剣はいらないの?
鉄の匂いがする。
むせ返るようなその匂いの中、ニルは息を切らしながら剣を振り続ける。
『勇者様。魔物に支配された村をお救い下さい』
『勇者様。西の砦が魔王軍に攻め落とされました。私達では歯が立ちません。お助け下さい』
『私の村は、家族は、魔王軍にっ…。勇者様。代わりに仇をっ』
『『『『勇者様』』』』
勇者様にしか出来ない。勇者様しかいない。
皆がニルに求める物、答えは一つ。
「分かりました」
求める言葉は何時だって肯定。勇者らしく笑顔で当たり前のように引き受けて、魔王を討ち滅ぼす為に剣を振るう。
死への恐怖も、期待も全て受け止めて。傷だらけになろうが、目を失おうが、戦い続けなければならない。
それが勇者に選ばれた者の役目だから。それが勇者として育てられた義務だから。
「戦わないと…」
ポツリっと呟き、ニルは目を覚まして、剣を探す。そして、はたと現実に戻り、ベッドの上で膝を抱えた。
「そうだ。俺はもう勇者じゃない」
もう誰かの希望を演じる必要はない。ホッと胸を撫で下ろして、ベッドにポスンッと転がると、窓から差し込む朝の日差しがニルを照らす。
勇者から解放されたニルを誰も必要としない。だから、勇者から解放されたニルは自由。何をしたっていい筈だ。何処へ消えたっていい筈だ。その筈なのだが…。
「起きたか」
不意に横から声がしてビクッとニルは身体を震わせる。
恐る恐る声の方へ顔を向けるとおたまを持ったエプロン姿のフラムがさも当たり前のようにニルのベッドの横に立っている。
「……………」
「おはよう」
「……おはよう」
朝食の良い匂いを身体から漂わせ、早くダイニングに来いと言わんばかりに視線を残して去っていくフラムにニルは頭を抱える。
フラムが押しかけてきてからもう一週間が経つ。
最初は眠気が酷くて、ほぼ寝たきりだったニルもやっと身体が動くようになった。一方、フラムは料理のレパートリーが増え、家事スキルが主婦の域に達していた。
夢かもしれない。他人の空似かもしれないなどと、現実逃避も流石に一週間もすれば、いやでも受け入れざるおえなくなる。
(いや、受け入れたくはない)
このままだと、本当にこの生活が続くのではないかと考えて、ニルは抱えていた頭を全力で横に振る。だが、「帰ってくれ」のその一言がニルの口からは中々出て来てくれない。
いっそ、自身が出て行くべきなんじゃないかと最近では思い始めている。そもそも、ニルが住もうと思っていた小屋の原型はフラムの改築によりもう残ってない。
フラムから買うという手も考えたが、今のニルはほぼ裸一環。お金を持ってない。
偽物勇者には不相応だ。本来はお前の手柄ではないと、ニルが魔物討伐の報酬で手に入れた財産は没収するというので、ニルは手切金として剣と防具以外は全て置いてきてしまったから。
(だって、付いてくるなんて思わなかった…)
深い森で一人暮らして、金に困れば獣やら魔物やら狩って、足しにすればいいと当初は考えていた。フラムがついて来て、小屋の主権を奪われるなんて夢にも思っていなかった。
「ニル。料理が冷めるぞ」
「はい」
やはり、小屋は諦めて出て行くべきかと、決意したニルにフラムがダイニングから催促する。その催促に条件反射で「はい」と返答してしまう自身に表情を引き攣らせ、ニルは諦めてダイニングに顔を出す。
ダイニングに行けば、当たり前のように二人分の朝食が用意されていて、エプロン姿のフラムの灰色の瞳が座れと言わんばかりにこちらを見つめてる。
必ず食事する時は二人用の小さなテーブルで何故か対面。
ニルは恐る恐る席につき、フラムの顔色を伺うが、フラムはニルをただじっと無表情で見つめてる。
