第九話:望まぬ昇格
静寂が気まずい塊となって、俺とエリスの間に横たわっていた。
先ほどまで数百の魔物がひしめき合い、甲高い咆哮を上げていた巨大な空洞は、今や不気味なほど静まり返っている。
俺が『加工』スキルで作り出した底の見えない巨大な奈落が、全ての音を吸い込んでしまったかのようだ。
エリスは血の気の引いた顔で、その崖の縁に立ち尽くしていた。美しいエルフの貌は、まるで精巧な石膏像のように表情を失っている。大きく見開かれた碧い瞳だけが、目の前で起こった常識ではあり得ない現象を必死に理解しようと、落ち着きなく動いていた。
「……タカトさん」
やがて、彼女のかすれた声が沈黙を破った。
「あなたは……一体、何者なのですか?」
その問いは昨日ギルドで初めて会った時の、好奇心に満ちたものとは全く響きが違った。そこにあるのは未知の存在に対する、純粋で根源的な恐怖。
「何者って……ただのタカトですけど」
俺はできるだけいつも通りを装って、へらりと笑ってみせようとした。だが、頬の筋肉がうまく動いてくれない。
「あなたのスキルは……『加工』。そう、おっしゃいましたね」
「ええ。泥をこねるだけの外れスキルですよ。今回はたまたま地形がもろかったみたいで……。運が良かっただけです」
我ながら苦しすぎる言い訳だ。目の前でフットボール競技場ほどの広さの地面を跡形もなく消し去っておいて、「運が良かった」はないだろう。
案の定エリスは俺の言葉に何の反応も示さなかった。彼女は俺の顔と足元の奈落を何度も何度も見比べ、やがてかぶりを振った。
「……もう、結構です」
その声はひどく冷めていた。
「あなたの力が私の理解の範疇を完全に超えていることだけは、分かりました。これ以上あなたに何を問うても無意味でしょう」
彼女はそう言うと俺に背を向け、ダンジョンのさらに奥へと黙って歩き始めた。その背中からは明確な拒絶の意思が感じられた。
まずい。これは本当にまずいことになった。
俺は彼女との間にできてしまった、見えないが絶望的に深い溝をどう埋めればいいのか全く分からないまま、慌ててその後を追った。
◇
それからの道のりは、気まずい沈黙に支配されていた。
以前のようにエリスが罠について解説してくれることもない。俺が何か話しかけても「ええ」「そうですか」という短い返事が返ってくるだけ。俺たちはただ黙々とダンジョンの階層を下へ下へと進んでいった。
彼女はもう、俺のことを『便利な魔力タンク』としては見ていなかった。それどころか、同じ『冒険者』、あるいは同じ『人間』としてさえ見ていないのかもしれない。何か得体の知れない理解不能な怪物。彼女の背中はそう雄弁に物語っていた。
俺のスローライフ計画は完全に暗礁に乗り上げてしまった。
いや、そもそも計画なんてあったのだろうか。ただ行き当たりばったりで目先の面倒事を派手に片付けてきただけじゃないか。その結果がこれだ。
自業自得という言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。
どれくらい歩いただろうか。
やがて俺たちの目の前に、ひときわ巨大な観音開きの石の扉が現れた。扉の表面にはびっしりと古代の文字のようなものが刻まれている。
「……ここが最深部です」
エリスが久しぶりにまとまった言葉を発した。
「この先に、このダンジョンの守護者がいます」
彼女は扉をじっと見据えている。その横顔は緊張でこわばっていた。だがその瞳の奥には、恐怖と同時に冒険者としての強い探求の光が再び灯り始めていた。
