千年の恋
ー 平安京 ー
桓武天皇は光仁天皇の退位に伴い、四十四歳で第五十代天皇に即位しました。桓武天皇は、長年奈良の都で行われてきた政治が、一部の貴族や僧侶たちの不正によって国の乱れが生じたと思い、それらの者たちを一掃すべく都を平城京から長岡京に遷都したのです。しかし、長岡京も疫病など不吉な事が重なり、ここも安泰の地ではなかった。今度は平安京への遷都を決めた桓武天皇は、十余年の歳月をかけ唐の都から得た知識を元に、今までにない壮大な都を作った。しかも作ったのは都だけではなく、過去の悪しきしきたりをも見直し、数々の新しい政策を打ち出していった。国司や郡司の不正を監視する勘解由使という役職を設けたのも改革の一つであった。平安京遷都と蝦夷平定を達成した桓武天皇は六十九歳で亡くなった。
桓武天皇亡き後、長子の平成天皇が即位。しかし、政治に対する力量を示せず追われるような形で退位し上皇となり、すぐに弟の嵯峨天皇が即位した。
大化改新で活躍した藤原鎌足の子孫である藤原氏は、京家、式家、北家、南家の四つ家系に分かれ、宮廷内で覇権争いをしていた。北家の藤原冬臣は嵯峨天皇が即位すると、いち早く帝の元に馳せ参じた。
「やはり帝は、なるべくしてなられた天皇でございます。しかし、天皇の座を奪われたとの平成上皇の不満が、渦巻いているやもしれませぬ。御身の回りは常に警戒すべきかと思われます。そこで新たに蔵人所を設けなさってはいかがでしょうか?」
嵯峨天皇は少し考えるような仕草で聞き返した。
「蔵人所?それはいかなる所であるのか?」
「帝のお側に仕え、秘密保持などの補佐を司る役目として、蔵人頭を置いておく所でございます。ただ、誰でも良しというわけではございません。なにしろ帝をお守り致すのです。蔵人頭には信頼の置ける者でなくてはなりませぬ」
「なるほど蔵人頭なる者が常に私の側におれば、なにか変事が起きたとき頼りになるであろう。それではそちの息子、藤原皓臣を任命することしよう」
「ありがたきこと、承知致しました。それでは皓臣にいかなるときも帝をお守り致す旨、伝えおきますので、なんごともお申しつけ下さいますよう」
藤原冬臣は宮廷を辞すると屋敷に戻った。貴族の屋敷は寝殿造りになっており、その中でも北家の屋敷は群を抜く大きさを誇っていた。寝殿を中心に東対、北対、西対が取り囲み、東釣殿と西釣殿が大きな池の端にあり建物とは渡廊などで繋がっていた。さらに池には中島もしつられており、竜頭げき首の船を浮かべて和歌や雅楽を楽しんでいた。
冬臣は屋敷に戻ると早速、皓臣を寝殿に呼びつけた。冬臣のずんぐりむっくりした体型に比べ、皓臣はすっきりとした体躯であり、文武両道にも優れていた。
「父上、お呼びでしょうか?」
「うむ、帝から蔵人所を設けることの許可をいただいた。そして、初めての蔵人頭に皓臣がなることに決まったぞ。よいか、帝に忠義を尽くし、北家の繁栄に寄与するのであるぞ」
冬臣は、このたびの事を足がかりに皇室へ取り入り、藤原氏の中で京家、式家、南家を差し置き北家が抜きんでることを画策しておった。
皓臣は、冬臣の思惑よりも宮廷に行くことで翠子に会えるのではないかと微かな期待を抱いていた。幼馴染であり、貴族である基彰検の息女、翠子のことである。同じ貴族ではあるが藤原氏には他の貴族を見下している節があった。幼いころは船遊びに興じることもあったが疎遠になり、翠子は宮廷女性の女房として、后に仕えている。蔵人頭となった皓臣は、内裏内の蔵人所に席を置き、常に帝の身辺に注意をはらっておりました。帝は后のほか中宮、女御、更衣を側にはべらせておりました。さらに、后たちの相手をする女房と呼ばれる宮廷女性も数多くおります。久し振りに会った翠子は皓臣の思いのように教養があり、美しさは姿形だけでなく心根も優しい女性になっておりました。皓臣は内裏内を見回るおり、人目を避けて翠子に文を渡すのがささやかな楽しみであった。ある春の宵、翠子が皓臣に文をそっと手渡してきた。
『君慕い明け暮れる日々是ながし朧月夜をただ見上げらむ』
早速、皓臣は蔵人頭としての見回りと称して内裏内を探索中すきを見て、翠子へ返り書をそっと手渡した。
『美しいそなたの姿うつし出す月明かりさへ霞そうろう』
二人の秘めたる恋心は文を通し静かに、深交していった。
ある日皓臣は、平成上皇が式家の仲成や薬子と手を組み、遷都を企てていることを察知し、嵯峨天皇に上申を致しました。
「なに、平成上皇がそのような謀反を起こそうとしておるというのか。そのようなことになったら、政治が乱れ国が滅びることになる。これはいかなることをもちいても戦うしかない。皓臣、お前を蔵人頭に任命して幸いであった。これからも世の側にて頼むぞ」
嵯峨天皇は素早く動き仲成を討ち取り、桓武天皇の命により蝦夷平定を成し遂げた坂上田村麻呂に、平成上皇と薬子の討伐を命じた。追い詰められた平成上皇と薬子の軍は滅び、薬子は毒を飲んで自害した。これは後に薬子の乱と言われた。このことにより、嵯峨天皇は蔵人所に続き検非違使という反乱に素早く対処できる役所も作った。
平成上皇たちの反乱をいち早く帝に報告したことで、皓臣に対する信頼が厚くなった。そうしたなか、皓臣の翠子への思いは募り、妻として迎えることを冬臣に報告すべく反乱終了後、久し振りに屋敷へ戻った。
