第十二話:ギルドからの召喚状
頭が痛い。
ズキズキと、まるで頭蓋骨の内側から小さな木槌で規則正しく叩かれているような、鈍くて執拗な痛みが続いていた。
原因は分かっている。二日酔いのそれとは違う、もっとたちの悪い種類の痛みだ。
先日、村を訪れた行商人が、まるで面白い土産話でもするように、にこやかに語って聞かせたルーンヘブンでの最新の噂。それだ。
『リーフェル村のBランク冒険者は、神業の使い手らしい。一夜にして壮麗な館を、みすぼらしい小屋へと自在に作り変えるそうだ』
冗談じゃない。
俺はキッチンのテーブルに突っ伏したまま、昨日から何度繰り返したか分からない悪態を、心の中だけで吐き捨てた。俺のスローライフを守るための起死回生の一手だったはずのカモフラージュ作戦。
物見高い観光客の群れが丘の下から俺の家を指さして騒ぐ、あの動物園のパンダ状態からは無事に脱却できた。その点においては、作戦は成功したと言っていい。
だが、火を消そうとして、代わりにガソリンを撒いてしまったらしい。たしかに、好奇の視線は消えたが、代わりに、より本質に近く、そしてより性質の悪い畏敬の念が、新たな噂となって定着してしまった。
「タカトさん、大丈夫ですか? 朝からずっと、そんな感じですけど……」
向かいの席から、リーナが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。彼女の琥珀色の瞳が、心なしか不安げに揺れている。ぴょこんと立った犬の耳も、いつもより元気なく垂れ下がっているように見えた。
「いや、大丈夫だ。ちょっと、考え事をしていただけだよ」
「考え事……ですか?」
「ああ。どうすれば、俺は、この世界で『ただの村人A』として、平穏無事に生涯を終えることができるのか、ってな」
「むらびとA……?」
きょとんと小首をかしげるリーナ。
すまない、八つ当たりだ。リーナには、まったくもって何の罪もない。
俺は、彼女が淹れてくれた、ミントの葉を浮かべた白湯を一口すすった。すーっとする爽やかな香りが、少しだけ、ささくれた神経を和らげてくれる。
外見は古びた石造りの小屋だが、一歩、中に足を踏み入れれば、そこは昨日までと何も変わらない、快適な我が家だ。この秘密基地のような空間だけが、今の俺の唯一の安息の地だった。
もう、いっそのこと、この家から一歩も外に出ずに暮らすというのはどうだろうか。
畑仕事は家のすぐ隣だし、森へ行くのも裏口からこっそりと。水や食料さえ確保できれば、完全な引きこもり生活も、あながち不可能ではない。
うん、それだ。
それこそが、俺の求める究極のスローライフの形なのかもしれない。
俺が、そんな後ろ向きな未来設計図を描き始めた、その時だった。
コン、コン、コン。
控えめな、それでいて、何か有無を言わせぬような、固いノックの音が、家の木の扉を叩いた。
「……ん?」
俺とリーナは、顔を見合わせた。
村の人間なら、こんな風に、改まって扉を叩くことはしない。
大抵は、外から「タカトさーん!」と、気の抜けた声で呼びかけてくるだけだ。
この音。何か、嫌な予感がする。
面倒事の匂いが、ぷんぷんと、扉の隙間から漏れ出してきているようだった。
「……誰だろうな」
「私、見てきます!」
リーナが、ぱたぱたと軽い足取りで玄関へと向かう。
俺は、やめておけ、と喉まで出かかった言葉を寸でのところで飲み込んだ。居留守を使う、という選択肢もあったが、このしつこそうなノックの音を聞く限り、相手は俺が中にいることを確信しているに違いない。
ぎい、と、扉が開く音がした。
「は、はい!どちら様で……ひゃっ!?」
リーナの間の抜けた返事と、小さな悲鳴が、ほとんど同時に聞こえてきた。
何事だ。
俺は、思わず椅子から立ち上がった。
「……失礼。こちらが、Bランク冒険者、タカト殿のお住まいで間違いないかな?」
低く、よく通る、それでいて、感情の温度が全く感じられない、男の声。
俺は、リビングからそっと玄関を覗き見た。
そこに立っていたのは、見慣れない男だった。年の頃は、三十代半ばだろうか。体にぴったりと合った、磨き上げられた革の鎧を身につけ、腰には実用的な、しかし上質な長剣を下げている。その立ち姿には、一切の隙がない。リーフェル村の、のんびりとした空気の中では、あまりにも不釣り合いな、ぴりぴりとした緊張感をまとっていた。
彼は、リーナの姿を一瞥すると、興味を失ったように、その視線を家の奥へと向けた。
