第十四話:作戦会議
俺の家、もとい、俺のスローライフを死守するための砦に、とんでもない闖入者が居座ることになった。
Bランク冒険者、エリス。
理知的な美貌を持つエルフの彼女は、俺の作った肉野菜炒めと味噌汁を平らげるや否や、「合理的判断です」の一言で、合同訓練へ出発するまでの数日間、この家に滞在することを一方的に宣言したのだ。
有無を言わさぬ、とはまさにこのこと。俺が何か反論を口にする前に、彼女はすでに自分の荷物を玄関の隅に解き始めていた。その手際の良さは、まるで最初からそのつもりでここへ来たとしか思えない。
「……というわけです。数日間、お世話になりますね、タカトさん。リーナさん」
にこり、と完璧な笑みを浮かべるエリス。その背後には、黒いオーラでも見えそうなほどの有無を言わせぬ圧があった。
俺はと言えば、その場で完全にフリーズしていた。何が「というわけです」だ。話の筋道が光の速さで捻じ曲げられ、気づいた時には俺が彼女の滞在を許可した、という既成事実が作り上げられていた。ああ、なんて恐ろしい女だ。
「あ、あの……エリス、さん……? ここに、泊まるんですか……?」
俺の隣で、リーナがおずおずと尋ねた。彼女の琥珀色の瞳は、突然現れた同性の美人に、戸惑いと、ほんのわずかな警戒の色を浮かべている。ぴょこんと立った犬の耳が、不安そうにぴくぴくと動いていた。
「ええ、そのつもりです。あなたの恩人であるタカトさんの負担を、これ以上増やすわけにはいきませんからね。出発まで行動を共にし、万全の状態で訓練に臨めるよう、私がサポートします」
「わ、私が、タカトさんのサポートをします!」
リーナが、エリスの言葉に被せるように、むきになって言い返した。その声には、明らかに「あなたなんかに、タカトさんの世話は任せません!」という強い意志が込められている。
早くも、女同士の静かな火花が、バチバチと音を立てて散っているのが見えた。
スローライフ、終了のお知らせ。
俺は、キリキリと痛み始めた胃のあたりを、そっと手で押さえた。
これから始まるのは、美しきエルフの研究者と、健気で純粋な獣人の少女に挟まれた、針の筵のような地獄の日々である。
◇
最初の問題は、寝床の確保だった。
この家には、俺の寝室とリーナが使っている部屋。そして、もう一つ、物置代わりに使っている空き部屋しかない。
「客間はこちらですね。結構です、ここで十分です」
エリスは空き部屋を一瞥するなり、あっさりとそう言った。部屋には、俺がスキルで作った予備の棚や椅子が、無造作に置かれているだけだ。ベッドすらない。
「いや、ベッドくらいは作りますけど……」
「結構です。私は寝袋の持参がありますので。それより、この棚……一枚の木材から削り出したものではありませんね。木材の繊維が、一度、分解され、再圧縮されている……? 信じられない強度です。タカトさん、これは……」
「ああもう! 研究は後回しにしてください! 夜も更けてきたんですから、今日はもう休んだらどうです!?」
俺は半ば強引に、彼女を部屋から追い出した。一晩中、家具の分析をされでもしたら、こちらの身が持たない。
リーナは、俺の寝室の隣にあるその部屋を、じっと、複雑そうな顔で見つめていた。
「リーナも、もう自分の部屋に戻って休め。明日から、色々と忙しくなるぞ」
「……はい。おやすみなさい、タカトさん」
力なく頷いて、彼女は自分の部屋へと消えていった。いつもなら、もう少し嬉しそうに尻尾を振っているはずなのに。
俺は、二つの部屋の扉が閉まるのを見届けると、本日何度目か分からない、深くて重たい息を吐き出した。
これから数日間、俺の心休まる時間は、果たして訪れるのだろうか。
翌朝、俺が目を覚まし、リビングに下りていくと、そこにはすでに見慣れない先客がいた。
「おはようございます、タカトさん。昨夜はよく眠れましたか?」
エリスが、まるで何年も前からこの家に住んでいたかのように、当たり前の顔をして椅子に座り、優雅に足を組んでいた。その手には、どこから取り出したのか、分厚い革表紙の本が開かれている。しかし、彼女の目の下には、うっすらとだが、隈ができていた。
「……あなたこそ、あまり眠れなかったんじゃないですか?」
「ふふ。バレてしまいましたか。いやはや、驚きの連続で。どうにも、知的好奇心が静まってくれなくて」
