第十話
○登場人物
稲田景勝・いなだかげかつ(現代文担当、1組担任、35歳、冷静だが心の中は熱い)
福山蓮子・ふくやまれんこ(数学担当、1・2組副担任、24歳、損得勘定で物事を考える)
武中健吾・たけなかけんご(生物地学担当、2組担任、35歳、沈着で大人な人間)
森繁八重子・もりしげやえこ(日本史担当、44歳、3組担任、学年主任で頼りがいがある)
四島嘉津男・よしまかつお(古文担当、45歳、4組担任、生徒と同年代の娘がいる)
井之脇壇・いのわきだん(世界史担当、27歳、3・4組副担任、四島の弟分的存在)
北澄昌明・きたずみまさあき(体育担当、48歳、5組担任、独身でまだ好機を窺っている)
田蔵麻綾・たくらまあや(英語担当、22歳、5・6組副担任、新人ながらしっかりしてる)
鶴賀あかり・つるがあかり(物理化学担当、6組担任、29歳、結婚に対して執着がある)
渥美衣代・あつみいよ(帰宅部、遅刻・早退・欠席の常習)
安東菊恵・あんどうきくえ(バレー部、セッターで気が強い)
一場太志・いちばたいし(サッカー部、運動も勉強も学年トップクラス)
伊東紗和・いとうさわ(学級委員長、クラスをまとめるしっかり者で信頼もある)
岩瀬浩二・いわせこうじ(陸上部、駅伝メンバーで自分を強く持っている)
梶田希・かじたのぞみ(美術部、デザインに興味があって進路に悩んでいる)
北橋泰子・きたはしやすこ(バスケ部、万年補欠でセンスがない)
小林洋・こばやしよう(サッカー部・エースの座を一場と競う)
佐土原宏之・さどはらひろゆき(野球部、エース候補だが我が強い)
塩崎拓也・しおざきたくや(帰宅部、野方文和の親友で良き理解者)
篠永梢・しのながこずえ(手芸部、ロリータファッションをこよなく愛する)
高品悟・たかしなさとる(水泳部、自由形を専門にしている)
長岡純平・ながおかじゅんぺい(柔道部、体格はいいが気は弱い)
沼本香苗・ぬまもとかなえ(放送部、ラジオDJを夢見る)
野方文和・のがたふみかず(帰宅部、生まれつき体が弱く欠席も多い)
野口七海・のぐちななみ(合唱部、ピアノ担当でしっかり者)
蓮井新・はすいしん(帰宅部、松田佳彦とつるんでる不良)
林愛莉・はやしあいり(テニス部、ミスコンにも選ばれる美少女)
原本力・はらもとつとむ(野球部、捕手で体格も腕もいい)
藤井初音・ふじいはつね(合唱部、ソプラノ担当でマイペース)
古橋健太・ふるはしけんた(バスケ部、センターガードでスタメンをはる)
益子エミリ・ますこえみり(バスケ部、清楚でスレンダーなギャル系)
松田佳彦・まつだよしひこ(帰宅部、不良で世の中に執着が薄い)
松浦ひばり・まつうらひばり(バレー部、長身アタッカーだが気が弱い)
三池繁・みいけしげる(副学級委員長、草食系で優しいアイドル好き)
水橋範子・みずはしのりこ(漫画愛好会、少女マンガ大好きで自作してる)
宮里辰則・みやざとたつのり(学年一の秀才、何事もやってのける逸材)
桃田未絵・ももたみえ(帰宅部、転校生で心を開かない)
山口裕也・やまぐちゆうや(帰宅部、単位ギリギリで危ない)
吉澤麗子・よしざわれいこ(陸上部、駅伝メンバーで仲間意識が強い)
福山蓮子、3年1・2組副担任。
8月中旬、甲子園にはお盆が重なったこともあって満員に近い観客が占められて圧巻
だった。野球に対してそれほどの情熱を持ってない私にとって、その凄さを知らしめら
れるには充分に。こんな炎天下でもこれだけ多くの人達が足を運んでくるなんて、高校
野球って恐るべし。選手当人たちときっちり接してる人なんて、この中の少数だろうし。
それでもこの観客数になるってことは、歴史のある大会の持つ力なんだろうな。その様
子を見守ってきた甲子園球場に自分がいると思うと、なんだか感動に近い思いが浮かん
できた。
「稲田先生もあそこで試合したんですよね。凄いなぁ」
「いえ、あっさり負けましたから」
「何言ってるんですか。夢に見た舞台に立てるなんて中々出来ませんよ」
「ありがとうございます。今日、雪辱を果たしてくれることを願ってます」
海浜総合高校の初戦は6日目。抽選の結果、2回戦からの登場になった。相手は山形
代表の初出場校。強豪校と当たらなかったのはホッとしたけど、全国まで勝ち上がった
ところなんだから侮れやしない。私は出来るかぎりの応援をするんだ。朝一でのバス移
