第十七話:偽装された天変地異
クラリッサが、風のような勢いでゴブリンの群れだか何だかの迎撃に向かっていく。
俺は、その白銀の鎧に包まれた、いかにも『正義』を背負ってます、みたいな背中が、薄暗い森の奥へと消えていくのを、ただ、ぼんやりと見送っていた。
それからほどなくして。
クラリッサが血相を変えてすっ飛んでいった『ゴブリンの大群』騒ぎは、どうやら、一時間もしないうちに、あっさりと片付いたらしい。
彼女たち『掃討チーム』が野営地の防衛ラインで迎撃したらしく、俺たち『設営チーム』がいる丘の上までは、魔物一匹、上がってはこなかった。
聞こえてきたのは、遠くで響く剣戟の音と、魔物の断末魔の叫びだけ。
この演習林が、Bランク魔物の巣窟である、という髭のギルド幹部の言葉は、決して大げさではなかったのだ。
◇
合同訓練が始まって、早くも三日が過ぎた。
野営地の設営中も、多い時には、一日に五度や六度。魔物の群れが接近してくる、けたたましい警報が鳴り響いた。
だが、そのたびに、クラリッサ率いる掃討チームが、あるいは、エリスたち後方支援チームの索敵が機能し、戦闘はすべて俺たちの見えない場所で、終わらされていた。
もはや、遠くから聞こえる「ギシャアア!」という叫び声は、俺たちにとって、梅雨時の蛙の合唱みたいに、ごく当たり前の「環境音」の一つに過ぎなくなっていた。
「いやあ、さすがはクラリッサ様だぜ!」
「あの人が剣を振るう姿、見たか? まるで舞を舞うみたいに、オークの首が飛んでいくんだ!」
「ああ! 騎士爵家ってのは、伊達じゃねえな!」
「あれだけの実力者が防衛ラインにいてくれりゃ、俺たちは安心して、土方仕事に集中できるってもんだ!」
設営チームの連中は、そんな呑気なことを言いながら、今日も今日とて、杭打ちに汗を流している。
そのおかげで、俺の日常も、リーフェル村にいた頃と、ある意味で、何も変わっていなかった。
日が昇ると同時に叩き起こされ、日が沈むまで、ひたすら土と石と木材にまみれる。
違うのは、その作業が、自分の家や畑のためではなく、見ず知らずのBランク冒険者様たちが快適(?)に過ごすための、巨大な野営地設営のためである、ということだけだ。
「タカトさん! お水、持ってきました! 汗、すごいですから、ちゃんと拭いてくださいね!」
「おお、サンキュ、リーナ。気が利くなあ。助かるよ」
俺が、わざと「ぜえ、ぜえ」と肩で息をしながら、軽量化した石ころを、五センチほど運んでは、休憩し、運んでは、休憩し、を繰り返していると。
従者ということになっている、リーナが、最適のタイミングで、水筒と手ぬぐいを差し出してくれる。
俺は「ああ、疲れた。もうダメだ。俺の筋肉が、悲鳴を上げている。断裂したかもしれない」と、わざとらしくその場にへたり込み、彼女から手ぬぐいを受け取った。
「うーっし! こっちの柵は、あと三本だ! 野郎ども、気合入れろ!」
「おうよ! ……にしても、あの『加工』のBランクは、本当に見かけ倒しだな」
「ああ。魔力だけあっても、これじゃあな。石ころ一つ、まともに運べねえ。女の従者に水汲みさせて、自分は日陰で一休みかよ」
「昨日なんて、杭を打つ木槌を振り上げて、そのまま、ぎっくり腰みたいになってやがったぜ」
「ははっ! ダッセーの!」
遠くから聞こえてくる、俺への嘲笑。
いいぞ。実にいい傾向だ。
俺の『無能な役立たず』偽装工作は、この三日間で、この演習林全体へと確実に浸透していた。
もちろん、その裏では、彼らが打ち込む杭の真下の地面をこっそり柔らかくしたり、見張り櫓の骨組みとなる木材の強度を、バレない範囲で鉄骨並みに『加工』したりと、地味すぎる裏方サポートを、血のにじむような神経をすり減らしながら、続けていたわけだが。
「タカトさん……」
俺の隣で、リーナが悔しそうに唇をきゅっと噛み締めている。
その小さな手は、ぎゅっと握りしめていた。
(いいんだ、リーナ。言わせておけ。俺たちは、俺たちの仕事をするだけだ。彼らの嘲笑が、俺たちの平穏を守る、最高の盾になるんだからな)
(……はいっ! ……でも、やっぱり、悔しいものは、悔しいです!)