「タカト殿に、冒険者ギルドより、公式な書状をお持ちした」
「ギルドから……?」
俺は、観念して、男の前に姿を現した。
男は、俺の顔を認めると、わずかに目を細めた。おそらく、噂に聞くBランク冒険者が、こんなにも、ひょろりとした、気の弱そうな男であることに、少しだけ、拍子抜けしているのだろう。
「いかにも、私がギルドの連絡係だ。こちらを」
男は、その懐から羊皮紙でできた、厳重に蝋で封をされた、一通の巻物を取り出した。そして、それを俺に突きつけるようにして差し出した。その流れるような動作は、何度も同じことを繰り返してきた、手慣れた者のそれだった。
俺は、ためらいがちに、それを受け取った。ずしり、と、見た目以上の重さを感じる。それは、きっと、この書状が持つ、物理的な重さだけではない。
「……確かに、受け取りました」
「では、私はこれで。ご返答は、三日以内に、ルーンヘブンのギルド支部まで」
男は、それだけを一方的に告げると、くるりと踵を返し、一礼もせずに、さっさと立ち去ってしまった。まるで、嵐のような男だった。
後に残されたのは、不気味な巻物を手にした俺と、男の威圧感に気圧されて、完全に固まってしまっているリーナだけだった。
「……タカトさん。今の、人……」
「ああ。ギルドの、お偉いさん、なんだろうな」
俺は、はあ、と深いため息をつきながら、手の中の巻物に視線を落とした。
公式な召喚状。
面倒事、という言葉が、そのまま、手紙の形になったような代物だ。
俺は、指先で、固い封蝋を、ぱきり、と音を立てて砕いた。そして、そろりそろりと、巻物を広げていく。
そこに、流れるような美しい筆跡で書かれていたのは、俺の、最後の希望的観測を、木っ端みじんに打ち砕くのに、十分すぎる内容だった。
『Bランク冒険者、タカト殿。
来る日に、近隣のギルド支部が合同で実施する、合同訓練への参加を、ここに要請する。
本訓練は、Bランク以上の実力を持つ冒険者を対象とし、相互の連携強化と、技術向上を目的とするものである。
なお、参加は任意であるが、正当な理由なく、これを辞退した場合、ギルドへの貢献意欲を疑わざるを得ない、と、判断することもある』
……回りくどい言い方をしてくれる。
要するに、『来い。来ないと、どうなるか分かってるんだろうな?』という、丁寧な言葉で書かれた、脅迫状じゃないか。
合同訓練。連携強化。技術向上。
どれもこれも、俺のスローライフ計画とは、百万光年ほどもかけ離れた、汗と、土と、血の匂いがする単語ばかりだ。
俺は、羊皮紙を、ぐしゃり、と握りつぶしそうになるのを、必死でこらえた。
「どうして、俺が……」
乾いた声が、自分の口から漏れた。
俺は、ただのしがない『加工』スキル持ちだぞ。戦闘能力なんて、限りなくゼロに近い。そんな俺が、Bランク冒険者たちが集まる、エリートだらけの訓練に参加して、一体、何ができるというのか。足手まといになるのが、関の山だ。
いや、分かっている。
ギルドが、俺に期待しているのは、戦闘能力じゃない。あの魔力測定器を破壊した、『莫大な魔力量』。
それだけだ。
彼らは、俺のことを何かの特殊な能力を持った、便利な道具か何かと、勘違いしているに違いない。
あるいは、俺の力を見極めようとしているのか。噂だけが先行している、得体の知れない新人。その実力が本物なのかどうかを、この訓練という名の査定会で、値踏みしようという魂胆なのだろう。
どちらにせよ、ろくなことにならないのは、目に見えていた。
「断る。絶対に断る」
俺は、そう判断した。
ギルドとの関係が悪化する? 上等じゃないか。もともと、関わり合いになんて、なりたくなかったんだ。
最悪、この村を捨てて、リーナと一緒に、どこか、もっと遠い、誰も俺のことを知らない土地へ逃げればいい。
そうだ、それがいい。
「タカトさん、あの……」
リーナが、おずおずと、俺が広げた羊皮紙を、横から覗き込んできた。
「訓練……ですか?」
「ああ。だが、俺には関係ない。こんなもの、無視するに限る」
「でも……断ったら、ギルドの人たち、怒るんじゃ……」
「怒らせておけばいいさ。俺は、冒険者として、名を上げたいわけじゃないんだからな」
俺が、吐き捨てるように言うと、リーナは、悲しそうな顔で俯いてしまった。
まずい。また、この子に心配をかけてしまった。
俺が、何か、フォローの言葉をかけようとした、その時。
