第十一話
○登場人物
稲田景勝・いなだかげかつ(現代文担当、1組担任、35歳、冷静だが心の中は熱い)
福山蓮子・ふくやまれんこ(数学担当、1・2組副担任、24歳、損得勘定で物事を考える)
武中健吾・たけなかけんご(生物地学担当、2組担任、35歳、沈着で大人な人間)
森繁八重子・もりしげやえこ(日本史担当、44歳、3組担任、学年主任で頼りがいがある)
四島嘉津男・よしまかつお(古文担当、45歳、4組担任、生徒と同年代の娘がいる)
井之脇壇・いのわきだん(世界史担当、27歳、3・4組副担任、四島の弟分的存在)
北澄昌明・きたずみまさあき(体育担当、48歳、5組担任、独身でまだ好機を窺っている)
田蔵麻綾・たくらまあや(英語担当、22歳、5・6組副担任、新人ながらしっかりしてる)
鶴賀あかり・つるがあかり(物理化学担当、6組担任、29歳、結婚に対して執着がある)
渥美衣代・あつみいよ(帰宅部、遅刻・早退・欠席の常習)
安東菊恵・あんどうきくえ(バレー部、セッターで気が強い)
一場太志・いちばたいし(サッカー部、運動も勉強も学年トップクラス)
伊東紗和・いとうさわ(学級委員長、クラスをまとめるしっかり者で信頼もある)
岩瀬浩二・いわせこうじ(陸上部、駅伝メンバーで自分を強く持っている)
梶田希・かじたのぞみ(美術部、デザインに興味があって進路に悩んでいる)
北橋泰子・きたはしやすこ(バスケ部、万年補欠でセンスがない)
小林洋・こばやしよう(サッカー部・エースの座を一場と競う)
佐土原宏之・さどはらひろゆき(野球部、エース候補だが我が強い)
塩崎拓也・しおざきたくや(帰宅部、野方文和の親友で良き理解者)
篠永梢・しのながこずえ(手芸部、ロリータファッションをこよなく愛する)
高品悟・たかしなさとる(水泳部、自由形を専門にしている)
長岡純平・ながおかじゅんぺい(柔道部、体格はいいが気は弱い)
沼本香苗・ぬまもとかなえ(放送部、ラジオDJを夢見る)
野方文和・のがたふみかず(帰宅部、生まれつき体が弱く欠席も多い)
野口七海・のぐちななみ(合唱部、ピアノ担当でしっかり者)
蓮井新・はすいしん(帰宅部、松田佳彦とつるんでる不良)
林愛莉・はやしあいり(テニス部、ミスコンにも選ばれる美少女)
原本力・はらもとつとむ(野球部、捕手で体格も腕もいい)
藤井初音・ふじいはつね(合唱部、ソプラノ担当でマイペース)
古橋健太・ふるはしけんた(バスケ部、センターガードでスタメンをはる)
益子エミリ・ますこえみり(バスケ部、清楚でスレンダーなギャル系)
松田佳彦・まつだよしひこ(帰宅部、不良で世の中に執着が薄い)
松浦ひばり・まつうらひばり(バレー部、長身アタッカーだが気が弱い)
三池繁・みいけしげる(副学級委員長、草食系で優しいアイドル好き)
水橋範子・みずはしのりこ(漫画愛好会、少女マンガ大好きで自作してる)
宮里辰則・みやざとたつのり(学年一の秀才、何事もやってのける逸材)
桃田未絵・ももたみえ(帰宅部、転校生で心を開かない)
山口裕也・やまぐちゆうや(帰宅部、単位ギリギリで危ない)
吉澤麗子・よしざわれいこ(陸上部、駅伝メンバーで仲間意識が強い)
福山蓮子、3年1・2組副担任。
9月も中旬、もうすぐ秋分だっていうのに夏の暑さを引きずる日が続いてます。夏は
夏、秋は秋、ってしてくれないもんだろうか。それに、毎年やけに秋が短い気がするの
は気のせいだろうか。一年の中の頼みの綱なんだから、もっと長くなっておくれ。夏の
暑さと冬の寒さは極端だから、春と秋の気候が救いだったのに発症してしまった花粉症。
あれによって春まで憂鬱な季節になって、心休まるのはもはや秋のみ。なのに、紅葉は
長くは持たず、秋自体も季節感のように儚く過ぎ去ってしまう。地球温暖化に断固反対、
これは行き過ぎか。
2学期になって半月、新学期始めの倦怠感も抜けたように落ち着いてきた。皆も段々
と気持ちが引き締まってきた様子。現実味を帯びてきた受験に向かい、これまでは周り
