感じている。
自分がどうすればいいのか、全く回答に行き着けなかった。喉から手が出るほど欲しか
った正解は遠くにあり、様々な資料をもとに傾向と対策を自分なりに築くことで精一杯
だった。
まもなく、ここに桃田が来る。おそらく、向こうはどうして呼ばれたのかは分かって
いないだろう。一体、どんな反応を見せるんだろうか。もしかすると、気が振れて暴れ
だすようなことも有り得るかもしれない。彼女とはそこまで突っ込んだ話をしたことが
ないため、今一つそこを想像しきれない。もはや、成るように任せて祈るしかない状況
だった。
休日を選んだのは学校にいる人が少ないから。受験も終わり、1年生と2年生も学年
末試験を控えているので、部活に来ている人数もほどほどだった。学校を選んだのは他
に適した場所を見つけられなかったから。ここも出来るなら避けたくはあったが、外で
聞く話ではないし、家というのも立場上で難しい。考えた結果、ここがいいのだろうと
決めた。
福山先生にはあらかじめ同席しないように伝えた。桃田をあまり追い詰めないよう、
1対1での話をこちらから希望した。副担任といえど、生徒を思う気持ちに変わりはな
いし、現にこの1年で福山先生の教師としての心持ちは結構に変化しているように感じ
られる。桃田の話をした時に溜めていた涙がその証拠といえよう。残忍な決断かもしれ
ないが、事が事だけに慎重を要する。納得はしきれないと思うが、こちらの心内も察し
てくれた。
桃田未絵という生徒についての担任としての印象は一辺倒なものに近い。とても均整
のとれた外見と掴みどころのない内に込めた内面。他の教師や生徒が抱いているものと
大きな差はない。自ら閉ざしている心を無理にこじ開けるのは違うし、なにより彼女と
はこうして向かい合う時が来る気がしていた。まさか、こんな事態で迎えるとは思いも
しなかったが。
その時、会議室の扉をノックする音が聞こえてくる。「どうぞ」と言うと、扉は静か
に開かれ、桃田が入室してきた。普段着の姿を初めて目にするが、オシャレな今時の子
という印象を受ける。それが余計に、彼女への疑惑を真実とすることを難易とさせられ
てしまう。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう。悪いな、わざわざ呼んで」
「いえ」
心なしか、桃田の表情は晴れているように見れた。学校で見る彼女の表情は常に陰の
ある、他を遠ざけるようなものなのに。群れることを好まず、他と接することを選ばな
いよう。
「どうだ。受験が終わってからは」
座るようにパイプ椅子を指したが、柔に首を振られる。
「特に何も」
軽く交わされる。洋服は爽やかで表情も晴れているが、本人はあくまでいつものまま
だった。相変わらずに掴めない。
「実は、どうしてもお前に聞きたいことがある」
例のコンビニの袋を取り出し、桃田の前へ差し出す。
「これに見覚えはないか」
袋を目にした桃田には明らかに反応が見られた。表情に変化はなかったが、変わって
ないと言うよりも固まっているようになっている。流れている空気は張り詰め、そこに
動揺を感じ取れた。
「どうだ、桃田」
返答を促すと、言葉はなしに桃田の顔がこちらに向く。さっきまでの余裕は消え、視
線は強めになっていた。ただ、睨むようなものではなく、通常の陰のある彼女に戻った
感覚を受ける。
「どうして・・・・・・」
視線は保たれたまま、零すように言った。その言葉が、信じたくなかった疑惑を真実
に近いものとした。
「ある生徒が俺のところにこれを届けに来てくれた。お前がこれを捨てるところを見
たそうだ。告げ口とかじゃなく、自分で対処が出来る度合いのものじゃないからって事
で来た」
桃田の姿勢は変わらないまま、空気はより詰まったものになっていく。今、彼女の中
ではどんな思いが交錯してるのだろうか。攻撃感、守備感、敗北感、崩壊感、破壊感、
どれだ。
「桃田、これはお前が捨てたものか」
視線は外さなかった。桃田からの視線を反らすことはしなかった。それは彼女の抱え
ている問題から逃げるようでもあり、そこに全面をもってぶつかることを選ぶと決めて
いた。
「はい」
その言葉は疑惑を真実とした。とんでもない事態が現実として突きつけられた。一度
だけ目を閉じ、すぐに開く。閉じたままではいられない。救ってやらないとならない。
一番苦しいのは目の前にいる桃田だ。俺に圧し掛かったものなんて、そのほんの一部に
すぎないはずだ。
息をつく。気を落ち着けることは出来やしないが、一時の間が欲しかった。会議室の
中は窮屈なほど張り詰めたものがあり、この部屋の外にあるものはどこか異空間のよう
にも思えた。
「この中身が何か、聞いていいか」
話を続けていく。言葉は重くなっていたが、棘を刺すようにはならないようにする。
桃田を必要以上に押し込めてしまわないために、強い姿勢や突く言葉は避けるよう心掛
ける。
「クスリです」
「どういうクスリだ」
「覚せい剤です」
真実は事前に予想をしていた中の最悪なものとなった。桃田は諦めたように、言葉を
はっきりと喋っている。それが、より彼女の真意を掴めなくさせていく。悪びれた様子
はなく、かといって開き直っているわけでもない。感情そのものをそこに移入してない
ように見える。
少し間が空いた。どう事態を進めていくのかを考えた。今までありとあらゆるシミュ
レーションを頭に描いてきたつもりだったが、そのどれもが現実に勝るものではなく、
そこに嵌まらない気がした。
「どうしてだ」
結果、行き着いたのは単純なところだった。
「どうして、そんなものに手を出したんだ」
「そうしなきゃならなかったからです」
「どういう意味だ」
「言えません」
言葉を積んでいくごとに体の底の方から熱が帯びてくるのが分かった。平生を保とう
とするが、表面的には見て取れる変化があったかもしれない。桃田の方が余程に冷静に
感じられてくる。
「どうして、言えないんだ」
「言いたくないからです」
気持ち、これまでの単調な語調を強くさせた言葉が投げられた。こちらのこれ以上の
侵入を遮断させるようなキッパリとした口調だった。確かに、これ以降は無理強いでも
しなければ進行はさせにくい。下手にドロドロとした展開になるより、そうさせた方が
キリはいいのだろう。
「何を聞かれても言うつもりはありません。言いつけるなら、そうしてもらって構い
ません」
初めて桃田の方からの言葉が来た。こちらの心情を察しているように、終わりを位置
づける言葉だった。俺から無理やりに白状させることはしないし、そんなことに桃田は
折れそうにない。
「帰ってもいいですか」
突きつけるような強気な言葉が来る。返答はしない。この状況において、「帰っても
いい」なんて言いやしない。でも、引き止める言葉も出ない。引き止めても、おそらく
何も生まれない。
「帰ります」
そう言い残し、桃田は会議室を出て行く。扉が開き、外からの冷たい空気が入り、呪
縛から解き放たれたような脱力感に苛まれる。込み上げてきたのは自らの無力さだった。
大問題を抱えている生徒が目の前にいたのに、何も具体的な事を提示できなかった。疑
惑が現実となった動揺もあったが、厄介なのは桃田がそれを受け入れている事実だった。
すぐに助けを求めてくれれば動きやすかったのに、さらにもう一枚の壁を張られてしま
った。
福山蓮子、3年1・2組副担任。
会議室の空気は重かった。ピンと張り詰めた中で、稲田先生は頭を抱えて何度と息を
大きくついていく。稲田先生のそんな姿は見たことがなかったし、完璧に近い教師だと
思っていたから脆い姿を目にするのは辛いものがあった。私なんかが掛ける言葉は無い
に等しい。
昨日、この部屋で稲田先生と桃田さんが交わした会話を聞いた。事態は最悪だった。
現実に起こってることなのかと疑いたくなるほど、逸脱した内容に思考回路がうまくは
着いてってくれない。桃田さんが薬物に手を染めている。そんなこと言われたって、現
実離れしすぎててよく分からない。言葉は分かっても理解できない。でも、間違いなく
それは現実に起こっている事だった。桃田さんは自らそう言い、稲田先生はそれに頭を
悩ませている。
稲田先生は問題の解決はかなり難しいと言った。解決させるには強引な方法でもって
桃田さんを縛りつけるしかなく、そんなことをしても目先の問題の解決にしかならなか
った。もちろん、事が事だけにそれは大事な事だ。ただ、それをしても桃田さんの心は
余計に閉じてしまう結果になる。出来るのなら、問題の解決とともに彼女の心も開いて
あげたい。その方法を考えに考え、壁に当たる連続。私たちは彼女の心を開けるほどの
力を持っていなかった。こうなるなら、もっと日頃から親しくなれるよう全力を尽くす
べきだった。当然、こんな事態になるなんて思っていなかったわけだし、それはあとの
祭りでしかない。
それでも、目の前で稲田先生が苦しんでいる。こういう時、力を貸してあげられるの
が副担任っていうものじゃないのか。今まで、稲田先生に数えきれない問題を解決して
もらったのに、私は何もしてあげられない。無力さの痛感の極み。こんなんで、何が副
担任だ。
