雨を探して
「大抵の人間は死を想像するとき、病気とか、刃物で刺されたり、銃で撃たれる、事故に遭う、高いところから飛び降りる等に伴う痛みや苦しみを連想する。或いは身の回りの大切な人間とか、叶えたい夢とか、それらを失う事を考える。しかしだとすると、人が恐れるのは死そのものではなく、死よりも前に訪れる種々の苦しみであるように思える。そこで私は一度、安楽死というものを体験してみたい。未練を感じる間も無く、かつ何の苦しみもなく死ぬのなら、死に対する恐怖を感じる事もないだろうと思う。もっとも、一度体験したらそれで終わりなのだが……兎も角こうゆう、人の無意識に意識的に取り組むというのが、私が自分を保つ上でなんとか手助けになっているのだ」
大学のキャンパス内にある、小さな本屋の隅っこで、私はその本を読んだ。作者は松本雨という人で、数年前にこの大学を中退したベストセラー作家だった。しかしこのエッセイ本はイマイチ売れなかったのか、本棚の隅に追いやられている。それを手に取ったのは偶然で、別段ファンという訳でもない。むしろこの、偏屈で意味不明な文体は、あまり好きではなかった。
「その本、読む価値ありますか?」
その人は、眼鏡をかけていて、地味な服を着て、錆びた指輪を首からかけていた。背は私とほとんど変わらないくらいで、おぼこい顔を、必死に髭で隠していた。
「とてもじゃないけど、終わりまで読むのはしんどいかな。最初の数ページが限界」
私の言葉はあまり丁寧とは言えなかったが、彼はそれにとても嬉しそうな表情を見せた。
「自分の書いた本を面と向かって否定されるのは、最悪ですね。はははっ」
私はその顔をあまり見たくなくて、視線を本の帯に落とした。そこには目の前の人物と同じ顔が小さく印刷されていた。
「……ごめんなさい、私……」
「なぜ謝るんです?僕はこんなに嬉しいのに」
彼の言葉に嘘はなさそうだった。とても変な人だと思った。
その喫茶店は、私のお気に入りだった。路地を一本、入った処にあって、外に喧騒はなく、中はいつも、丁度よく賑わっている。店内は必要以上にお洒落をしていないので、入りやすいし、中にいやすい。何もない日には、ここに来て、店の奥の方の2人掛けのテーブルでぼーっとするのが好きだった。頼むのは決まってカフェオレ。珈琲は少し苦手だが、風味が好きで、だからカフェオレは一番ぴったりだった。ここのは甘さが控えてあって、何度飲んでも飽きない。若い男の店員さんが決まって、余ったパンの耳を焼いて、砂糖を軽くまぶして持ってきてくれた。
だから今日みたいに、目の前に人が座っているのは初めてで、しかもそのせいで、パンの耳のサービスはなかった。
「こちらから声をかけておいて何ですが、何のために僕をここへ?」
例の店員さんに睨みつけられて、彼は少しだけ居心地が悪そうにそう尋ねた。私自身その問いに対する明らかな答えというものを持ち合わせていなかったので、困ってしまった。
「えっと……あの、あなたについて知りたくて。変な本を書く人だから」
「僕のファンでもないのに?失礼な人ですね。気に入りました。何でも聞いて下さい」
彼の目はキラキラしていて、見るのが辛かった。
「……じゃあ、”死そのものは恐くない”ってどういう意味なの?」
「そのままですよ。つまり、死の直前にある苦しみを乗り越えるだけの”きっかけ”さえあれば、それが死ぬに十分な理由になるということです」
「……なんでそんなこと、大真面目に書けるの?」
「そうですね、小さい頃から何でも出来て、好きなことをやり、大学まで行って、そうゆう恵まれた環境で育ったからですかね」
答えになっていない……そう私の顔に書いてあると言って、彼は続けた。
「自分の才能が自分のレールを敷いて、その上を歩いていると、とても自分勝手な人間が出来るんです。自分が正しいと信じていて、人の話を聞かない、傍迷惑な人間がね」
彼は笑った。中途半端に伸ばした髭が、似合っていないと思った。
「それで、なんで作家に?」
「教授のパワハラが嫌で、大学を飛び出したはいいものの、別段アテもなく、ふらふらしていたら、趣味で書いた話が拾われて、こんな事になってしまってるんです。どこからが間違いだったのか、今となってはもう分かりませんよ」
そう一気に言い切ってから、彼はコーヒーに手を伸ばした。こちらに笑顔を向けたままそれを飲もうとして、舌を火傷したみたいだった。あちっとか、いたっとか言いながら、彼は続けた。
「で、では、次はあなたの話を聞かせて下さい」
