第二十三話:ただ、静かに暮らしたい
しん、と。
まるでこの世の全ての音が、一瞬にして消えてしまったかのような、不思議な静けさがリーフェル村の広場を支配していた。
ほんの数分前まで、Aランク級の化け物が大地を揺らし、村人たちの悲鳴が鳴り響いていたのが嘘のようだ。
広場の中心には、大地から突き出た巨大で鋭い十数本の石の槍。
その穂先に、まるで無残なオブジェのように串刺しにされたまま、オーガ・ロードの巨体がぴくりとも動かずに停止している。
その化け物が振り下ろしたはずの巨大すぎる棍棒は影も形もなく消え、代わりに黒い炭の粉が、春の終わりの雪のように静かに地面へと降っていた。
「…………え?」
広場の隅で腰を抜かしていた村人の一人が、間の抜けた声を出した。
それが合図だったかのように、止まっていた時間がゆっくりと動き出す。
「な……なにが……?」
「お、オーガは……? き、消えた……?」
「い、いや、あれ……! 串刺しに……なってる……!?」
逃げ惑うことすら忘れその場にへたり込んでいた村人たちが、目の前で起きたあまりにも現実離れした光景を、まったくもって理解できないという顔で見上げている。
クラリッサの部下である、あの強そうな女騎士たちも同じだった。
彼女たちは吹き飛ばされたダメージで肩や腕を押さえながらもよろよろと立ち上がり、信じられないものを見る目で、石の槍に貫かれたオーガの巨体と、その足元に降り積もる炭の粉をただぼんやりと見つめている。
そして。
俺の視線の先。
リーナと村長さんを守るように盾を構えたまま止まっていた、あの女騎士。
クラリッサ・フォン・アルベルト。
彼女は、その盾を構えた騎士として立派な姿勢のまま、ぴくりとも動かずにそこに立っていた。
その美しい顔はわずかに上を向いている。
彼女の輝くような金色の髪と白銀の鎧に、オーガの棍棒が変質した黒い炭の粉が、静かに静かに降り積もっていく。
彼女の、いつも自信と怒りにあふれていた碧い目。
その目から、今は一切の感情が消えていた。
怒りも侮蔑も驚愕すらも超えて。
ただ、純粋な『無』。
まるで抜け殻のように。
ああ、やっちまった。
俺は、その光景を見て自分のこの先の運命をはっきりと理解した。
スローライフ、終了のお知らせ。
それも、これまでで最大級のどうしようもない知らせだ。
バレた。
よりにもよって、この村で一番俺のことを疑っていた、あのクラリッサに。
彼女の目の前で。
ランク級の魔物を瞬殺するという、あまりにもあからさまな形で。
俺のこの『加工』スキルとかいう規格外の力の、その本質をこれでもかと見せつけてしまった。
もう、言い訳できない。
「地震が怖くて腰が抜けました」なんていう三文芝居が、通じるはずもない。
俺は大地についていた手のひらを、ゆっくりと持ち上げた。
まだ魔力を行使した熱が、わずかに残っている。
俺は、もうどうにでもなれという、諦めと絶望が混ざった巨大なため息を、本当についた。
バレたからには仕方ない。
俺はゆっくりと、クラリッサの元へと近づいた。
カツ、カツ、カツ。
以前彼女が俺を詰問しに来た時に鳴らしていた、あの忌々しい鎧の音はしない。
ただ、俺のみすぼらしい靴が土を踏みしめる乾いた音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……あのクラリッサさん?」
俺が声をかける。
彼女は反応しない。
まだ、あの不気味なほど静かな炭の粉が降る空を、見上げたままだった。
「クラリッサさん。……終わりましたよ」
俺がもう一度、今度はもう少し強く声をかけると。
彼女の体が、まるで錆びついて油が切れた何かの仕掛けのように、ぎこちなく俺の方を振り向いた。
その碧い目がゆっくりと俺の顔を映す。
焦点が合っていない。
その目に浮かんでいるのは、やはり何の感情もなかった。
ただ、俺という『理解不能な現象』をそのまま映しているだけ。
「……見られたからには、もう仕方ないです」
俺は諦めて口を開いた。
もう隠すことも、取り繕うこともやめだ。
どうせ全て終わったんだ。
「あんたの言う通りでした。……いや、あんたが想像してたよりも、もっとひどいことだったかもしれないけど」
俺は両手を軽く上げて、降参のポーズを取った。
「これが俺の本当の力です。……あの合同訓練の時のクレーターも、もちろん俺がやりました」
「…………」
「あんたが俺のことを『卑怯者』だとか『騎士道への侮辱だ』とか罵ってくれたあの時も。俺はあんたのその真っ直ぐな言葉に、内心舌を出して笑ってたんですよ。……いや、笑ってはいないか。ただ面倒くさい、としか思ってなかった」
俺はもう、全部話してしまおうと思った。
どうせこの女騎士は、俺のことを王都なりギルドの本部なりに引き渡すに決まっている。
だったら最後に、俺のささやかな本音をぶちまけたってバチは当たらないだろう。
「俺は、ただ静かに暮らしたいだけなんだ」
俺の声は、自分でも驚くほど痛切な響きがあった。
「あんたたちみたいに正義だとか騎士道だとか、そんな立派なもののために戦いたいなんて、これっぽっちも思ったことはない。……前世でもう死ぬほどこりごりなんだ。誰かのために自分をすり減らすなんて生き方は」
俺は目の前の美しい女騎士の、感情のない瞳をじっと見返した。
「だから、頼む。……いや、もう頼んでも無駄なんだろうけど」
俺は、それでも言わずにはいられなかった。
これが俺の、最後のスローライフへの頼みだった。
