当宿は健全です(※夜になると怪しい)
白百合亭に泊まるのは、正直もう慣れた。
慣れたが、安心はしていない。
「……健全って書いてあるしな」
入口の看板を見上げながら、俺は一応、自分に言い聞かせる。
当宿は健全です。
文字は今日も力強い。
なお、この宿で“健全”という言葉を信じて痛い目を見なかった日は、まだない。
「いらっしゃいませ」
女将は、いつも通り朗らかだった。
「今夜は静かよ」
「その“静か”、信用していいやつですか?」
「ええ。今日は特にイベントもないし」
その言い方がもうフラグだ。
部屋は普通だった。
ベッド一つ。
机一つ。
椅子一つ。
「……うん、普通」
普通すぎて、逆に怖い。
俺は荷物を置き、椅子に腰掛ける。
ぎしっ。
「……」
何もしてない。
本当に、何もしてない。
夜。
廊下は静まり返っていた。
静かすぎる。
物音ひとつしない。
「……これはこれで不安だな」
そう思った瞬間。
「……あの」
隣の部屋から、女性の声。
小さい。
遠慮がち。
だが、妙に耳に残る。
「……聞こえますか?」
「!?」
聞こえてる。
聞こえてるが、
この状況で返事をするのは、人生経験的に危険だ。
だが、沈黙もまた怪しい。
「……はい?」
最小限で返す。
「壁、薄いですね」
「……ですね」
会話が成立してしまった。
沈黙。
数秒。
何も起きていないのに、空気が重い。
「……」
「……」
言葉がない分、
お互いが“何か言うべきか”を考えているのが伝わってくる。
最悪だ。
そこへ、足音。
廊下から、リネットの声。
「巡回です〜」
助かった。
……と思ったのは、一瞬だった。
「おや。まだ起きてます?」
「はい。普通に」
「お隣も、ですね」
なぜ確認する。
「夜は静かなので、声が通りやすいんです」
余計な情報を足すな。
「ですから」
嫌な間。
「お気をつけください」
「何に!?」
「いろいろです」
説明を放棄するな。
リネットが去ったあと。
また、沈黙。
そして、隣から小さな声。
「……気をつけるって、何でしょう」
「俺も知りたいです」
「ですよね」
なぜか、同意が成立する。
数秒後。
コトン
隣から、何かを置く音。
俺の部屋からも、
たまたまコップを置く音。
コトン
――音が、揃った。
「……」
「……」
揃っただけだ。
意味はない。
だが、意味が生まれそうな沈黙が続く。
耐えきれず、俺は言った。
「……何も、起きてないですよね」
隣の声が、少し笑う。
「起きてませんね」
「ですよね」
「……でも」
嫌な接続詞。
「なんか、起きそうな空気ですね」
「起きません!」
「わかってます」
わかってるのに言うな。
その夜。
俺は、結局よく眠れなかった。
理由は単純だ。
何も起きていないのに、
“何か起きた気がする夜”だったから。
翌朝。
廊下に、新しい張り紙が増えていた。
『夜間の沈黙は健全です(※想像は各自で管理)』
俺は天井を見上げた。
「……だから無理だって」
白百合亭は、今日も健全だ。
たぶん。




