「ただ変哲もない普通の日常に」
『ニル。来い』
それはフラムに出会ってから一年経った時の事だった。
何時ものように地面に叩き付けられて、息を詰めて気を失ったニルはフラムのその声に慌てて起き上がった。
起き上がったニルの体に着く土を払い、フラムはついて来いと前を行く。慌ててニルは後ろをついて行くが、王城から出ようとするのでニルは更に慌てる。
「し、師匠。俺、この後は座学で…その」
「知っている。閨の授業だろう」
「は、はい。必要になるので陛下から必ず受けるようにと…」
「…………」
フラムは突如立ち止まると、絶対零度の灰色の瞳で王城を睨みつけた。しかし、不安そうに見上げるニルを見ると、フラムは溜息をつく。
「……今日はお前の剣を取りに行く」
「剣…」
「最優先事項だ。閨の授業などお前が誰かに恋をしてからでも遅くないだろ」
否応なしにぎゅっと握られて引かれる手にニルはただ従いついて行く。フラムの言葉に首を傾げて、その大きな背中を見つめる。
誰かに恋をする。果たして自身にその自由があるのだろうか?
ニルの魔王討伐の褒美はニルより二十歳年上の姫との婚姻と決まっている。平民であるニルには最大の名誉で、勇者のニルには勇者として子孫を残す義務がある。
結婚も義務。
全てが義務で出来た自分が誰かに恋をする日なんて来るのだろうか。
答えの出ない問いに思考を飛ばしていると不意にフラムの手がニルの手から離れた。ハッと慌てて顔を上げると目の前に一振りの剣が輝いていた。
「お前の剣だ」
そうフラムからその剣が手渡される。
刀身が青く氷のように美しいその剣は手に取れば、しっくりと手に馴染み、月明かりのように優しい光がニルを守るように包む。
自身には不相応な程美しいその剣に気付けば見惚れていた。
「そっか。最初はあの剣が大好きだったんだ、俺」
長い昼寝から目を覚まし、ぽそりっとニルは呟いた。
フラムが来てから見ていないあの剣は勇者として戦うにつれて、戦わないといけないと脅迫概念に塗れていった。そして同時にニルは死の恐怖から、あの剣に依存していた。
「何処に行ったんだろう」
昼下がりの青空を眺めて、なくなった剣に思いを馳せる。アオを腹に乗せ、クロのお腹を枕にして、ぼんやりと微睡んでいると視界に黒い影が映り込み、びくりッとニルは飛び起きる。
黒い影の持ち主を前にニルはタラタラと汗を掻く。汗を掻くニルを前に仁王立ちでその人物は豪快に笑う。
「ここであったが百年目ぇっ! 今日こそ観念してもらおうかっ!!」
台詞を言い切って満足げにその人物、もとい、盗賊の格好をしたその青年はニルに手を伸ばす。ニルは慌てて、ブンブンと首を横に振って制止するが、その手をカプリッとクロが噛み付いた。
「イッテェ!?」
「ああ、また…。クロ、ザキの手を離して。俺、大丈夫だから」
「こんのっ。アホ犬っ! 飼い主に似て過保護だなっ!! 俺はニルに用があ…」
「ヴーーッ。 ガブっ!!!」
「ギャーーーッ」
「えーと。えーと、どうしよう…」
始まった一匹と一人の激しい喧嘩にわたわたとニルは手を彷徨わせて、途方に暮れる。
クロと同等の喧嘩を繰り広げるこの青年の名前はザキ。ニルがお世話になっている町を拠点としている冒険者で職種はシーフ。
歳はニルより二つ下だが、ニルより頭一つ背の高い彼はニルを町で見つける度に飼い主を見つけたワンコのようにすっ飛んでくる。
「いでででっ!? ニル。俺とパーティを組もうぜ! 」
その目的はニルを自身のパーティに加入させる事。お祭りの泥棒騒ぎの件を目撃し、ニルに目をつけたそうなのだが、いかんせん、その誘い方に問題がある。
「ニル。俺はお前に惚れ込んでんだ。俺の相方はお前しか考えられない。絶対にお前に苦労なんかさせないから俺の手をとって欲しい」
噛まれ続ける左手から滴り落ちる血なんて何のその。ザキはここ一番の真剣な表情でニルを口説く。彼は至って真剣だ。真剣に自身のパーティに誘っている。
しかし、周りから見れば言い回しやらその醸し出される雰囲気やらでプロポーズしているようにしか見えない。
「ええーと、俺はね、ザキ…」
「初めてなんだ。こんなにも誰かを欲しいと思うのは」
「ごめん。本当に勘弁し…」
「なんて、熱烈なのかしら」
「あらら、本当。恋人同士?」
視線が痛い。王都から離れた長閑な町で話題に飢えている町人達が物珍しそうな眼差しでニル達を見ている。注目される事が得意ではないニルは恥ずかしさで真っ赤になった顔を手で覆った。
彼とニルが出会ったのは三週間前。
町に慣れ、頻繁にフラムの買い物について町に行くようになった最中。彼は突如としてニルとフラムの前に現れた。
出会った最初から彼はエンジン全開でニルを口説いた。歯が浮くような小っ恥ずかしい台詞を羅列され、初めての出来事にニルは驚き固まった。しかし、フラムの行動は早く、気が付いたらザキは地面に這いつくばり、絶対零度の灰色の瞳がザキを見下ろしていた。
『ニル』
『は、はい…』
『男の急所はお前も分かってるな。もし、蹴るのも怖いのであれば、すぐに助けを呼び、自警団に引き渡せ』
俺、元勇者ですが、という言葉を飲み込み、今にもザキを始末しそうなフラムの服の裾を握って強く頷いた。
「ザキは懲りないね」
やっとの思いで冷静にお断りして、その場をなんとか収めたニルはゲンナリしつつ、ザキを見やる。ザキは何食わぬ顔でニルの肩に腕を回している。彼のチャームポイントの八重歯が見えるほど豪快に笑うと困惑するニルの背中を豪快に叩いた。
「一度振られたからって諦めるなんざカッコわりぃだろ。あの過保護ヤローより俺のが良いって言わせてみせるからよ!」
「…もう少し言い方をどうにか出来ないかな?」
「言い方? 何処が悪いんだよ。俺は至極真面目に相方として誘ってんだぜ。……なぁ、ニル。あんな男やめて俺にしろよ」
「……うん。そういう…所だね」
彼に一切の悪気はない。ただいかんせん、口説いているようにしか聞こえない。
そして、ザキとフラムは互いに目の敵にしている。
ザキはフラムを過保護やら束縛野郎だと挑発し、フラムはフラムでザキを容赦なく叩き潰すし、変質者扱いだ。フラムが敵認定しているのでフラムの従魔のクロやクロが仕切る群れはザキが視界に入った瞬間、噛み付く。
正直、ニルとしては誰かとパーティを組む気はない。組む気は無いのだが…。
「なぁー、ニル。ちょっとだけ。ちょっとだけ、俺に付き合ってよ。俺達、友達だろ?」
な? と、ニルに手を合わして、屈託のない笑顔をザキはニルに向ける。その裏表ない笑顔にニルは好感を覚えてしまう。
「……俺の意思は変わらないよ?」
「いーや。俺の良さが分かって、やっぱ、俺と組みたいってなるかもしんねぇじゃん」
初めて出来た友達からの誘いに手を伸ばそうか迷い、伺うようにクロを見れば、仕方がないなという顔でまだ寝るアオを背に乗せ、歩くニルに寄り添った。