薄い壁は、罪をなすりつけてくる
白百合亭に泊まる三度目の夜。
もはや俺は悟っていた。
「……何かが起きる」
起きないわけがない。
ここは“健全”を名乗る宿だ。
部屋で荷を解いていると、ノック。
「アレンさん、少しよろしいですか?」
声の主は、従業員のリネットだった。
初対面のはずなのに、なぜか距離が近い。
物理的にも、精神的にも。
「えっと……何か問題でも?」
「いえ。“問題が起きそう”なので、先に対応を」
嫌な予防線だ。
彼女は廊下を指差した。
「今夜、お隣の部屋に女性のお客様が泊まられます」
「……それが?」
「壁、薄いんです」
知ってる。痛いほど。
「ですので」
リネットは真顔で続けた。
「誤解が生じないよう、事前に説明しておこうと思いまして」
「俺が何かする前提で話してません?」
「いいえ。何もしなくても誤解される環境です」
否定してほしかった。
そのまま、なぜか部屋の中で説明会が始まった。
「例えば、寝返りの音」
「普通です」
「咳払い」
「生理現象です」
「ベッドの軋み」
「……」
「それ、全部聞こえます」
やめて。
「ですので、夜間はなるべく静かに」
その瞬間。
ぎしっ
俺が無意識に椅子に体重をかけただけで、
ベッドが反応した。
沈黙。
リネットが、ゆっくり俺を見る。
「……今のは」
「違います」
「まだ夜でもありません」
「違います」
「“何もしていない”という理解でよろしいですね?」
「その確認、必要です?」
彼女は満足そうに頷いた。
「はい。健全です」
基準がわからない。
その夜。
俺は、一切動かない覚悟でベッドに横になっていた。
呼吸も浅め。
寝返り禁止。
そのとき。
「……あの」
壁の向こうから、女性の声。
「聞こえてますよ」
終わった。
「えっと……すみません、何もしてません」
「……そういう声が、一番気になるんですけど」
「声も出してません!」
完全にパニックだ。
すると、コンコンとノック。
「リネットです。状況確認に来ました」
早い。対応が早すぎる。
彼女は壁に耳を当て、うんうんと頷く。
「確かに、聞こえますね」
「何が!?」
「無実の焦りが」
新ジャンルを作るな。
最終的に。
・隣の客 → 不機嫌
・俺 → 疲弊
・リネット → 満足
チェック後、彼女は言った。
「本日は大きなトラブルもなく、健全でした」
「俺の心は?」
「多少削れるのも、健全な範囲です」
彼女はそう言って、にこっと笑った。
「安心してください。私、アレンさんのことは信じてますから」
「それ、今言います?」
「でも」
彼女は付け加える。
「疑われやすい方だとも思ってます」
フォローが下手すぎる。
翌朝。
廊下に新しい張り紙が増えていた。
『夜間のため息も健全です(※誤解注意)』
俺はもう、宿を変える決意を固めた。
なぜか、次の依頼の集合場所も、ここだったが。




