第十五話:高潔なる女騎士との遭遇
リーフェル村の小さな丘の上、俺の砦とも言うべき家から、忌まわしき合同訓練へと旅立つ日の朝。空は皮肉なまでにカラリと晴れ渡っていたが、俺の心境はまるで梅雨明け宣言の日に台風が直撃したかのように、どんよりと淀みきっていた。
「タカトさん、忘れ物はありませんかっ? 保存食は、私が作った分も合わせて、たーっぷり持ちました! 着替えも三日分、それから……あ、タカトさんがいつも使ってる枕も、ちゃんと荷物に入れましたからね!」
「いや、枕は置いていけ! 荷物がかさばるだけだろ! 遠足じゃないんだぞ!」
俺の底なしの憂鬱などどこ吹く風。俺の正式な『従者』として任命された(ということにした)リーナは、朝から謎のテンションでぱたぱたと忙しなく家の中を駆け回っていた。その小さな背中からは「絶対にタカトさんのお荷物にはならないぞ!」という、義務感なのかなんなのか、よく分からない意志が炎のように燃え上がっているように見える。
その一方で、リビングの椅子には、すでに旅支度を終えているエリスが、やけに涼しげな顔で腰を下ろしていた。彼女は片手にいつぞやの分厚い革張りの手帳を広げ、何やら熱心にペンを走らせている。
「……あの、エリスさん。朝っぱらから何をそんなに真剣に書き留めてるんですか?」
「おはようございます、タカトさん。昨夜のあなたの入眠までの所要時間と、今朝の起床時の心拍数、それから朝食の咀嚼回数を記録していただけです」
「……は?」
「ストレス環境下におけるあなたの生態サンプルとして、非常に興味深いデータが取れまして。特に、召集状を見た日の睡眠パターンとの差異が……」
「あんたは俺の主治医か何かですかっ!個人情報って言葉を知ってます!?」
「ええ、もちろん存じております。ですが、私の知的好奇心は、時としてそういう些末な常識を凌駕するのです」
ふふ、と上品に微笑む彼女の碧い瞳にあるものは、『獲物を見つけた研究者』のそれだけだった。俺はもはや人間としてではなく、何か珍しい実験動物か何かとして、その一挙手一投足を観察されているらしい。
ああ、帰りたい。
今この瞬間、踵を返してベッドに潜り込みたい。
そして、この家で、芋畑の成長具合と明日の天気のことだけを考えて暮らしたい。
だが、現実は非情である。
俺たちは重い荷物を背負い(しかも、俺の荷物にはリーナがこっそり入れた枕がしっかりと収まっていた!)、村の広場へと下りていった。
そこにはグレン村長をはじめ、村人たちが数名、俺たちの見送りのために集まってくれていた。
そして、その傍らには、今回の旅のためにギルドが手配したという、一台の荷馬車が停められていた。
……荷馬車。
Bランク冒険者二名と、その従者一名。合計三名の移動手段だ。
屋根こそついているものの、お世辞にも立派とは言い難い。木材がむき出しになった、いかにも頑丈さだけが取り柄といった風情の、荷物を運ぶためだけの馬車だった。前世で言うところの軽トラックの荷台に、幌をつけたようなものだろうか。スローライフにはお似合いかもしれないが、これからギルド主催の合同訓練に参加する、Bランク冒険者の移動手段としては、あまりにも貧相すぎやしないだろうか、などと場違いなことを俺は考えていた。
「タカト殿、エリス殿。どうか、お気をつけて。リーナちゃんも、タカト殿のこと、しっかりとお支えするんじゃぞ」
「はいっ! お任せください、村長さん! タカトさんには指一本触れさせません!」
「いや、俺は別に戦場に行くわけじゃ……」
「ええ、リーフェル村の皆さんのご期待は裏切りませんよ。この才能の塊である、タカトさんを、このエルフの私が直々に鍛え上げていたしましょう」
エリスは、俺の肩をぽんと叩きながら、村人たちに向かって意味深な笑みを浮かべる。その言葉に、村人たちが「おお……!」「さすがはタカト様だ!」と、期待に満ちたどよめきを上げた。
やめてくれ。本当にやめてくれ。
そんなハードルを、エベレストよりも高く積み上げるようなことを、笑顔で言うんじゃない。俺はただ、森の隅っこで体育座りをして、嵐が過ぎ去るのを待っていたいだけなんだ。