動にもかかわらず、たくさんの地元の人達がここまで駆けつけてくれた。そう、この声
援が届けば大丈夫なはず。
海浜総合高校の先発は馬服くん。県大会決勝では崩れてしまったけど、今日は調子も
よかった。テンポよく投げていき、6回を無失点と先発の役目を果たした。その後に登
板したのが佐土原くん。県大会決勝から本来のリズムを取り戻した成果を存分に発揮し、
2回を無失点に抑えた。
味方の援護も定期的に加わり、8回を終えて3対0。ウチが6安打、相手が5安打と
静かめな試合になったけど、ウチは効果的に点を重ね、相手の攻撃は要所を抑えて有利
になれた。9回に抑えの2年生投手が四球と2安打で1点を失ったものの、それまでの
貯金のおかげで逃げきりに成功。3対1、海浜総合高校が3回戦進出でベスト16入り
を決めた。
稲田景勝、3年1組担任。
3回戦の当日、甲子園はこの日も晴天に恵まれた。お盆も終わって観客数は減ったも
のの、地元からは多くの応援が駆けつけてくれた。店を持ってる繁華街の人達は休業日
にしてまで来てくれたりした。
ベスト8をかけた一戦、相手は兵庫の常連校。高校野球が好きな人間なら名前は知っ
てるであろうところだ。ウチぐらいの全国的には知られていないところからすると、名
前で差が出てしまってるような気がしてしまう。だからといって、名前で勝負するわけ
じゃない。気を強くしていれば問題ない。
海浜総合高校の先発は馬服。2回戦で10得点をあげている相手打線へ立ち向かって
いかなければならないが、こちらも2回戦で1失点の投手陣がいる。数字に臆すること
なく挑んでいってもらいたい。
しかし、試合展開は明らかに相手へ傾いていく。コントロール重視の馬服は四死球は
少ないが、バットに当てられると相手打者の力が勝って外野まで運ばれてしまう。打力
の強さで長打も増え、走者が一打で本塁まで還されるケースが多くなる。馬服の調子の
せいではなく、単純に相手が強い。だから、北澄先生も交代はせずに我慢の時間を送っ
ている。
4回を終え、0対3。味方打線も2回戦で2失点完投の相手投手にここまで封じられ
ている。そして、5回裏の守り、二死一塁二塁の場面で投手交代が告げられた。ワンヒ
ットで1点、長打で2点、これ以上の失点が許されないところで佐土原がマウンドへと
上がる。
緊張はしているだろう。気負いもあるだろう。聖地の中心にいるんだから仕方ない。
それを力に変えられるかどうか、そこに懸かってる。投球練習を終えると、原本がマウ
ンドへ駆け寄って一言二言を伝える。離れていくと、佐土原は胸に手を当てて大きく呼
吸をする。目は鋭さを増している。集中の出来ている証拠だ。
1球目、外角のストレートは見逃しでストライク。2球目、外角高めへのストレート
は捉えられるもバックネットへのファウルで2ストライク。3球目、内角へ外れるスロ
ーカーブは見逃しで2ストライク1ボール。4球目、外角高めへ外れるストレートに打
者のバットが出て空振り三振。佐土原の速球でピンチを切り抜けた。
すると、直後の6回表に海浜総合高校が牙をむく。失策で出た走者を置いて、原本が
レフトスタンドへの一発を食らわせる。2対3、1点差に迫り、ベンチもスタンドも熱
が入る。原本はキャッチャーの時の計算の高さと違い、打席では思いきりのいい力強い
バッティングになる。逆に、佐土原はピッチャーの時の思いきりのよさと違い、打席で
は単打など着実な出塁を心掛けている。2人とも良いバランスでのギャップが自身の中
で取れている。
原本のホームランに押されるように、佐土原のピッチングも好調を続ける。6回を単
打1本、7回を三者凡退に抑えて勢いに乗っていく。8回裏、先頭打者は今日3打数3
安打2打点と当たってる3番。それでも、バッテリーは強気の速球を投げ込んでいく。
2ストライク2ボールとした6球目、佐土原の投げた外角低めのストレートはバットの
芯に捉えられた。
原本力、出席番号19番。
完璧に捉えられた打球は快音とともに甲子園の空を高く翔けていく。結果は見ずとも
分かっていたけれど、釘付けになるように打球の行方を目で追っている。ボールが落ち
たのは選手も観客もいないバックスクリーン。その瞬間、相手ベンチとスタンドが沸き