考えろ、考えろ。何も出なくても振り絞れ。これまで、稲田先生に何を教わってきた
んだ。ここで生かさなくて、いつ生かすんだ。私が教わったもの・・・・・・その人を
救ってあげられるのは必ずしも自分じゃない。ただ、自分以外にその人を救ってあげら
れる人はいる。なら、それをするのが自分じゃなかったとしても、そうしてあげること
が出来る。
「その人」が桃田さんとするなら、「自分」が私や稲田先生とするなら、「自分以外
に救ってあげられる人」に結びつけられるかもしれない・・・・・・そうだ、彼女なら
きっと。
「先生、伊東さんに協力してもらえないでしょうか」
知恵を振り絞った上での提言。3年1組において、一番桃田さんに近いところにいた
のは伊東さんだ。
「それは正直、あまり好ましくない方法です」
「どうしてですか」
「確かに、伊東は我々よりも桃田に近い存在です。ただ、生徒をこんな大きい問題へ
巻き込みたくはありません」
尤もな言葉を言われてしまった。でも、それって違う。
「先生の言ってることは正論です。でも、ただの正論です。今はそんなこと言ってる
場合じゃないと思います。そんなんじゃなく、目の前で困ってる生徒を助けたいってだ
けじゃダメですか」
気持ちが高ぶって、強めな言葉になっていた。そりゃ、私だって生徒を危ない場所へ
引き込みたくはない。でも、生徒がどうとか関係なく、私は桃田さんを救いたい。それ
が私よりも出来る人がいるなら、そこに縋りたい。これが教師失格なら、それでも構わ
ない。
「伊東はおそらく、頼めば協力してくれると思います。それを理解した上で頼むこと
になります」
「はい」
稲田先生の瞳はしっかりとした力のあるものになっていた。覚悟を決めた目、それだ
った。
「分かりました。やってみましょう」
伊東紗和、出席番号4番。
桃田さんの家へ行くまでの道中、心臓の鳴る音がキチンと把握できるほどの緊張が脈
を打って伝わってきた。鼓動は激しく襲い掛かってきて、それをどう静めさせるかの連
続をただしていく。決意はしてきたのに、体は素直に目の前に着実に迫ってくる事態に
反応していた。
稲田先生から電話が来たのは昨日のことだった。桃田さんの件について、真実を伝え
られた。あまりにも衝撃的すぎて、何も言葉が出なかった。うまく頭が回らなかった。
あのコンビニの袋の中を見た時にそれを考えなかったと言ったら嘘だけど、まさか現実
として突きつけられるなんて思えなかった。言葉として浮かんでも、それを桃田さんと
結びつけるなんて無理に決まってる。だって、あの桃田さんがそんなことしてるなんて
思えるわけない。この1年足らずの間だけど他の人達よりも近い位置で接してきたし、
この前の事でもう一つ近づけた感覚があった。少なくとも、私が接してきた桃田さんは
クスリなんてものに重ねられない。強くて、弱くて、ほんの少しの温かさを持っている
子だ。
それでも、私がどう思おうとも現実は違う。そんなことするはずの子じゃないのに、
それをしている。なら、そこにはきっと理由がある。どうしても逃れられなかった理由
が絶対にある。私がそれを聞いてあげて、彼女を闇の中から助けだしてあげないといけ
ない。
桃田さんを救い出すことに力を貸して欲しい、という稲田先生からの要望を受けた。
考えはしたし、迷いもしたけど、多くの時間は掛からなかった。「やります」と決意を
込めて言った。
桃田さんの家で話をすることになったのは彼女のからの発信だった。「話がしたい」
と稲田先生が電話をすると、初めは「何を言われても変わりませんけど」と払われたら
しく、それでも食い下がると仕方なくといった様子で承諾してくれたらしい。あまり外
ではしにくい話でもあるため、平日の昼間は両親が仕事でいないから家に来て欲しいと
言われたそうだ。
最寄り駅で稲田先生と福山先生と待ち合わせると、特に会話もなく歩を進めていく。
事前に話し合っておくこともあったのかもしれないけれど、心持ちはどうにも暗くしか
なってくれなかった。
15分ほどで目的地に到着する。桃田さんの家は、どこにでもある普通のマンション
の一室だった。時間から目にするのは主婦の姿がほとんどで、聞いていた通りに403
号室に桃田という表札があり、幾分か年季のある玄関扉の前へ立つと緊張はまた一つ上
乗せされた。
「いいか」
そう稲田先生に聞かれ、頭を垂らす。この緊張は時間で消えるものじゃない。だから、
抱えたうえで行かないとならない。私は私に出来ることをやるんだ。ただそれだけに全
力を費やせばいい。
稲田先生がインターホンを押すと、20秒ほどで玄関扉が開き、そこから桃田さんが
姿を見せた。「入ってください」と言われ、家の中へおじゃまさせてもらう。家の中は、
何というか変な雰囲気が漂ってるように感じられた。実際に五感で悟れる何かがあるわ
けじゃなく、そこにある空気感でそう察した。明らかに、私の家とは違うものがこの家
にはある。
「ここに親御さんと住んでるのか」
「はい」
稲田先生がそう聞いた理由はすぐに分かった。家の間取りは2K、桃田さんは両親と
ここで暮らしている。3人で生活するにしては不便に思えてくるぐらい、小さく感じら
れた。
「狭くはないのか」
「いえ、住んでるだけだし。自分の部屋もあるから」
桃田さんの言葉と同じように、この家には生活感があまりなかった。リビングもダイ
ニングもないせいか、家庭の温かみみたいなものが見えてこない。辺りに目を遣ると、
家族共有の物が少なく、まるで他人同士の共同生活のように思えた。桃田さんの部屋が
あるってことは、もう一つの部屋は両親のもの。部屋でもってお互いの生活を区切り、
それぞれがそれぞれに生活してるようだった。
「食事はちゃんと摂ってるの」
思いきって聞いてみた。部屋を見渡した時に、キッチンの壁に折り畳み式の簡易テー
ブルがあったのが気に掛かったから。いつも、あれを広げて食事をしてるんだろうか。
家族分の料理を置けるような大きさには見えない。もしかして、一人で食べてるんだろ
うか。
「食べてるけど」
「お母さんが作ってくれてるの」
「たまにあるけど、作ってなければ近所の弁当屋さんで買ってくればいいから」
返ってきた言葉は痛みのあるものだった。自然とその姿を想像していく。桃田さんが
自分で買ったお弁当をあのテーブルで一人で食べている姿。食べてるのは自分の部屋か
このキッチンだろう。どっちにしたって、淋しすぎる。家族で住んでる利点がどんどん
捨てられている。
なんとなく、桃田さんを形成してる片鱗を掴めた気がした。学校で独りきりでいる事
に何の感情も持っていなさそうに見える、私には不思議でしかない感覚はここで作られ
ているんだ。
「でっ、話は何ですか」
これ以上は介入されたくないように、桃田さんは言った。それに稲田先生は反応して、
福山先生と私も続くように気を引き締め直す。狭い部屋の中にいることで、圧力に覆わ
れていく。
「話はこの前の続きだ」
稲田先生の言葉に、桃田さんは息をつく。
「あれ以上に言うつもりはありませんけど」
「そんなわけにはいかない。お前は俺達に隠してることがまだまだあるはずだ。言い
たくないのは当然だろうが、もう黙っておけるものじゃない。全てを正直に話してくれ
ないか」
桃田さんは下を向いたまま、何も喋らない。稲田先生とも、福山先生とも、私とも視
線を合わせずにこの時間が過ぎるのを待っている。
「じゃあ、言い方を変える。どうして、俺達には話してくれないんだ」
その言葉に、桃田さんは顔を上げて稲田先生を見た。
「言ってもどうにもならないからです」
「どうして、そう決めるんだ」
「私が本当の事を言えば、とんでもないことになります。私に手を貸したりしたら、
3人とも今まで通りにはいられなくなりますよ。いろんなものを失くしますよ。それが
出来ますか。私を最後まで絶対に見放さないんですか。言っときますけど、その場だけ
の感情で動いたら確実に後悔しますよ。人間なんて、所詮は自分本位の生き物でしょ。
他人のために人生どうにかなっていいなんて嘘に決まってる。そんな暑苦しい感情論に
私は騙されない」
威圧するように鋭い目をして、桃田さんは荒れた声を吐いた。その目も声も、今まで
一度も目にしたことのない姿だった。勢いに押されて、止まったように何も返せない。
ただ、同時に生まれてきたものがあった。桃田さんには、きっと私なんかには想像でき
ないぐらいの傷がある。覚せい剤で蝕まれていく身体とは別に、もっと心の奥底に繋が
ってるものが。
私は一歩を踏み出していた。怖い。前に進むことは怖い。もう、引き返せなくなるか
もしれない。でも、それ以上に強く込み上げてくるものがあった。彼女を救ってあげな
いといけない。全てを諦めてしまってる彼女を助けてあげたい。希望の欠片を持たせて
あげたい。
擦るような足取りで一歩ずつ近づくと、桃田さんの強い視線に目を合わせる。それに
怯まないようにするんじゃなく、それとは違う優しさを込めた視線で見て、彼女の左腕
をそっと持った。
「捲るよ」
視線と同じように、言葉も小さめの角のないようにする。桃田さんと同じ高さに行く
んじゃなく、反対のところへ行く。同じものでぶつかるんじゃなく、逆のもので衝突に
