最終話
ネイビーのチェックが秋風に揺れる。暗い暖色の公園に宵闇色のプリーツがふわりと浮かんで、わたしの目を惹き付ける。
短いスカートから伸びた白い脚には傷一つなく。くしゃりくしゃりと落ち葉を踏み締めながら、わたしの方へと近付いてくる。
「決まった?」
さらりと流れた君の髪は、ニットの網目に引っかかって止まった。
「……何が」
「分かってるくせに。本当はどっちでもよくないんでしょ?」
見透かされる。君の綺麗な二重が、わたしにも見えないわたしの心の底を覗き込む。
「なんとなく分かるよ」
そう言いながら君は――アオイはわたしの手を取った。あの時と同じように。あの時と同じこの場所で。
ゆっくりとわたしの右手の指がアオイの頬に当たる。冷たい風にカサついていたはずの肌は、その瞬間じわっと湿り気を帯びる。
遠くでカラスの鳴く声が、切なく響く。
「アキラ、どきどきしてる?」
「……変、かな」
「変じゃない。だってわたしもどきどきしてる」
指が一気に熱くなる。溶けてしまいそうなくらいに汗をかいている気がして逃げ出したいのに、存外強く掴まれているせいでためらってしまう。
「でもね」
アオイが言葉を続ける。逃げ出したかった手が、アオイの意思で頬から下に下ろされていく。向かった先は、ぽってりと赤い唇。わたしの人差し指と中指が、アオイの下唇をなぞっていく。初めてまともに触れる他人のそれは、自分のよりもずっと柔らかく感じた。
「わたしは、こっちの方がどきどきする」
ぎゅ、と指先に唇が押し当てられる。なのに全然痛くない。それどころか包まれるようなその感覚に心地よさすら覚えてしまう。
「あ、あのっ……」
アオイは何をしてるんだろう。なんで人の指を口に当てるんだろう。わたしの指にお菓子の食べかすはついていただろうか。美味しそうに見えたのだろうか。分からない。アオイがどうしてこんなことをするのか、これになんの意味があるのか分からない。だけど。だけど――
腕を取り戻そうとしないのは、なぜ。
「どきどきしてる?」
わたしの指を当てたままの唇が、小さく横に広がる。アオイの隠れていた右手がわたしの方に伸びてくる。その手はわたしの頬に触れて、首の方へ。ゆっくりと、けれど繰り返し上下に往復して、わたしの身体を熱くする。
多分、アオイは分かってる。アオイの触れた首の血管が、滑稽なまでにどくどく脈打ってるのが分からないはずがない。
ただアオイの頬に触れただけの時よりもずっと、身体中を熱が暴れまわっている。お腹の上の方がきゅうきゅうと締め付けられるのは、一体どうしてしまったんだろう。鋭い痛みに病気にでもなってしまったのかと思ったけれど、不思議と嫌な感覚じゃない。
「わたしは、アキラをこうする方が好き」
わたしも、アオイにこうされる方が好き――頭の中に浮かんだ言葉に、顔がぼっと熱くなった。
「普通ね、こういうのが好きなのは男性体なんだって。変だよね、わたしはスカートを履いているのに。アキラの方がよっぽど男の子に見えるのに」
翳の落ちた瞳にわたしの脚が映る。短パンから伸びる、寒さで赤くなった脚。かさかさしていて、アオイとはまるで違う脚。その脚が、アオイに見つめられてきゅっと内側を向いた。
「わたしはね、アキラの性別はどっちでもいいの。自分の性別だってどっちでもいいって思ってた。親は女性体を選ぶことを望んでるから、まあ別にそれでいっかって。でも……でもね」
アオイの目が、わたしを見つめる。
「わたしは、アキラとこういうことをしたいの」
ぎゅっと、身体の奥を掴まれた気がした。身体が動かなくて、でもアオイに手を伸ばしたくて。アオイに、抱きしめてほしくて。
「古い映画を観たんだ。男の人が女の人を大事にする映画。えっちなことをたくさんしてて、女の人が切なそうに男の人の首に腕を巻きつけるの。……わたしは、男の人の方に感情移入してた。いつの間にか女の人がアキラであればいいって思って観てた。あ、アキラに女性体であることを求めてるわけじゃないよ? でも華奢な身体より、がっしりとした身体でアキラを抱き締めたい。アキラが力いっぱいしがみついてきても支えられる身体でありたい。それって、アキラがどっちを選んでも男の人の方がやりやすいと思わない? だから……だから最近は、男性体になりたいなって思い始めてる」
いつの間にかわたしの腕から離れていた左手で、アオイが自分のスカートを摘む。嫌そうに、鬱陶しそうに。
意外だった。いつもスカート姿のアオイは、当然女性体を選ぶと思っていた。だからわたしは決めきれずにいたのに、目の前のアオイの行動が、わたしの背中にのしかかる重りを取り去っていく。
「だけど結局、アキラが選んでくれなきゃ意味がない。アキラがわたしに女の人を望むなら、わたしはスカートを履き続ける」
アオイの瞳が、ふるりと揺れる。
「おかしいでしょ? アキラとずっと一緒にいられるとは限らないのに。アキラがわたしを求めてくれるとは限らないのに。わたしはアキラを基準に性別を選ぼうとしてる」
唇が震える。言葉を紡ぎたいと暴れるそれを、必死に押し留める。
「アキラはどう? さっき話した男の人と女の人だったら、どっちの立場がいい?」
もう、答えは出ていた。だってわたしはアオイがこの話をする前から、ずっとそれをしてもらいたいと思っていたから。
だけど口に出す勇気が出ない。アオイは言ってくれたのに、わたしは。
「観てない、から……」
逃げるように口を動かす。また、頼りない声が出た。
「……そう。なら、」
するりとアオイの両腕が伸びる。わたしの身体の横を抜けて、背中で繋がった手がぎゅうとわたしを締め付ける。アオイの腕は、ほんのちょっとだけ震えていた。
「こうされるの、嫌?」
嫌じゃない。嫌じゃないの。だけどそれを認めてしまったら、なんだか駄目なような気がして。父さんたちの思いを、踏みにじってしまう気がして。
それなのに。
「わた、私はっ……」
上擦った声が、わたしに答えを告げる。
大人の望みの中で生きてきた〝今まで〟が、過去になろうとしている。それはとても不安だけど、でも。
「私は――」
勝手に動く唇は、もう止めることができなかった。
わたしが孵るとき −了−