上がる。バッターはガッツポーズを見せ、ダイヤモンドを回っていく。正直、悔しさも
生まれてこないぐらいの爽快な一発だった。多分、佐土原も同じ気持ちだったと思う。
尾を引かない、敵ながらあっぱれなホームラン。佐土原が悪いわけじゃない。ただ、相
手が俺らより上なだけ。あいつの速球をあそこまで運んだ奴、見たことがない。だから、
ここはもう諦めるしかなかった。これが全国を勝ち抜くレベルなのか、と痛感させられ
るしか。
結局、8回裏もその一発のみで終われた。佐土原は3回一死を投げて2安打、この状
況において充分な合格点だった。ただ、その2安打が相手への貴重な追加点に繋がって
しまった。
「あそこはさっきも打たれたところだろ。どうして、そこに投げた」
ベンチに戻ったら、監督に問い質された。監督の言ってることは当たっている。3回
裏、馬服に全く同じ外角低めのストレートを要求し、左中間まで運ばれて失点していた。
それは頭にあった上で、佐土原へ同じ球を要求した。打たれた今となっては、単なる確
信犯といえる。
「外角低めの速球は佐土原の勝負球です。それをあそこで投げさせるのはキャッチャ
ーとして当然の事です」
自信があった。結果はああなってしまったけど、あそこなら抑えられる自信があった。
抑えられると信じてミットを出した。
「佐土原、お前はどうだ」
「俺も原本と同じ意見です。俺は100%の自信をもって投げたし、原本も100%
の自信をもって投げさせたはずです。じゃなきゃ、あそこに放りません。それを打たれ
たのは俺が未熟だっただけです」
佐土原は確たる気をもって言っていく。それが心強かった。さらに、「それに」と後
を続ける。
「俺らはこれが最後の試合かもしれないんです。監督には来年もあります。でも、俺
らは今年が最後なんです。だから、後悔して終わるわけにはいかないんです。あの場面
であそこに投げなかったら、きっと後悔するはずです。それを引きずったままで終わり
になんか出来ない」
佐土原の言葉にベンチが静まった。誰もが分かってた事だけど、こうして言葉にする
事で一層に心に響いてくる。俺らの青春を捧げてきた高校野球は、もういつ終わるかも
分からないところまで来ているんだ。
「分かった。もう、何も言わん」
監督も佐土原の気に押されるように退く。生意気を言う生徒を突き放すんじゃなく、
その言葉の意味をちゃんと理解してくれ、俺らの主張を受け入れてくれた。フィールド
に立ってるのは自分じゃなくて選手。なら、そこでダイレクトに感じてる選手たちの感
性が正しいんだと。嬉しかった。信じてもらえるのは何よりの力になれる。全ての思い
が一つにまとまった。
2点を追いかける9回表、先頭の佐土原がセンター前ヒットで出塁するも後続が続か
ずに二死二塁。次の打者も外野フライに倒れ、試合終了。俺らのいつもよりも長い夏は
終わりを告げた。
佐土原宏之、出席番号9番。
試合終了のブザーが鳴り響く甲子園。悠々と校歌を歌う勝者をベンチの前から眺め、
敗者となった自分自身を確認する。なのに、心の中は不思議なほど晴れやかだった。敗
退のシーンを想像したわけじゃないけど、漠然と「泣いたりするのかな」とかは考えた
りしてたから。チームメイトには泣いてる奴も数人いたけれど、俺も原本もすっきりと
していた。
校歌が終わり、一塁側の応援席に向かう。深々と礼をすると、前方から惜しみない拍
手が届いてきた。とても大きなものに感じられた。俺はそんなに大きなものを見せられ
たんだろうか。顔を上げると、その大観衆の中から自然と知っている顔を探していく。
稲田先生も1組の皆も温かい顔でこっちに手を叩いてくれている。その光景に、胸の奥
が締めつけられた。良かった。野球をやってきて良かった。心底そう思え、涙が止まら
なく流れた。
思い返せば、苦難の年だった。2年の秋、先輩が去った後の新チームの構築でエース
の最有力とされた。確かに夏までも中継ぎをこなしていたし、自分でもそうなるだろう
としていた部分はあった。だが、現実はそう甘くない。余裕のせいか乗り切れない投球
を続けていた俺をいつの間にか馬服が抜いていった。そこから巻き返すよう努力すれば
よかったのに、ただそこでジレンマに陥るしかしなかった。俺は中継ぎのままでこの夏
を迎える事になった。でも、変われた。稲田先生の言葉があって、俺は腐ったまま終わ
