「当宿は“健全”です(※当社比)」
宿屋《白百合亭》の看板には、今日も大きくこう書かれている。
当宿は健全です。
それを見上げながら、俺「アレン(28)」は、嫌な予感しかしなかった。
「……健全を名乗る施設ほど、信用できないものはない」
冒険者歴十年の経験則である。
扉を開けると、鈴の音と共に、やたら胸元の開いた女将が現れた。
「いらっしゃいませ〜。一泊ですか? それとも“長め”で?」
「一泊でお願いします。“普通の”部屋で」
女将はにっこり微笑み、帳簿にペンを走らせた。
「はい、“普通”のお部屋ですね」
なぜ“普通”を強調した。
案内された部屋は、確かに普通だった。
ベッド一つ、机一つ、椅子一つ。
……ただし。
「……なんでベッドが妙に軋む?」
軽く腰掛けただけで、
きゅっ、きゅっ
と、明らかに誤解を招く音が鳴る。
「いや、これは構造的欠陥だ。俺は悪くない」
自分に言い聞かせていると、ドアをノックする音。
「失礼します〜。“サービス”のお時間です」
「!? 頼んでません!!」
慌ててドアを開けると、今度は別の女性従業員。
こちらはエプロン姿だが、やはりサイズ感が仕事していない。
「いえ、当宿では毎晩、“健全なサービス”を行っておりまして」
「健全って言葉、便利すぎません?」
彼女は木箱を差し出した。
「こちら、安眠用魔道具です」
箱の中身は、小さな水晶玉。
説明書を読む。
『使用者の“無意識の欲求”を和らげ、深い眠りへ導きます』
「……それ、本当に健全?」
「ええ。夢の内容までは保証しませんが」
保証しろ。
その夜。
俺は水晶玉を枕元に置き、目を閉じた。
結果。
翌朝、俺は一睡もしていないのに、なぜか心だけが消耗しきっていた。
夢の内容は説明しない。
説明できない。
説明したら俺が社会的に死ぬ。
チェックアウト時、女将が満足そうに言った。
「昨夜はお楽しみいただけましたか?」
「健全って、なんでしたっけ」
「心が無事なら、だいたい健全です」
そう言って、女将はウインクした。
俺は二度と、この宿を利用しないと誓った。
翌週、仕事の都合でまた泊まることになるとも知らずに。