の雰囲気に合わせたようにしてきた子達も本格的に取り組んできている。それは同時に、
教師側にも言える事。真剣な生徒たちを前に、教師がだらけるなんて無い。こっちも気
を引き締めないと。
「あれっ。なんか、入念におめかししてる」
トイレで内緒ぎみに化粧直しをしてると、鶴賀先生に発見されてしまった。教師用の
トイレだから生徒に見つかることはないだろうけど、教師にでもこそこそした動きが発
覚してしまうのは若干恥ずかしくはある。相手が鶴賀先生でよかった。彼女とはとある
友好関係を築いてるから。
「今日、ちょっと約束がありまして」
「あれれ。もしや、例の人かな」
「えぇ、まぁ」
「いいなぁ。ホント、私より先にゴールインすんのだけは止めてよ。先生達からの目
が冷たくなってくるから」
優越ぎみに笑い、「心得てます」と返しておく。30歳手前の鶴賀先生は恋愛や結婚
において敏感になっている。そう、私たちの友好関係の源は恋話。井之脇先生を含めた
3人で、若手教師の恋愛事情に話が咲く事が多い。もっと若い田蔵先生もいるけど、新
米なせいか今はそっちに熱は向いてない模様。
実は私、彼氏ができました。先月の終わりに出会った、市役所勤めの年上の公務員の
方と良い感じ。そうです、合コンきっかけです。水泳部の大会も終わり、一段落ついた
ところだったので良いタイミングでした。えっ、何ですと。さっき、「教師も気を引き
締めないと」って言ってた件ですか。それとこれは別ってことにしてください。学校で
は今まで通りにしますから。んっ、「今まで通り」が頼りないと。いいんです、個性は
尊重しましょう。
稲田景勝、3年1組担任。
一報が海浜総合高校へ届いたのは20時前だった。まだ学校へ残っていた森繁先生が
電話を受け、すぐに俺と福山先生のところへ連絡が来た。1組の蓮井新と松田佳彦が事
件を起こした。隣駅の高校の生徒と暴力行為を交わし、警察へ連行されたらしい。詳細
までは分からなかったが、とにかく警察へと急いだ。
警察署へ着くと、森繁先生の姿があった。15分後に福山先生も到着し、3人で中へ
入っていく。生活安全課へ通されると、部屋の中に蓮井と松田はいた。長椅子にふてぶ
てしく座り、向かい側に座ってる刑事には目もくれない。2人とも顔や腕に傷があるよ
うで、手当てされてある。
「あぁ、先生方ですか。すいませんねぇ、わざわざ」
森繁先生が声を掛けると、座っていた刑事が立ち上がる。
「見ての通り、派手にやってくれましたよ。駅近くの商店街から路地入ったところで
殴り合いしてましてね。まぁ、よくある粋がった高校生同士のケンカですわ。聞く事は
聞いたんで、連れて帰ってもらって結構」
「あの、相手の生徒の方は」
「あぁ、さっき引き取り人が来たんで返しましたわ。こっちより酷くやられてました
けど、別に治療費どうのってほどじゃないから安心を。こんなもん、本人同士の馬鹿事
なんだから先生方は出しゃばらんでいいんですよ。強いて言うなら、こいつらをもっと
賢くしてくださいな」
そう言い捨て、刑事は去っていく。その後ろ姿に教師3人は深々と頭を下げた。振り
返ると、当の蓮井と松田は体勢も態度も変えぬままでいる。刑事の座っていた長椅子へ
座り、2人と向かい合う。
「何があった」
返答はない。そうなることも分かってる。
「何があったんだ。こうなるには理由があるだろ」
やはり、返答はない。それはそうだろう。2人のようなタイプは意地になったら突き
通す。
「2人とも、聞いてるんだから返事しなさい」
横から言葉を入れてきた森繁先生に、右の手の平を差し出して制御した。
「いいんだ。言いたくないんだったら言わなくていい。俺も聞かない」
今度は福山先生が横から「稲田先生」と入ってきたが、それも首を横に振って続きを
遮った。
この2人はプライドが人一倍に高い。無理に突っ込もうとすると、彼らの苛立ちを増
長させるだけだ。時にその必要もあるが、今はそこじゃない。芯を折らないように進む
