健全な目配せ(※意味が増える)
白百合亭では、目が合うだけで事件になる。
いや、正確には
目が合ったあとに、何も説明が入らないと事件になる。
発端は、朝食だった。
パンを取ろうとして、
俺は若い女性客と目が合った。
一瞬。
それだけ。
だが
彼女は、にこっと微笑んだ。
説明なし。
危険。
壁越し客が、その様子を見逃さない。
「……今の、何?」
「何もありません」
即答した。
だが、即答した時点でアウトだった。
リネットが横から補足する。
「目配せは、健全な意思疎通です」
「今の、意思疎通だった?」
「はい。挨拶かと」
若い女性客が頷く。
「挨拶ですよ」
壁越し客が眉をひそめる。
「……ずいぶん、含みのある挨拶ね」
含みを足すな。
女将は、まだ介入しない。
見ている。
黙って、見ている。
それが一番怖い。
次は、スープだった。
俺が器を持ち上げた瞬間、
リネットと目が合う。
一瞬。
だが、リネットは視線を逸らさない。
長い。
説明、来ない。
「……何か?」
俺が言うと、
リネットは真顔で言った。
「温度、確認しています」
「目で?」
「はい」
若い女性客が小声で言う。
「……それ、見つめる必要あります?」
「健全です」
万能語、来た。
そこで、女将が動いた。
「はいはい」
パン、と手を叩く。
「今日は目配せの健全運用を確認しましょう」
嫌な単語が増えた。
女将は、黒板を出す。
なぜいつも出てくる。
《目配せレベル表》
「まず、レベル1」
チョークが走る。
一瞬の視線:健全
「レベル2」
二秒以上:意味が生まれる
「レベル3」
三秒以上:誤解が発酵
発酵するな。
若い女性客が手を挙げる。
「じゃあ……微笑み付きは?」
女将は即答。
「危険物」
俺じゃなくて目配せが。
実地検証が始まった。
「アレン、前に」
また俺か。
若い女性客と向かい合わされる。
「はい、目を合わせて」
「どれくらい?」
「二秒」
一、二。
女将が止める。
「はい、今は“意味あり”」
「何の意味!?」
「本人たちが困る意味」
最悪だ。
次、三秒。
一、二、三。
若い女性客が、ふっと視線を落とす。
壁越し客が腕を組む。
「……今の、完全に何かあったでしょ」
「ない!」
「でも、あったように見える」
それが問題だ。
リネットも参加する。
俺と、リネット。
視線が合う。
二秒。
彼女は首を傾げる。
「……業務確認です」
「説明が遅い!」
女将が言う。
「はい、説明が二秒遅れました。意味、追加」
「追加するな!」
結論。
女将はまとめに入った。
「目配せはね」
嫌な予感。
「説明がないと、意味が勝手に増える」
全員、深く頷く。
「だから」
来た。
「目が合ったら、すぐ言葉を添える」
リネットが真面目に言う。
「今後は“見ています”“確認しました”などを即時発声します」
「それはそれで怖い!」
その夜。
廊下で、俺は壁越し客とすれ違った。
目が合う。
一瞬。
彼女は即、言った。
「……通行確認」
「徹底しすぎ!」
張り紙が増えていた。
『目配せには補足説明を添えましょう』
追記。
『※微笑みは意味を増幅します』
部屋に戻る途中、
リネットと目が合った。
一瞬。
彼女は即座に言った。
「業務上の視認です」
俺も反射的に言う。
「通路確認です」
数秒後。
二人で、同時にため息。
その音が、廊下に響く。
壁の向こうから、誰かの声。
「……今の、息、揃ってなかった?」
やめろ。
白百合亭では、
視線一つで意味が増える。
そして、
意味が増えた分だけ
説明も増える。
健全とは、
ここまで来ると、もはや技術だ。