俺は村人たちの、もはや尊敬を通り越して信仰に近くなっている過剰な期待が込められた視線に、背中を針で刺されるような痛みを感じながら、逃げるようにして馬車の荷台へとよじ登った。
◇
がたん、ごとん。
予想していた通りの、いや、予想を遥かに下回る、最悪の乗り心地だった。
荷台の床板は薄く、車輪が地面の小石を踏みしめる、その一つ一つの振動が、ダイレクトに尻へと突き刺さってくる。クッションという概念は、この世界の馬車にはまだ搭載されていないらしい。
「うう……っ。お、お尻が……お尻が四つに割れそうです……」
俺の隣にちょこんと座ったリーナが、出発してわずか十分で、早くも半泣きになって小さなお尻を押さえている。彼女のふさふさの尻尾も、心なしかしょんぼりと元気をなくして垂れ下がっていた。
「タカトさん、お水です! 喉、渇いてませんか? あ、それとも肩をお揉みしましょうか!? 私、これでも力仕事には自信が……!」
「いや、大丈夫だから。リーナこそ、無理するんじゃないぞ。馬車に酔ったりしたら、すぐに言うんだぞ」
「私は大丈夫です! これでも、タカトさんの正式な『従者』ですから!」
ぷん、と頬を膨ませて意地を張るリーナ。その健気さには頭が下がるが、見ているこちらがハラハラしてしまう。
一方、俺たちの向かい側に座るエリスは、そんな地獄の悪路などまるで存在しないかのように、平然としていた。彼女は激しく揺れる車内でも、体幹が一切ぶれることなく、再びあの革張りの手帳を取り出し、何やらペンを走らせている。
「……エリスさんは、平気そうですね。馬車の旅には慣れてるんですか?」
「まあ、冒険者稼業というのは、こういうものですから。それよりタカトさん」
「……はい?」
「あなた、先ほどから無意識に、荷台の床板に魔力を流し込んでいませんか?」
ギクリ。
言われて、俺ははっとした。
確かに俺は、この耐え難い振動を少しでも和らげようと、無意識のうちに『加工』スキルを発動させ、自分たちが座っている部分の床板の構造を、ほんのわずかだが、衝撃を吸収するゴムのような性質へと作り変えようとしていた。
「……バレましたか」
「ええ。この床板、あなたたちが座っている座面の部分だけ、振動の伝達率が明らかに周囲と異なっています。なるほど……無意識下でのスキル行使。魔力制御のレベルが、私の想定をまた一段超えてきましたね。実に興味深い……」
彼女はそう言うと、またしても手帳に何やら嬉々として書き込み始めた。
もう、だめだ。この人との会話は、全てが研究データとして収集されてしまう。
俺は諦めて口を閉ざし、荷台の幌の隙間から、流れゆく代わり映えのしない景色をぼんやりと眺めることにした。
俺が望んだスローライフは、こんなデコボコの悪路の上にはない。もっと平坦で、穏やかで、何の波風も立たない、そんな場所にあるはずなのに。
そんな、俺の、この世の終わりのような憂鬱と、リーナの悲鳴と、エリスの知的好奇心を乗せて、馬車はがたごとと不快な音を立てながら、訓練が行われるという森へと向かって進んでいった。
◇
どれくらい、地獄の振動に耐え続けていただろうか。
リーフェル村を出発して、半日近くが経過した頃だった。
それまで単調だった街道の先に、何やら人だかりができているのが見えた。立派な馬が数頭、従者らしき人間が数人。そして、その中心に、ひときわ目立つ一団がいた。
「ん? どうしたんでしょうか。道の真ん中で、何かあったんでしょうか……」
リーナが不思議そうに首をかしげる。
俺たちの馬車の御者を務めていた男が、相手の装備の良さを瞬時に見て取ったのか、慌てた様子で馬の手綱を引き、馬車を道の端へとゆっくりと寄せた。
「おっと……。こいつは、ずいぶんとご立派な方たちがお揃いだ。下手に近づかない方がいいかもしれねえな」
御者の男が、緊張した声で呟く。
その時、それまで手帳に没頭していたエリスが、ふと顔を上げ、幌の隙間から窓の外を一瞥した。
「あらあら」
彼女の口から、小さな、しかし明確に「ああ、面倒くさい」という感情が込められた声が漏れた。
「どうしたんですか、エリスさん。お知り合いでも?」