「頼むから誰にも言わないでくれ。……今のこのできごとも、俺のこの力のことも。全部あんたの心の中だけに、しまっておいてくれないか」
俺は、その場で勢いよく土下座して、深々と頭を下げた。
「俺はただ……! この村でリーナと畑を耕して、芋のことだけを考えてのんびり暮らしたいだけなんだ……! それ以上は何も望まないから……!」
惨めな声だった。
ランク級の魔物を指先一つで瞬殺した男とは、到底思えない。
だが、これが俺の嘘偽りのない心からの叫びだった。
しん、と。
広場が再び静かになる。
俺は頭を下げたまま、彼女の返事を待った。
「ふざけるな!」という怒りの罵倒か。
それとも「分かった、王宮へ連行する」という冷たい言葉か。
どちらにせよ、俺の平穏な日々はこれで終わりだ。
「…………貴様は」
やがて。
頭上から降ってきたのは、しわがれた今にも消えてしまいそうな、声だった。
「貴様は……。自分が何をしたのか……。何を言っているのか……。……分かっているのか……?」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
クラリッサは、まだそこに立っていた。
その顔は相変わらず何の感情も浮かんでいない。
だが、その白銀の鎧に包まれた小さな体が、カタカタと小さく動いているのに俺は気づいていた。
「力ある者は……」
彼女は、まるで壊れたぜんまい仕掛けが同じ言葉を繰り返すかのように、言った。
「力ある者は……民のためにその力を行使すべきだ……。それが騎士の誇り……。アルベルト家の教え……。それが私の信じてきた全て……」
「…………」
「だが……貴様は……。貴様はなんだ……? 神にも悪魔にも等しいその力を持ちながら……。それを隠し……? 腰抜けのふりをして……? 芋を育てたい、だと……?」
彼女の碧い目が、初めて俺以外の何かを見せた。
それは純粋な『戸惑い』。
彼女がこれまで生きてきた十数年間の信念。
彼女の信じてきた世界の当たり前。
その全てが、今目の前の俺という理解不能な存在によって根本からひっくり返され、めちゃくちゃにかき乱されていた。
「理解が……できない……。貴様という存在が……。貴様のその生き方が……。私の騎士道では、到底……!」
「う……うう……」
その時だった。
俺たちの張り詰めたやり取りを中断するように。
広場の隅。
オーガ・ロードによって家の壁に叩きつけられ、血を流して倒れていた村の若い衆の一人が、苦しげにうめいた。
「あ……!」
クラリッサが、驚いた顔でそちらを振り返る。
そうだ。
まだ終わっていなかった。
オーガは倒した。
だが、村の被害は甚大だ。
あの若い衆は、誰が見ても分かるひどい怪我だ。
腕がおかしな方向に曲がっている。
頭からも血が出ていた。
このままでは命が危ないかもしれない。
「い、医者を! いや、この村に医者など……!」
「早く手当てを! 止血だ!」
クラリッサの部下の女騎士たちが、急いで駆け寄ろうとする。
俺はもう構うものかという気分だった。
どうせ見られたんだ。
一つ見られようが二つ見られようが、もう同じことだ。
「……ちょっと、どいてください」
俺は、ぼんやりと立ち尽くすクラリッサの横を通り過ぎて、倒れている若い衆の元へと近づいた。
女騎士たちが、「な、何をする気だ!」と険しい声を上げる。
「治療ですよ。見ての通り」
俺はそれだけを短く答えると、血まみれで意識を失いかけている青年の傷口の一番ひどい場所。
ぐしゃりと潰れたようになっている腕に、そっと手のひらを当てた。
リーナを助けた時と同じだ。
『イメージしろ』
『この青年の体』
『砕けた骨。裂けた筋肉。ちぎれた血管。内出血を起こしている臓器』
『その全ての壊れた細胞組織を』
『あるべき姿。……『元の状態』へと、完全に作り変える』
俺の体から大量の魔力が流れとなって流れ出た。
それはオーガを倒した時の荒々しい力の流れとは違う。
温かく、そして穏やかな薄い光。
俺の手のひらから放たれる光が、青年の体をそっと包んでいく。
すぐに。
とんでもない光景が、その場で起こった。
おかしな方向に曲がっていた腕が、まるで意志があるかのように、スルスルと元の位置へと戻っていく。
ぱっくりと開いていた頭の傷口が、時間が戻るかのようにすぐにふさがっていく。
どくどくと流れ出ていた血が、ぴたりと止まった。
死人のように真っ白だった彼の顔に、あっという間に顔色を取り戻していく。
数秒後。
そこには、さっきまで死にかけていたとは到底思えない。
すやすやと静かな寝息さえ立てている青年の姿があった。
血と泥には汚れているものの、その体にはもはや傷一つない。
「…………あれ?」
青年がゆっくりと目を開けた。
そして自分の腕を見て、ぽかんとした顔で言った。
「……痛く、ない……? 傷が……消えた……? 俺、今オーガに吹き飛ばされて……」
「大丈夫か?」
俺が声をかけると、青年はぱちぱちと目をまたたかせた。
「……タカト、さん……? 今、何が……?」
「いいから、もう寝てろ。あんたは疲れてるんだ」
俺はそう言うと、立ち上がった。
そして、まだ血を流して倒れている他の若い衆の元へと、次々と近づいていく。
一人、また一人と、俺がその温かい光で手を当てていくたびに。
瀕死の重傷だったはずの村人たちが、まるで何もなかったかのようにその傷を癒していく。
広場は再び不思議な静けさが戻った。
村人たちも女騎士たちも、もはや言葉も出ない。
ただ、目の前で繰り広げられる『奇跡』そのものを、見ているだけだった。




