第1話 七日目の夜
感染して七日目。
昼の私は、まだ人間だった。
「ありがとうございました」
レジ越しに頭を下げる。
声も、仕草も、たぶん普通だ。
でも——
夜になると、耳が生える。
最初に気づいたのは、音だった。
遠くの足音。
冷蔵庫の低い振動。
外を走る車の、わずかな擦れる音。
全部、はっきりと聞こえる。
おかしい、と思った。
でも、それだけじゃなかった。
「……なんか、においしない?」
同僚が、ぽつりと言う。
私は一歩だけ後ろに下がった。
まるで、風の向きを確かめるみたいに。
「そうかな」
「ん、凪沙?どした?」
「……なんでもない」
気のせいじゃない。
それは、私のにおいだ。
自分では分からない。
でも人は、少しだけ距離を取る。
理由もなく。
それが、一番きつい。
夜、街は静かになる。
人はまだいる。
コンビニも開いているし、誰かが歩いている。
夜に出ること自体は、別におかしくない。
でも——
「感染者なのに」
それがつくだけで、意味が変わる。
屋上に上がり屋根を踏み込むと、
体が軽く浮いた。
音がしない。
風の流れが分かる。
「……変だよね」
誰にともなく呟いた。
でも、嫌じゃない。
夜の方が、少しだけ楽だった。
そっと耳に触れると、
柔らかい感触が、指先に返ってくる。
ふわふわしていて、少しだけくすぐったい。
自分のものなのに、まだ慣れない。
しばらく眺めていると、
猫が一匹近づいてきた。
何も気にしない顔で、私の隣に座る。
「また来たの」
猫は答えない。
ただ、そこにいる。
人は少し距離を取るのに。
それが少しだけ、救いだった。
——家を出たのは、六日前。
「ねぇ」
久しぶりに、母が声をかけてきた。
でも、こちらを見ない。
「夜に出かけるのはやめてね」
少し置いて、母は続ける。
「……今は、そういう目で見られるから」
「……分かってるよ」
そう答えたのに。
私はその日の夜、外に出た。
理由は分からない。
ただ、外の空気が吸いたかった。
そして——バレた。
私がこうなる前は、
普通に愛してくれていたのに。
言葉にならない感情が、胸の奥で膨らむ。
気づけば、頬が濡れていた。
「何で分かんないの……」
窓を開けると、
夜の空気が流れ込んできた。
冷たいのに、少しだけ落ち着く。
気がついたら、外に出ていた。
そして、そのまま帰らなかった。
今も、帰っていない。
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