食堂は健全です(※スープの温度と口元が危険)
白百合亭のスープは、いつも適温だ。
熱すぎず、冷めすぎず。
誰にとっても無難のはずだった。
「本日のスープは、野菜のポタージュです」
リネットが言う。
湯気が、ふわりと立つ。
それだけで、食堂の空気が一段階だけ静かになる。
ピークタイム。
満席。
相席。
距離が近い。
スープ皿が並ぶ。
ことん、ことん。
音が揃う。
女将が奥から言う。
「揃ったわね」
「揃っただけです!」
スープは、白い。
表面がなめらかで、
光を受けて、少しだけ照りがある。
スプーンを入れる。
すく。
粘度が、伝わる。
「……熱そうですね」
若い女性客が言う。
「はい、スープですから」
事実だ。
だが今は、
事実が余計な想像を連れてくる。
俺は、慎重にスプーンを口元へ運ぶ。
ふー。
息で冷ます。
湯気が、頬をかすめる。
「……今の」
壁越し客が、ぽつり。
「“ふー”が、丁寧すぎません?」
「火傷したくないだけです!」
中年客も、真似をする。
ふー。
同時だった。
「……」
「……」
空気が止まる。
女将が、ゆっくり頷く。
「温度を共有すると、意味が増えるのよ」
増やすな。
リネットが、追加のスープを運ぶ。
皿を傾ける。
とろり。
表面が、少しだけ揺れる。
縁に、一滴。
落ちそうで、落ちない。
「……」
誰も言わない。
言わないが、
全員がその一滴を見ている。
「大丈夫です」
リネットが、布巾で拭く。
すっ。
一滴が消える。
布巾が、少しだけ湿る。
若い女性客が小さく息を吸った。
なぜだ。
スープを口に含む。
熱い。
だが、我慢できる。
口元に、
ほんの少し白い跡が残る。
俺は、無意識に指で拭う。
「……」
壁越し客が、目を逸らす。
「……今のは」
「スープです!」
「わかってます」
わかってるなら、終わりにしてくれ。
団体客が入ってくる。
同じスープ。
同じ動作。
ふー、ふー、ふー。
音が重なる。
湯気が、重なる。
口元に、同じ跡。
布巾が、足りなくなる。
「……ちょっと」
女将が手を叩く。
「スープ、今日はここまで!」
「え?」
「口元の情報量が多い」
そんな理由あるか。
食後。
張り紙が増えていた。
『スープは健全です』
追記
『※温度・滴・口元に意味はありません』
俺は、ため息をついた。
(もう飲み物全部ダメだな)
白百合亭の食堂は、今日も健全だ。
温かいスープを飲んだだけ。
口を拭いただけ。
一滴、落ちかけただけ。
……それだけなのに、
一番熱くなったのは、周囲の想像力だった。