玄関の扉が、遠慮がちに、しかし立て続けにコンコンと叩かれた。
先ほどのギルドの使いとは違う、明らかに焦りが感じられる音だ。
リーナが不思議そうに扉を開けると、そこにグレン村長が立っていた。
その顔は、俺が、これまで見たこともないほど、険しい。
「村長さん、どうしたんですか、そんなに慌てて」
「ギルドの使いの者が、村の広場で、大声で、君を呼び出しておったからの。何事かと思って、様子を見に来た」
村長は、俺が手にしている召喚状に、ちらりと視線を走らせる。
「……やはり、そうか。訓練の召集じゃな」
「ご存知だったんですか?」
「うむ。わしにも、ギルドから、事前に内々の連絡があった。君に召集がかかるであろう、と」
「だったら、どうして、それを先に……!」
俺が、少しだけ、詰問するような口調になると、村長は、静かに、かぶりを振った。
「わしが、どうこうできる問題ではない。これは、ギルド上層部の決定事項じゃ」
「ですが、俺は……!」
「タカト殿。君のお気持ちは、痛いほど分かる。君が、静かな暮らしを望んでおることも、重々、承知しておるつもりじゃ」
村長は、俺の目を、まっすぐに見据えて言った。その、年輪の刻まれた瞳には、厳しいながらも、どこか、俺を案じるような色が浮かんでいた。
「じゃが、考えてもみてくれ。君は、もう、ただの旅人ではない。この辺りのギルドに、その名を知られた、Bランクの冒険者なんじゃ。その君が、ギルドからの公式な要請を、何の理由もなく、蹴ったとなれば、どうなる?」
俺は、何も言い返せなかった。
「ギルドは、君個人の面子を潰された、とは、考えん。彼らは、こう考えるじゃろう。『リーフェル村にいる、タカトという男は、我々ギルドの権威を、公然と、侮辱した』と。そうなれば、彼らの怒りの矛先は、君一人だけでは、済まなくなるやもしれん」
「……この村に、ですか?」
「そうだ。ギルドは、この村への物資の供給を止めるかもしれん。冒険者の派遣を拒否するかもしれん。そうなれば、こんな小さな開拓村など、ひとたまりもない。次の冬を越すことさえ、できなくなるじゃろう」
村長の言葉は、静かだった。
その一言一言が、まるで、重たい鉛の弾丸のように、俺の胸に、ずしりずしりと、めり込んでくる。
俺は、俺だけの問題だと考えていた。
だが違ったのだ。
この村に住むと決めた、その瞬間から。俺の行動は、この村全体の運命と、分かちがたく結びついてしまっていたのだ。
俺が、スローライフを送るためには、この村の平穏が不可欠。
そして、この村の平穏は、ギルドとの良好な関係なくしては、成り立たない。
つまり。
俺が、スローライフを続けたければ。
この面倒事の塊のような、訓練に参加するしかない。
……なんという皮肉だ。
俺は、もはや巨大な蜘蛛の巣に絡め取られた、一匹の哀れな蝶。もがけばもがくほど、その糸は体に深く食い込んでくる。
「……ちなみに、ですが」
俺は、かろうじて、かすれた声を絞り出した。
「その訓練には、どんな物好きな方々が、参加されるんで?」
「うむ。近隣の支部から、選りすぐりのBランク冒険者が、集められると聞く。確か……」
村長は、少しだけ、記憶を探るように、宙を仰いだ。
そして、ぽつり、と、一つの名前を、口にした。
「ルーンヘブンの支部からは、あの、エルフの才媛。エリス殿も、参加されるそうじゃ」
「……やっぱり」
俺の口から、乾いた笑いが漏れた。
もう、何もかも、お見通し、というわけか。
あの、好奇心旺盛な研究者気質のエルフが、この機会を見逃すはずがない。彼女は、きっと、この訓練の場で俺の力を、さらに隅々まで観察し分析するつもりなのだろう。
俺の胃が、きりり、と、鋭い痛みを訴えた。
「……分かりました」
観念という言葉が、これほどしっくりくる瞬間は、人生で、そう何度もないだろう。
俺は、手の中の召喚状を丁寧に折りたたんだ。
「行きますよ。その合同訓練、とやらに」
「……そうか。すまんな、タカト殿。君にばかり重荷を背負わせてしまう」
村長は、申し訳なさそうに、深く頭を下げた。
俺は、そんな彼に、力なく笑いかけることしかできなかった。
「いいんですよ。これも、俺の静かな暮らしを守るためにはどうしても必要みたいですから」
その言葉が、半分以上、自分自身に言い聞かせるための、強がりであることに、気づかないふりをしながら。
◇
出発は三日後。
その日の夜、俺は頭を抱えていた。