「私は……」
そこで音が途切れた。外で降る雨の音が、急にボリュームを上げたみたいだった。水に都会を溶かしたようなその匂いが、店内にも届いている気がした。
彼はじっと、私の言葉を待っている。その顔を、私は遠いどこかで識っていた。少しして、彼はまた笑った。あまりによく笑うので、笑顔の安売りみたいだと思った。
テーブルの上のカフェオレは待ちぼうけをくらい、ぬるくなっていた。私はサンドイッチを一つ、注文した。
「私5日後に、自殺しようと思ってるの。だからそれまでに、私に”生きる意味”をくれませんか?」
自分の唐突な言葉に、私自身が一番驚いた。あまりに馬鹿げていて、言い終わったそばから急激に恥ずかしくなった。
「あなた、変な人ですね、死について書いてる人間に、”生きる意味”をくれだなんて!いいでしょう。私の言う場所に、明日来て下さい」
彼は今までで一番、楽しそうに言った。
1日目
カバは大きく欠伸をし、ゾウの親子はぐるぐると同じところを回っている。キリンは首を上下に動かし、サルの赤ちゃんは自分の投げた小石を取りに行ってまた投げてを繰り返している。サイの皮膚は鎧のようで、フラミンゴの脚は枝のよう。オウムは叫び、ライオンは堂々とした佇まいで、寝ている。
昼間の動物園は大抵、退屈なことが多い。動物が退屈なのだから、こちらを楽しませろというのもなんだか気が引ける。空気が寂しいのは、きっと今日の曇天のせいだけではないだろう。
「何で私たち、動物園にいるの?」
とぐろを巻く大きな蛇を、頭を何度も上下させながら一生懸命スケッチする彼に、私は尋ねた。
「動物園の動物ってゆうのは不思議な生き物です。人間に野生を取り上げられ、もはや頑張って生きる意味もないのに、なぜかちゃんと生きている。面白いと思いませんか?」
彼は蛇の方から頭を動かす事なく答えた。
「よし、できた!どうです?上手いもんでしょう!」
褒めてくれと言わんばかりの満面の笑みで彼ははしゃぐ。受け取ったスケッチブックには、くねくねとした”何か”が画面いっぱいに描かれていた。
「うん……あなた”らしさ”が出ているんじゃないかな……」
コンクールに出してみようか、などと嬉しそうに呟く彼の横で、私は蛇と目が合った。呆れ顔で首を振る蛇と、心が通じた気がした。
爬虫類館を後にして、私たちはペンギンのエリアへ向かった。この寒空の下、外を歩く人などいないだろうと予想したが、そこには売店で売られているペンギンの被り物をしたおじさんが、一人カメラを構えていた。
「今日もいますね、ペンギンおじさん。なんだかホッとします」
彼は躊躇なく、その変質者に声をかけた。
「おぉ!松本君じゃあないか!このところ顔を見せないと思ったら、ガールフレンドを連れてくるとは、中々やるなぁ!」
ペンギンおじさんは彼の肩をバンバン叩きながら、カメラの中身を見せた。
「ほれ、最近”ペン太”の様子がおかしいんで心配してたんだが今日はすこぶる元気だ!それに”はんペン”と”しゃーペン”がついにつがいになってな、いやーめでたい、めでたい!」
「なんと、あの二羽がついに!よかったですね、なんだかこちらまで嬉しくなってきます」
そう言い合いながら、2人は抱き合っている。その隙に私もカメラを覗いたが、どれが”ペン太”でどれとどれが”はんペン”としゃーペン”なのかさっぱり分からない。
「それは君、ペンギンの気持ちにならなくてはいけないよ!私を見てみなさい。ペンギンと同じ格好をすることで一体化している。さすれば自然と、わずかな違いが分かってくるのさ!」
その屈託のない笑顔は幼い子供のようで、少しだけ羨ましいと思った。
「そろそろ私も魚は生でかぶりつくようにせねばならんなぁ!」
前言撤回。さすがにこうはなりたくない。
2日目
「よーい……アクション!」
威勢のいい掛け声と共に、カチンコの音が響く。それを合図に現場は静まり返って、カメラの向こう側の世界が姿を現わす。精巧に作り込まれたセットの中で、役者たちはまるで、別人が乗り移ったかのように表情を変える。その空間だけは今、別の次元にあるかのように感じられた。
「あんたに何が分かる!俺の気も知らないで……」
ひとりの役者が声を出した。その瞬間、さっきまであった世界がパラパラと音を立てて崩れるのが分かった。
「カーーート!な〜にやっとるお前は!この映画をぶっ壊す気か!え!?やめだやめだ、休憩にする!」