らずに這い上がれた。先発にはなれなかったけれど、この夏には満足している。海浜総
合高校の野球部として、この大舞台で戦えた事は一生の誇りだ。こんな経験、もう二度
とないだろう。
リリーフに降格して良かったのは我慢を覚えた事。先発の頃は気持ちが先走っていて
思うような投球にならないとイラついていたのも、今なら踏ん張りきれる。勝負どころ
での冷静さを持っていないと務まらない役目だから。
「終わっちゃったんだな」
試合終わり、着替えを終えてバスに乗り、だんだんと離れてく球場を眺めながらふと
呟いた。まだ、この半月ぐらいが夢の中にいたような感覚にも思える。子供の頃からの
舞台に立ち、そのマウンドで投げていたなんて。
「あぁ、最高の時間だった」
隣の席にいた原本も同じ気持ちだろう。口にした事はほとんどないけど、甲子園を夢
に見ていたのは一緒なはずだ。このバッテリーでそこに立てたのは変えようのない思い
出だ。
「お前とバッテリー組めてよかった」
「あぁ、俺もだ」
そう2人で拳を合わせた。おそらく、もうバッテリーを組む事はないだろう。残念で
はあるけど、後悔はない。あそこに置き忘れてきたものより、あそこで掴んだものの方
が圧倒的に多かったから。
森繁八重子、学年主任、3年3組担任。
夏休みも終盤に入り、3年生は補修授業で早めの登校が始まっている。運動部系の各
大会も終わり、受験に向けて本格的に力を入れる時期。ここからの約半年間が生徒たち
にとって勝負。もちろん、教師にとっても。
「いやぁ、やっぱ原本くんの一発は凄かったですよねぇ。もしかして、プロとか行っ
ちゃたりするんですかねぇ」
ただ、福山先生を筆頭にして甲子園の気分が抜けてないところがあるのが現実。球場
まで応援に行った方々は一様にこの話題で盛り上がる。学校に残ってた側として、そこ
に入りきれないところがあるのは現実。まぁ、さすがに今年に限っては例外ということ
でいいか。2学期になれば、嫌でもモードが切り替わるだろう。
そういえば、夏休みに入ったばかりの頃に3学年教師での集まりをやった。稲田先生
や田蔵先生の歓迎会もしてなかったし、と四島先生が発起人になって開いてくれた。実
際は飲み会みたいなものだったけれど、新しい発見もあった。稲田先生の過去について。
酔った福山先生が口を滑らせたようで、ペラペラと喋っていった。稲田先生が学生時代
に甲子園へ行くほどの野球選手だった事、前に勤めていた高校で野球部の顧問をしてい
た事。初耳だったので、一同が驚いた。その中でも、野球部の顧問の北澄先生は特に興
味があったようでいろいろと質問をしていった。当然、ウチの野球部ではという話にも
なる。顧問は無理だとしても、何かしらの助けになってもらえれば力になるはず。でも、
稲田先生はそれを柔に断った。そして、去年の地区大会の決勝戦で采配ミスをしてしま
ったという話をしていく。私にはそれほどの悩みの種になるようには思えなかったけど、
稲田先生の中では傷になってるらしい。この事はウチの生徒にはなるべく言わないでも
らいたいと言われたので了承し、それ以上に突っ込むこともしなかった。
同時に、これまでわだかまりになっていた稲田先生への疑問も解明できた。どこか他
を寄せ付けないような雰囲気もありながら、時に誰よりも親身に生徒と向き合ってきた
ギャップ。過去に傷を負い、それによって生徒ともっと深く係わり合う選択をした事で
今の稲田先生が出来上がったのだろう。
水橋範子、出席番号26番。
今日は学校に補修授業を受けに行った後、篠子がそのまま家まで遊びに来た。遊びに
来たって言っても、夏休みの宿題を終わらせるのが名目なんだけど。趣味にかまけたり、
受験勉強に取り掛かってるうちに宿題を等閑にしてしまったんで、協力して一気に終わ
らせようと。篠子も同じように宿題を終盤に片付けるタイプで助かった。自分だけだと
焦るけど、仲間がいると思うと気は楽になる。こういう時、私たちは実に似た者同士だ
と実感する。
「のんちゃん、調子どう」
「ぼちぼち。そっちは」
「同じく」
やっぱ、同類だ。それが世間的からしたら何の羨みもない部類だとしても、私たちに
はこれが心地良い。馴れ合いだとしても、劣等感の分かち合いだとしてもいい。これが
いいんだ。