どうやら目の前の未知の強敵に対する純粋な挑戦心が、俺への恐怖をわずかに上回ったらしい。研究者というのは、つくづく業の深い生き物だ。
「タカトさん。約束通り、あなたは私の後ろにいてください。そして合図をしたら魔力の供給を。よろしいですね?」
「……はい。分かりました」
俺が頷くとエリスはこくりと一つ頷き返し、重々しい石の扉にそっと手を触れる。
ごごごごご……と低い地響きを立てながら、扉がゆっくりと内側へと開いていった。
扉の向こうに広がっていたのは、体育館ほどの広さを持つ巨大なドーム状の空間だった。
天井は鍾乳洞のように無数の鋭い岩が垂れ下がっている。壁も床も、全てがごつごつとした岩肌に覆われていた。
そして、その広間の中央。
『それ』は鎮座していた。
「グルルルルル……」
地獄の底から響いてくるかのような低い唸り声。
全長は二十メートルを超えるだろう。ワイバーンよりもさらに一回りは大きい。
全身が黒曜石のように鈍く黒光りする、岩石の装甲で覆われている。巨大な角を持つ頭部。溶岩のように赤く輝く瞳。そして背中には、まるで山脈がそのまま生えてきたかのような無数の鋭い岩の突起。
それはまさしく大地の怒りが具現化したかのような、圧倒的な存在感を放っていた。
『Aランクモンスター:ストーンドラゴン』
脳内に知識が流れ込んでくる。
このダンジョンの最深部を守る主。その岩石の体は、いかなる物理攻撃も魔法攻撃も通さない絶対的な防御力を誇るという。
「……来ます!」
エリスの鋭い声が響いた。
ストーンドラゴンが、ゆっくりとその巨体を持ち上げる。ずしんと大地が揺れた。
そして、次の瞬間。
その巨大な顎がぱっくりと開かれた。
「まずい!」
エリスが叫ぶ。
だが、もう遅い。
ドラゴンの口から、まばゆい光の奔流が俺たちに向かって放たれた。ブレスだ。ワイバーンのような酸のブレスではない。もっと純粋な破壊のエネルギー。
「『プロテクション・ウォール』!」
エリスが咄嗟に杖を前方に突き出す。俺たちの前に半透明の魔力の壁が現れた。
直後、光の奔流が壁に激突する。
バキイイイイイイインッ!!
ガラスが砕け散るような甲高い衝撃音。
エリスが展開した防御壁が、ブレスの圧倒的な威力の前に蜘蛛の巣のようにひび割れていく。
「くっ……!」
エリスの歯を食いしばる音が聞こえる。
壁が完全に砕け散る寸前、光の奔流がぴたりと止んだ。
「はあ、はあ……」
エリスの肩が大きく上下している。今の一撃を防ぐだけでかなりの魔力を消耗したようだ。
「タカトさん! 魔力を!」
「は、はい!」
俺は彼女の背中に手を当て、魔力を流し込む。エリスの体から再び力がみなぎっていくのが分かった。
ストーンドラゴンは俺たちを冷ややかに見下ろしている。その溶岩の瞳からは一切の感情が読み取れない。ただ侵入者を排除するという絶対的な意思だけが感じられた。
「……やるしかありませんね」
エリスは覚悟を決めたように呟いた。
「私の最大火力魔法を叩き込みます! 耐えられるものなら耐えてみなさい!」
彼女は杖を天に掲げた。その先端に、先ほどの炎の魔法とは比べ物にならないほどの凄まじい雷の力が収束していく。
びりびりと空気が震動する。ドームの天井に稲光が走り、ぱちぱちと放電する音が響き渡った。
「喰らいなさい! 『サンダーボルト・ランス』!」
エリスの叫びと共に、天から巨大な雷の槍がストーンドラゴンに向かって降り注いだ。
それは一筋のまばゆい閃光となって、ドラゴンの頭部に直撃する。
ズドオオオオオオオオオオンッ!!!!
