第二十話:最強の平穏
合同訓練場からの、帰りの荷馬車。そこは、もちろん行きと同じ、オンボロ仕様だった。
がたん、ごとん。
一秒たりとも休むことなく、俺の尻の感覚を奪い続けたあの地獄の振動は、今や遠い悪夢のようだ。いや、悪夢はあの乗り心地だけではなかった。あの馬車には、俺の『無能』っぷりを(リーナの『健気な介護』っぷりも含めて)終始、実に興味深そうに観察し続けるエリスが、ご丁寧にもリーフェル村の入り口まで同乗していたのだ。
「……ふふ。タカトさん。あなたのその『徹底した役割演技』、実に興味深い。あのクレーター事件の直後に、よくもまあ、あそこまで『腰抜け』を演じきれるものです」
彼女は、例の革張りの手帳に何やらペンを走らせながら、くすくすと、心の底から楽しそうに笑っていた。俺が神経をすり減らした地獄の七日間は、彼女にとっては最高のエンターテインメントだったらしい。
「研究の継続のため、また近いうちにお邪魔しますので」
そんな、再来週にでも近所の店に行くかのような、実に不吉な置き土産の言葉を残して、彼女はルーンヘブンへの馬車に乗り換えていった。
案の定、というべきか。
俺が合同訓練で打ち立てた輝かしい金字塔――『史上最弱の腰抜けBランク』という大変不名誉な、しかし俺にとっては黄金よりも価値のある評判は、あの訓練に参加していた冒険者たちの口から口へ、あるいはギルドの公式(?)報告か何かで、あっという間に近隣の町や村へと広まっていったらしい。
もちろん、このリーフェル村も例外ではなかった。
最初は、村人たちも半信半疑だったようだ。
「そんな馬鹿な!」「あのタカト様が、腰抜けだなんて!」「きっと、何かのお間違いだ!」
村に戻った当初は、俺のBランク昇格の時と同じ……いや、あの時とは違う、何か『自分たちの英雄が貶められた』ことに対する、戸惑いと怒りのような空気が、村全体に重く漂っていた。
だが、その空気も行商人たちがルーンヘブンから持ち込む、面白おかしく脚色された『タカト腰抜け伝説』の詳細によって、日を追うごとに、ゆっくりと、しかし確実に、その色合いを変えていった。
「なんでも、石ころ一つ運べなくて、従者の女の子に泣きついてたらしいぜ」
「魔物の大群が出た時は、一番に腰を抜かして、赤ん坊みたいに泣きじゃくってたんだと」
「ギルドの幹部様も、最後の挨拶で『ご苦労だった』としか言えなかったらしい。よっぽど、ひどかったんだろうなあ」
噂というものは、本当に恐ろしい。尾ひれどころか、翼まで生えて、俺の情けない姿(もちろん、その大半は俺が必死で演じたものだが)は、『事実』として、この辺り一帯に定着してしまった。
そして、その結果。
俺の日常は、驚くほど、快適なものへと変化していたのだ。
「お、タカトさん。今日も精が出ますなあ。あんまり無理して、また腰、やっちまうんじゃないぞ?」
「は、はは……。ご心配、ありがとうございます……。できるだけ、無理しないように、頑張ります……」
丘の上にある、外見はボロ小屋の我が家。その隣に作った芋畑。
そこで俺が、鍬を手に土を耕していると、通りかかった村の農夫のおじさんが、にやにやと、からかうような、それでいて、どこか生暖かい視線を向けてくる。
以前のような、「タカト様!」「さすがでございます!」といった、息が詰まるような畏敬の念は、そこにはもうかけらも残っていない。
あるのは、「Bランク冒険者っていっても、色々いるんだなあ」という、人間味あふれる、ほんのりとした哀れみだけだった。
最高じゃないか。
これこそが、俺の求めていた、周囲との絶妙な距離感だ。
過度な期待も、畏敬も、もうない。