俺が目線だけでそう伝えると、リーナは、俺にしか分からないように、こくりと小さく頷きながらも、ぷくう、と頬を膨らませた。
この孤独な戦いを理解してくれる仲間が、一人でもいる。
それだけで、俺の精神は、まだ、かろうじて、ポッキリと折れずに済んでいた。
スローライフとは、なんと過酷な道のりなのだろうか。
そんな、俺の地味すぎる戦いが、新たな、そして、最悪の局面を迎えたのは、訓練が中盤に差し掛かった、四日目の昼過ぎのことだった。
「ん……?」
俺が、次なる「地盤改良ポイント」を物色し、リーナと「今日の夕飯は、干し肉に、あの特製味噌を塗って焼いたら、美味いだろうか」などと、極めて重要なスローライフ談義に花を咲かせていた、その時。
それまで、遠くから「キシャアア!」とか「グルルル!」とか、賑やかなBGM(魔物の断末魔)を奏でていた森の奥、クラリッサ率いる掃討チームが担当しているはずの方角から、明らかに、これまでとは何かが違う、地響きのような音が聞こえてきた。
ドシン、ドシン、ドシン……!
地面が、わずかに、規則正しく揺れている。
それも、昨日までの小競り合いとは、揺れの規模が、まったく違う。
まるで、巨大な何かが、いくつも、いくつも、こちらに向かって、近づいてきている。
「おい、なんだ……? 今の音……」
「地鳴りか……? いや、違う! 足音だ!それも相当な数だぞ!」
設営チームの冒険者たちが、一斉に作業の手を止め、木槌やスコップを放り出し、慌てて、腰の剣の柄に手をかけながら、森の奥を睨みつけた。
野営地の隅に設置された、後方支援チームの仮設テントから、エリスが血相を変えて飛び出してきた。
彼女のいつも冷静な碧い瞳が、焦りという感情によって、大きく見開かれている。
「……設営チームも警戒、いや、戦闘態勢に入ってください!」
いつも冷静なエリスの声は、明らかに上ずっていた。
「魔物の大群が、こちらの想定を遥かに超える規模で発生している! 森の広範囲で、同時にです! 掃討チームの防衛ラインが、一箇所、突破されます!」
「なっ!? 防衛ラインが、突破!?」
「クラリッサ様たちは、どうしたんだ! あの人たちが、止められない魔物が、いるってのかよ!?」
「交戦中です! ですが、数が、数が多すぎます! オーク、ゴブリン、それに大型のウルフ種……!それも多数!総員に告ぐ、戦闘に備えよ!野営地への侵入を、何としても阻止します!」
エリスの鋭い声が響き渡る。
だが、その彼女の言葉が終わるか、終わらないかの刹那。
ズガガガガガガガガガガガガッ!!
俺たちが、見つめていた、森の、その一角。
そこにある木々が、まるで、巨大なブルドーザーにでも、内側から、なぎ倒されたかのように、凄まじい音を立てて、こちら側へと倒れ込んできた。
「「「うわあああああっ!?」」」
土煙と木っ端が、嵐のように舞い上がる。
そして、その向こうから、地獄の釜が開いたかのように、奴らが姿を現した。
「グルアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「ブモオオオオオオオオオオオッ!」
緑色のぬらぬらとした肌をした、筋骨隆々のオーク。その手には、巨大な棍棒が握られている。
小柄ながらも、錆びた剣を狂ったように振り回す、無数のゴブリン。その血走った赤い目が、ギラギラと、こちらを見ている。
そして、その間を縫うようにして、ブラックウルフよりも、さらに一回りは巨大な灰色の毛並みを持った、狼型の魔物。
その数、ざっと見て、百や二百では、きかない。
五百?