べきだ。
「ただ、お前らのした事がしてはいけない事だってのは分かるな」
「別に、俺はお前らがどんな髪の色をしてようと、どんな制服の着方をしてようと、
放課後に何をしてようと介入する気はない。多少ぐらいなら常識を外れてても、非常識
の範疇に行ってなければ大目に見る。だが、人をその顔より酷い傷になるほど殴っちゃ
いけない。それだけは分かってくれ、いいな」
下手に説教くさくならないよう、なるべく簡潔にする。あまり長ったらしいものや上
からの物言いは反発されるだけだろうから。
話はそれだけにしておき、5人で警察署を後にする。最寄り駅で森繁先生とは別れ、
俺は蓮井、福山先生は松田を家まで送り届けた。話はさっきので終わってるので、道中
での会話はしないようにする。福山先生にもそうするように伝えておいた。
蓮井新、出席番号17番。
家に帰ると、両親から散々に言葉を投げられた。これで何度目だ、近所に顔向けでき
ない、いい加減に受験に集中しろ、こんなふうに育てた自分が情けない、とか言いたい
放題に。あんたらの考えてるのなんて、半分以上が自分の体裁についてだろ。飽き飽き
なんだよ、そういうの。別に、俺はあんたらのために生きてるわけじゃない。好き勝手
やって何が悪い。
ウチの両親は仲が悪い。似た者同士で結婚したせいだろう。お互いに強気で、口喧嘩
をしても折れる事をしない。共働きのせいか、仕事での苛々を家に持ち込み、ストレス
を発散させるように喧嘩が絶えない。発散なら百歩譲っていいにしても、ヒートアップ
してたまに洒落で済まなくなるのが苦しい。当人はやりたいようにしてるけど、一人で
それを居た堪れなく耳にしてないといけないこっちの身にもなってもらいたい。そりゃ、
そんな環境にいればこうもなるだろ。なのに、それを棚に上げるように俺に矛先を向け
てくれるな。
この家に拠り所はない。もう何年も前から友人にそれを委ねるようになった。松田が
今はそれだ。境遇は違えど、心の持ち方が似ているから奴とは側にいやすい。いろんな
事をしたし、やってはいけない事もした。両親が外で溜めた感情を家で吐き出すように、
俺は家で溜めた感情を外で吐き出す。それを止めるのなら、まずは自分たちを直すのが
先だって事にも気づかない親の言い分なんて聞きたくない。
その点、稲田は俺らのことを分かってるようだった。回りくどくせず、必要以上の事
をだらだら言ってこない。まぁ、こういう生徒の扱いに慣れてるんだろうけど。でも、
クラスの奴らも稲田の事は良いって言ってるし、俺の気持ちを悟ってくれる大人になる
んじゃないかって淡い期待も持ってる。
松田佳彦、出席番号23番。
家に帰ると、父親がだらけたように背中を丸めて歩いてく。喧嘩沙汰を起こしてきた
息子に対して、発したのは「馬鹿な事やってんなよ」だけだった。それも親身さのない、
形式だけの小さな声。それだけを残し、さっさと自分の部屋へと消えていく。放任主義
じゃなく、単に子育てを投げてるだけ。親からの愛情なんて、もうしばらく受けた記憶
がない。
父親は堕落した人間だ。昔は仕事に打ち込む活力のあるタイプだったらしいが、次第
に仕事で溜めたストレスを酒に頼るようになり、その量も増えていった。その酔い方に
比例するように飲む度に荒れ様も増していき、言葉や態度が酷くなっていく。仕事での
苛々を家庭に持ち込み、そのストレスをアルコールで発散させていく。その日々に呆れ
疲れた母親は家を出て行った。最後の喧嘩は物が飛び交う壮絶なものだった。よく息子
の前でこんな事が出来るな、と思うほど。
俺がここに残ったのは、その喧嘩にあった。この家を出て行くと言った母親に、父親
は俺を置いていくことを条件にした。自分から家庭を捨てる人間に子供を育てる権利は
ない、として。そうして、母親はこの家から去っていった。俺は単なる父親の意固地の
道具にされ、母親に捨てられたんだ。あれ以来、父親とは大した会話もない二人暮らし
を続けている。
