固定客が増えると、誤解も増える(リネットが説明する)
白百合亭に“固定客”という概念が生まれた日、
俺ははっきりと理解した。
「……これ、俺が原因扱いされる流れだ」
朝の食堂。
見慣れた顔が、三つ。
・壁越しに俺を疑った女性客
・浴場で俺を視線の渦に放り込んだ中年客
・そして、初見なのに妙に距離が近い若い女性客
全員、なぜか俺の周囲に座っている。
「……席、自由ですよね?」
女将がにこやかに言った。
「ええ。皆さん“偶然”同じ席を選ばれただけ」
偶然を信じるには、世界は残酷だ。
そこへ現れたのが、リネットだった。
「皆さま、おはようございます。本日は“常連様向け説明会”を行います」
「説明会?」
嫌な単語がまた増えた。
リネットは胸を張る。
「白百合亭では、固定客が増えるほど、誤解が生じやすくなります」
最初の一文から不穏だ。
リネットは黒板を持ち出してきた。
なぜ食堂に黒板がある。
「まず、こちらをご覧ください」
《誤解 発生率》
図が描かれている。
「宿の健全度は一定ですが」
チョークが走る。
「固定客の人数が増えると、誤解が指数関数的に増加します」
「なんで数式っぽいんですか」
「説明しやすいので」
黒板の端に、小さくこう書かれていた。
※主な誤解媒介者:アレン様
「ちょっと待て」
壁越し客が腕を組む。
「……つまり、この人がいると誤解が増える、と」
「正確には」
リネットが訂正する。
「この方が“何もしていないのに”誤解が増えます」
「フォローに見えて余計ひどい」
若い女性客が興味津々に身を乗り出す。
「でも、何もしてないのにって……逆に怪しくないですか?」
「ですよね」
同意するな。
リネットは続ける。
「例えば」
黒板に事例が書き足される。
・ため息の同期
・椅子の軋み
・沈黙の間
・説明の過多
「これらが重なると、“何かが起きた感”が発生します」
「感だけ!?」
「はい。感情は事実より強いです」
宿屋で教えることじゃない。
中年客が口を開く。
「じゃあ、対策は?」
リネットは即答した。
「距離を取ります」
そう言って、俺の椅子を引っ張った。
「ちょ、ちょっと!」
「誤解を防ぐためです」
俺は食堂の端に隔離された。
全員の視線が、余計に集まる。
「逆効果じゃない!?」
「いえ。“見られている状態”は健全です」
健全の定義が崩壊している。
壁越し客が冷ややかに言う。
「……監視付き、ってこと?」
「違います」
リネットは真顔で言った。
「信頼に基づく観察です」
言い換えで印象は変わらない。
そのとき、若い女性客が手を挙げた。
「あの〜、質問いいですか?」
「どうぞ」
「この宿……そういうサービスは?」
食堂が静まり返る。
女将がにこやかに割り込む。
「ありません」
即答だった。
若い女性客は少し残念そう。
「……じゃあ、なんでこんなに空気がそれっぽいんですか?」
全員が俺を見る。
「俺を見るな!!」
リネットが補足する。
「空気は、誤解の集合体です」
「哲学みたいに言うな」
説明会は佳境に入った。
「まとめます」
リネットは黒板に大きく書いた。
《白百合亭 健全三原則》
1.起きていないことは起きていない
2.起きたように感じても、起きていない
3.誤解は共有されると増幅する
「以上です」
「納得できるか!!」
説明会後。
客たちはそれぞれ納得したような、していないような顔で散っていった。
壁越し客が去り際に言った。
「……まぁ、何もしてないならいいです」
「してないって言ってるだろ!」
若い女性客は振り返り、微笑む。
「また泊まりに来ますね」
「来なくていい!」
中年客は肩を叩いてきた。
「大変だな」
それが一番刺さった。
最後に、リネットが俺の前に立った。
「本日の説明、いかがでしたか?」
「俺の立場が悪化しただけです」
「でも」
彼女は少しだけ柔らかく言った。
「誤解は減りました」
「どこが?」
「皆さん、“あなたは何もしていない”と理解しました」
「代わりに?」
「“何もしてないのに誤解される人”だと理解しました」
詰んでる。
その夜。
新しい張り紙が貼られていた。
『固定客同士の情報共有は健全です(※想像は自己責任)』
俺はもう、宿を変える努力をやめた。
変わるべきは、世界のほうだ。