怒鳴られた役者は、普段ほとんどテレビも映画も見ない私でも知っているイケメン若手俳優だった。イケメン俳優はそのサラサラの髪を掻き毟り、セットの脇のパイプ椅子に腰かけた。
「やぁ、イケメン君。今日もみっちり絞られてますね。楽しそうで何よりです」
「先生……からかうのはやめて下さいよ。この作品に僕を起用したのは他でもない、原作者のあなたなんですから」
「だってその方が面白いじゃないですか、これが終わればきっとイケメン君もそう思いますよ」
彼があのイケメンキラキラ俳優と仲睦まじく話しているのはなんだか違和感だった。不審な目で彼を見る私に、イケメン俳優がようやく気がついた。
「あれ、先生、こちらの素敵な女性は?」
「あ、えっと、私、松本八重っていいます。ご活躍はいつも拝見しています」
さすがに眩しくて、直視はできない。ぼーっとする私の袖を、彼が引っ張った。
「こっちのセットを案内しますよ。監督と僕のこだわりなんです」
あまりにグングン引っ張るので、上着の袖が少し伸びてしまう。
「あなたのような人でも、イケメンには弱いんですね」
「そりゃあ、綺麗なものは誰でも好きじゃない?髭とかも生えてなくて、清潔感もあるし」
「清潔感……それは、キラキラよりも大切ですか?」
「さぁ?人によりけりじゃないかな」
「ならあなたは?」
質問が終わらないので面倒臭くなって、私はお手洗いへと逃れた。
3日目
パチッ、パチッ
不規則なリズムで、小さな音が暗い室内に響く。不恰好に並べられた多数の机の上にはどれも、19×19のマス目が引かれた木の盤が置かれていて、老眼鏡をかけたおじいちゃん達がそこに黒と白の石を交互に置いていく。正面の壁には横長の幕が掛けられていて、そこにはデカデカと”羽井聡策名人七冠へ!”の文字が並んでいた。
「あれ、誰のこと?七冠って何?」
受付をする彼の背中をつついて、私は幕の方を指差した。
「なんと、羽井名人を知らないんですか?今この国で最強と呼ばれる囲碁棋士ですよ。ついに七大タイトル制覇に王手をかけたんです。しかもこの人、将棋も強いそうで。私なんかは、多分彼は人間ではないのだと思っています」
そう言って彼は、私を空いている席に案内した。目の前には所々に割れ目の入った古い碁盤があって、黒石ばかりが入った容れ物を、彼がこちらによこした。
「ルールからお教えしましょう。まずはこうやって4つの石で相手の石を囲うとですね……」
「あぁ、昔おじいちゃんに習ったから、ルールくらいは分かるよ。置石はどうする?」
「そう言うのならここは互先でいいでしょう。ただしコミは無しでいいですよ。こう見えて僕は、毎日アプリで練習してるんです」
それからは暫くの間、静かな時間が流れた。ただ、はじめのうちは軽快に飛ばしていた彼の手が、徐々に重たくなってきていた。
「えーっと、まだ?」
「ここが勝負の分かれ目なんです。もう少し……」
そう言って彼は、碁盤にこれでもかという程顔を近づけた。私は今になって、彼が髭を剃っていた事に気がついた。
「ん……これは……なんとも……」
「コミありにする?」
「それでも足りないような……」
片方の指を唇につけながら、何度も互いの地を数え直す彼の姿はまるで小学生の様であり、それを眺めるのは今までで一番楽しかった。
4日目
「きゃっ!冷たい!」
足の指先から寒さが身体をよじ登ってくる。肩まで来たそれを、ぶるぶるっと全身を震わせて外へ逃がす。それから足先についた水を、一生懸命拭う。
冬の市民プールに、人は少ない。私たちの他には、端の方でお年寄りが数人、ウォーキングをしているくらいで、ほぼ貸切状態だった。
プールになんて何年も来ていなかったので、水着は授業用の、所謂スク水しかなかった。昨日慌てて名札の部分を剥がしたので、まだその跡が所々に見えて恥ずかしい。おまけにお腹のあたりが少しきつい気がして、私の機嫌はすこぶる最悪だった。
「なんでこんなに冷たいの?室内プールなんだからもう少しあっためておいてくれればいいのに」
「ほら、入ってしまえばそれほど寒くないですよ。それに動いたら暑いくらいです。水は冷たいくらいが丁度いいんです」
「だいたい私、泳げないもの。昔から、深さ1メートル以上の水には極力入らないことにしてるんだから」
「もしかして、溺れるのが恐いんですか?」
「カナヅチの人は大抵そうでしょ?」
「でもあなた、もうすぐ死ぬんでしょう?死のうとしている人が溺れたくないだなんて、普通は変わってると思われますよ」
そう言って、彼は私に手を伸ばした。彼の言うことも一理あると思って、私は思い切って水に身体を預けることにした。ところが予想よりも水深が深く、私の足は床を捉え損ねた。