この家に拠り所はない。もう何年も前から友人にそれを委ねるようになった。蓮井が
今はそれだ。境遇は違えど、心の持ち方が似ているから奴とは側にいやすい。いろんな
事をしたし、やってはいけない事もした。父親が外で溜めた感情を家で吐き出すように、
俺は家で溜めた感情を外で吐き出す。それを止めさせる気もない親の言い分なんて聞き
たくない。
大人の言う事なんか信じない。あいつらは俺らを見下してるだけだ。優位な場所から、
良いように押さえつけてるだけだ。あんな大人になるぐらいなら、俺は大人になんか絶
対なりたくねぇ。
小林洋、出席番号8番。
後半42分、試合も終盤に差し掛かっているため、所々に気の抜けた部分が相手選手
に出てくる。90分近くのハードワークによる疲労、もうすぐそこから解放される安心
感からの緩みが自然と生まれる。
そこを逃す手はない。よく周りも見ずに出されたパスをカットすると、一気に速攻を
仕掛ける。気の緩んでいた相手選手がこの瞬間に集中していた自分に追いつけるはずも
なく、独走していく。目の前にはディフェンダーとキーパー。シュミレーション、ディ
フェンダーを上手く交わしてキーパーの届かないゴール左下の隅へのシュート。よし、
これで間違いない。
しかし、予定外の展開が訪れる。いや、もしかしたら心のどこかにはこうなるだろう
という予測があったかもしれない。左側から自分を追い抜いていく姿が見えた。完璧な
飛び出しをした俺が不意を食らった相手選手に抜かれるはずはない。それは正解だった。
左に段々と映ってきたユニフォームはウチのチームのものだったから。ならば、それは
一場だ。ちらりと左に目を遣ると、奴は既に自分に付いてるディフェンスを振り切って
いる。俺は自分の立てたシナリオを変更する必要を迫られた。別に、このまま俺が切り
込んで打つのは構わない。それでも決められる可能性は大いにある。だが、目前にディ
フェンダーが待ち構えてる俺とそれがない一場、どちらを安全とするかは一目瞭然だ。
ベンチの方からは「左」という掛け声が飛んで来てるし、その一場も俺からのボールに
備えている。チームプレーをしている以上、この場面で我を通すのはよくない。ディフ
ェンダーをギリギリまで引きつけ、左前へ出て来た一場へパスを出す。ボールを受け取
った一場は、それを落ち着いてゴール右下へと決めた。
試合は5対1で圧勝。ヒーローは3得点の一場。その中の2点をアシストし、1得点
も決めた俺は完全に影に隠れてしまった。俺も3点分の活躍をしたのに、やはり持ち上
げられるのは最後に決めた人間だ。こんなんじゃない。俺は誰かの二番手でいるような
選手じゃないのに。
福山蓮子、3年1・2組副担任。
「これまでよりも一層の教育の徹底をお願いします」
教員会議の最後を教頭の強めの言葉が締めた。蓮井くんと松田くんの起こした喧嘩の
件に触れ、それに対しての言葉。喧嘩自体は大事にならずに済んだけど、起こったのは
事実。普段からの教育が行き届いてないと言われれば、それまでの事。受験に向けての
教育の強化、他の生徒へ悪影響のないように、と厳しめに攻められ、どれもが胸に刺さ
った。
一昨日の夜、事の起こった時に私は彼氏さんと食事中でした。ディナーも美味しく、
雰囲気も良いところに掛かってきたのが例の電話。相手には謝り、心苦しくもその場を
離れていく時に、少し自分が教師であることを悔やんだりしました。そして、悔やんだ
自分に心苦しくなりました。教師って、プライベートにも仕事が被さってくる仕事の中
の一つです。授業や部活動が終わった後も雑務が残ってるし、家に帰ってからも明日の
授業の予習や生徒の進路問題について考えないといけません。今回のように急に呼び出
されるのは稀にしても、生徒たちの日常に関する問題にも責任が問われます。たまに、
それが嫌になったりもします。でも、そんなことを思ってる自分がダメなんです。自分
の受け持った生徒を守る自信がないのなら、教師を択んではいけないんです。逆に言う