私は英語、篠子は現代文を淡々とこなしていく。「こなしていく」っていうか、正し
くは「写していく」。そう、私たちはお互いのを写してるだけ。事前に半分ずつ宿題を
割り振っておき、今日はお互いのやってきた分を丸々写す作業。なんて効率のいい方法、
こんなとっておきを使わない手はない。だって、受験生だってのに宿題なんか正々堂々
とやってられないっつうの。どうせならこうして協力しちゃって、余りの時間を受験勉
強に・・・・・・多少、趣味の時間にも。
「のんちゃん、寒くない」
「大丈夫。そっちは」
「こっちは大丈夫」
クーラーのガンガンにきいた部屋に長時間いるため、篠子が気遣ってくれる。ただ、
私の「大丈夫」と彼女の「大丈夫」は意味が違う。私のは寒くないかどうか、篠子のは
暑くないかどうか。彼女はウチに来ると、趣味のロリータファッションへ着替える。私
的には全然気にならないからいつでもどうぞとしてるけど、一応ウチの家族には見られ
ないように部屋の鍵は閉める。見られたくないわけじゃなく、おそらくウチの家族には
彼女の趣味を受け入れる余裕の幅がないと思うから。ただし、そこで障害になるのが室
温について。正確には、体感温度の差について。私は家に帰ったらタンクトップとミニ
のズボンに着替えてしまうため、当然に篠子と同じ場所にいると温度の感じ方が違って
くる。なので、クーラーは強めに設定しておいて、私が寒く感じたらスクールカーディ
ガンを羽織ることにしている。
数時間を費やして、夏休みの宿題を完了。学校側も3年生ってことを考慮して少なめ
にしてくれてるから、例年よりも時間は掛からずに済んだ。お互いの健闘を称え、篠子
はまた制服へ着替え直して帰ってった。
福山蓮子、3年1・2組副担任。
2学期が本日よりスタート。まぁ、補修授業があったから今日からって気もあんまり
しないけど。なんにせよ、これからは3年生にとって大事な時期。追い込まれてく分、
気の持ち様も難しくなるだろうから慎重にいこう。3年生を受け持つのは初めてだし、
軽く緊張。
始業式のため、体育館に行こうと職員室を出る。最短で行ける経路は生徒で混んでる
だろうなと思って、少し回り道をしてくことにする。人気の少ない道を選んでいくと、
階段を上がったところで異変を目にした。篠永さんがこちらに背を向けた状態で転んだ
ように崩れている。
「篠永さん、大丈夫」
すぐに駆け寄って声を掛けると、遠くの方を歩く数人の女子の姿が視界に入った。私
には全く気づいていない。
「どうしたの」
「・・・・・・いえ、何でもないです」
何でもないようには見えなかった。見たところ傷はなさそうだけど、そういう問題で
はなく。
「あの人たちに何かされたの」
「違います。転んだだけです」
そう言うと、篠永さんは自力で立ち上がり、こっちに頭を下げて去っていった。これ
って、もしや危ないのかもしれない。
始業式の間、その事で頭の中がいっぱいに巡っていった。あれはどういう事だったん
だろうか。誰かに相談として話してもいいんだろうか、事を大きくさせない方がいいん
だろうか。何度も巡らせていき、稲田先生に話すことに決めた。教え子の心配に事の大
小を拘らなくていいはず。
篠永梢、出席番号11番。
学校終わり、学校と家から中間あたりの駅近くの漫画喫茶に寄った。海浜総合高校の
人に会いたくないから学校の近くは避けて、中学までの同級生にも会いたくないから家
の近くも避けて、大体いつもここに来ている。今日は始業式だけだから時間もあるし、
定期券があるから余分なお金もいらないし、たまに息抜きの漫画喫茶ぐらい許してもら
いたい。
読むのは少女漫画が基本。子供の頃から大好きで、ベタであればあるほどいい。主役
の男女がくっつくのが十中八九ってことぐらい分かってるけど、思いっきり感情移入を
してしまう良い読者。実生活であんなドラマチックなシチュエーションがない分、漫画
を通して疑似体験する。ヒロインを自分に置き換え、架空の恋物語を楽しむ自己満足。
ちなみに、現実の恋愛経験ゼロ。少女漫画に浸かってるうちにあの世界観が通常になっ
てしまって理想が高くなってるのか、それを理由にしてるだけなのか。悲しくなるから、
前者にしておく。
こうしてると心が落ち着く。慣れた場所で誰に気兼ねもせずに趣味に没頭する。何に