いや、もっとだ。
まるで、黒い悪意の津波が、森から溢れ出してきたかのようだった。
「ひ……っ!」
「だ、だめだ! 多すぎる!桁が違うぞ!」
「くそっ! 掃討チームの連中は、何やってやがんだ!俺たちは、設営部隊だぞ!こんな数の相手、できるわけねえだろ!」
ついさっきまで、俺のことを「役立たず」と笑っていた、屈強な設営チームの冒険者たちが、そのあまりの物量に顔を真っ青にして、逃げ腰になっていた。
武器こそ抜いているものの、その足は、恐怖で地面に縫い付けられたかのように、がくがくと小刻みに揺れ、一歩も前に出ていない。
そりゃそうだ。
彼らは、あくまで『設営』に回されている、つまり、『戦闘』のプロではないのだ。
Bランクとはいえ、それは、あくまで何かの専門職としてのランク。
こんな絶望的な数の暴力の前では、赤子同然だ。
「タカトさん……っ! た、タカトさん!」
俺の隣で、リーナが、小さな悲鳴を上げ、俺の服の袖を、死に物狂いで掴んできた。その顔は、恐怖で真っ白になっている。
リーナの小刻みに動く手。
彼女が、あの森で、ブラックウルフに襲われた時のことを、思い出しているのが、痛いほど伝わってきた。
……ああ、もう。
俺の脳裏で、何かが、プツリ、と音を立てて切れた。
それは、俺が、この三日間、必死で張り詰めていた、理性。
なんで、こうなるんだ。
俺は、ただ、静かに泥をこねていたかっただけなのに。
目立ちたくない。
戦いたくない。
面倒事は、心底ごめんだ。
でも。
ここで何もしなければ、リーナが危ない。
この子が、また、あの時のような、怖い思いをする。
それだけじゃない。
ここにいる、さっきまで俺を馬鹿にしていた、冒険者たちも、おそらく何人かは死ぬ。
エリスだって、無事では済まないかもしれない。
スローライフは、何よりもまず、俺が、生きていないと始まらない。
そして、この子を死なせるわけにはいかない。
俺の、たった一つの温かい日常を奪わせるわけにはいかない。
……だったら、答えは、一つしかないじゃないか。
「リーナ!」
俺は、自分の声の低さに自分で驚いた。
「えっ!? は、はいっ!」
「伏せろ! 地面に、頭をつけて! 俺が、いいって言うまで、絶対に顔を上げるな!いいね!」
「は、はいっ!」
俺のいつもとは、全く違う、有無を言わせぬ口調。
リーナは、恐怖よりも俺の気迫に、押されたように、こくりと、頷くと、小さな体を丸めて地面に伏せた。
よし。
俺は、立ち上がった。
そして、隣で杖を構えて、必死に広範囲防御魔法の、詠唱を組み立てようとしている、エリスに向かって叫んだ。
「エリスさん!」
「……っ!? タカトさん!?」
彼女が、驚いたように、こちらを振り返る。
「悪いけど、こいつらの注意を、俺からそらしてくれ! 何でもいい! 適当な、一番、派手な魔法をぶっ放してくれ! できるだけ、長く派手に!」
「……!」
俺の、その言葉の意味を。
エリスは、一瞬で、正確に理解したようだった。
彼女の、いつも冷静な碧い瞳が、カッ、と、見開かれる。
その美しい唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。
エリスは確信しているのだ、この状況が打破されることを。
「……分かりました!」
彼女は、高らかに、そう叫ぶと、杖を天に掲げた。
「我が名はエリス!Bランクの魔術師!これより、我が最大火力にて、この場を制圧する!全魔力を、この一撃に込める!全員、衝撃に備えよ!」
彼女の、よく通る声が戦場に響き渡る。
押し寄せてくる魔物の群れも、恐怖に固まっていた冒険者たちも、一斉に、その視線を空に向かって、まばゆいほどの雷の魔力のオーラを立ち上らせ始めたエリスへと向けた。
よし、今だ。
全員の注意が上に向いた。
俺は、その場に、どさりと派手にへたり込んだ。
表向きは、エリスの、とんでもない魔力に、気圧されて、恐怖のあまり、腰が抜けて、地面に手をついてしまった、哀れなBランク冒険者。