「あっ……」
慌てて掴んだのは、彼の二の腕だった。服の上からは細身に見えたのに、こうして側によると案外ガッチリしているのが腹立たしい。特に胸回りは、しっかりと筋肉が付いているらしかった。
「どうですか?案外いい身体してるでしょう?水泳は小さい頃からやってきたから、ここにいる誰より上手ですよ、僕は」
ドヤ顔をして、彼はバタフライでプールを往復した。30秒もしないうちに帰ってきて、またドヤ顔をした。
それから2人で、泳ぎの練習をした。彼の指導は丁寧で、私は生まれて初めて端から端まで泳ぎ切った。
4日目 夜
彼の弾くピアノは、とても親切だった。丁寧で優しく、セピア色だった。私は彼の隣で唄った。彼も私に合わせて唄った。2人とも下手くそなので、リズムはめちゃくちゃで、所々音がはずれた。互いにはずれた音が上手くハモって、とても気持ちが良かった。
「やっぱり電子ピアノじゃ、雰囲気が出ませんね。それにここではあまり大きな音は出せませんし」
彼の部屋は物が無くて殺風景だった。つい最近、ほとんどの物を片した様な感じだった。テレビの他には家具と呼べるものはほとんど無く、小さな本棚に漫画と映画が押し込まれているのが、精々だった。
彼は鍵盤からそっと指を離して、眼鏡を置いた。その横顔が私を過去へと連れ戻した。私は右の指にはめた錆びた指輪をぎゅっと握った。
「あなたの言う通り、雰囲気なんてあったものじゃない。今日は最悪な夜だね。そう思うでしょ?」
そう話す自分の顔が、言葉とちぐはぐだったことに、私は後から気がついた。
5日目
「今日はいよいよ、あなたが自殺する日ですね。それでいったい、どうやって死ぬんです?」
彼に聞かれて、私は困ってしまった。
「どうやって死ぬんだろう……首吊りとか?出来るのかな」
「今日死ぬと決めておいて、死に方も分からないんですか?」
「だって、誰も教えてくれないもの。死んだことのある人なんていないし」
彼はとうとう、笑いを堪えきれないようで、眼鏡を外して涙を拭った。
「やっぱりあなたは、変わった人です。そもそもなんで死にたいんですか?」
そんなふうに聞かれて、一言で答えられる人がどれだけいるだろうか。この人の質問はいつも、私を困らせる。
「だってもう、よく分からないんだもの。生きたくても生きられない人がいるって言うけど、そんなの私に関係ない。目的も意味もなく生きるのなんて、苦しい以外の何ものでもないじゃない」
「それなら、なぜ今日に?」
「……お兄ちゃんと、最後にお別れした日だから。15年前、お兄ちゃんだけを置いて家族で逃げ出した日だから。嫌な思い出は、なるべくまとめておくべきだと思って」
彼は今までのようには、笑ってくれなかった。首にかけた指輪に右手を持っていって、一拍おいてから、口を開いた。
「そうですか。ならそろそろ、自殺の準備をしましょう。丁度いい縄を探してきます」
彼は私の部屋の中を、くまなく探しはじめた。そんな所に都合よく、縄が転がってるとは思えなかった。
「ねぇ死ぬ前に、ひとつ聞いてもいい?」
箪笥の中身を躊躇なく覗く彼に、尋ねた。
「動物園に撮影現場、囲碁、プール……なんでそんな所に、私を連れて行ったの?」
彼は手を止めた。振り返って、目が合った。彼の目はキラキラしていて、とても綺麗だった。
「意味はないですよ。意味を求めるから、それを失った時に、生きるのが苦しくなるんです。なにせ死ぬのは、難しいことじゃないから……人はもっと、無意味な事に時間を使うべきなんです。そして全てが終わった頃に、自分の役割に気付ければそれでいい。それなら死なない理由くらいには、なると思ったんです」
外の明かりが、窓をくぐり抜けて来た。部屋の中は冬とは思えないほど、温かくなった。
「さすがはベストセラー作家。人に伝えるのが上手いね」
「やっぱりあなた、変わってますよ。それを伝えてくれたのはあなたの方なのに」
「えっ?」
「だってこの4日間、あなたとデートが出来て、僕はとても楽しかったんです。それだけで、死なない理由には十分ですよ」
6日目
新年早々振り続ける雨に、あちこちで誰もが深い溜息をつく。私はカーテンを開け、ベランダに出た。一つ下の階の家族が、傘をさして出かけるのが見えた。隣の部屋からは、テレビの特番が大音量で流れている。どこからか、餅を焼くいい匂いが漂ってきた。その日の空がとても綺麗だったのを、今でもよく、覚えている。