させない。
桃田さんは何も言わずに私を見ている。強く言い返してはこない。自分の領域にある
もので来られるなら負けなくても、ないもので来られて戸惑い、為されるがままにする
しかない。
桃田さんの黒の長袖の部屋着の左腕の袖をゆっくり捲っていく。一つ、一つ、次々に
痛ましい注射痕が見えてくる。ただ、目を背けちゃいけない。私はこの傷痕に向き合わ
ないとならない。桃田さんが水泳を止めた事も、体育の授業に出ない事も、夏でも冬服
を着ていた事も、誰とも交わろうとしない事も、全てがこの現実によって起こってた事
だから。
「どうして」
掠れるような言葉が零れると、涙も頬を伝っていった。
「どうして、辛いこと言ってくれなかったの。ちょっとでも分かり合えてたら、違っ
てたかもしれないのに」
「綺麗事なんか言わないでよ。話したって、今と変わらない。私は独りきりのままに
なるだけ」
桃田さんは怯むことなく、強い視線と言葉を続けてくる。こんな事になっても、まだ
交わろうとしてくれない。彼女のせいじゃない。そこまでさせてしまったのは、彼女に
手を差し伸べてあげなかった全員だ。その中に、もちろん私もいる。私の責任でもある
んだ。
「そんなことない。私たち、同じ1組の仲間でしょ」
「私はあなたを仲間なんて思ったことない」
桃田さんの言葉に、衝動的に体が動いた。「そんなこと言わないで」って言葉よりも
前に、右手で桃田さんの頬を打っていた。自分で自分の行動に驚いたぐらい、反射的に
手を振りぬいていた。
左の頬を痛そうに手で押さえた桃田さんに睨まれ、咄嗟に視線を外す。
「何すんの」
その言葉に、怖くて何も返せなかった。桃田さんにもそうだけど、突発的にとはいえ
仲間に手を出してしまった自分自身にも怖さを感じた。震えそうになった右手を左手で
押さえても、心は縮まっていく。そんな私の異変を察して、福山先生が寄ってきて柔に
両手で包んでくれた。無尽に交差していく感情にやられそうになっていたものが緩み、
再び涙が流れた。
「違うの」
違う、私がしたかったのはこんなことじゃない。私が言いたかったのはこんなことじ
ゃない。私が桃田さんに伝えたかったことはもっとずっと真っすぐで単純なことのはず
だから。
「私は・・・・・・ただ、桃田さんを助けたいだけなの。桃田さんが今どうしようも
なく辛いんだったら、そこから救ってあげたいの」
そう、私を救ってくれた桃田さんを救いたい。ただ、それだけ。
「それじゃあ、ダメかな」
桃田さんと視線を合わせる。頬から手は離れていたけど、まだ瞳は強いままだった。
警戒している。私にじゃなく、自分以外の全てに。その壁からの侵入を許さずに撥ね退
けている。
「桃田」
その時、稲田先生が間に入ってきた。
「お前が綺麗事だと思うなら、それでも構わない。けどな、それとは関係なしに本気
でお前と向き合いたいと思ってるやつがいるんだ。あとは、お前がそれにどう向き合う
かだけだ」
桃田さんは私に向けていた視線を稲田先生に移した。自分の中にはない考えを言葉に
していく私達の真意を探るように鋭くして。桃田さんは自分自身をこの家に閉じ込めて
しまっていた。この小さくて狭い空間に押し込めて、外の世界へ出て行く事を拒否して
いる。
「お前だって、心のどこかでは分かってるんだろ。今のままでいいわけない、ここを
抜け出さないといけない、新しい場所に行きたい、そう思ってるんだろ。だったら、勇
気を出してみてくれないか。それを言う事は何も恥ずかしくなんかない。少しだけの勇
気でいいんだ」
稲田先生の言葉に、その場は静まった。先生の言葉の通りに、あとは桃田さん次第で
変われる。その桃田さんは下を向き、何かを考えていた。そこから導くものが良くある
ことを願った。
「分かったようなこと言わないでくださいよ。何も知らないくせに」
下を向いたまま、桃田さんは言い捨てた。
「あぁ。だから、それを教えてくれないか。お前が何で苦しんでいるのかを」
「それを知ってどうするんですか。教えたら、どうかしてくれるっていうんですか。
さっきも言ったけど、そんなことしたらタダじゃ済みませんよ」
また、桃田さんは威圧的な言葉を投げる。でも、今度は稲田先生からの言葉はすぐに
返された。
「それでいいよ」
その返答に、桃田さんは戸惑いの表情を見せる。
「何で・・・・・・そんなこと、簡単に言わないでよ」
「簡単じゃないさ。ただ、俺もお前と本気で向き合いたいと思ってるだけだ」
少しずつ、ほんの少しずつ、桃田さんの顔の強張りが崩れていってるのが分かった。
最初は確固たる信念でいたものが揺らぎはじめ、今はムキになっているように感じた。
長いトンネルの先にある光が見えた感覚。
「福山先生、どうですか」
稲田先生の言葉に、私を抱えていた福山先生は頭を垂らした。
「桃田さん、話して」
皆が同じ思いだった。稲田先生も福山先生も私も、桃田さんを救ってあげたい思いは
同じだった。
「伊東、どうだ」
言葉とともに、稲田先生がこっちを向いた。少し後に、桃田さんの顔もこっちへ向け
られた。
「桃田さん、お願い」
その言葉に、桃田さんは奥歯を噛んで、グッと拳を握った。自分と闘っている。孤独
に生きることを選んだ自分自身と闘っている。そうだ、桃田さんだって前へ進みたいに
決まってる。
「絶対に・・・・・・絶対、見放さないって誓えますか」
「あぁ、信じてくれ」
桃田さんは目を瞑り、息をつく。そして、衝動を起こすように身を奮わせていく。何
かを思い出すように、傷を掘り起こすように、苦しみを携えて衝撃の一声を言葉にして
出した。
「父親に・・・・・・週に1回、体を求められてます」
空間が制止したような錯覚が起こった。一瞬、世界にはこの部屋しか存在してなくて、
ここにある何もかもが止まったようになった。言葉の意味が分からなかった。理解する
ことを絶対的に拒んだ。例えようのない感情に晒され、味わったことのない感覚に襲わ
れていく。
「父親に、って」
「正確には、あの人は本当の父親じゃないんだけど」
桃田さんの言葉は、私の常識を超越していた。相応の覚悟はしていたはずなのに、現
実はそれを上回っていた。嘘だって都合よくしようとしても、それはどうしようにも嘘
じゃなかった。
「私の本当の父親は、私が中学生の時にどっかに行きました。後から聞かされたけど、
会社をリストラされて、それが原因で離婚になったみたいです。元々両親は仲良くなか
ったけど、一応それでも私の親だったからショックでした。心の中に一つ穴が空いた感
覚でした」
「両親は共働きだったから収入もあった母親に引き取られたけれど、その後の暮らし
はまともじゃありませんでした。ただでさえ気性の荒い性格だった母親が余計に周囲に
冷たく当たるようになって、それを一番に受けていた私の毎日は辛いものでした。家事
は手を抜かれて、母親は夜遊びに出掛けて夜中に帰ってくる日がほとんどで、私は寝る
まで一人きりの日ばかりになって、金遣いも適当で家での暮らしは苦しくなりました。
反発しようにもまだ一人じゃ何も出来なかったから、ただそれに耐えるしかなかったん
です」
「高校生になってから、母親に恋人ができました。夜遊びしていた時に出会った黒服
の男で、急に家に連れて来て「これから、あんたのお父さんになる人だから」って紹介
されて。訳分かんなかったけど、それで母親の夜遊びが落ち着くんだったらって思いま
した」
「2人は籍は入れずに、あの人がウチに入る形で3人の生活が始まりました。きっと、
これで改善されるだろうと思ったけれど無駄な願望でした。新しい父親も、母親と同じ
ように堕落した感覚で生きていたからです。生活に手を抜いて、家事をろくにしない母
親にも何も言わず、だらだらと家にいました。朝から昼まで家にいて、夕方に出掛ける
のが私には煩わしくて仕方なくて。いきなり父親だって来られても、ついこの前までは
他人だった人間と2人で家にいるのが落ち着かなくて、どうにもならない不快感でいま
した」
桃田さんの話は全て受け入れがたいものだった。毎日を普通に過ごしている私には、
どれも容易に現実のものとしにくく、それを今まで過ごしてきた彼女の苦しさが刺さる
ようになった。
「最初に手を出されたのは去年の夏でした。期末試験休みで水泳部の部活もなかった
日に体が疲れてたから家にいたら、父親に部屋の扉を開けられて。そんなこと初めてだ
ったから何だろうと思ってるうちに抱きつかれて、「騒ぐなよ」って言われて襲われま
した。あまりに急の事で、身体が固まったようになって、呼吸が定まらなくて、抵抗も
出来ずに声も出なくって。事が終わると、父親は「誰にも言うなよ。言ったら、お前も
終わりだぞ」って言い捨てて外に出て行きました。私は誰もいない部屋の中で、ずっと
泣き続けました。夕方ぐらいに体を起こすと、部屋の扉のあたりに万札が雑に2枚あり
ました。私はそれで買われたんだって理解すると悔しくて溜まらなくなって体が震えて、
こんなの母親には見せられないと思って万札だけ握りしめて逃げるようにして外に出ま
した」
「ただ、外を歩いてると異常に周りからの視線が気になって、特に男の人には色目を