なら、択んだ以上は責任を携えなければならないんです。最近、「生徒はお客様」とか
いう言葉を耳にしたりしますが、そんなの間違ってる。生徒と教師はもっと近い距離で
ないといけません。
蓮井くんと松田くんは入学当初から要注意人物とされてきました。見てくれの柄の悪
印象に劣らぬ態度の悪さは折り紙つき。教師の中でも彼らには逆らわないようにと心掛
けてる人も多いはず。私も最初は怖かったけど、なんとなく印象は変わってきた感じが
する。教師側が無理に押さえつけようとしなければ、逆らってきたりはしない。全くの
無意味な行動はしない。そう、理由がある。それを私たちが分かってあげないといけな
いんだ。
あれっ。なんか、私が熱い教師みたいになってる。こんなんじゃなかったのに。稲田
先生の影響かな。
蓮井新、出席番号17番。
耳障りなほどデカくて重い音が脳にギシギシ響いてくる。密室を縦横無尽に駆け巡る
音に四方八方から狙い撃ちにされてる感じ。そんな箱の中で、頭の悪そうな男や欲に雑
そうな女や本能に従う外人が気持ち良さそうに踊り続けている。居心地は最悪。でも、
この店には数えきれないほど足を運んでいる。理由は、退屈な日常を離れられるから。
ここに普通はない。それがいい。
松田と密集する人混みを奥へ進み、階段を上がると特別室に入る。俺らが対象なわけ
はなく、そこに用があるだけ。部屋へ入ると、異質な雰囲気を漂わせた数人の男女の視
線がこっちへ向く。
「おじゃまします」
「おぉ。こっち、来いや」
言われた通りに小野林さんの側へ行く。
「元気しとるか」
「はい。まぁ、ぼちぼち」
何気に答えたつもりだったが、小野林さんは大きな笑いをあげる。何か変なことでも
言っただろうか。
「ぼちぼち、ってなんだよ。若いくせに、もっとシャキッとしろ」
小野林の言葉に続くように、部屋にいた全員が笑い出す。俺と松田も合わせるように、
「すいません」と笑顔を作った。
「おい、何でも頼め」
そう小野林が右人差し指をこちらに向けると、隣に座っていた女からメニューを渡さ
れる。何でもいいと言うが、酒は禁止されている。高校生だから、と変なところに拘る
男だ。
この店を訪れるようになったのは半年前。2学年が終わり、春休みでやることもなく、
暇を持て余していた頃だった。昼まで寝て、夕方から夜にかけて街に出るというリズム
を繰り返し、何をしていいかも分からずに松田とブラブラするだけの日々。退屈だった。
刺激が欲しかった。そう思っていた時、繁華街で松田が小野林さんの連れの一人と肩が
ぶつかった。荒い声で威圧してくる男に怯まず、松田は睨み合いを始める。まずいなと
心配をすると、小野林さんが仲介に入ってくれた。「わざとじゃねぇんだから、くだら
ねぇ喧嘩すんな」と両者を抑え込む。その場が静まると、小野林さんは俺らの方を見て
言った。
「お前ら、学生だろ。こんなとこで何してんだ」
その言葉で初めて気づいたが、そこはクラブやらキャバクラやら高校生が立ち寄りは
しない店の集まっている道だった。当て所もなく歩いてるうち、こんなところに入り込
んでいたようだ。
「別に。何ってこともないけど」
居場所がなくてふらついてた、とは言いづらくてはぐらかす。でも、小野林さんは俺
の言葉から境遇を見抜いたようにしてくれた。
「じゃあ、着いてこいや。侘びの代わりに、ジュースでも奢ってやっから」
その言葉に、松田と目を合わせて無言のコンタクトを交わす。俺らは着いていくこと
にした。ジュースに釣られたわけじゃなく、他にやることもないから。それに、未知の
興味も湧いたから。
そうして連れてこられたのがこの店だ。夜から早朝まで真面目じゃない人間たちが爆
音に合わせてフロアで踊り続ける。純粋に踊りに来る奴なんて数えるほどで、それ以外
は異性目的。ナンパに来たり、カップルで来たり。たまに、過激なシーンも目にする。
多分、1組の奴らが見たら度肝抜かすような。もちろん、高校生はこんなところに入れ