も代えがたい時間だ。このまま、この時間が流れてってくれればいいのに。分かってる、
ただの現実逃避。
制服で隠れてる膝の具合を確認する。さっきのがまだ少し痛んでる。痛いのは膝だけ
じゃない。体の痛みはそのうち消えちゃうけど、心の痛みはそう簡単には消えない。私
は何もしていないのに、何であんな目に遭わないといけないんだろう。私に何か非でも
あるなら分かるけど、そんなのないはずだ。私が痛めたくなるタイプなんだろうけど、
それが理由になんかなっちゃいけない。痛めつけたかったら痛めつけていいわけない。
苦しめたかったら苦しめていいわけない。そんな勝手な感情、こっちにまで持ち込まな
いでほしい。
でも、そういう私も何も言えないのが現実。反抗も反論もせず、ただ体と心を痛めて
いくだけ。こうやって、事が終わった後で自分の中で不満をぶちまけるしかない弱さを
嫌に思う。
伊東紗和、出席番号4番。
放課後、図書室で勉強をしているうちに空は色を変えはじめていた。この夏休みは勉
強の日々だった。よくこんなに勉強ばっかしてて飽きないな、ってぐらい。まぁ、受験
っていう長期的な目標があるから頑張れるんだけど。別に嫌いってわけじゃないし、皆
も一緒にそこに向かってるんだって思うと気が引き締まる。私だけ立ち止まってたら、
すぐに追い抜かれてく。
それに、勉強ばっかりの中にも息抜きはあった。水泳部の県大会に高品くんの応援に
行ったり、野球部の全国大会に甲子園まで行った。特に、野球部の方は白熱した展開に
ハラハラドキドキの連続だった。自分がやってるわけじゃないのに、これでもかって心
が動かされた。負けた後、選手たちが挨拶に来た時にはスタンドからも多くの涙が流れ
ていた。
息抜きといえば、もう一つ。週に2回か3回、宮里くんの家に夕食を作りに行ってる。
バイトと家事と受験勉強を毎日こなしてる宮里くんの負担をちょっとでも軽くできれば
と思って。小一ちゃんと遊ぶのも楽しみだし。料理は得意じゃないけど、皆が美味しい
って言ってくれるのはお世辞でも嬉しい。
図書室を出た後、向かった先は第三会議室。ここは漫画愛好会の部室。会議室は第一
から第三まであって、先生たちの会議や来客時の対応に使われたりするけど、第三まで
が埋まることはまずない。ってことで、ここが漫画愛好会のために提供されたらしい。
漫画愛好会は一応は文化部に属されてるけど、正直部活動の中に含まれていいのか疑問
なところ。だって、活動内容は漫画について話したり、各々の自作漫画を見せ合うって
ぐらいだし。集まるのは週に1回だけど全員が集まるわけでもなく、気分次第で来るか
来ないか決めていい、っていう緩い感じ。だから、本人たち的にも部活動に属されてる
のはなんとなく心苦しいみたい。でも、そうしないと部屋を提供してもらえないから渋
々納得してる。
「おじゃましま~す」
「おっ。伊東ちゃん、おいで」
第三会議室のドアを開くと、部屋の真ん中あたりにいたのんちゃんに声を掛けられた。
漫画愛好会には、1組からのんちゃんと篠子が入ってる。のんちゃんは自分でも漫画を
書き、篠子は読む専門。新作を持って来たから見て欲しい、ってメールが来てたから訪
問した。
「篠子はいないの」
「うん。今日はいいや、って」
のんちゃんの新作を読ませてもらう。彼女の漫画は少女漫画風の青春モノ。素人目の
意見だけど、実に上手。画もストーリーも巧みで、読み手の心理を突いている。「プロ
目指したら」と言ってみたけど、「理想はそうだけど、そんなうまくいかないって」と
現実的に返されてしまった。理想と現実、そんなこと考えるような年齢になったんだな
って淋しくもあった。
水橋範子、出席番号26番。
「範子、ちょっといらっしゃい」
19時過ぎに家に帰ると、母親に呼び止められた。仕方なくリビングに行くと、父親
も珍しくこんな時間に帰ってきていた。両親が既にいるソファとテーブルを隔てた反対
側のソファに座る。なんか、変な威圧感が押し寄せてくる。多分、私に良い話ではない
のは汲み取れた。
「今日、これが届いてたわよ」
母親が差し出してきたのは薄めの宅配便だった。中身が何かはすぐに分かった。両親
も分かってるはず。よく利用してる漫画同人誌ショップの通販で買ったものだ。自分で
も書いてるけど、他人の書いてるのも好んで見てる。普通の漫画も好きだけど、プロで
