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『パンダより君のそばで』

作者: 小川敦人

『パンダより君のそばで』


― 静岡から和歌山への小さな旅 ―


宿題の夜


五月の終わり、午前二時。


深夜の静寂に包まれたマンションの一室。窓の外では、時折通り過ぎる車の音がかすかに響くだけで、まるでこの世界に取り残されたような感覚に陥る。私はパソコンの前で固まった肩をゆっくりと回し、画面に最後の修正を加える。


「……終わった」


ぽつりとこぼれた独り言は、誰に向けたでもなく部屋の空気に溶けていく。アプリのバグ修正という、職人のような地味な作業。終わったという達成感が、胸にじわりと広がるはずだった。だが心の中には、まるで残響のように、コードの羅列がまだ居座っていた。


ふとテレビのリモコンを取り、手慰みにチャンネルを回してみる。画面の向こうに映ったのは、懐かしいあの人物だった。


「男はつらいよ」――寅さん。


哀愁とユーモアを漂わせながら、今日も旅に出る男。軽やかに、しかしどこか切なげに映るその後ろ姿。


私は不意に思い出していた。


「旅ってのはな……思い通りにならねぇから面白ぇんだ」


画面の中の寅さんがそう呟いたような気がして、私は思わず笑ってしまった。そして、心の中でそっと問いかけた。


――あの旅も、そんな旅だったのかもしれないな。


私は目を閉じた。すると、記憶のなかの旅が、静かに、確かに、再生されはじめた。



-------旅のはじまり------


その旅のきっかけは、私からだった。


昨年の誕生日に奈緒子さんに「パンダを見に行きませんか」と声をかけた。彼女は一瞬驚いたように目を見開き、けれどすぐに、あの穏やかな笑顔で「ええ、行きたいですね」と頷いてくれた。


だけど現実は、仕事や予定で、なかなか実現しなかった。半年が過ぎた頃、テレビのニュースで「アドベンチャーワールドのパンダ返還」の報が流れた。「ああ、今しかない」。その衝動に突き動かされるように、私は再び声をかけた。


「行きましょう」と彼女は、まるで前から決めていたかのように、きっぱりと言った。


その瞬間、胸の奥にふっと灯りがともったような気がした。


出発の数日前、天気予報は曇りと雨を交互に示し、私は祈るような思いで天気アプリを何度も更新した。前日の夜、ようやく画面に現れた「降水確率0%」の文字に、思わず「ついてる」と声が漏れた。


旅立ちの朝。静岡駅のホームに立つと、ほんのりと潮の香りが混じる初夏の風が、心の緊張をやさしくほぐしてくれた。


ホームで話に夢中になっていた私は、入ってきた列車の行き先を確認せずに乗り込んでしまった。


車内でも私はしゃべり続けた。最近の仕事、アプリの話、友人たちのこと、そしてもちろん、パンダの話。


そこへ車掌さんが現れた。奈緒子さんがスマートにチケットを差し出すと、車掌さんは小さく眉をひそめた。


「この列車は一本早い便ですね。到着が少し遅れますが、そのまま大阪へ向かいますか?」


奈緒子さんは驚く様子もなく、微笑みながら答えた。「“特急くろしお”に乗り継ぎがあるので……名古屋で降ります」


車掌さんは丁寧に、名古屋での接続方法を説明してくれた。


けれども、そんな予想外の出来事が、かえって旅を鮮やかにしてくれるのかもしれない。


車掌に言われてようやく間違いに気づいたが、むしろ愉しげに「旅って、予定どおりに行かないほうが面白いかもしれませんね」と微笑んだ。


私はその言葉に救われたような気がした。そして内心、こんなことを思った。


――あなたとなら、どんな間違いも愛おしい。


------ケニア号に乗って------


和歌山に着いたのは、午前の光がまだ柔らかく、空気に海の匂いが混じるころだった。


アドベンチャーワールドの入り口をくぐると、あたりは人の声とカメラのシャッター音でにぎやかだった。けれど私たちは人の流れを避け、園内を周遊するケニア号に乗ることにした。


キリン、シマウマ、サイ――どの動物も図鑑のなかでしか知らなかったあの頃のままの姿で、静かに、あるいは誇らしげに生きていた。


奈緒子さんは、シマウマを指差しながら、「あの縞模様、まるで日本画の筆さばきみたい」と小さく笑った。


その横顔が、まるで風景のなかに溶け込む一枚の絵のように、美しく思えた。


私は彼女に言えなかった言葉を、心のなかで何度も反芻していた。


――君と一緒にいるだけで、こんなにも世界が優しく見えるなんて。


そんなとき、ふと頭の中に、あの寅さんの声が響いたような気がした。


「遠い旅だったかい?でもな、パンダを見られたのはほんの一時間かもしれねぇが、その隣にいた人との時間はもっと大事なもんだよ。俺なんか、いつも旅の道すがら、きれいなマドンナに会うと心臓がドキドキしちまうんだ。でもな、そばにいるだけで幸せを感じられる人がいるってのは、この世の中で一番の贅沢かもしれねぇな。そういう気持ちは、どんなに立派なパンダだって敵わないよ。ハハハ」


その言葉は、まるで私の心の奥底にずっと沈んでいた想いを、そっとすくい上げてくれるようだった。そう、私は今、その「そばにいるだけで幸せを感じられる人」と旅をしている。


彼女が笑った。その横顔を、私は見逃さなかった。


-------パンダと君と-----


午後、ようやくパンダ舎に入った。


列の向こうには、白と黒のふわふわとしたかたまりが、のんびりと笹を食んでいた。


「大きいけど、ぬいぐるみみたいですね」


彼女がそう言って笑ったとき、私はその横顔に見惚れていた。


どんなに愛らしいパンダより、彼女の何気ない微笑の方が、私の胸を強く打った。


言葉にすれば簡単なことなのかもしれない。「好きです」と。


でも、私は「寅さん」のような三枚目だ。格好をつけても不格好になり、想いを伝えるのがどうにも下手くそだ。


だから私は、彼女に何も言わなかった。ただ、そばにいることを選んだ。


それでも、あのときの言葉は、心のなかでは確かに言っていた。


「うん。パンダもよかったけど……君と来られて、もっとよかった」


--------列車の時間、そして未来へ-------


帰りの列車、車窓に映る夕暮れの海。オレンジ色の空が、二人の影をやさしく包み込んでいた。


私は相変わらず、仕事のことや、日々の些細な出来事を語り続けていた。でもそれは、会話をするための言葉ではなく、彼女とこの時間を共有したいという、ささやかな願いの表れだった。


その横顔を見つめながら、私は心のなかで、そっとページを一枚綴じた。


「パンダより君のそばで」


この旅に、そんなタイトルをつけた。人生のなかのたった一日、けれど一生忘れられない日。


それは、恋という名の物語の一部かもしれない。


私は、あの人のとなりで、そっと、静かに想っている――この旅が終わっても、きっとずっと。



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