健全な衣装(透過率30%)※リネット監修
白百合亭の朝は、だいたい張り紙から始まる。
『本日、健全な衣装の試験運用を行います』
俺は貼り紙を見上げ、静かに目を閉じた。
「……衣装って何の。誰の。なぜここで」
背後から、落ち着いた声。
「安心してください、アレンさん」
リネットだ。いつも通り距離が近い。
「本日は“健全な衣装”の試験運用です」
「その“健全”って、何を担保してるんですか」
「気持ちです」
気持ちで布の面積は増えない。
廊下の先で、従業員たちがわらわらと集まっていた。
全員、普段の制服じゃない。
……妙に、ふわっとしている。
……妙に、ひらっとしている。
……妙に、光を受けると「おや?」ってなる。
俺は思った。
「これ、衣装というより……“概念”では?」
リネットは胸を張る。
「はい。健全を体現した衣装です」
その言い方が一番危ない。
女将がぱん、と手を叩いた。
「はい皆さん! 本日は《健全おもてなし強化デー》よ〜!」
従業員の一人がひそひそ言う。
「でもこれ、透け……」
「しっ。健全だから」
健全は万能呪文じゃない。
俺は意を決して、リネットに小声で聞いた。
「……これ、何がどう健全なんです?」
「視覚的に“清潔感”が出ます」
「透けてるのに?」
「透けてるのではなく、“軽やか”です」
言い換えで罪は消えない。
そのとき、リネットが俺の腕を取った。
「アレンさん、こちらへ」
「ちょ、ちょっと」
「お客様の目線で問題点を洗い出します。健全な仕事です」
周囲の従業員たちが一斉にこちらを見る。
やめてくれ。
俺が一番“健全じゃない顔”になってしまう。
リネットは、真剣な目で俺にメモ帳を向けた。
「まず、第一印象。どうですか?」
「……えっと、こう、あれですね……」
「率直に」
「率直に言うと俺が死にます」
「大丈夫です。私、アレンさんのことは信じてます」
そのセリフはだいたい罠だ。
俺は息を吸い、吐いて、できるだけ安全な言葉を探した。
「……危険です」
「どこが?」
「全体が」
リネットは頷いた。
「なるほど。健全度が高い、と」
「逆だよ!!」
思わず声が出た。
廊下の空気が凍る。
女将がにこにこしながら寄ってくる。
「なぁに? 逆ってなぁに?」
「衣装の健全度が高いから、逆に危険って意味です!」
俺は自分で何を言ってるんだ。
リネットが補足する。
「アレンさんは“刺激が強い”とおっしゃりたいのかと」
「そう! そうです! 刺激が強い!」
「つまり、見た人の心が揺れる」
「揺れますね!」
「揺れた心を整えるのが、健全」
「整えられないです!」
リネットはメモを取った。
「課題:お客様の心が整うまでの導線」
導線じゃなくて布を増やせ。
試験運用は、宿の朝食会場で本格化した。
従業員たちが皿を運ぶたびに、ひらっ。
しゃがむたびに、ふわっ。
陽光が差すたびに、きらっ。
客たちの視線が、明らかに箸より忙しい。
そして当然、俺への視線も増える。
「おい、あの男……」
「従業員に囲まれてるぞ」
「常連か?」
違う。俺はただの被害者だ。
リネットが俺の隣に立つ。
「アレンさん、お客様の反応が良いです」
「反応の種類が健全じゃない」
「健全です。皆さん“元気”です」
「元気の出所が不健全なの!」
そこへ、例の「壁越しで不機嫌になった隣室客」(成人女性)が通りかかった。
彼女は俺を見るなり眉をひそめる。
「……また、あなた?」
「誤解です! 今日は何もしてない!」
彼女の視線が、リネットの衣装へ移る。
「……ふぅん」
そして、俺へ戻る。
「……“そういう宿”なんですね」
「違います!!!」
女将が即座に割って入った。
「うちは健全よ〜」
彼女は薄く笑った。
「健全って、便利な言葉ですね」
その通りだよ。
騒ぎを収めようと、リネットが前に出た。
「ご安心ください。こちらの衣装は“健全基準”を満たしています」
「基準って?」
「透過率が」
やめろ。
リネットは澄んだ声で言った。
「30%です」
終わった。
客たちがザワつく。
「透過率ってなんだよ」
「数字で言うな」
「基準、そこなの?」
俺は頭を抱えた。
「リネット……それ、言わなくていい情報だろ……」
リネットはきょとんとする。
「でも、明確な基準があると安心しますよね」
「数字が出た瞬間に安心が死ぬんだよ!」
結局。
女将が「健全の定義」を見直すと言い出し、
衣装は“保留”になった。
廊下でリネットが反省会を始める。
「アレンさん。改善案をください」
「布を増やす」
「なるほど。健全度を上げる」
「そう。上げる。上げてくれ」
リネットは真面目に頷き、メモに書いた。
「布面積:増量。透過率:下方修正。揺れ要素:抑制」
やっと言語が現実に追いついた気がした。
「あと」
俺は付け足す。
「“透過率”って単語を二度と使わない」
リネットは少し考え、こう言った。
「では“透明感”にします」
「もっとダメ!!」
その夜、張り紙がまた増えていた。
『明日より制服は健全仕様に戻ります(※透明感は控えめ)』
控えめで頼む。
できれば永久に。
俺は部屋に戻り、深くため息をついた。
壁の向こうから、隣の客の声が聞こえる。
「……はぁ」
俺も返すように、同じタイミングでため息をついた。
数秒後。
ノック。
「リネットです。ため息が同期しました。誤解が生じます」
「もう放っておいてくれ!!!!」