ない。小野林さんが店一番の御得意の客だから暗黙で入店できてしまう。俺らは一回で
この景色に心を奪われた。
それ以来、週に一度か隔週に一度のペースでここに来ている。入店は顔パス、費用は
小野林さん持ち。バイトもせず、金もない俺らにとってはまたとない環境が用意された。
小野林さんはフロアではなく、いつも2階の特別室に陣取っている。重みすらある華や
かさに彩られ、ガラス張りの前面からは1階のフロアの様子も一望できる。多くの人間
の上に立ったような優越感すら味わえてくる。小野林さんは5人ほどの部下、3人ほど
の女性とここにいる。部下は立ちっぱなし、5人掛けの高級ソファには中央に小野林さ
ん、その周りを女たちが囲んでいる。女性との関係性については聞いた事はない。聞き
たいけれど、とてもそんな慣れた関係にはなっていない。
この部屋での話は小野林さんの武勇伝が多い。過去の勲章を自慢し、女たちがそれを
褒め、部下は静かに聞いていく。俺らはどちらかというと褒める側。と言っても、その
武勇伝は高校生の俺らからしたら素直に驚けるものばかりだった。警察に何度も世話に
なるほど無茶した話、刑務所での話、裁判所での話、数多くの女を手の上に転がせた話、
現在では金に困らないほど成り上がれた話。どれもが新鮮で、おそらく自分の人生では
経験しないであろう話ばかりだった。
警察沙汰の方については耳が痛いところもあったが、女の話には興味をそそられる。
とにかく、小野林さんの周りには女が絶えない。それも、良い体つきをした女ばかり。
小野林さん自身にはダンディという言葉が似つかわしいが、それは服装やアクセサリー
とか外見から繕えるものからの印象だ。多分、普通の格好をしていたらウチの父親とも
なんら変わりはないと思う。やはり、富を掴んだ男には魅力があるんだろう。金もそう
だろうけど、そこから生まれる余裕もある。そこから来る性格も大らかとなり、俺らの
ようなもんを拾ってくれる事にもなったんだろう。強く、優しく、金持ち。男のモテる
要素をこの人は備えている。
これまでに二度、俺らは小野林さんの女にお世話になった。以前、「お前ら、今度諭
吉持ってこい」と言われた。諭吉とは、万札の意味だ。その通りになけなしの一万円を
持って行くと、小野林さんは周りを囲む女性から一人ずつを俺らへ渡した。よく意味も
分からぬまま、その女とホテルに行って夜を過ごした。女は行為に慣れてて、これまで
同級生としてきたのとはレベルが違う感覚だった。ありがたい限りだったけど、こんな
簡単に女を渡してしまうなんて、小野林さんとあの女性たちの関係に理解を難するしか
なかった。
成り上がりの話については身構えている部分がある。小野林さんと部下の間で交わさ
れる会話を耳にしていると、その裏側にあるものの大きさに疑問を抱かざるを得ない。
もしかしたら、この人達の後ろではクスリが動いてるかもしれない。素人の自分には理
解しきれないけど、なんとなく解明できる言葉を繋げていくとそんな気がしてならなく
なる。確かに、そんなもの扱ってるんなら成り上がりも頷ける。小野林さんの仕事につ
いて聞いた事はないけど、もはや聞くのが怖くて聞けずにいる。周りにいる女性たちは
そこに引かないのかと思ったけど、彼女たちがその受取人としたら辻褄があう。小野林
さんにこれだけ入れ込む事も納得がいく。
これってまずい、と何度も思った。松田とも何度も話した。ただ、未だにこの場所を
離れられずにいる。ここにいる人達が俺らに何をしたわけでもないし、むしろ俺らみた
いな若僧を快く側に居させてくれている。それに、ここから離れたら居場所がまた無く
なる。
伊東紗和、出席番号4番。
ホームルーム終わり、教室を後にする稲田先生を追いかけて階段でつかまえる。伝え
たいことがあると言うと、「分かった」と会議室へ連れていかれた。よかった、ここな
ら堂々と声を出せて言える。
「どうした」
「昨日、友達の家に集まって勉強してたんです。そうしたら結構集中しちゃて、夜中
