浴場は健全です(※時間が重なると地獄)
白百合亭の浴場は、基本的に男女別だ。
それは事実だし、
それを疑ったことは一度もない。
問題は
時間である。
「本日は少し混み合ってますので」
夕食後、女将が言った。
「入浴時間、譲り合って使ってくださいね」
「……譲り合い、ですか」
「ええ。健全に」
その言葉が出た時点で、
健全が遠ざかった気がした。
俺は少し遅めの時間を狙った。
人が減った頃。
静かで、平和な時間。
……のはずだった。
脱衣所。
誰もいない。
「よし」
俺は一人、湯に浸かる。
静かだ。
湯気が立つ。
何も起きない。
完璧だ。
と思った瞬間。
「……あれ?」
外から、女性の声。
近い。
「この時間って、空いてるって……」
嫌な単語が聞こえた。
空いてる。
それは、
俺も思っていたことだ。
湯の中で、俺は動けなくなる。
(いや、別だよな。
入口は分かれてるし)
そう、入口は別だ。
だから
足音が同じ方向から聞こえる理由がわからない。
壁越し客の声だった。
「……誰か、います?」
いる。
いるが、
答えると色々終わる気がする。
「……」
沈黙。
湯の音。
最悪の間。
そこへ、別の声。
「え? まだ人いるんですか?」
若い女性客。
なぜ増える。
なぜ、重なる。
湯気が、
なぜかいつもより濃い。
視界が悪い。
音だけが、はっきり聞こえる。
「……譲り合いって、こうでしたっけ」
「時間、間違えたのかしら」
「でも札は……」
札。
嫌な単語がまた増えた。
俺は、ついに声を出す。
「……あの」
三人、同時に黙る。
沈黙の圧が重い。
「……男性側、ですよね?」
壁越し客が聞く。
「……はい」
嘘は言っていない。
「ですよね」
納得する声。
納得するな。
そこへ。
「巡回です〜」
リネットの声。
助かった。
……と思ったのは、
本当に一瞬だった。
「……あ、重なってますね」
「重なってる?」
「はい。時間が」
時間だけならいい。
女将の声まで加わる。
「譲り合いが、上手くいかなかったみたいね」
「上手くいかなくていいです!」
「でも安心して」
嫌な前置き。
「壁はあります」
それ、
安心材料として弱すぎないか。
誰も動かない。
動けない。
音を立てるのが怖い。
湯をかく音一つで、
何かが始まりそうな空気になる。
始まらないが。
若い女性客が、ぽつりと言う。
「……何も起きてないのに、緊張しますね」
「……はい」
壁越し客も言う。
「想像が先に走る感じ」
走らせるな。
女将が、締めに入る。
「はいはい。今日はここまで」
ぱん、と手を叩く。
「全員、健全に撤退しましょう」
撤退という単語がもう危険だ。
結果。
浴場は、
五分で閉鎖された。
理由は、こう書かれていた。
『時間帯が重なると、空気が曖昧になるため』
空気のせいにするな。
部屋に戻る途中、
若い女性客が小声で言った。
「……お湯、気持ちよかったですね」
「……はい」
「それだけなのに」
「それだけです」
それ以上、何も言わなかった。
言わないほうが、
健全だと学んだからだ。
翌朝。
浴場前の張り紙が増えていた。
『入浴は時間厳守でお願いします』
追記
『※譲り合いは想像を生みます』
俺は思った。
(この宿、譲り合うとろくなことがない)
白百合亭の浴場は、今日も健全だ。
重なったのは、
時間と誤解だけ。
……たぶん。