使われているような錯覚に嵌まって。だんだん怖くなって、行き場所に困って、この感
情を紛らわしてくれそうなものを求めて普段なら絶対に近づかないような店に入ってい
きました。外人とか怖者とかが足を運ぶクラブで、私なんかが行くはずないところだっ
たけど、受付の人は見て見ぬフリをしたから中へ入っていって、仕組みも全然分からな
かったからしばらくは店の端の方にいました。そのうちにトイレに行きたくなって探し
てると、外に通じてる非常口の扉が少し開いていて、声が漏れてるのが聞こえてきて。
その隙間から覗き見をしてると、それはクスリを売っている現場でした。売ってたのは
高そうなスーツを着た怖そうな人で、買ってたのは20歳ぐらいのギャルで、そこには
明らかに私が入り込む空気はありませんでした。でも、その時の私は完全に身体を汚染
されていて、早くこの暗がりから抜け出したい一心でいました。「これだ」って、思い
ました。「これなら、この心を浄化させてくれるはずだ」って。売買が終わった後、私
はその人に声を掛けました。初めは怪訝にされて怯んだけれど、万札を見せたら表情を
変えて取引に応じてくれました。遣り方も教わって、「また欲しかったら」って連絡先
も貰いました」
「その後、誰もいない夜の公園のトイレで初めて打ちました。経験したことのない感
覚は体が戸惑うぐらいだったけれど、そこにあったのは間違いなく快楽でした。体全体
を幸福に覆われて、私はさっきまでの体内の汚物を浄化できました。打ってよかった、
と思った」
「その一週間後、また父親から体を求められました。今度は私の部屋の扉を開けると
「この前の金はどうした」って言われて、私が何も言い返さずにいると「そうか」と納
得したように頷いて、同じように抱きついてきました。私も前と同じように身体が硬直
して、何も出来ませんでした。ただ、心のどこかで自分に理解させようとしてました。
私が抵抗して暴露する事で何が生まれる、両親は別れるかもしれない、父親からは恨ま
れるかもしれない、母親からは妬まれるかもしれない、また母親との堕落した生活にな
るだけだ、周囲にバレるような事になったら私も終わりだ、義理の父親に手を出された
なんて知られたら学校の皆にどう思われるだろう、変な目で見られるに違いない、友達
にも軽蔑されるかもしれない、クスリにも手を出したなんてなったら父親だけじゃなく
私も警察沙汰だ、取り調べに牢屋に裁判に服役、その後に明るい未来なんてない、そう
考えると「私が黙っていることで全てうまく成り立つなら」って思いが生まれてしまい
ました」
「それ以来、私は週に1回、父親との行為を受け入れて、貰った金でクスリを買う事
を続けました。水泳部はすぐに辞めました。左腕の注射痕は目立つほどじゃなくても、
父親に犯された肌を露出することに拒否反応があったから。制服も冬服にして、洋服も
なるべく肌を覆うのを選ぶようにして、同級生や友達との関係も次第に拒むようになり
ました。自分の世界に閉じこもり、私は独りになりました。ただ、今まで仲の良かった
子たちとそうなるのは心苦しくて。「悩み事があるなら相談して」って、向き合おうと
してくれてる友達を突き放すのが辛くて。でも、誰にも相談なんか出来っこない。苦し
いだけの毎日でした」
「悩んで、私は母親に転校したいと告げました。学校側から私の状態がおかしいのは
伝わってたから、母親も仕事先に通えるぐらいの距離なら引越してもいいと言ってくれ
ました」
桃田さんは俯いたまま、一つずつの言葉を自らの膿として吐き出していった。その様
は見るのも辛く、彼女の抱えていた痛みの大きさを汲み取れた。それでも、きっと私に
伝わったものなんてほんの一部にしかすぎないはずだ。桃田さんはどれだけの罰を自分
自身に刻んでしまったんだろう。大人の勝手の犠牲になって、その手を罪に染めてしま
っただけなのに。
「それで海浜総合高校に来たんだな」
「はい。ここなら誰も私の事を知らないから安心できるし、前と距離も遠くないから
クスリも買いに行けるし」
桃田さんの話はそこで途切れた。そこまでが私たちの全く知らない真実だった。部屋
の空気は重く沈んで、ここでの息苦しい生活を感じられるようだった。私は何も言葉が
浮かばなかった。事態は私の許容範囲を超えていて、体の中をぐるぐると動いて落ち着
かない。どんな言葉を掛ければいいのか、どうしてあげればいいのか、私の頭じゃ計り
ようもなかった。
「お金は全部クスリに使ってるのか」
「大体そうです。そんな汚い金を残しておきたくないから、すぐに使います。打った
後に気分が良くなって、衝動買いしたりもしてるけど」
稲田先生は息をつき、目を瞑る。目にしたことのないくらいに悩んでいる。先生の中
でも、予想を遥かに上回る状況だったんだろう。福山先生は瞳に涙を浮かべ、桃田さん
を見ている。私なんかより女性としての苦しみを分かってあげられるはずだし、その苦
悩さは表情から見れる。
「どうして・・・・・・どうして、クスリに手を出した」
搾り出すような稲田先生の言葉だった。もう、現時点で桃田さんは犯罪に手を染めて
いる。事前に食い止める事は無理だった。しかも、それは私たちが出会う前からになる。
不可能がより心を締めつける。
「こうするしかなかったんです。こうしなきゃ、私はもうどこにも行けなかった」
桃田さんには行き場所がなかった。誰にも頼ることが出来なかった。八方を塞がれた
密室で、この家で自分自身を貶めていたんだ。こうして誰かが向き合ってあげるまで、
きっとずっと。
「前にも言いましたけど、言うなら別にそれで構いません。学校に言いつけるんなら
それでいいし、警察に突き出すんならそれでいいですから」
「警察に事件にしてもらって、父親を逮捕して助けようとしても、あいつはまた私の
前に現れるかもしれない。もっと酷い目に遭うかもしれない。何も出来ないんだったら
放っておいてください」
そう言い捨て、話は途切れる。沈黙が流れると、桃田さんは「今日はもう帰ってくだ
さい」と自分の部屋に入って、扉も閉めて篭ってしまった。私たちも今日はここで帰る
ことにした。桃田さんの言葉の通りにするわけじゃなく、今ここで結論を出せる内容で
はなかったから。部屋を後にする時に何か言葉を掛けたかったけど、あれだけ重い言葉
を続けられた後に私が何を言っても軽いものにしか聞こえないような気がして諦めてし
まった。
帰り道、私たちは行きの道とは違う思いで気を沈ませていた。行きは「何がこの先に
待ってるんだろう」という緊張感で、帰りは「何という事もしてあげられなかった」と
いう失望感。あの部屋で待っていた真実は私たちの現実では計りきれない重さだった。
打ちひしがれた思いの中で必死に打開策を考えていく。今すぐにも、桃田さんを救って
あげないといけない。
「先生、どうする気ですか」
縋る思いで呟く。打開策なんて大きなことを思ってみても、私が思いつくようなこと
はどれも現実的には嵌まらない。所詮、私はまだ子供でしかない。なのに、桃田さんは
大人の欲望に傷つけられた。私がされていたらと考えると、ゾッと体が震える。それを
彼女は受けたんだ。何度も、何度も。誰にも言えないまま、その身体と心に傷を増やし
たんだ。
「学校には言わないでください。警察にも。そんなことしても、桃田さんの心は救わ
れません」
助けてあげなきゃいけない。身体だけじゃなく、心も。
「そのつもりだ。ただ学校に伝えたところで、警察に渡したところで、きっとあいつ
は元に戻れない」
学校や警察に事を任せても、おそらく桃田さんは救われない。多分、それらは彼女を
助けることをしてくれない。事件を解決する事を第一にして、真に助けてはくれないだ
ろう。強引な捜査や目先の処理で終わらされてしまうかもしれない。そんなことは許さ
れない。
「でも・・・・・・後で大問題になりますよ」
福山先生の言葉は尤もだった。私たちがやろうとしてる事は正常じゃない。とんでも
ないことを巻き起こすかもしれない。それでも、彼女の思いを分かってあげられる人が
やるべきなんだ。
「俺はどうなっても構いません」
稲田先生の言葉に曲がったものはなく、力強く感じられた。
「私も覚悟は出来てます」
福山先生の言葉も、温かみのある心強いものだった。この2人の生徒でよかったと本
当に思えた。これだけ生徒に対して向き合ってくれる教師じゃなければ、私も最初から
相談に行ってなかっただろう。きっと、一人きりで抱え込んだままで何も出来なかった
に違いない。
桃田未絵、出席番号28番。
心は落ち着かず、正常ではいられなかった。毎週休日が訪れると、心持ちはなんとも
いえない複雑なものになる。もう数十回とこの緊張感に侵されていても、慣れるなんて
ない。慣れてしまえばどれだけ楽になれるだろうと思うけれど、その時点で私は人間と
して終わりだろうと思う。そんなもの、人間の身体を持っただけの遊ばれる人形でしか
ない。最後の抵抗なんて体のいいものじゃない。ただの抜け殻になってしまうのが怖い
だけだ。殻になった自分は自分自身を失い、破壊でも自害でも何でもやってしまいそう
だから。