ぐらいまでなっちゃったんですけど。夜ごはんも御馳走になってから帰ったんで、結局
終電近くになって。でも、女の子3人で最寄り駅までは一緒だったから心配はなかった
んですけど、その途中で蓮井くんと松田くんを目にしたんです」
稲田先生は少し驚いた表情を見せた。私も、その時には同じようになった。
「そんな時間に何してたんだ」
「お店から出て来たところでした。10人ぐらいの団体の中にいて。ただ、その団体
の人達がおかしくて。明らかに暴力団とかヤクザ系の人達に、20代の夜の仕事をして
そうな女の人達で。あんまりジッと見てられないからちょっとだけだったんですけど、
なんか楽しそうに立ち話をしてました」
そう、あれは確かにおかしい場面だった。あそこに蓮井くんと松田くんがいるのは絶
対に違う。だけど、2人はいた。どうしてかは分からないけど、居るはずのないところ
にいた。
「こういうの、ホントは告げ口みたいで嫌なんです。でも、これはまずいのかもしれ
ないって思って」
「あぁ、それ以上はいい。ありがとう。言うのに迷っただろ」
稲田先生は私の気持ちを察してくれた。勝手に入り込んでいいか悩んでしまう部分に
手を差し入れる葛藤を。言ってよかった。稲田先生なら受け止めてくれると信じてよか
った。
「後の事はこっちに任せろ。お前はこの事についてはもう考えなくていい」
その言葉に、心の中のモヤモヤは晴れた。きっと、後は稲田先生がなんとかしてくれ
るだろう。
稲田景勝、3年1組担任。
9月も下旬になり、夜も深い時間になるとさすがに肌寒く感じる。この時間ならでは
という店の並ぶ道の端にあるファーストフード店に来るのも今日で6日目、伊東の話を
聞いてから毎日数時間をここで過ごしている。窓側のテーブル席を陣取り、教材や書類
を広げて明日の授業の予習を始めていく。人の話し声や音楽の聞こえる中では集中力が
減ってしまうが、こればかりは仕方ない。この窓越しに伸びる道に連なる店の中には、
蓮井と松田が出てきたというところもある。なので、ここで2人を張ることに決めた。
普通に言っても撥ね返されるだけだろうから、現場を捕まえることにした。根気強さの
勝負だ。
3時間が経過、今日も出入りする気配はなさそうだ。そんな定期的には姿を現さない
のか。それとも、知らぬ間に自分が見過ごしてしまってたのだろうか。注意はしてたが、
そうかもしれない。
そう息をついた時、意識はすぐに現実に引き戻される。店から出てきた団体の中に蓮
井と松田の姿があった。輩のような男たちと数人の女も一緒、間違いない。テーブルに
広げてた物をすぐに詰め、急いで飛び出すと団体はまだそこにいた。少しずつ近づいて
いくと、側にまで行ったところで蓮井が俺に気づいた。驚いた顔をし、隣の松田に肘で
突いて知らせる。
「蓮井、松田、ここで何してる」
2人は何も返さない。この店で何をしていたかは分からないが、何かしら疚しい思い
があるんだろう。
「おい、誰だ」
団体の中にいた男が言った。俺にではなく、2人に。この男は誰か説明してくれ、と
いうことだろう。
「先生です」
「先生かよ。こんなところにまでお出まししやがるなんて、結構な熱血ぶりじゃねぇ
だな」
喧嘩腰のような言葉だったが、元々そういう語調なのだろうと外見から判断した。他
の男たちが喋らないところから、この団体のボスがこの人物だろうことも分かり得る。
割に小柄で力自慢というタイプじゃないが、それ以外に上に立つ要素を兼ね備えている
のだろう。
「ここは高校生が来るような店じゃないんじゃないか。それに、もうこういうところ
をウロウロしてる時間でもないだろう」
柔に言ったが、やはり2人からは何も返りはない。おそらく、何を言ってもこのまま
だろう。
「帰ろう。駅まで送る」
2人の肩を取り、この場を離れようと歩き出す。すると、後ろから「先生」とボスの
声が聞こえた。
「その2人、居場所がねぇって言ってたぞ。無理に連れて帰ったところで同じだろ。