訓練に参加することは、もう決まった。腹を括るしかない。だが、最大の問題が一つ、残っていた。
リーナのことだ。
訓練が行われるのは、ここから馬車で数日かかる森の奥。その間、彼女を一人でこの家に残していくなんて、絶対にできない。かといって、村長の家に預けるのも……いや、それが一番安全なのだろうが、俺がいない間、彼女が寂しい思いをすることは目に見えている。
そして何より、俺が嫌だった。この穏やかな日常から、俺だけが引き剥がされることが。リーナのいない数日間なんて、想像しただけで、灰色の風景しか思い浮かばなかった。
「……はあ」
夕食の片付けを終え、テーブルで腕を組んで唸っている俺に、リーナがおずおずと声をかけてきた。
「タカトさん、あの……訓練のこと、ですか?」
「ああ……。リーナ、すまないが、俺が留守の間は……」
村長の家に、と言いかけた俺の言葉を彼女は遮った。
「嫌です」
凛とした、それでいて、有無を言わせぬ響きを持った声だった。
「え?」
「だから、嫌です、って言ってるんです!」
リーナは、ぱん、とテーブルに両手をついて、椅子から立ち上がった。その琥珀色の瞳が、まっすぐに、俺を射抜いている。
「タカトさん一人だけを、そんな、面倒そうな場所に行かせるわけにはいきません!私も、一緒に行きます!」
「無茶を言うな! あれはBランク冒険者の訓練なんだぞ!? お前はまだ冒険者ですらない。どんな危険があるか分からない場所に、連れて行けるわけないだろ!」
「足手まといになるつもりは、ありません!」
彼女は、一歩も、引かなかった。
その小さな体から、見たこともないような、強い意志の力が、溢れ出ている。
「私がタカトさんから離れて、この村で待っていることが、タカトさんの足枷になるんです!タカトさんは、きっと、私のことを心配して、訓練に集中できない!違いますか!?」
「ぐっ……!」
図星だった。俺は何も言い返せない。
「だったら、答えは一つです! 私も一緒に行く! そして、タカトさんが何の心配もなく、さっさと面倒事を終わらせられるように、全力でお手伝いします!」
「手伝うって……お前に何ができるって言うんだ!」
「身の回りのお世話なら、全部できます! 食事の準備も、野営の支度も、全部私がやります! タカトさんは、ただ、面倒な訓練のことだけ考えて、一日でも早く、この家に帰ってくることだけを考えてください!」
健気、という言葉だけでは、足りなかった。
彼女は、本気で、俺の力になろうとしている。俺が、一人で、この村の未来という重荷まで背負い込んで、不本意な場所へ行こうとしているのを、ただ指をくわえて見ているのが、耐えられないのだ。
「……でもな、リーナ。訓練には、参加資格のない者は……」
「それなら、私が、タカトさんの『従者』です!」
「じゅ、従者!?」
「はい! 高ランクの冒険者様が、身の回りの世話をさせるために、従者を一人、連れていくのは、ギルドでも認められてるって、村長さんから聞きました!」
いつの間に、そんな根回しを……。
彼女の瞳は、絶対に諦めない、という光に満ちていた。
ここで俺が、何を言っても、きっと無駄なのだろう。彼女は、テコでも動かないに違いない。
俺は、はあ、と、天を仰いで、深いため息をついた。
「……分かったよ。分かった。お前の勝ちだ」
俺が、降参の印に、両手を上げると、リーナは、ぱあっと花が咲くように顔を輝かせた。
「本当ですか!?」
「ああ。ただし、条件がある。訓練そのものには、絶対に、参加しないこと。あくまで、俺の世話役として安全な場所から、一歩も動かないこと。約束できるか?」
「はいっ! 約束します!」
ぶんぶんと、ちぎれんばかりに尻尾を振りながら、彼女は、満面の笑みで頷いた。
俺は、そんな彼女の姿に、面倒な訓練へ向かう憂鬱な気持ちが、ほんの少しだけ、和らいでいくのを感じていた。
一人で行くよりは、ずっといい。
この温かい日常を、そのまま連れていけるのなら。
そう思うと、少しだけ前向きな気持ちになれた。
「よし、じゃあ、二人分の準備をしないとな。明日から、忙しくなるぞ」
「はいっ! お任せください!」
その日から、リーナは、自分のことのように、張り切って旅の準備を始めた。
保存食の干し肉を、いつもより、たくさん作る。そして、俺と自分の着替えや寝袋を日に干して、ふかふかにしている。
くるくると、甲斐甲斐しく働く姿は、見ていて飽きることがなかった。