彼女は悪戯っぽく片目をつぶった。
「特に、あの水洗式のトイレと、温かいお湯が無限に出てくるバスルーム。あれは一体、どういう魔術理論に基づいているのです? 水の生成は、空気中の水分を凝縮させているとして、あの汚物を分解し、無害化する機構は? それに、あの陶器の浴槽……あの滑らかな曲線と均一な厚みは、通常の陶芸技術ではありえません。まさか、あれも……」
「ストップ、ストップ! 朝から、その話は勘弁してください!」
俺は慌てて彼女の言葉を遮った。どうやら彼女は、一晩かけて、俺の作った水回り設備を、徹底的に研究していたらしい。恐るべき探求心だ。
「あ、おはようございます、タカトさん! エリスさんも、お早いんですね」
そこへ、ぱたぱたとリーナがリビングにやってきた。彼女はエリスの姿を認めると、一瞬、びくりと肩を揺らしたが、すぐに俺に向かって、にこりと笑顔を向けた。
「タカトさん! 今日の朝ごはんは、私が作ります! パンを焼きますね!」
「おお、そうか。それは助かるな」
リーナは、エリスに見せつけるように、てきぱきとキッチンの準備を始めた。俺が『加工』スキルで作った、小麦に似た穀物の粉をボウルに入れ、水と酵母のような菌を混ぜて、こねていく。その手つきは、ここ数日で、ずいぶんと様になっていた。
エリスは、そんなリーナの様子を、興味深そうに、じっと観察している。
「パンを焼く……。この世界の一般的な製法では、発酵に半日、石窯で焼くのに一時間以上はかかりますが……」
「タカトさんの家の台所は、特別なんです!」
リーナが、ふふん、と得意げに胸を張った。
彼女は、こね上げたパン生地を、俺が作ったオーブンのような魔道具の中に入れる。そして、蓋を閉めると、俺の方を、キラキラとした目で見つめてきた。
「タカトさん、お願いします!」
「はいはい」
俺は、オーブンにそっと手をかざし、魔力を流し込んだ。
『生地を発酵させ、最適な温度で、ふっくらと焼き上げろ』
本来なら数時間かかる工程を、俺のスキルで、わずか数分に短縮する。
すぐに、オーブンの中から、パンの焼ける、香ばしい匂いが立ち上ってきた。
「……っ!?」
その、ありえない速度と、芳醇な香りに、エリスの碧い瞳が、驚きに見開かれる。
「な……時間短縮の魔法……!? いえ、違う! 物質そのものに、直接、熱を『加工』している……? そんな、馬鹿な……!」
彼女が、ぶつぶつと、またしても研究者の顔で呟き始めた、その時。
ちん、と軽やかな音を立てて、パンが焼き上がった。
リーナが、得意満面の笑みで、オーブンから、こんがりと、きつね色に焼かれた、ほかほかのパンを取り出す。
「さあ、どうぞ! 焼きたてですよ!」
テーブルに並べられたのは、ふっくらとした丸いパンと、温かいスープ、そして、森で採れたベリーで作った即席のジャム。
エリスは、目の前のパンを、まるで未知の生物でも見るかのように、じっと見つめていた。そして、ためらいがちに、その一片をちぎり、口へと運ぶ。
もぐ、もぐ。
その瞬間、彼女の動きが、昨日と同じように、ぴたり、と止まった。
「……外は、カリカリとしているのに、中は、雲のように、ふわふわと……柔らかい……。そして、噛むほどに広がる、穀物の優しい甘み……。これが……パン……?」
彼女の口から、恍惚とした、ため息が漏れた。
リーナは、その様子を見て、自分のことのように、嬉しそうに、そして、少しだけ、誇らしげに、微笑んでいた。
俺は、そんな二人の様子を、少しだけ離れた場所から眺めながら、思わず、苦笑いを浮かべてしまった。
この家は、いつから、異文化交流の実験場になったのだろうか。
◇
その日の昼間、俺たちは、三人で、家の周りの畑仕事を手伝うことになった。
もちろん、エリスにとっては、それも『研究』の一環である。
「この土……栄養価が異常に高いですね。周辺の土壌とは、明らかに成分が違う。これも、あなたのスキルで?」
「まあ、少しだけ、土壌改良を、ね」
俺は、雑草を抜きながら、曖昧に答える。彼女は、地面に膝をつき、土の匂いを嗅いだり、指先で、その質感を確かめたりと、完全に学者のそれだった。
「タカトさんは、すごいんですよ! どんなに固い地面でも、一瞬で、ふかふかの畑に変えちゃうんですから!」