連れてくんならよ、ちゃんと面倒みろよ」
怒りを向けられるのかと思ったが、それは蓮井と松田への気遣いの込められた言葉だ
った。それで、あのボスと2人の関係性が垣間見えた気がした。居場所がない、それは
家や学校に対してのことだろう。だから、あの集団の中に居場所を求めたということな
のだろう。
2人の家庭内の事情までは把握できないが、今の言葉の限りだと親子関係はそう良い
ものではないと思う。学校にも、同じような感情を持っているといえる。確かに、2人
は成績も悪く、授業態度も悪くはある。ただ、そこまでの感情だったことには気づいて
やれなかった。全くもって、俺の責任だ。なんとかしてやらないと。この2人に居場所
を作ってやらないと。
「すまない。お前らがそんな思いでいる事を分かってやれなくて」
2人と駅まで歩く間に伝えたのは謝意だけだった。2人を責めたり、あの団体との関
係を詳しく問い質すことは控えておく。その延長線上にある原因に自分がいるのは事実
だから。
「明日は学校に来いよ」
居るべきところでないところに居る。救い出してやらないとならない。
松田佳彦、出席番号23番。
次の日の放課後、稲田から呼ばれて第二会議室へ蓮井と行った。説教じみたことでも
言われんのかと思ったら、実際は全然違うものが待っていた。稲田は入ってくるなり、
俺らの前にテスト用紙を置いていく。意表を突かれ、何を始めるつもりだと思わず顔を
上げる。
「今日から毎日、放課後にここで補修をする」
「はっ。何だよ、それ」
言われても、まだ掴みきれない。何で、俺らだけこんなところに押し込められて補修
なんか。
「お前らの学力でも、今から頑張れば入れる大学はある。だから、今から受験勉強を
始めるんだ」
受験、今まで周りから何度と耳にしてきたけど実際に自分へと繋げられなかった単語。
いや、繋げられないんじゃなく、ただ繋げなかっただけ。多分、俺らはそこから逃げよ
うとしていたんだろう。誰かに強く制されるまで、辛く厳しい現実から目を背けようと
して。
言われるがまま、そのテストに向かっていく。内容は実に簡単な現代文だった。充分
に俺でも出来る。
「お前ら、クスリやってみるか」
昨日、小野林さんから決定的な言葉を言われた。言って欲しくなかった言葉だった。
俺も蓮井もあの店で繰り広げられる光景には興味をそそられたけど、正直その一線だけ
はどうしても越えられない。
結局、俺らは断った。それによって、小野林さんとの関係が薄くならないかと危惧も
した。でも、それだけはダメだった。あんだけ悪ぶってきたのに、そこに手を染められ
もしない半端者だった。何もかもを捨て去る自信がなく、愛想を尽かした現実にしがみ
つく格好悪い人間にしかなれなかった。
そのタイミングで稲田は俺らのところへ来た。俺らをあそこから連れ出そうと来てく
れた。そして、小野林さんも俺らを稲田へ預けた。クスリに手を出せない俺らを現実へ
戻そうとしてくれたんだと思う。きっと、半端者の俺らはあそこに居るべきじゃないと
考えてくれて。
今まで親も教師も誰も真剣に俺らに向き合ってこなかった。でも、今は違うかもしれ
ない。大人なんか信じないって決めてきたけど、それを打ち破ってもいい時なのかもし
れない。
「よし、よく出来てるな」
補修は2時間を費やした。現代文の後に英語のテストもやり、終わるとすぐに採点。
結果はほぼ満点。当たり前だ。問題が簡単すぎる。
「っつうか、何でこんな問題なんだよ」
「最初は簡単なのにしといたんだよ。徐々に複雑にしていく。そのうち、分からなく
なるはずだ」
そう言い、今日は解散になった。宿題のテキストのおまけ付きで。
「俺がお前らのここでの居場所を作ってやる。だから、お前らはその先の自分の場所
を追い求めるんだ」
帰り際、稲田に言葉を掛けられた。暑苦しいのはうざったいけど、そんなに悪い気も
しなかった。
全18話、本に換算すると444ページになる長篇です。