ダンジョン全体が振動するほどの凄まじい轟音と衝撃。
爆風が俺たちの体を叩きつけた。俺は思わず腕で顔をかばう。
「……やったか!?」
エリスが期待を込めて叫ぶ。
やがて、もうもうと立ち込めていた土煙がゆっくりと晴れていく。
そして俺たちは見た。
無傷。
ストーンドラゴンは何事もなかったかのようにそこに立っていた。
Bランク冒険者の最大火力魔法が直撃したはずの頭部の装甲には傷一つついていない。ただ、わずかに黒く煤けているだけだ。
「……そんな……」
エリスの口から絶望の声が漏れた。
「私の魔法が……通じない……?」
その硬直は致命的だった。
ストーンドラゴンが再び大きく口を開く。
二射目のブレス。
今度は間に合わない。
そう思った瞬間、俺は無意識に前に出ていた。
「え……?」
エリスの戸惑う声が背後から聞こえる。
俺は彼女の前に立ちふさがるようにして、両手を前方に突き出していた。
イメージするのは、ただ一つ。
『壁』。
『この空間にある全ての石の粒子を俺の前に集めろ。そしてこの世で最も硬く分厚い壁へと『加工』する!』
俺の体から魔力が爆発的に溢れ出す。
直後、俺たちの目の前の空間がぐにゃりとねじれた。
床や壁や天井から無数の石の粒子が引きはがされ、俺の前に竜巻のように集まってくる。
そして、それらが一瞬で凝縮し圧縮され、一枚の巨大な黒い壁へと姿を変えた。
それはストーンドラゴンの装甲よりもさらに黒く、硬質で分厚い、絶望的なまでの質量を持った壁だった。
壁が完成した直後、ドラゴンのブレスが放たれた。
光の奔流が俺が作り出した黒い壁に激突する。
ドゴオオオオオオオオンッ!!
先ほどとは比べ物にならないほどの凄まじい衝撃音。
だが壁はびくともしなかった。
ブレスの莫大なエネルギーを全て正面から受け止め、完全に無効化してしまったのだ。
「…………」
ストーンドラゴンが、生まれて初めて何か信じられないものを見たかのように、その動きを止めた。
その溶岩の瞳に、わずかに戸惑いが見て取れた。
「……はあ」
俺はほうと息をついた。
さすがに少し疲れた。魔力は一割ほど持っていかれただろうか。
「……もういい加減にしてくれないかな」
俺は完全にキレていた。
スローライフを邪魔された怒り。
面倒事に巻き込まれたうんざり感。
それらが俺の中で一つになり、爆発した。
「エリスさん、下がっててください。こいつは俺がやります」
「え……? た、タカトさん……?」
背後でエリスがか細い声を上げた。
俺はそんな彼女を振り返りもせず、ゆっくりとストーンドラゴンに向かって歩き始めた。
「グルルルル……!」
ドラゴンが威嚇するように唸る。
俺はそんなもの全く意に介さなかった。
「硬いんだろ? その体の石ころが」
俺はストーンドラゴンをまっすぐに見据えたまま、右手をそっと持ち上げた。
「なら、柔らかくしてやるよ」
俺はスキルを発動させた。
対象は目の前の巨大なドラゴン。その体を構成する全ての岩石。
『その装甲を構成する鉱物の結晶構造を内側から『加工』する。原子の結合を破壊し、この世で最も脆く崩れやすい、ただの砂の塊に変えろ』
俺の体からこれまでで最大級の魔力の奔流が解き放たれた。
それは目には見えない力。
だがストーンドラゴンは、その恐ろしさを本能で感じ取ったのだろう。
ギシャアアアアアアアアアアアアアッ!!
ドラゴンが恐怖に満ちた絶叫を上げた。
巨体をばたつかせ、逃げようとする。
だが、もう遅い。
変化は静かに、そして急速に始まった。
ぽろり。
ドラゴンの肩のあたりから、小さな石のかけらが一つこぼれ落ちた。
それをきっかけに。
ざらざらざらざらざら……。
まるで風化した砂岩のように。
ドラゴンの全身の黒い装甲が、細かい砂となって崩れ落ちていく。
その内側から。
どれだけ強固に見えても、しょせんは石の集まり。
その構造そのものを破壊されてしまっては、形を保つことなどできはしない。
ギャアアア……
ドラゴンが苦しげな声を上げる。
その巨体がみるみるうちに小さくなっていく。
黒い装甲が全て砂となって剥がれ落ち、その内側にあった魔力で構成された核のようなものがむき出しになる。
だが、それも長くはもたなかった。
支えを失った核は自らの重さに耐えきれず、ぱきりと乾いた音を立ててひび割れた。
そして最後は光の粒子となって霧のように消え失せた。
数秒後。
後に残されたのは。