だが、俺の手のひらは、確かに、この演習林の固い大地を掴んでいた。
『イメージしろ』
脳みそが、焼き切れそうになるほどの、集中。
リーフェル村の丘の上の自宅の静かなリビング。
リーナの笑い声。
俺のスローライフ。
『それを邪魔する、全てのゴミ』
『あの黒い津波。あの魔物の大群が、今、立っている、全ての足元。この丘の土台。その地面を、根こそぎ、ごっそりと空っぽの空間に『加工』する!』
俺の体から、魔力が奔流となって、大地へと吸い込まれていく。
リーフェル村のワイバーンを倒した時とも、ダンジョンのドラゴンを砂に変えた時とも、比べ物にならないほどの莫大な魔力の放出。
それは、もはや、俺の限界を超えた、力の奔流。
直後、世界が悲鳴を上げた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
凄まじい、地鳴り。
それは、もはや地響きというような、生易しいものではない。
この大地そのものが、巨大な生き物のように、うねり身悶えしている。
「な、なんだ!? 地震か!?」
「エリス殿の魔法の余波か!? まだ、発動もしてねえのに!?」
冒険者たちが狼狽の声を上げる。
違う。
これは、俺が、今、まさに、この世界の一部を作り変えている音だ。
「ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
魔物の大群が、一斉に、困惑と恐怖が入り混じった、甲高い叫び声を上げた。
無理もない。
彼らが、今、まさに、その足で踏みしめていたはずの固い地面が。
何の前触れもなく。
音もなく。
まるで、巨大な、見えないスプーンで、ごっそりと、えぐり取られたかのように。
ズブズブズブズブズブズブズブズブズブ……ッ!!
その姿を、消し始めたのだから。
後に残されたのは、ぽっかりと口を開けた、巨大な、すり鉢状の奈落。
その大きさは、フットボール競技場、数個分。
深さは、もはや底が見えない。
真っ暗な闇が、そこにあるだけだ。
数百、いや、千はいたかもしれない、魔物の大群は。
自分たちの足場が、突然、消え失せたことに、気づく暇さえ、なかっただろう。
彼らは、ただ重力に引かれるまま。
阿鼻叫喚の悲鳴を上げながら。
巨大な、すり鉢の底へと、折り重なるようにして滑り落ちていく。
数秒後。
後に残されたのは、この世のものとは思えないほど、巨大な人工のクレーター。
そして。
しん、と。
先ほどまでの、魔物の雄叫びが消える。
そこにあるのは、嘘のような静寂だけだった。
「…………」
「…………」
あんぐりと、口を開けたまま、目の前で起きた、常識ではありえない現象を、ただ、呆然と見つめている、設営チームの冒険者たち。
エリスも、天に掲げた杖を、そのままに、動きを止めていた。
彼女は、詠唱の準備運動すら終わっていなかった。
彼らの視線の先。
クレーターの縁で、一人の男が、情けなく、へたり込んでいた。
「あ、ああ……。び、びっくりした……。こ、腰が、腰が抜けた……。い、今、何が……? 地震……?こ、怖い……」
この我ながら、わざとらしいセリフは俺である。
俺は、リーナに、支えられるようにして、かろうじて、上半身を起こしながら、迫真の演技で恐怖に打ちのめされたふりをした。
(よし、リーナ、いいぞ。そのまま、俺を心配そうに、見つめ続けるんだ!)
(は、はいっ! タカトさん、しっかりしてください!)
「……な、なんだ、今のは……?」
「地盤沈下……か? それにしてはタイミングが良すぎるだろ……」
「お、おい、魔物は……? 魔物はどうなったんだ……?」
「……い、いなくなった……。全部、あの穴の中に……」
「いや、でも、あの『役立たず』が、何かできるわけでもねえし……。あいつ、一番、情けなく、腰、抜かしてたぞ」
冒険者たちが、何が起こったのか、まったく理解できない、という顔で、ひそひそと囁き合っている。
よし。
誰も、俺がやったとは、気づいていない。
完璧な偽装工作だ。
俺が安堵したときだった。