最初に襲われたあの日から、父親が獣に映っている。娘の体で欲求を満たす低脳で、
私はそんな奴に怯えていないとならない。そんな薄汚い姿を知らずに一緒にいる母親を
惨めにも思う。愛人が自分の娘を金で買って、娘はその金でクスリを買っている。真実
を知ったら、あの人はどうなるだろうか。先の読めない自暴自棄に陥るのは間違いない
だろう。リストラの末の離婚でこんな様になるんだから、裏切りの末の別離ではそれは
計りしれない。だから、そのままを選んできた。そうすることが最低の中の最良と判断
して。
邪気を体から追い出そうとして、一つ息をつく。それが一時のものにしかならないの
は分かっている。この家には邪気が充満している。いくら外に出したとしても、すぐに
また体に吸い込むことになるだけだ。気を晴らそうにも、この部屋に大した物はない。
マンガやら雑誌やら携帯やら、娯楽と呼べるものはこの心を満たしてはくれない。気楽
な気分になんてなれやしない。テレビは両親の部屋にあるけど見ない。あの部屋に行き
たくないし、私にあの画面から伝えられる情報を持つ必要がさほどない。共有する相手
もいないし、興味もないし、どれも私には関係のないものばかりだ。見なくても支障は
ない。
私はここからいつ逃れられるんだろうか。そう考えることはよくある。正直な気持ち
なら、逃れられるなら逃れたいに決まってる。それが出来ないから、今日まで自分自身
を苦しめてきた。私には私を救ってあげられない。そうある程度の覚悟と諦めを抱えて
きた。
それなのに、そんな思いを惑わす奴らが現れた。クスリを打った後の高揚による油断
のせいで伊東さんにバレた結果、稲田先生と福山先生にまでそれが伝わってしまった。
「学校にでも警察にでも言いつければいい」とは言ったけど、本当は内心ビビってる。
そうすれば、自分がどうなるのかはなんとなくでも分かる。未来は真っ暗で、その原因
を作ったのは自分。何度も迷ってきた場所へ戻り、光か闇かの選択をまた迫られる。選
択がどっちだとしても、私には辛い毎日がある。
どうする。どうすればいい。その前に、あの人たちは信じるに値するのか。信じても
いいんだろうか。
「やっぱり、俺はお前を助けたい」
一昨日、稲田先生から言われた言葉が頭に巡る。この部屋に3人が来た3日後、携帯
に電話が掛かってきた。また連絡は来るだろうと思っていた。あの先生があのぐらいで
引っ込むとは思わない。そこらの単純な教師じゃないのは分かってる。でも、こっちが
抱えてるものだって、どこにも転がっているようなものじゃない。適当な熱血さで侵入
して欲しくなんかない。
「あれから、いろいろ考えた。俺の目先の感情論じゃなく、お前にどうしてやるのが
一番良い事なのか。お前は今のままでいいと思ってるかもしれない。現実でも、それが
もしかすると良い事なのかもしれない。でも、どうしても俺はお前を救ってやりたい。
福山先生も伊東も同じ意見だ。学校にも警察にもまだ言ってない。お前を救ってやる事
が第一だと思ってる。そうしないと、何も開けやしない。だから、そのためにお前の協
力も欲しい」
言葉の後に、稲田先生から3人で考えたという案を伝えられた。私をこの現状から救
出するための計画案。無茶苦茶と思えるものだったけど、それぐらいしないといけない
のかもしれない。返答に迷い、時間を貰うことにした。自分の中で一つ一つをじっくり
考えていき、それを何度も繰り返していく。様々な道筋がそこにはあった。今のままを
続けていくものもあったし、何もかもを打ち破って新しい世界へ飛び出すものもあった。
前者を選ぶ事が小さな世界を平和にするのに一番なのは分かっている。今後も、ただこ
の心が蝕まれていくだけで済むんだから。でも、そんなことをしていたら、私は一生を
誰も信じることも出来ずに過ごしていくだろう。人を嫌い、人を拒み、人でいる自分に
限界をいつか思うだろう。それでいいはずはない。ただ、後者を選ぶ事が多くの犠牲を
払うのも分かっている。自分が傷つき、他の人たちも傷つけ、また自分が傷つく。人間
らしくあれるかもしれないけれど、多くの人たちを地獄に落としてまでそうしていいん
だろうか。
昨日、一昨日の返事のために掛かってきた電話で、その思いを稲田先生へ伝えた。
「お前はもう充分に傷ついてきたんだ。もう、周りの事を気にせずに自分の気持ちに
素直になれ」
その言葉に、積もり積もってきたものがフッと和らぐ感覚があった。どうして、そう
思えたんだろう。多分だけど、私は心のどこかでそう言ってもらえるのを待ってたんだ
と思う。全てを諦めたつもりだった。誰も信じないつもりだった。なのに、私は3人の
熱い思いに屈しようとしていた。もちろん、その先にある辛く険しい道も知っている。
だけど・・・・・・私だって人間だ。
「本当に助けてくれるの」
「あぁ、約束する」
「難しいよ」
「そのぐらい分かってるさ」
私は永遠に凍結させておくはずだった鍵を開くことに決めた。きっと、これが最後の
機会だろう。ここで閉ざしたら、私はもうこのまま誰にも身を委ねられずに生きていく
に違いない。そんな一生、淋しすぎる。私は3人の案を受け入れ、当日の行動を綿密に
詰めていった。
そう昨日までの事を思い返してると、隣の部屋から物音が聞こえた。母親は朝早くに
ギャンブルに出掛けていない。それは父親が発しているものだ。鼓動の高鳴りを感じな
がら、携帯を発信させて物陰に隠す。その間にも、足音が隣の部屋から着実に近づいて
くる。
コンと軽く小突く音が鳴ると、部屋の扉がゆっくり開かれる。部屋着の父親は30代
ではあるけれど、黒服の仕事をしているだけはあって、そこらの同年代の男性よりも若
くは見える。側に寄ってくると、多少の香りも漂ってくる。加齢臭じゃなく、仕事柄か
店独特のものがこびり付いている。香水もしているらしい。私にはどうでもいいもので
しかないけれど。
数十回の経験で慣れたものか、隣に座ると流れるような動きで触れてこられる。右肩
に手を置かれると、それが少しずつ下の方へ降りてくる。その先はただ相手に任せて、
為されるがままに事を進められていくのが常になる。でも、今日は違う。ここで終わら
せないとならない。
太ももにまで降りてきた手を掴むと、それを払う。当然に疑問を重ねた視線が向けら
れると、制すように強めの視線を放つ。
「こんなくだらない事、もう終わりにする」
強気に言いつけると、逆に鋭い視線を向けられた。そういう仕事をしてる分、父親は
体格は自信を持てるほどのものがある。そんな男から睨まれるようにされれば、多少に
怯む。
「何言ってんだ。いつも通り、黙ってやらせろや」
言葉の後に強く体を抑えられ、「ただし、声は出せよ」と耳元に気持ちの悪い笑い声
が響いた。行為を始めようと床に倒されると、上から押さえつけられる。抵抗しようと
しても、力の強さで歯が立たない。それでも、負けない。このままの人生じゃいけない
んだ。
そう歯を食いしばると、父親の腹を思いきり蹴り飛ばした。予期していなかった反撃
だったからか、思いの外に相手の体は勢いよく飛んでいき、背中を壁に強打させて痛が
っていく。
「私はこんな事がしたいんじゃない。こんな事をするために生きてるんじゃない」
搾り出すように言った。目の前の父親と同じように、自分自身に向けて言っていたん
だと思う。
そんなこっちの思いには耳も傾けず、父親は背中を手で押さえながら起き上がると、
ゆっくりと近づいてきて拳で力いっぱいに私を殴りつけた。衝撃と痛みで倒れたままで
いると、無理やりに起こされてもう一発殴られた。
「知るか、そんなこと。お前はただいつものように俺に買われればいいんだよ。お前
だって、その金でいろいろ良い思いしてるんだろうが。お前も俺と変わんねぇんだよ。
贅沢に無駄遣いするために、俺から金を巻き上げてるんだろ。俺らはそれぞれの目的の
ためにこうして共有してんだよ」
その言葉に、強い反発感を覚える。なんとか抗おうとするけれど、力の差で敵わない。
少しずつ、体を押さえつけられていく。そうされる中でも、絶対に諦めることはしなか
った。
信じきったわけじゃない。安物ではないにしても、まだどこかで偽善だと思ってる。
ただ、向こうがどうなってもいい覚悟なら、私にも刺し違えるぐらいの覚悟がいる。結
果がどうだとしても、最後の希望は私にはまだ捨てられない。だって、私はここに生き
てるんだから。
その時、家の玄関扉が開錠され、開かれた。入ってきたのは母親じゃなく、稲田先生
と福山先生と伊東さんだった。予め、作戦遂行のために昨日のうちに家の鍵は渡してお
いたから。3人は私とその上に跨って獣と化そうとしていた父親の姿を目にし、感情を
湧かせたようにしていく。私が言葉で伝えた真実を、現実のものとして実際に捉えた衝
撃で。
「何なんだ、お前らは」
いきなりの侵入に、父親は私の体の上で驚きを隠せずにいた。いくら腕っぷしがある
とはいえ、こんな規格外な展開に頭を追いつかせるのは簡単じゃない。そうそう整理は
付かない。
「海浜総合高校、3年1組担任の稲田です。申し訳ありませんが、桃田未絵を引き取
らせてもらいます」
そう言うと、稲田先生はこっちへ来て、私と父親を引き離した。理解不能になってる