「ええ、知り合いと言えば、知り合いですね。ギルドでも有名な、『高嶺の花』ですよ。……いろんな意味で」
そう言って、彼女が視線で示した先。
そこに、その人物はいた。
純白。それはまるで物語に出てくる天馬か何かのように、見事な毛並みを持った馬。その背に跨っていたのは、一人の少女だった。
年の頃は、俺やリーナとそう変わらない。十代後半、といったところか。
陽光を浴びて、蜂蜜のようにきらきらと輝く、豊かな金色の髪。それを、戦化粧のように、きりりと高い位置でポニーテールにまとめている。
着ているものは、簡素な旅装ではなかった。騎士のそれだ。磨き上げられた白銀の胸当てに、高価そうな深い青色のサーコート。その胸には、剣と盾をかたどった、やけに精緻な刺繍が施されている。おそらく、彼女の家の紋章なのだろう。
そして何より、俺の目を引いたのは、彼女の顔立ちだった。
陶器のように滑らかな白い肌。すっと通った鼻筋。形の良い、意志の強そうな唇。そして、その全てを支配するかのように、強く、気高く輝く、澄み切った碧い瞳。
非の打ち所のない美少女、と言ってよかった。
だが。
その全身から発せられている空気は、リーナの持つ太陽のような暖かさとも、エリスの持つ知的な冷やかさとも、全く別種のものだった。
それは、刺すような、冷たい空気。
自分以外の全てを、足元の石ころか何かのように見下している、絶対的な『自信』と『選民意識』が伺える。
全身全霊で「私はあなたたちとは違う、特別な存在なのです」と、そう主張しているかのような、凄まじいまでのプライドの高さが、そこにはあった。
俺が、そのあまりのオーラに、ぼうっと見とれていると。
その少女が、馬をこちらへとゆったりと寄せ、馬車の荷台の幌を、じろり、と無遠慮に覗き込んできた。
そして、俺の隣に座るエリスの姿を認めると、その美しい顔立ちを、わずかに、ぴくり、と動かした。
「……まあ。あなたも、この訓練に参加なさるのですか、エリス殿」
その声は、鈴が鳴るように澄んでいたが、その音色には、真冬の氷のような冷たさが含まれていた。
「ごきげんよう、クラリッサ嬢。ええ、ギルドからのご指名とあらば、断るわけにもいきませんから」
エリスが、営業スマイルで応じる。
クラリッサ、と呼ばれた少女騎士は、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「ギルドも、ずいぶんと人選に困っているようですね。エルフの魔術師まで、引っ張り出さねばならぬとは。ですが、あなたのような実力者がいるのであれば、今回の訓練も、少しは骨のあるものになるかもしれません」
女同士の表面上は穏やかだが、水面下ではバチバチと火花が散っているような、そんな会話。
俺は、できるだけ気配を消し、荷台の隅で、ただの荷物か置物のように固まっていた。
頼むから、俺に気づくな。俺に構うな。俺はただの背景だ。
しかし、その俺のささやかな願いは。
次の瞬間、ガラス玉が砕け散るかのように、木っ端みじんに打ち砕かれた。
クラリッサの冷たい碧眼が、エリスの隣に座る、俺の姿を、正確に捉えたのだ。
その瞳が、俺を上から下まで、まるで市場の家畜でも値踏みでもするかのように、じろり、と一瞥した。
そして、その美しい唇が、明確な「軽蔑」の形に、変わった。
「……あなたが」
吐き捨てるような、声だった。
「あなたが、あの噂の『加工』使いか?」
うわあ。来たよ。
俺は、内心で、本日何度目か分からない、深いため息をついた。
噂、広まりすぎだろ。どんだけ、俺の『加工』スキル、この辺り一帯で有名になってるんだ。
「魔力測定器を破壊したとかいう、とんでもない魔力だけが取り柄の……タカト、と、言ったか」
その声には、隠そうともしない、あからさまな侮蔑が、蛇口から泥水が噴き出すかのように、たっぷりと含まれていた。
「は、はあ。まあ、一応、タカトと申します……。あの測定器の件は、何かの間違いというか、事故みたいなものでして……。俺も、何でBランクになんかなっちゃったのか、自分でも、よく分かってないと言いますか……あは、あはは……」
俺は、エリスとリーナと練り上げた、『無能な役立たず』演技プラン第一段階を、早速、実行に移すことにした。