はやらないようなテイストがあって良い。
「ねぇ、そろそろ漫画ばっかじゃなくて勉強もしたら」
「してるよ。ちゃんと」
「大学はもう決めたの」
「それは・・・・・・まだだけど」
正直、どこの大学に行くかなんて言われてもピンとこないのが現状だった。私の知っ
てる大学なんて、私じゃ手の届かないところばかりだし。つまり、私が行く大学は私の
知らないところ。ここら辺にある大学の中から成績に見合ったのを選んで、なんとなく
受ける感じ。
一応、夏休みの間に2つの説明会には参加した。自主的というより、周りが明らかに
自分の先を行ってるような会話をしてるんで何かしないとヤバいと思って。私も進路に
ついて考えてますよ、っていうアピール材料みたいな。篠子も一緒に行った。一人じゃ
怖かったし、成績もそんなに変わんないから。「同じとこ受けようね」なんて、空しさ
逃れの保健まで掛けといた。
「もうそういうのも考えないといけないのよ」
「分かってるよ、そのぐらい」
「じゃあ、本腰を入れて受験勉強するのよ。漫画は大学入ってからでもいいでしょ」
軽く喧嘩腰ぐらいの言葉になってた。父親が間に入ってくれたけど、私は露骨にふて
くされて部屋に帰ってく。ベッドに身を預けて、収まりのつかない怒りをぐるぐる回し
てく。
目を開くと、当たり前に自分の部屋の景色が広がった。その多くを占めてるのが漫画。
今や、自分の生活において必要不可欠なものだ。漫画を描いてる時は楽しいし、漫画を
読んでる時は幸せだ。漫画で食べていけたら言うことないけど、そんなに甘くないのも
分かってる。現に、今まで何回と新人賞に応募してるけど全く手応えはない。私の腕は
同人誌まで、プロの値じゃない。
現実が静かに押し寄せてくる。知らん振りしてても、少しずつ近づいてきてる。いつ
までも他人事のようにはしてらんない。半強制的な階段を上っていかないといけない。
あぁあ、私は多分このまま誰も知らないような大学に入って、誰も知らないような会社
に就職して、そこそこの人生を送ってくんだろうな。大人になるって面倒くさい。この
まま子供でいれればいいのに。
稲田景勝、3年1組担任。
廊下の向こう側から歩いてくる篠永はどこか怯えたように縮こまっている。俺に対し
てではなく、俺の前を歩いてた女子のグループに対して。消極的に下を向いたまま、身
を小さくさせて擦れ違っていく。その後、安心したように息をついたのが意識の表れと
いえた。
「篠永」
「はっ、はい」
下を向き、意識が別のところに行っていた分、反応が遅れていた。
「今、話をしたいんだけどいいか」
「えっ、はい」
話って何、という表情をしている。でも、言葉にはしない。篠永はそういうタイプだ。
会議室へ移動し、2人きりの空間を作る。篠永は浮かない顔をしていた。何か自分に
不利な話なんだろうと決めてるんだろう。それは正解かもしれないが、最初からそうと
決めてしまうのは被害妄想だ。これまでの経験からそういう思考になってしまうんだろ
うが、それじゃいけない。悩んだり、考えることはとても必要な事だが、それだけじゃ
いけない。
「これから言う事は、お前の気分を害してしまうかもしれない。それに、間違ってる
かもしれない。そうだったら、ストレートにそう言ってくれ」
「はい」
「始業式の日、福山先生が廊下に倒れてるお前を見た。お前は何でもないように装っ
たらしいが、近くを歩いていた女子数人の姿が福山先生は気になったそうだ。その話を
され、俺も自分なりに考えてみたんだ」
俺の話を聞いている篠永はこちらを見たり見なかったりを繰り返す。浮かない顔に変
化はない。
「保健室に行ってみた。浜森先生に聞いてみたら、疑問はすぐに解けた」
その言葉に、篠永の様子が変わったのが微かに見て取れた。
「1年の時にイジメられてたらしいな」
突くのには覚悟のいるところだった。興味本位で突いていい場所じゃない。それでも、
手を伸ばさないとならない。このまま、深い傷を負わせたままじゃいけない。
篠永は1年の時、週に2回か3回は保健室を訪れ、その度に傷や痣を作ってきていた
そうだ。浜森先生も追及はしなかったが、それが通常でない事は当然に察した。その後、
イジメは教師側にも伝わる事となり、篠永は守られた。
しかし、始業式の時に福山先生が見た光景からすれば、その関係性は今でも続いてい