彼らは、俺のことを、『ちょっと変わった、魔力だけが取り柄の、ひどく情けないBランク冒険者』として、完全に受け入れてくれたのだ。Bランクという肩書が、もはや何の圧力も持たない、ただの記号になった。
これは、俺の完全勝利と言って、差し支えないだろう。
そして、この芋畑。ここは何よりの癒しだった。
この場所で、俺は、あの合同訓練でさんざんすり減らした精神を回復させるかのように、土いじりに没頭していく。
前世では考えられなかったが、俺はどうやら、この芋いじりという地味な作業が、性に合っているらしい。土の匂いを嗅ぎ、自分の手で何かを育てるという行為が、心の底から満たされるのを感じるのだ。
「タカトさん、見てください! こっちの芋の葉っぱ、すごく元気ですよ!」
俺の隣で、リーナも小さなスコップを手に、目を輝かせながら雑草を抜いている。ぴょこぴょこと動く犬の耳と、嬉しそうに揺れる尻尾が、彼女の機嫌の良さを表していた。
「おお、本当だな。こっちも順調だ。リーナが毎日、一生懸命世話をしてくれてるおかげだな」
「えへへ、そんなことないです! タカトさんが、この畑の土を、すごくふかふかにしてくれたからです!」
もちろん、この畑の土壌は、俺がスキルでこっそり『加工』した、最高品質の培養土だ。それを知っているのは、俺とリーナだけの秘密である。
「それにしても、タカトさんって、本当に芋いじりがお好きなんですね。鍬を持ってる時、なんだかすごく楽しそうです」
「ん? ああ、そうかもしれないな。自分の手で育てたものが、ちゃんと育っていくのを見るのは、悪くない」
俺は鍬を振るい、新しく畝を作っていく。この作業も、もうすっかり手慣れたものだ。
「こうやって、汗を流して働いて、夜は、この芋で美味しいご飯を食べる。……俺にとっては、それが一番、贅沢な時間なんだ」
「ふふっ、分かります! 今日の夜は、この前タカトさんに教えてもらった、芋の味噌バター炒め、作りましょうね!」
「おお、いいな、それ! じゃあ、俺は、もっと気合入れて、この畑を耕さないと」
「はいっ! 私も頑張ります!」
俺とリーナは顔を見合わせて笑いあった。
Bランク冒険者とか、ギルドの評判とか、そんなものは、この穏やかな畑の時間には、何の関係もない。
それこそが、俺の求めていた、平穏そのものだった。
もちろん、全員が全員、そう思っているわけではないようだった。
村長グレンだけは、俺が村に戻ってきてから、一度だけ、ひどく真剣な、それでいて、何かを、試すような目で、俺にこう尋ねてきた。
「……タカト殿。訓練では、随分と苦労されたようじゃな」
「は、はは……。まあ、俺には、少しレベルが高すぎたみたいで……」
「そうか。……じゃが、わしには、どうにも、そうは思えんのじゃがなあ」
そう言って、意味深に笑う、村長の目。
彼は、もしかしたら、俺が演じていることに、薄々、気づいているのかもしれない。ワイバーンを一撃で葬り、リーナの怪我を一瞬で治した、あの『タカト』が、たかが石ころ一つで、ぎっくり腰になるはずがない、と。
だが、村長は、それ以上は何も追及してはこなかった。俺が何かを隠している。そして、その『何か』が、この村の平穏を守るために必要だったのだと、彼は、あの老獪な頭で正しく理解してくれているのだろう。
ありがたい話だ。
俺は、村長との暗黙の了解に、心の中で、そっと感謝した。
俺の『無能』という評価は、村に二つの全く異なる解釈を生んでいた。
一つは、『魔力だけが取り柄の、哀れなBランク』という、大多数の生暖かい同情。
もう一つは、『何か大きな考えがあって、力を隠しておられる』という、村長のような、一部の好意的な静観。