できるだけ情けなく、頼りなく。自信なさげに、へらへらと笑う。
その俺の態度が、どうやら、クラリッサの逆鱗に、火に油を注ぐがごとく、触れてしまったらしい。
彼女の美しい顔が、侮蔑を通り越して、今度は、怒りで、かっと赤く染まった。
「……恥を知れっ!」
びしり、と、まるで冷たい鞭で打たれたかのような、鋭い声が飛んできた。
「ギルドのBランクという肩書が、どれほどの重みを持つものか、貴様には理解できんのか!それは、幾多の死線を乗り越え、血と汗と涙で勝ち取った、冒険者の誇りそのものだ!それを『何かの間違い』だなどと……!貴様のような、心構えも、覚悟も持たぬ輩が、私たちと同じランクを名乗ること自体、ギルド、引いては冒険者への許されざる侮辱だ!」
ぐうの音も出ない。
正論、というか、彼女の中にある揺るぎない『正義』が、暴走列車のように、こちらに猛スピードで突っ込んでくる。
いや、まあ、でも、彼女の言うことは、何も間違っちゃいない。むしろ、全面的に同意だ。
俺みたいなのが、Bランクとか、本当に世の中、間違ってると思うし。
「はあ、申し訳ありません……。本当に、心の底からすみません……」
俺は、もうひたすらに、頭を下げることしかできなかった。
波風を立てない。目立たない。これが鉄則。
「ふん。スキルは『加工』。噂に違わず、泥をこねるのがお似合いの卑しいスキルだな。そんな貴様が、なぜ、このような実戦訓練に呼び出された? ……ああ、そうだったな。貴様は、莫大な魔力だけがお取り柄だったか」
うわあ、言われ放題だ。
でも、それでいい。それでいいんだ。
俺が、ひきつった笑顔で、ニコニコと、その罵詈雑言のシャワーを受け入れていると。
それまで、俺の隣で、ずっと我慢していたらしい、小さな火山が、ついに大噴火を起こした。
「ちょっと、あなた!さっきから、黙って聞いてれば、タカトさんに、あまりにも失礼ですよっ!」
ばっ、と、リーナが、その小さな体で、俺をかばうようにして、荷台の幌から顔を出し、馬上のクラリッサを真正面から睨みつけた。
その琥珀色の瞳は、怒りの炎で、めらめらと燃えている。
「なっ……!?」
さすがのクラリッサも、予期せぬ、それも獣人の少女からの反撃に、一瞬、驚いたように目を丸くした。
「リーナ!やめろ!よせって!」
俺は慌てて、リーナの小さな肩を掴んで、荷台の中へと引き戻そうとした。
ああ、まずい、まずい、まずい!
ここで、リーナが目立ったら、元も子もない!
「タカトさんは、あなたが思ってるような、卑しい人じゃありません! あなたは、タカトさんの、本当のすごさを、何にも知らないくせに! タカトさんは、あのワイバーンだって、一撃で倒して、私の死にそうだった怪我だって、一瞬で……!」
「リーナっ! いい加減にしろ!」
俺は、半ば本気で、リーナの口を、片手で、ぐわし、と塞いだ。
まずい。この子は、興奮すると、本当に、何でもかんでも喋りだしてしまう!
「むぐーっ! むぐぐぐーっ!」
俺の腕の中で、リーナが、必死に抗議の声を上げている。その尻尾が、怒りで、バシバシと荷台の床を叩いていた。
俺は、そんなリーナを、小脇に抱えるようにして、必死で押さえ込みながら、クラリッサに向かって、人生で、一番、情けない顔で頭を下げた。
「も、申し訳ありません、クラリッサ様! こ、この子、俺の従者なんですけど、まだ、世間知らずなものでして! 本当に、ご無礼を……! ほら、リーナも謝るんだ!」
「むぐーーーっ!」
俺は、リーナの頭を、無理やり、こくり、と下げさせた。
その、俺たちの、みっともないとしか言いようのない、主従のやり取りを。
クラリッサは、心底、軽蔑しきった、という、冷え冷えとした表情で見下ろしていた。
彼女の碧い瞳には、もはや、怒りすら残っていない。
そこにあるのは、何か汚いものでも見るかのような、純度百パーセントの侮蔑だった。
「……もう結構だ」
クラリッサは、汚物から目をそらすかのように、ふい、と、顔を背けた。
「貴様らと、これ以上、言葉を交わすのは、時間の無駄だ。……エリス殿」
「はい、なんでしょう?」