るのだろう。おそらく、公にはならないように傷や痣にはならない程度に。証拠は残ら
ないし、ここで篠永に訊いても否定をするだろう。一度切っても切れなかったのだから、
ここで公にしたとしても関係は途切れないと踏んで。それどころか、もっと酷い仕打ち
を受けるんじゃないかと危惧するかもしれない。長岡の時のように現場を目にできれば
いいが、そんな偶然を待ってるわけにもいかない。ここで、今出来得る橋渡しをしてや
らないと。
「いいんだ。言いたくないなら言わなくても。無理には聞かない」
深みに追い詰めないように導く。
「ただ、一つだけ胸に留めておいて欲しい。それは、自分の守りたいものはどうして
でも守るってことだ。世の中を生きてく中で理不尽な事は山ほどある。溜め息をつく事、
抱え込んでしまう事、いろいろある。でも、その中でも自分の信念だけは捨てちゃいけ
ない。自分らしく自分でいる事、これだけは守らないとならない。それをお前にも分か
って欲しい」
「・・・・・・はい」
分かったような分かってないような反応だった。届いてくれていることを願う。
篠永梢、出席番号11番。
「って感じでさ、なんか空気で圧迫してくんだよね」
左隣で話してるのんちゃんの愚痴を聞きながら、頭では別の事を考えてた。さっきの
稲田先生からの言葉は単純に嬉しかった。真剣に私の事を考えてくれてたのが分かった
から。
1年の時は学校に行くのが苦痛だった。行っても、何も楽しい事なんてなかったし。
イジメられるきっかけは私の趣味。ロリータファッションが好きってことを伝えたら、
変人扱いをされるようになった。気味悪い、気色悪い、って言葉は何回言われたか分か
らない。でも、それでロリータを止めることはしなかった。自分の信念は曲げたくなか
ったから。ロリータを批判する人達に分かってもらおうなんて思わないし、そんな批判
のために大切なものを遠ざけるようなことはしない。私はただ独りで時間が過ぎるのを
放課後まで待つ日々を選んだ。そこに空しさや淋しさはあったけど、今になってみれば
我慢してよかった。
2年になって、友達ができた。水橋範子ちゃん、「のんちゃん」って呼んでる。1年
の頃を引きずってた私に、彼女から話し掛けてきてくれた。嬉しかった。半分、高校で
の青春を諦めてたから。2人のタイプは全然違うのに、妙に合う。のんちゃんは周囲と
群れるのを好まない。気を遣い合う関係は疲れるから嫌らしい。一緒にいても気を遣わ
なくていいから、と私との関係をいつか言っていた。「それって褒めてるの」って聞い
たら、「さぁね」とあっさり返された。まぁ、それものんちゃんっぽい。面倒臭がりの
マイペース。
無類の漫画好きっていう共通の趣味も2人を繋げるのに大きな力になった。さすがに、
のんちゃんの漫画描きの才能にはビックリしたけど。普段のどこか無気力な様子からす
ると、あんな少女漫画を描けるなんて思えない。人は見かけによらない、って事を痛感
させられた。
「ねぇ、聞いてんの」
「んっ、聞いてるよ」
私の上の空がバレたのか、のんちゃんに指摘される。一応、話は耳にはしてたけど。
進路の事で親から圧迫されて窮屈になってる、漫画を描くのもそろそろにしたらどうか
と言われた、っていう愚痴。
「私も同じだよ。いつまでああいう服を着てるんだ、って言われたし。でも、止める
つもりなんてないよ。私が私らしくいる事は大事だし、それを否定する人の意見なんか
聞く気ないから」
そうだ。私は私でいる権利がある。それをとやかく言われる筋合いはない。自分の道
は自分で決める。
「そっか。そうだよね」
「うん。だから、のんちゃんも好きな事をするべきだよ」
そう言うと、のんちゃんは隣で含み笑いをする。
「何よ。何で笑うの」
「いや、篠子っぽくないなって思って」
「どうして」
「だって、今の格好いいじゃん」
格好いい、って私のどこが。そんなの、初めて言われた。
「ありがとうね。そう言ってくれるのは篠子だけだよ」
のんちゃんは微笑みながら優しく言ってくれた。うぅん、違うの。今のは多分、自分
自身に向けても言ったんだと思う。
私の守りたいもの。それはきっと、自分の信念とこんな私を大事に思ってくれる人。
全18話、本に換算すると444ページになる長篇です。