リーナが、鍬を片手に、得意げに言う。その言葉に、エリスは、ふむ、と顎に手を当てた。
「地形操作……。ダンジョンで見せた、あの現象の応用、というわけですか。なるほど、大規模な操作だけでなく、このような、微細な土壌の改変まで可能とは……。汎用性が高すぎる……」
彼女の分析は、どこまでも冷静で的確だ。俺が、感覚的にやっていることを、彼女は、一つ一つ、理論的に言語化していく。それはまるで、自分の能力の取扱説明書を、横で読み上げられているような、不思議な感覚だった。
「ほら、二人とも。口だけじゃなく、手も動かしてくださいよ。その雑草、全部、抜かないと、芋の成長の妨げになりますからね」
「はいっ!」
「……了解しました」
俺の声に、リーナは元気よく、エリスは、少しだけ不満そうに返事をした。
Bランクのエリート冒険者が、辺境の村で芋畑の草むしりをする。なんとも、シュールな光景だ。
だが、その光景は、不思議と俺の心を穏やかにした。
昨日までの息が詰まるような、村人たちとの、ぎこちない距離感。物見高い冒険者たちの不躾な視線。そういったものから、解放された、ただ、土をいじるだけの純粋な時間。
隣ではリーナが、楽しそうに鼻歌を歌いながら雑草を抜いている。
その向こうでは、エリスが、ぶつぶつと、何かを呟きながらも、真剣な顔で土と格闘している。
奇妙な三人組。
だが悪くない。
俺は、ほんの少しだけ、そう思った。
午後は、森へ、薪と食材の採集に出かけた。
もちろん、エリスは、ここでも研究者の顔を崩さない。
「このキノコは、微弱な魔力を帯びていますね。食用に適するか、サンプルとして、いくつか、持ち帰らせてもらいます」
「あ、エリスさん!そっちの草は、毒があるので、触っちゃだめですよ!」
「ほう。毒性植物……。その毒の成分にも興味がありますね。どのような効果が……」
「ダメですってば!」
リーナが、慌てて、エリスの手を、ぱし、と叩く。
まるで好奇心旺盛な子供と、そのお目付け役のようだ。
俺は、そんな二人を、少し後ろから、苦笑いを浮かべて見守っていた。
こんな騒がしくて、手のかかる日々も、案外、スローライフの一つの形、なのかもしれない。
◇
その日の夜。
夕食の準備は、自然と三人で行うことになった。
「私が、野菜を切ります!」
「では、私は、火の番を」
「じゃあ、俺は、味付けの担当、ということで」
狭いキッチンに、三人が肩を寄せ合うようにして立つ。
リーナが、トントントン、と、リズミカルに、野菜を刻んでいく。その横で、エリスが俺の作った、魔力式のコンロの火加減を真剣な顔で調整している。
「この調理器具も、興味深い。熱源はどこに? 魔力を直接、熱エネルギーに変換している、というのは分かりますが、その変換効率が異常です。既存の魔道具とも、理論が全く違う……」
「エリスさん! よそ見してると、スープが煮詰まっちゃいますよ!」
「おっと、失礼」
そんな、賑やかなやり取りを、聞きながら、俺は、鍋に特製の『醤』を、たらりと垂らした。
じゅわ、という音と共に、食欲をそそる香りが、キッチンに、満ちる。
その夜の食卓は、昨日までとは、比べ物にならないくらい、明るく、そして、賑やかだった。
「それで、その合同訓練とやらは、一体、どんなことをするんだ?」
俺が、スープをすすりながら尋ねると、エリスは、スプーンを置き、少しだけ真剣な顔つきになった。
「表向きの目的は、先ほども言った通り、連携強化と技術向上です。おそらく、いくつかのパーティに分かれて、模擬戦やダンジョン攻略のようなことを行うことになるでしょう」
「模擬戦……。俺に、何ができるって言うんだ……」
「そこですよ、問題は」
エリスは、俺の目を、まっすぐに見据えた。
「あなたは、絶対に目立ってはいけない。それも、ただ何もしない、という、消極的な意味ではありません。もっと、積極的に『無能』を演じる必要があるのです」
「無能を、演じる……?」
「ええ。あなたは、魔力測定器を破壊した、という、派手な実績がある。周囲は、あなたに、何か、とんでもないことを、期待しているはずです。その、過剰な期待を、見事に裏切らなければならない」
彼女の言葉は、俺が、漠然と考えていたことと、全く、同じだった。