「訓練では、その、みっともない『お仲間』が、騎士の面々に無礼を働かぬよう、しっかりと首輪をつけておくことだ」
そのあまりにも、あんまりな言い草に。
俺の腕の中で、リーナの体が、怒りで、ぶるぶると、小刻みに震えるのが分かった。
だが、俺は、もう何も言わなかった。
ただ、ひたすらに頭を下げ続ける。
「では、失礼する」
クラリッサは、それだけを言い残すと、白馬に、軽く鞭を当てた。
カポ、カポ、と、蹄の音が遠ざかっていく。
彼女の率いる立派な一行は、俺たちの貧相な荷馬車を、あっという間に追い抜き、土埃の向こうへと消えていった。
◇
後に残されたのは、気まずい沈黙と、馬車の中に充満する、リーナの抑えきれない怒りのオーラだけだった。
俺が、そっと、彼女の口から手を離すと、リーナは、はあ、はあ、と荒い息をつきながら、俺を涙の浮かんだ瞳で睨みつけた。
「……どうして、なにも言い返さないんですか、タカトさん!」
「……リーナ」
「あんなに、ひどいこと、言われて! 私だけじゃなくて、タカトさんのことまで、あんなに馬鹿にして! タカトさんなら、あんな、いばってるだけの人、指先一つで、ぎゃふんって、言わせられるのに!」
「しーっ。リーナ、声が大きい。御者さんに聞こえるだろ」
俺は、人差し指を、そっと、彼女の唇に当てた。
「いいか、リーナ。俺たちの目的を忘れるな。俺は、あの人に勝ちたいわけじゃないんだ。俺は、この訓練で誰よりも目立ちたくない。……そのためなら、あれくらいの悪口、いくらでも、笑って受け流してやるさ」
「でも……!でも!悔しいです!」
ぽろり、と、リーナの瞳から、大粒の涙が、こぼれ落ちた。
俺のせいで、この子に、こんな思いをさせている。それが、何よりも、胸が痛んだ。
「……ごめんな、リーナ。俺が、ふがいないばっかりに」
「……タカトさんは、ふがいないなんて、ありません……!」
彼女は、涙を、ごしごしと手の甲で拭うと、俺の胸に、こつん、と、小さな頭を預けてきた。
ずっと、黙って、俺たちのやり取りと、あのクラリッサとかいう、少女騎士の言動を、冷静に観察していたエリスが、ふと、口を開いた。
「……クラリッサ・フォン・アルベルト。高名な騎士爵家の、ご令嬢です。その剣の腕と指揮能力は、ギルドでも高く評価されています。Bランクに昇格したのも、ここ半年のこと。まさに、エリート中のエリートですね」
「へえ。そりゃあ、すごいですね。ピカピカの一年生、ってわけだ」
俺は、心の底から、どうでもいい、という、相槌を打った。
俺とは、住む世界が違いすぎる。
「ですが」と、エリスは続けた。「彼女は、家柄、伝統、秩序といったものを絶対視する傾向がある。あなたの『加工』スキルのように、常識の枠の外にある、得体の知れない力を本能的に嫌悪しているのでしょうね」
「……なるほど。分かりやすい、分析、ありがとうございます」
俺は、いまだに俺の胸で、ぐすん、ぐすんと、小さく、鼻をすすっている、リーナの頭に、そっと手を置いた。
「タカトさん」
エリスが、俺の目を、まっすぐに、見つめてきた。
その碧い瞳には、いつもの研究者のような雰囲気はなく、どこか面白いものを見つけた、というような、楽しげなものがあった。
「あなたの『無能を演じる』作戦。あれは、なかなか理にかなっています。……特に、クラリッサ嬢のような、プライドが高く、思い込みの激しい相手には、効果てきめんでしょう」
「……そうだといいんですけどね」
「ええ。彼女は、きっと自ら、『タカトは、魔力だけの、役立たずだ』という、素晴らしい情報を訓練に参加する、全ての冒険者に広めてくれるはずです。……あなたにとって、これ以上ない、最高の『広告塔』に、なってくれるかもしれませんね」
「……そりゃあ、どうも」
エリスが言っているのは、皮肉なのか、本気なのか、まったく分からない。
馬車が、再び、がたん、ごとん、と、大きく音を立てて動いた。
俺は、窓の外を流れていく、代わり映えのしない景色を、ぼんやりと眺めながら。
これから始まる、合同訓練という名の波乱に満ちた幕開けを思った。
前途は、この馬車の、ひどい揺れ以上に、多難であることだけは、間違いなさそうだった。