せいで、父親は変な抵抗も出来ずに為されるがままになる。「大丈夫か」と稲田先生に
体を起こされると、伊東さんが足早にこっちへ来て、私の体をそっと柔らかく抱きしめ
てくれた。
「こんな状態の家に生徒を置いておくわけにはいきません。桃田は我々が預からせて
もらいます。母親の方には、追って説明させてもらいますので」
稲田先生は私と伊東さんの肩に手を置き、「行こう」と呟く。伊東さんに支えてもら
いながら立ち上がり、玄関扉に向かおうとすると「ちょっと待てよ」と低い声が届いて
きた。
「先生だか知らねぇけど、随分じゃねぇかよ。勝手に他人の家に上がり込んで、子供
を預かりますだと。そんなもん、通用すると思ってんのか」
父親は床に座ったまま、余裕ありげに言い放つ。
「ここに彼女を居させることは出来ません」
「何がだよ。俺が何かしたって言うのか」
「彼女の自由を奪った。卑劣な手で」
「おいおい、そりゃないぜ。そんなの、そいつも同意の上でだぞ。そいつは金も貰っ
てるし、その金で高い買物もしてんだぜ。お互いが望んでるんだ。それを卑劣とか言わ
れちゃ困るな」
父親の言葉が心を痛めていく。それは違う、とは言いきれないから。そんな事を私は
していたんだ。
「彼女はもう限界を超えている。あなたが何と言おうと、我々は連れて行きます」
「そんなことが許されると思うか」
「許すか許されるかの問題じゃない。こんな現実、あっちゃならない」
稲田先生の言葉が強くなっていく。それがその分、痛んだ心を和らげていく。
「熱く語るのはいいけど、あんたらがやろうとしてんのは犯罪行為じゃねぇのか」
「あなたがやってることも犯罪だ」
「俺のは同意の上でだ。でも、あんたらのは間違いなく犯罪だ。住居不法侵入、それ
に誘拐だ」
父親の強めの言葉に、場が静まった。確かに、これはそうさせようとすれば犯罪とし
て成立する行為だ。
「通報するならすればいい」
「おい、随分な強気だな」
「我々はどんな結果でも受け止める覚悟を決めている。それに、困るのはあなたも一
緒のはずだ」
「どうして、俺が困らなきゃなんない。俺は困るような事はしてないぜ」
「桃田が全てを話せば、あなたもタダじゃ済まない。同意があったとあなたがいくら
言っても、彼女の中の真実は違う。それを彼女の口から告げれば、これはれっきとした
犯罪だ」
稲田先生も怯まずに応戦していく。荒い展開にならないように終わって欲しい、そう
願うだけになっていた。
「そいつが俺にやられたって言うんだったら、俺は何もやってないって言えばいいだ
けだろ」
「あなたは桃田に何十回と性行為をしてきた」
「あぁ、そうだよ。でも、何も証拠がないじゃないか。俺が何かしたって証明させる
もんがあるのかよ」
「あります」
父親の強気な言葉に、割って入ったのは福山先生だった。歩き出し、私の部屋の押し
入れの襖を開く。そこにあったのは一台のビデオカメラ、稲田先生から預かって私が事
前にセットしておいたものだ。もちろん、レンズの横には録画状態を知らせる赤の小さ
なランプが点いている。
「今の一部始終をこれで録っています。あなたに逃げ道はありません」
父親は自らを映しているビデオカメラに視線を向けたまま、言葉をなくしている。私
のために、3人が磐石の備えを期してくれた。どんな展開になろうと屈しない、完全と
いえる作戦。
「結構、手の込んだ事してくれるな。ただよ、これこそ犯罪だろ。あんたら、どうい
うつもりだ」
「さっき言った通り、我々はどんな結果でも受け止める覚悟をしている。それだけの
ことだ」
そう言うと、父親は力もなく笑い出した。自らの敗北を受け入れきれない、諦めの悪
い人間の取る行動。
決着はついた。私は勝った。抜け出せるんだ、あの悪魔のような日々から。そう思い、
涙が出そうになるほどの嬉しさを噛みしめた。
敗者を残し、部屋を後にする。自宅の玄関扉を出る時、何か新しい世界へ飛び出すよ
うな感覚が起こった。今の淀んだ私にはまだ直視できない、眩しすぎる輝かしい光の世
界へ。
福山蓮子、3年1・2組副担任。
リビングのカーテンを開けると、目一杯の日差しの眩しさに思わず目を閉じる。3月
のこの時期にしては暑さを感じられる快晴の一日だった。こんな日は気の合う仲間と一
緒にどこか遠くへ遊びに行きたくなる。ただ、今の状況ではそういうわけにもいかなさ
そうだ。
「桃田さん、天気いいから散歩でも行かない」
「うん」
私の部屋のベッドに座って窓の外をぼんやり眺めている桃田さんから抑揚の乏しい声
を送られる。重そうに体を起こし、必要最小限のラフな洋服に替える程度で彼女の支度
は終わった。
外へ出ると、ゆったりとした速さで歩を進めていく。そのちょっと後ろに桃田さんが
着いてくる。隣には並ばない。なんとなく、会話が強制されるような気になってしまう
から。話すことがないわけじゃないけど、今の彼女はそういう心境ではない。こんなに
晴れた今日の空模様とは違って、その心の中にはまだまだ拭いきれない思いがたくさん
ある。
桃田さんは今、私の家に住んでいる。正確に言うなら、一時的にという単語が付く。
彼女の自宅から強引な形で連れ出し、最もベストだろうということで私の家へと連れて
来た。彼女の母親にはすぐに連絡を取って、稲田先生が一連の全てを話しに行った。当
然にショックを受け、全部は理解できていない状況だったらしい。その後に、きちんと
保護している事を伝えるために稲田先生が母親をウチに連れて来たけれど、桃田さんは
面会を拒否した。一応、桃田さんがいる証明は出来たけど、母親は最終的に泣き崩れた
ままで去っていった。心情は汲み取ってあげたくても、彼女をここまでにさせた経緯に
少なからず絡んでいる人だからそうもいかない。母親としての役割を多く放棄してきた
報いでもある。
その日から、私は桃田さんとの2人暮らしをしている。正直、実家でも両親と兄との
生活だったから、年下との生活というのに困惑は否めなかった。実家では一番年が下だ
ったし、前に同棲してた時も相手は同い年だったし。今回に至っては、私が年長で面倒
を見る側なわけで、しかも相手は生徒。ぐうたらなところは見せられないし、彼女の状
態が状態だから気遣わないといけないところも多い。ストレスではないけれど、家でも
教師として振る舞っている事は変な感覚だった。
彼氏さんには現状をオブラートに包んで話し、こっちの状態も理解してもらえてるか
らなんとかなってはいる。私自身、現状で結構いっぱいいっぱいなところもあるから余
裕は少ないし、桃田さんに話して気を遣わせるのも嫌だし、隠れて会うのも気が引けて
しまうし。
桃田さんは毎日を気力なく過ごしている。私の部屋を使わせているから、さっきみた
いに窓外をぼんやりと眺めていることが多い。多分、彼女の中ではいろいろと考えてる
んだろう。なにしろ傷が大きすぎるせいで、そう簡単には結論に行き着きそうにない。
答えを急かすこともしない。そこにあるのは私には分かりえないはずの感情だろうし、
まだ高校生の女の子が考えるには重すぎることだし、なによりもこれは彼女の人生の大
事な分岐点になるものだから。
そう考えてるうちに目的地に到着した。目の前にはどこまで続いているのかも分から
ないぐらいの大海、それを一面に見渡せる砂浜へ2人で腰を下ろす。海岸は左右に長く
続いている。砂浜は何度か途切れはするけど、海岸線に沿った道路を伝っていけば学校
の側の海辺にも繋がる。
たまに悩み事を抱えたりすると、ここに来る。波が嫌な思いごと奪ってってくれない
かな、なんて他力を望んだ考えで。結局、それを解決させるのは自分自身だと分かって
そうする。
隣で眼前の海原を眺めている桃田さんもそんなふうに思ってるんだろうか。今の思い
をこの大海に包んでもらえないか、なんて投げ掛けてみたりしてるんだろうか。正直、
何も力になってあげられない自分にやきもきもする。ただ、最終的な結論を出すのは桃
田さんでないとならない。そのために、あんな強攻策までして自宅から連れ出したわけ
だから。
その時、後ろから近づいてくる足音を察する。振り返ると、それは稲田先生だった。
散歩に出掛ける前に電話が掛かってきた時に、ここに向かうことを伝えると「俺も行き
ます」と言われていた。稲田先生は私とは逆側の桃田さんの隣に座り、私たちと同じよ
うに言葉はなしに景色を眺めていく。
稲田先生はあの日以来、毎日私の家へ来て、桃田さんに声を掛けている。平日は仕事
終わり、今日のような休日は時間のある時にわざわざ足を運んでくれている。長居する
ことはなく、適当な言葉を掛ける程度にしかしない。桃田さんの状態を察して、答えを
急かさず、そのこと自体にもあまり話を持っていかない。
桃田さんの母親も毎日来ているけど、逆に父親との話をあれこれとしていく。父親と
は大喧嘩になり、そのうちに別れるつもりでいるみたいだ。「また一緒に暮らそう」と
言っているけれど、桃田さんからの返事は今のところない。彼女自身、それじゃあまた
ふりだしに戻るだけなんじゃないかと思ってるんだろう。父親と桃田さんとの関係には
あまり触れてはこない。母親として、そこは事件にはしたくないんだろう。得るものと