「例えば、簡単な魔法一つ、使うのにも、苦しげに大量の魔力を消費するふりをする。戦闘になれば、魔力を使用せずに、真っ先に物陰に隠れている、とかね」
「……具体的に、ありがとうございます」
なんだか、情けない自分の姿が、目に浮かぶようだ。
「とにかく、『莫大な魔力を持つだけの宝の持ち腐れ』。そのレッテルを確固たるものにするのです。そうすれば、貴族も、ギルドの上層部も、あなたへの興味を失うでしょう」
「……分かりました。やってみますよ」
俺が、覚悟を決めたように、頷くと。
隣で、話を聞いていたリーナが、きゅ、と、拳を握りしめた。
「タカトさんは、無能なんかじゃ、ありません! 本当は、すっごく、すごいんです! それを、わざと弱いふりをしなきゃいけないなんて……! なんだか、私、悔しいです!」
「リーナ……」
「大丈夫ですよ、リーナさん」
エリスが、リーナに向かって、優しく、微笑みかけた。
「彼の本当のすごさは、私と、あなたが知っていれば、それで十分です。これは、彼の平穏な暮らしを守るためには、必要で、そして、極めて重要なことなのですから」
その言葉に、リーナは、まだ納得がいかない、という顔をしながらも、こくり、と、小さく頷いた。
俺とエリスとリーナ。
立場の全く違う、三人。
だが、今、少なくとも、この瞬間の俺たちの間には、『スローライフを守る』という、一つの目的が生まれていた。
◇
出発の前夜。
俺の家は、旅の準備で、少しだけ騒がしくなっていた。
「タカトさん、着替えは、これだけで足りますか?」
「エリスさん、寝袋は、ちゃんと干しましたからね!」
リーナが、甲斐甲斐しく、俺とエリスの荷物を点検して回っている。その姿は、まるで遠足前に持ち物をチェックしているかのようだ。
「ありがとう、リーナさん。助かります」
エリスも、そんなリーナの様子を、微笑ましそうに眺めていた。
この数日間で、ぎこちない空気は、すっかり消え失せていた。リーナは、エリスの膨大な知識に純粋な尊敬を抱き、エリスは、リーナの裏表のない、真っ直ぐな性格を好ましく思っているようだった。
俺は、そんな二人の様子を、少しだけ、安堵した気持ちで見ていた。
「……タカトさん。これは?」
エリスと俺が、テーブルの上に無造作に置いていた、いくつかのアクセサリーを指さした。それは、俺が来るべき訓練での『偽装工作』のために、スキルで作り出した、『魔道具もどき』だった。
「ああ、それは……まあ、お守り、みたいなものです」
「お守り……ですか?」
彼女は、その中の一つ、腕輪を手に取った。それは黒曜石を滑らかに磨き上げたような、シンプルなデザインの腕輪だ。
「……魔力は感じられませんね。ですが、この素材の密度……。ありえない。この世に存在する、どの鉱物とも違う……」
彼女の研究者の目が、きらり、と光る。
「これも、あなたのスキルで?」
「ええ、まあ。その辺の石ころを、ちょっとだけ、硬く、『加工』しただけですよ」
「石ころを……」
彼女は、腕輪をじっと見つめ、そして、何かを閃いたように、顔を上げた。
「……なるほど。そういうことですか。素晴らしい、アイデアです」
「え?」
「訓練で、万が一、あなたが、その規格外の力を使わざるを得ない、状況になった時。その現象を、あなた自身の能力ではなく、この未知の『魔道具』の効果である、と、偽装する。……違いますか?」
彼女のあまりにも、的確な推察。
「……ご名答です」
「ふふ。あなたという人は、本当に面白い。普通は、力を証明しようとするのに、あなたは必死で無能になろうとする。そして、そのための準備は、どこまでも用意周到」
彼女は、くすくす、と、楽しそうに笑った。
その顔には、俺に対する、純粋な、好意と尊敬の念が、浮かんでいるように見えた。
なんだか、少しだけ、むず痒い気分だった。
「よし、準備、完了です!」
リーナが、ぱん、と、手を叩いた。
玄関には、三人分の荷物が綺麗に、まとめられている。
明日、俺たちは、この家を一時的に、離れて、面倒事の渦中へと旅立つ。
だが、不思議と、以前のような憂鬱な気分はなかった。
一人じゃない。
そう思うだけで、心は少しだけ軽くなる。
「よし。じゃあ、明日に備えて、今夜は、早く、休むとしようか」
俺の言葉に、二人は返事をした。
窓の外では、満月が、俺たちの家を静かに照らし出していた。