どちらにせよ、以前の『タカト様(畏敬)』という、息が詰まるような空気よりは、よっぽどマシだ。
そして、何よりも俺の心を軽くしてくれている、一つの事実。
それは、あの好奇心旺盛なエルフの研究者が、今は、ここにはいない、ということだ。
「……やっぱり、静かでいいなあ」
俺は、この日常に感謝していた。
◇
その日の夜。
リーナと二人きりの穏やかな夕食の席で、俺はしみじみと、そう呟いた。
あの合同訓練の前、エリスが、この家に数日間、滞在した。
あの数日間は、正直、毎日が気が気でなかった。
『タカトさん、そのお味噌汁の成分は?』
『タカトさん、あなたの睡眠時の魔力の漏出量を測定したいのですが、今夜、寝室に、この測定器を置かせてもらっても?』
『タカトさん、畑仕事も、立派な研究対象です』
四六時中、あの碧い瞳に、監視され、分析されて、記録される。
クラリッサの分かりやすい侮蔑や怒りの方が、よっぽど、マシだった、と思えるほどだ。
「エリスさん、ルーンヘブンに帰っちゃいましたね」
リーナが、スープをスプーンですくいながら、少しだけ、寂しそうに言った。
「……おーい、リーナ。まさかとは思うが、あの嵐のような女が、いなくなって、寂しい、とか、思ってるんじゃないだろうな?」
「え? あ、いえ、そんなことはないですけど……。でも、エリスさん、なんだかんだ、畑仕事も、料理も、すごく真剣に手伝ってくれましたし……。それに、あのクラリッサさん?に、私が怒鳴られた時も、エリスさん、助けてくれましたし……」
「…………」
確かにそうだった。
あの合同訓練での、クラリッサとの一件。
俺が、泣き落としという、最終手段で、その場を切り抜けた、あの時。
エリスは、実に理路整然と俺を『擁護』してくれた。
もちろん、その真意は、俺という『貴重な研究サンプル』を、クラリッサなんかに横槍を入れられたくない、という、彼女自身の独占欲から来ているに決まっているのだが。
「……まあ、あいつは、あいつなりに俺たちのスローライフを守る、手伝いをしてくれた、とは言える、かもな」
「ですよね! それにエリスさん、言ってましたよ。『タカトさんの作る料理は、私の魔法理論を根本から覆す、可能性を秘めている』って!すごく真剣な顔で!」
「……それは、褒め言葉なのか……?」
俺は、なんとも言えない、複雑な気持ちで自分の作った、肉野菜炒め(特に今日は、特製味噌で味付けした、回鍋肉風だ)を見つめた。
俺の料理が、彼女の魔法理論を、どう覆すというのか。
まったくもって、意味が分からないけれど。
「……まあ、いいさ。あいつは、ルーンヘブンだ。俺たちは、このリーフェル村。もう、二度と会うこともないだろ」
「えー、そうでしょうか? エリスさん『また近いうちに』って、言ってましたよ?」
「……あれは社交辞令だ。きっとそうだ。そうに違いない」
俺は、必死で自分に、そう言い聞かせた。
あの『研究の継続』という、不吉な言葉は、きっと俺の聞き間違いだ。
そう全ては気のせい。
俺の平穏は、戻ってきたんだ。
Bランクという、不名誉な(ありがたい)肩書のおかげで、村人たちとの距離感も絶妙なものになった。
過度な期待も、畏敬も、もうない。
あるのは、哀れみと同情と、一部の好意的な静観だけだ。
最高じゃないか。
これこそが、俺の求めていた、日常。
リーナと二人きりの、穏やかなスローライフ。
俺は、熱い味噌汁を、ずず、と、音を立てて、すすり込んだ。
その体の芯まで、じんわりと温まるような、優しい味が、俺の幸福な日常を象徴しているようだった。




