健全な立ち話(※距離が問題)
白百合亭では、立ち話にもルールがある。
正確に言うと、
立ち話が始まった瞬間に、ルールが生える。
発端は、廊下だった。
朝食後、部屋に戻ろうとした俺は、
曲がり角でリネットと鉢合わせた。
「アレンさん」
「おはようございます」
ここまでは健全。
問題は、距離だった。
近い。
近いのだが、触れてはいない。
触れてはいないが、風圧を感じる距離。
「……あの、ちょっと近くないですか」
俺が言うと、リネットは首を傾げた。
「会話に適した距離です」
「どの基準で?」
「声が聞き取りやすい基準です」
耳じゃなくて、意識が集中しすぎる。
そこへ、壁越し客が通りかかる。
視線が、止まる。
「……立ち話?」
「はい」
リネットが即答する。
「健全な立ち話です」
壁越し客の視線が、
俺とリネットの距離に落ちる。
「……ずいぶん、近い健全ね」
「適正距離です」
即答しないでほしい。
中年客も合流した。
「何の話だ?」
「今から説明します」
やめろ。
「立ち話は、座らないので健全です」
「立ってれば何でも健全か?」
「基本的には」
基準が雑だ。
若い女性客まで現れた。
なぜこの宿、
人が集まるときだけタイミング完璧なんだ。
「何してるんですか?」
リネットは胸を張る。
「健全な距離で、健全な立ち話です」
若い女性客は、じっと距離を見る。
「……一歩下がったら?」
リネットが一歩下がる。
今度は、別の意味で空気が変わった。
「……あ」
若い女性客が小さく声を漏らす。
「今の距離、逆に意識しません?」
全員、黙る。
確かに。
そこへ、女将の声。
「はいはい、何か集まってるわね〜」
出た。
女将は一目で状況を把握した。
「立ち話ね」
「はい」
「距離、測った?」
測るな。
女将は、床に目印の線をチョークで引いた。
なぜいつも道具がある。
「ここからここまでが、健全立ち話ゾーン」
幅、一歩分。
「近すぎると?」
「意識される」
「遠すぎると?」
「怪しまれる」
「ちょうどいいと?」
女将は、にっこり。
「誰も何も言えない」
それが理想なのか。
女将の指示で、
俺とリネットがゾーン内に立たされる。
「はい、会話して」
「え?」
「普通に」
全員が見ている中で、普通は無理だ。
「……今日は、天気いいですね」
俺の人生で一番無難な言葉。
「そうですね」
リネットが頷く。
「乾燥しています」
「……ですね」
沈黙。
距離は適正。
空気は最悪。
若い女性客が言った。
「……健全すぎて、逆にエロくないですか?」
「それ言うな!!」
女将は満足そうに頷く。
「ほら、距離が問題なのよ」
問題作ってるの、あなたです。
女将は総括に入る。
「近すぎると、誤解される」
「遠すぎると、怪しまれる」
「ちょうどいいと?」
女将は、俺を見る。
「想像が暴走する」
詰んでいる。
その夜。
新しい張り紙が出ていた。
『立ち話は健全距離を保ちましょう(※意識した時点で手遅れ)』
下に、小さく追記。
『※女将が距離を調整します』
リネットが真面目に言う。
「次から、距離を測りますね」
「もう立ち話しない」
廊下の向こうで、女将の声が響いた。
「はいそこ! 近い! 半歩下がって!
……はい、今度は遠い! 半歩前!」
俺は壁に背を預け、天井を見上げた。
健全とは、
これほどまでに、ややこしい。