小山のような黒い砂の山。
それだけだった。
「…………」
しん、と。
ダンジョンの最深部に完全な静寂が訪れた。
俺はふうと一つ息をつくと、砂山の前で踵を返した。
そして俺は見た。
その場にへたり込むようにして座り込み、両手で口元を覆い、わなわなと体を揺らしているエリスの姿を。
その碧い瞳からは、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「……あ、あの、エリスさん? 大丈夫ですか?」
俺はためらいがちに声をかける。
彼女ははっとしたように顔を上げた。
その涙に濡れた顔で俺を見つめ、そしてか細い、弱々しい声で言った。
「……ちょっと硬かったので……柔らかく加工しただけ……ですって……?」
俺が言おうと思っていたセリフ。
それを先に彼女が呟いた。
その声はもはや恐怖を通り越して、何か別の感情に染まっているようだった。
「……ええ、まあ、そんなところです」
俺が曖昧に頷くと。
彼女はふと力なく笑った。
それはまるで壊れてしまった何かのようだった。
◇
俺たちがダンジョンから地上に生還すると、ギルドは大変な騒ぎになった。
最深部の守護者が討伐されたという情報は、すぐにギルド全体に知れ渡ったらしい。
「す、すごいぞ! エリス様がストーンドラゴンを討伐された!」
「しかも、あの『役立たず』の新人と二人でだと!?」
俺たちはギルドマスターの部屋へと通された。
そしてエリスが、今回の探索の結果を報告した。
もちろん俺がやった常識外れの出来事については一切触れずに。
全てはBランク冒険者であるエリス・グレイウォールの手柄ということになっていた。
「……うむ。見事だ、エリス! まさか本当にストーンドラゴンを討伐するとは!」
ギルドマスターは上機嫌でそう言った。
「して、そこの新人。タカト君だったか。君は今回の探索でどのような働きを?」
ギルドマスターの視線が俺に向けられる。
俺が口を開く前に、エリスが先に答えた。
「彼は素晴らしい働きをしてくれました。後方支援に徹し、私の魔力をサポートしてくれました。彼がいなければ今回の討伐は不可能だったでしょう」
その言葉は嘘ではない。嘘ではないが。
とりあえず、俺はただ黙っていた。
「ほう。なるほどな。その莫大な魔力量は伊達ではなかったというわけか」
ギルドマスターは満足そうに頷いた。
「よし! 今回の功績を称え、タカト君をBランクに昇格させる!」
「「「はあ!?」」」
俺とエリスの声が綺麗にそろった。
「い、いやいや待ってください、ギルドマスター! 俺はただ後ろについていっただけで!」
「何を謙遜する! Bランク冒険者のサポートをこなし、Aランクモンスターの討伐に貢献したのだ!その功績はBランクに値する! これは決定だ!」
有無を言わさぬ口調。
こうして俺は。
冒険者登録わずか二日目にして。
Cランクをすっ飛ばし。
Bランク冒険者という、とんでもない肩書を手に入れてしまった。
部屋を出た帰り道。
俺とエリスは黙って並んで歩いていた。
「……あの、エリスさん」
俺が声をかける。
「どうして本当のことを言わなかったんですか?」
俺の問いに。
彼女は立ち止まり、俺の方をまっすぐに見据えた。
その碧い瞳に浮かんでいたのはもう恐怖というものではなかった。
それはもっと複雑な。
畏怖と好奇心、そしてほんの少しの対抗心のようなものが合わさった強い光だった。
「……言えるわけがないでしょう」
彼女はふと息を吐いた。
「あなたのやったことをありのままに報告すればギルドがどうなるか。この町がどうなるか。いいえ、世界がどうなるか。……私には想像もつきません」
そして彼女は悪戯っぽく笑った。
それはダンジョンで見せた壊れたような笑顔ではなかった。
Bランク冒険者としての自信と誇りを取り戻した、いつもの彼女の笑顔だった。
「それに、あなたの秘密は私だけのものです。誰にも渡すつもりはありません。私の最高の研究対象なんですから」
その言葉を最後に。
彼女はひらりと背を向け、ギルドの喧騒の中へと消えていった。
後に残された俺は。
手の中にある真新しい銀色のBランクのギルドカードを見つめながら。
ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
俺のスローライフは一体どこへ。
その問いの答えは、まだ見つかりそうになかった。