失うものの差は大きい。
桃田さんには結論の選択肢がある。父親との事をこのまま闇に葬り、事件にさせない
こと。学校にも警察にもまだ言っていないから、彼女が望むのならそうするつもりだ。
公にして事件とするなら、全員が罰を受ける事になる。桃田さんだけでなく、私も稲田
先生も今の立場は無い。それでも、もう覚悟は決めている。どうなってしまうのか怖く
はあるけれど、彼女が望むのならそうするつもりだ。後は、桃田さんが答えを出すのを
待つだけだ。
「どうする、この先」
稲田先生の第一声に、不意を突かれる。これまで結論については言及してこなかった
稲田先生がいきなり桃田さんにそれを促したから。急な展開に、落ち着けていた心内が
焦り出す。
「このまま高校を卒業して、普通に大学に進学する道もある。父親との事を警察へと
届け出て、裁判で闘う道もある。クスリを使っていた事を警察へと届け出て、お前自身
が裁きを受ける道もある。どれを選んでも険しい道になるだろうが、そこを歩いていか
ないとならない。また辛い日々が待っていると思うけど、これはお前がいつか心から笑
えるための道なんだ」
その言葉に、桃田さんは俯いて考え込む。何回も、何十回も悩んできた事だ。その度
に、頭を悩ませてきた。正直、どれがいいのかなんて分からない。どれを選んでも、後
で後悔を伴うだろう。それでも、選ばないとならない。こんな、まだ18歳の女の子に
させる決断じゃないのは痛感している。
「先生はどうするのが一番いいと思う」
「すまんが、俺はお前じゃないからどれがいいとは言えない」
その言葉に、また桃田さんは俯いてしまう。ずっとその姿を目にしてきているため、
痛々しく感じてくる。
「ただ、一つだけ約束してくれ。他人のことに気を遣わないでほしい。俺や福山先生
のために、とかは考えなくていい。本当にお前の中でこうしたいと思った方へ行ってく
れないか」
言葉の後に、稲田先生と視線が合う。同感である事を伝えるために首を縦に振った。
「どうして、そこまでするんですか。だって、何の得もないでしょ」
「お前が俺の生徒だからだ」
「生徒ったって他人でしょ」
「お前が俺の生徒だからだ」
稲田先生はしっかりと桃田さんを見て、同じ言葉をあえて言い並べる。2回目の方が
芯のあるように聞こえた。
「どうせ、私なんか居ても居なくても変わらない。居たって、誰かの足を引っ張るこ
とはあっても誰の役にも立たない。なのに、どうして」
「そんなことはない。お前は必要な人間なんだ」
「じゃあ、私が居て何になるの」
悩み果てた声だった。もう、ありとあらゆる考えに行き着き、自らを打ちひしがせて
きたような。おそらく、今の桃田さんには綺麗事なんか通じない。本当の言葉でないと
響かせられない。
「お前がいないと伊東が困る」
「伊東さん」
「あぁ、あいつが言ってた。お前のおかげで救ってもらえた事がある、って。辛い時
に側に来てくれた事が心底嬉しかった、って。分かるか。お前は人の心を動かせるだけ
の力があるんだ」
その話は私も聞いた。どうして桃田さんのためにそこまでしようとしてくれるのかを
聞いた時、彼女が一柱大学の受験に落ちた時に桃田さんが救ってくれた事を瞳を潤ませ
ながら話してくれた。「だから、今度は私が桃田さんを救ってあげたい」と力強く言っ
てくれた。
そこから、また言葉のない時間が流れていく。温かく穏やかなのに、なんだかとても
切なく。
10分ほど経つと、稲田先生は「そろそろ失礼します」と立ち上がる。そして、桃田
さんへと呟いた。
「明日の卒業式、必ず来てくれ」
そう言い置き、稲田先生は去っていく。その後も、何もない時間がただ流れていく。
何分、何十分と。すると、波にさらわれそうなぐらいの小さな声で「ねぇ」と桃田さん
は言った。
「私、また普通に笑えるかな」
どれぐらい時間が経ったかも分からないぐらいの頃、心の中の言葉をそのまま出した
ように送られた。
「うん。いつか、きっと」
伊東紗和、出席番号4番。
卒業式の当日、旅立ちを祝うように昨日からの快晴は続いていた。寒さの残る校舎も
誰もいない校庭もうるさくじゃれ合うクラスメイトも、何もかも変わってはいないのに
全てが不思議なくらいに愛おしく感じられてしまう。この教室で過ごしてきた一年間、
1組の皆と過ごしてきた二年間、この学校で過ごしてきた三年間、どれもこれもがかけ
がえのない宝物だ。
3年1組の教室では、普段通りの会話をしている人、寄せ書きを回している人、記念
写真を撮っている人、様々にいる。それぞれがそれぞれの3年分の思いを抱え、ここを
今日卒業していく。実りの多さは人によって違っていても、過ごしてきた時間には差は
ない。
左斜め後の席に目を向ける。一つだけ、荷物の置かれてない机がある。ホームルーム
はもうすぐ始まるのに、桃田さんの席は空いたままになっている。やっぱり、来れない
んだろうか。
桃田さんには毎日会っている。あの日以来、福山先生の家まで欠かさず通っている。
と言っても、彼女はまだ完全に心を開いてはくれていない。言葉も少ないし、私の顔も
ほとんど見てくれないし、消極的が過ぎる。ただ、前のように遮断はしていない。少し
開放してくれているけど、うまく出来ないだけだ。「一緒に卒業しよう」とは言ってき
たけど、心持ちが整わないと難しいのは分かってる。でも、出来ることなら一緒に卒業
したい。
そのうちにチャイムが鳴り、稲田先生が教室へ入ってくる。桃田さんのことは、体調
を崩して病院に行っているから式に出席できるかは分からない、ってことにしていた。
それに対して、皆は残念そうにしていた。桃田さんとそんなに係わった事はないにしろ、
最後の日に全員が揃わないということの寂しさがあるんだろう。もちろん、真実は何も
知らずに。
ホームルームは簡単に終わり、全員で体育館へ移動していく。体育館の前に3年生が
集まり、式の開会の後に1組から館内へ入場する。在校生や父兄や教職員や来賓の姿を
横目に映しながら、出席番号順に並んで歩を進ませていく。3年生の入場が終わると、
例にならった順序で式は進行する。式辞や祝辞や祝電は大して耳に入らず、頭の中では
桃田さんが来ないかどうかのことばかりを繰り返していた。当然、教職員の並んでいる
場所には福山先生の姿もある。ということは、彼女はここに来る決断はしなかったんだ
ろう。
「答辞。卒業生代表、3年1組伊東紗和」
「はいっ」
名前を呼ばれ、館内に響くだけの活力のある声で返事をする。立ち上がり、多くの視
線を浴びながら壇上へ登っていく。マイクの前へ立つと、出席者全員の顔が眺められ、
緊張は途端に増していく。答辞の代表には、稲田先生が私を推薦したらしい。「そんな
こと出来ません」って拒んだら、「お前の言葉を伝えればいいだけだ」って説得されて
しまった。
一礼して、制服のポケットから便箋を取り出す。私の言葉でいいっていっても、さす
がにその場の思いつきで喋るわけにはいかない。私なりに考えたものを事前にこうして
書き出してきた。多分、これもよくある類の文章に落ち着いてるんだろうけど。便箋に
書かれた文章を読みながら、クラスメイトや先生の顔に目が行った。フラッシュバック
するように、3年間の思い出が蘇っていく。その中には桃田さんとのものも多くあって、
その度に心が悔やんだ。もっと早く気に掛けてあげれば、もっと深く係わっていれば、
もっと私に出来たことがあったんじゃないか、と様々な葛藤がとめどなく体の中を巡っ
ていった。
その時、視界の端の変化を察する。福山先生が席を立ち、体育館を出て行った。疑問
と期待に胸を疼かせながら、便箋の文章を口にしていく。要約すれば、楽しい3年間、
この先もここで学んだ事を糧に歩んでいく、というもの。それをなぞりながら、自分に
問い質す。楽しい3年間、でも悔いが残っている。この先も歩んでいく、こんな思いの
ままで巣立っていいんだろうか。そう心に突き刺していく。まだだ。まだ、私には遣り
残していることがある。
行き交う思いのままに顔を上げると、視線の先にその対象があった。体育館の奥の扉
のところに、桃田さんは福山先生に連れられて立っていた。今の私と同じように、多く
の思いに彷徨った表情をこっちへ向けて。分かってる、私と彼女の迷いにどれだけの差
があるのかは。
私は桃田さんじゃないし、桃田さんは私じゃない。私は彼女の代わりにはなれない。
その背負ってる大きな傷を私に移動させることなんて出来ない。それでも、私は救って
あげたい。
「私には友達がいます」
用意した文章を途中で止め、浮かんできた言葉をそのまま口にした。
「ただ、その思いは一方通行で、向こうはあまり心を開いてくれません。私なりに懸
命にしてきたつもりだったけれど、まだまだ足りないみたいで。その子は馴れ合いとか
を好まずに自分自身を固めてて、「もっと器用にすればいいのにな」って思ったことも
あります」
「でも、私が本気で悩んでた時に慰めてくれたのがその子でした。励ましの言葉とか
はなく、側に居てくれるだけでした。ただ、その時にその子の思いってとても素敵なこ
とかもしれないって気づきました。上辺とかじゃなく、本当に傷ついてる時にそっと力