「い、いただきます」
ニルはその圧に負け、フラムが作る料理を口にする。最初の一口は勿論、ニルの意思など関係ない。関係ないのだが…。
「………美味しい」
パクリっと一口食べれば、また一口、また一口と気付けばニル自身の意志で口に運んでいる。
今日の朝食はバターの染み込んだトーストにスープとポテトサラダ。
しかも、ただでさえ、美味しいカリカリに焼かれたベーコンを細かくしてポテトサラダに混ぜ込むという暴挙。
最近、自身でも知ったのだが、ニルはカリカリに焼いたベーコンとポテトが好物らしく、自身でも驚く程、食い付きがいい。
夢中で食べるニルをフラムはニルが食べ終わるまで眺めている。それがまた不思議で、何故かニルが食べ終わるまでフラムは決して朝食に手を付けない。
「……食べないの?」
意を決してそう声を掛ければ、フラムは無表情ながらも少しだけ広角を上げた。
「そうだな。一緒に食べよう」
どうしても撫でたいのか。フラムはニルの頭を撫で、左頬を撫でると、貴族らしい美しい所作で食事を胃に収めていく。
(一緒……)
フラムの言葉に今更、一緒にご飯を食べている事実に気付き、複雑な気持ちになる。
「確かに美味いな」
ひとりになりたい筈なのに、何故か誰かと一緒に食卓を囲んでる。ひとりになりたい筈なのに、何故か誰かと美味しさを共有している。
「ニル」
「…何?」
「今日は天気がいい。少し森を散歩して、何処か景色のいい所で一緒に昼食を取ろう」
「…………」
フラムは決してニルをひとりにしてくれない。
口数も前より増えていき、表情も少しずつだが豊かになっていく。ニルもニルでつい条件反射で頷いてしまう。
トマトにベーコンにチーズに、ポテト。色とりどりのサンドイッチを何時用意したのか分からないバスケットに詰め込み、フラムはニルに手を差し出してくる。
ニルはその手を前にビクリッと震え、少し後退る。すると、フラムは少し残念そうな顔で手を下ろした。
「この小屋の東には一角兎が生息する花園があると聞いた」
「……一角兎? 魔物…だよね」
「ああ。だが、そこの一角兎は温厚で人懐っこく、魔物が増える前は町の子供達の遊び相手だったそうだ」
「……魔物が遊び相手」
魔物は人類の脅威。勇者が滅すべき存在。そう勇者として教育を受けてきたニルは目を瞬かせる。
不安に駆られたニルは腰に手を触れるが、そこには勇者時代には何時もあった剣はない。
『ニル。片時も剣を離すな』
剣は何処だろう。そういえば、小屋に来た当初に玄関の靴入れに立て掛けたんだっけ、と玄関を見やるが、そこに剣は無い。
(なんで?)
移動した記憶なんてない。どうしようと慌てふためき俯くとニルの前に小さなバスケットが差し出された。
(なんだこれ…)
そう疑問に思った時にはもう、その手に小さなバスケットを握らされて、ニルは困惑してフラムを見やる。
フラムはサンドイッチが入った大きなバスケットやら敷物やら担ぎ、至極真面目な顔で…。
「その中にはオヤツのマドレーヌやおからクッキーなどが入っている。振り回して割らないように」
と、言い放った。
「え?」
「後、一角兎の餌付け用の人参スティックは中の紙袋に入っている。決して、オヤツやサンドイッチは一角兎に与えてはダメだ。人の食べ物は動物には毒だ」
「う、…うん」
注意事項をニルに述べるとフラムは「では、出かけるぞ」と扉を開ける。そのフラムの腰にも剣はなく、丸腰で出かけるつもりのようだ。
(剣…。要らないの?)
剣をあれ程、持ち歩けと言っていたフラムが剣を持っていない。ニルは何度も家から出るのを躊躇い、剣を探したが、扉の外で待ち続けるフラムを見て意を決して家から飛び出した。