になってくれるのが、深いところで繋がれるのが大切なことであって、その子はそれを
求めてるんだって」
「私はそんな大事な気持ちを彼女から教わりました。そして、私もそれに返せるだけ
のものを送りたいって思いました。その子のために、その子が本当の笑顔を私に向けて
くれるために、必死に届けてきました。何回も、何回も。今までも、これからも、その
子が笑える日が来るように送り続けていきます。それが明日でも、何年後でも変わらず。
だから・・・・・・」
いつからか、止まらない涙が流れていた。こんなに多くの人がいる中で、私は一番奥
にいる1人だけに言葉を投げ掛け続けていた。
「その日が来たら・・・・・・私と友達になってくれますか」
そう渾身に込めて送ると、その言葉が押し出したように桃田さんの頬に涙が一滴流れ
ていった。
稲田景勝、3年1組担任。
卒業式は異質な雰囲気を残したまま、卒業生の退場で閉会となった。我々の事を知ら
ない出席者には詳細の不透明な熱弁にしか思えなかっただろうが、伊東の言葉は確かに
桃田へと届いていた。
体育館を後にして教室へ戻る途中、福山先生に呼び止められる。その斜め後ろには桃
田の姿もあった。誰もいない場所がいいと言われたので、校舎裏へと移動する。会話の
内容はなんとなしに察しがついた。
「桃田さん、決めたそうです」
福山先生の言葉で、想像が確かなものになった。桃田の方を向くと、意思のある表情
を向けられていた。
「私、自首します」
それが桃田の出した決断だった。これまで充分に痛め続けてきた自らに罪を科す非情
な結論。
「それでいいのか」
「はい」
桃田の返事には力があった。昨日までの迷い続けていた姿には重ならない、覚悟を決
めたものだった。
「この先にも辛いことがたくさんある。それでも、大丈夫か」
「笑いたいから。伊東さんと一緒に」
桃田には未来が見えていた。これまでの薄暗い闇じゃなく、心のどこかで待ち望んで
いた希望の光る未来が。この日に間に合えてよかった。これで、ようやく全てを背負い
こめる。
3年1組の教室へ戻ると、全員を着席させる。桃田の姿はなく、伊東の瞳はまだ赤み
を帯びていた。教室の全体を眺めていく。この風景も今日で最後になる。望んだ形では
なかったが、心内は納得していた。
「4月にこの学校に来た時、俺には不安があった。学校に対してじゃなく、俺自身に
対してだ。実は、前の学校の時に異動の希望をしていて、それを受けて海浜総合高校に
来た。別に、前の学校で問題を起こしたってわけじゃない。ただ居づらくなってしまっ
ただけだ」
「前の学校にいた時、俺は野球部の顧問をしていた。それなりに強いチームではあっ
たが、去年度は県大会の決勝まで勝ちあがった。その時に、俺の采配で負けさせてしま
ったんだ。俺の個人的な考えで、生徒たちの夏を終わらせてしまった。それで引け目を
感じたんだ」
「だから、この3年1組の担任になった時も同じような事を繰り返してしまうんじゃ
ないかと思っていた。でも、変わりたいとも強く思っていた。そのうち、その思いが皆
にも重なるものなんだと分かったんだ。ここにいる皆、それぞれがそれぞれに悩みを抱
えていて、そこから変わりたいと願っていた。そのことが俺の心の中にあったものを払
拭させてくれたんだ。俺にそこから救ってもらったと思ってるやつもいるかもしれない
けれど、逆に俺は皆に救ってもらった。皆は自分でも知らないうちに誰かの役に立って
いるんだ」
そう、俺も知らないうちにここにいる生徒たちに救ってもらっていたんだ。この海浜
総合高校に来れて、この3年1組の担任になれて、最後まで諦めずにやって本当によか
った。
「最後に、皆に話さなければならないことがある」
そう切り出し、深く息をつき、桃田未絵の事に関する話を始める。彼女のために包み
隠すところは隠したが、なるべくは真実をままに告げた。目の前の生徒たちは驚きの表
情を並べ、伊東だけは強い目をしていた。
桃田未絵の家庭事情、それによってああいう性格に陥ってしまった事、逃げ道を見つ
けられずにクスリに手を出してしまった事、どれもが高校生が受け止めるには難しいも
のだろう。
そして、彼女が自ら罪を償うために自首を決めた事を言い加える。その事実だけは知
らない伊東も目を開かせた。さっき本人からその旨を告げられた事、福山先生と警察に
向かっている事を加えていくと、伊東は急に席を立った。何か感情を溜めているように
小刻みに身を震わせ、走って教室を飛び出していく。全員の視線が開いたままになった
扉に向けられていると、そこから宮里も走り出ていき、高品も後を追っていった。そこ
から一つ間が空くと、誰かが気を合わせたように残った全員が波打つように教室を出て
行った。
その後を追い、全力で駆け出していく。校舎を抜け、学校を出ると、緩い坂を下り、
海岸線に沿う道を走り続ける。後先の事は考えず、持てる力を振り絞った。年齢こそ上
だが、野球で培ってきた貯金があるので体力には自信がある。警察署が見える頃には目
の前を走る生徒は数人で、先頭を行く伊東が敷地内に入っていく姿も視界に捉えられて
いた。
「桃田さんっ」
伊東の張った声が聞こえる。敷地内へと入ると、桃田は福山先生と署内に入ろうとす
るところだった。その表情には困惑も伴っていて、次々に到着する姿にさらに増長して
いく。
やがて、1組の生徒の全員が集まる。ここにあるものが、桃田が失わなかったものだ
った。
「私、待ってるから」
伊東の張った声と全員の視線が桃田へ送られる。もちろん、戸惑いや心配や疑問など
の様々な感情がある。それを確かめるように目に焼きつけ、福山先生に肩を押されて桃
田は署内へと消えていった。
福山蓮子、3年1・2組副担任。
帰り道、学校へ戻る気にはなれず、全員で砂浜へと降りていく。突き抜けるような青
い空、眩しい太陽の光を輝かせる海面、目の前に広がる光景はどこを取っても煌びやか
で美しく、それに反するように心の中は晴れなかった。
事態は解決しても、わだかまりは残っていた。もっと出来ることはあったはずなのに、
そうキリのない考えを募らせて。一生懸命にやったじゃないか、なんて思えなかった。
私は一体、どれだけのことを出来たんだろう。
波が浜に打ち寄せては返っていく様を何度と目にしていく。ここにいる全員が現実と
戦っている。稲田先生と伊東さんは私と同じ思いで、他の生徒たちは急に知らされた事
実を受け入れながら。
桃田さんは被害者なのに自首をした。ただ、彼女は被害者になっていなければ罪を犯
す事はなかった。理不尽な欲求を押しつけられなければ壊れる事はなかった。どうして、
こんな世の中でないといけないんだろう。どうして、皆で手と手を取り合っていられな
いんだろう。
「よく分からなくなりそうです。何が正しくて、何がいけないのか。何が善で、何が
悪なのか」
心の靄を稲田先生へ伝える。
「俺もですよ。たまに、どうすればいいのか分からなくなります。ただ、それでも人
は歩いていかなくちゃなりません。きっと、この先も数えきれないぐらいに迷っていく
と思います」
そう、答えなんかないのかもしれない。「人類全員が一致団結して平和を願う」とか
でいいならいいけれど、それが出来るんならとっくにしてるはずだ。人は間違う。人は
道から外れる。そういうものだ。一直線の道をひたすら走っていける人間なんていない
はずだ。
稲田先生は全員に向けて話し出す。
「桃田は確かにやってはいけないことをした。それがどんな理由であろうと、やって
しまったことは変わらない。あいつはそれを受け止める覚悟を決めた。償って、新しい
道を歩こうとしてるんだ。それは、これまでのあいつにはなかった前向きな気持ちだ。
だから、皆にもそうあって欲しい。受け止めるには難しいものだろうが、あいつと同じ
ように前を向いて進んでって欲しい。当然、迷う時もある。つまづくこともある。その
時はいつでも俺のところに来い。俺がお前らの間違えそうになった道を元に戻してやる
から」
その言葉に、少なからず心は安らいだ。この人は本当にすごい人だと思った。稲田先
生だから言える言葉だし、稲田先生だから説得力の生まれる言葉だ。ちゃんと生徒一人
一人に向き合い、その悩みを解決させてきた稲田先生だから。この人と会えてよかった、
って心底思える。私が担任だったら、きっと毎日をお気楽に過ごして、問題が起きても
無難にこなしていただろう。こんなに強くなんてなれなかったし、こんな思いになるこ
ともなかったはずだ。
「一つ、約束して欲しいことがある。これから先、皆の前に迷っているやつがいたら
救ってやって欲しい。自分では無理なら、そいつを救ってやれる人に手を差し伸べても
らえるようにして欲しい。自分だけで抱え込まなければ、きっとそうやって繋がってい
ける」
そうだ、落ち込むだけじゃなくてもいい。絶望なんて思わなくてもいい。日々、悪い
ことばかりじゃない。良い人はいるし、良い事もあるし、良い日はある。希望を信じて
進めばいい。
変わらず、明日はやって来るから。
本作は今回で最終話となります。
読んでくださった方、ありがとうございました。