「父上、妻にしたき女性と巡り会いました。女房として后に仕えている翠子という女性で、基彰検という貴族のご息女であり、わたくしの幼馴染でもございます」
「皓臣、何を申しておるのだ。今、嵯峨天皇の皇女、静姫様との縁談が持ち上がっておるのだぞ。帝も、この前の反乱について、皓臣の働きに対し関心なされていたのだ。そして、静姫様とのご縁談にも大層乗る気であるとの、お言葉を頂戴いたした。よいか、皓臣が静姫様を妻にお迎えいたしたら、この北家は皇室との関係が深くなり、いよいよ藤原氏の中で北家の地位はゆるぎなきものとなる。静姫様とのことは、決して反故にできるものではないぞ。分かったな」
皓臣は我が身のことなれど事前に知らされておらず、さりとて帝の姫君との縁談に断りを入れる余地などないのだと悟った。帝に楯突くなど考えられぬ世。この世では結ばれることなどありはしない。
内裏内では静姫と皓臣の婚礼は承知され、翠子の耳にも入っているであろう。皓臣は翠子に別れの文を送るしかなかった。
『千年の時を隔てても、そなたへの思ひはいささかも褪せることなく、この一路を駆け抜けてゆく』
ー 千年後 ー
その日、春の柔らかな日差しが降りそそいでいるにも関わらず、天野千郷は言いようのない不安、いやこれといってはっきりしないもやもや感を抱え、いつものように「いってらっしゃい」という母、瑤子の笑顔に送られて家を出た。昨夜の友達との飲み会ではしゃぎ過ぎ、起き掛けに感じた薄い頭痛のせいかもしれない。それでも午前八時過ぎ、中央線新宿駅西口の改札を出た頃は頭を仕事モードに切り替え、各々の仕事場へ急ぐ人々の波に押し流され、黙々と地下道を高層ビル群へ向って歩いていた。これから始まる日常という空間に身を置くために。
千郷はセンタービル地下から短いエスカレーターを乗り継ぎセンタービルの広いフロアーに入った。エレベーター乗り場は各階ごとに振り分けられ、それぞれの通路に人がたむろしている。千郷は三十八階の会社に止まるエレベーターを待っていると、後ろから岸田美野里に肩を叩かれた。美野里は千郷の同期で昨夜の飲み会も一緒だった。もう一人、鹿野風花も同期だ。飲み会と言っても、三人で会社内の噂話や愚痴を言い合うストレス発散会である。
「おはよう、なんだか元気がないみたいね。昨日は二日酔いになるほど飲まなかったじゃない」
背丈が百七十センチもある美野里は千郷の顔を上から覗き込んだ。ほっそりとした体型はモデルみたいね、後は顔の問題かしらって飲みだすと千郷と風花は二人して美野里をからかう。モデルみたいとまでは言えないが、美野里は奥二重のすっきりした目鼻立ちで、周囲は何事にも動じず自己決断も揺るぎない性格だと思われているが意外に脆い。美野里から千郷は美人なのに性格がねぇ、黙っていればいいのだが気になると口出し手出しで、お節介過ぎるというのだ。一番顔形が性格と一致しているのが風花だと千郷と美野里は二人して頷き合う。小柄で愛嬌のある可愛い顔、性格もおきゃんで物怖じしない。千郷は、きっと三人三様だから気が合うのだろうと考えている。
「今日は朝から何となく気が乗らないのよねぇ」
千郷は少しだけ美野里を見上げて溜息をついた。
「今日だけ?いつもじゃないの。大丈夫よ、五時になれば直るから。私なんか今日もプレゼンの資料を揃えなくっちゃいけないから大忙しよ。多分、残業になると思うわ。また飲み会で課長の愚痴を聞いてよね」
美野里は課長の愚痴という部分は小声で呟き、周りを見渡した。
三人の勤務先は広告代理店「SIGN」。千郷は総務部、美野里は営業部そして風花は経理部で三人とも所属部は別々だった。それぞれ部署の多忙な時期がずれ退社時間も合わないが、少なくとも月一でストレス会を設定している。
三十八階の会社に着くとICカードで入室チェックし、いつものようにランチの約束をしてそれぞれの部署に散った。千郷は配達されていた郵便物を各部署ごとに仕分け、総務宛の書類を精査し部長、課長宛その他に振り分けていく。後はいつものようにパソコン相手の仕事となる。昼休みの時間が近づいた時
、机上に置いてあったスマホのマナー着信が忙しく震えだした。液晶ディスプレーを確認すると父、健の名前が表示されている。仕事中に父が電話をしてきたのは初めてだ。嫌な予感が頭を過り慌てて給湯室入り着信を押した。健は急くような口振りで話し出した。
「今、朋子さんから電話がきた。お母さんが倒れ救急車で病院に運ばれたとのことだ。お父さんはこれから会社を出るから、千郷も急いで病院へ行ってくれ。阿佐ヶ谷の喜多総合病院だ」
千郷は父の言葉に手が震え、危うくスマホを落としそうになった。まさかの言葉さえ出てこない。父からの電話を切るとすぐに上司である佐藤課長の席へ行き、母のことを伝えた。
「後のことはいいから、すぐに病院へ行きなさい」
驚いている佐藤課長の声も少し上ずっている。千郷は美野里に電話をしながら駅へと急いだ。
気が急く千郷は、新宿駅から阿佐ヶ谷駅への十五分がいつもの倍近く感じた。駅から歩いて五分程の病院へ駆け付けると、叔母の朋子が集中治療室前のベンチで気が抜けたように腰を下ろし、千郷を見上げる目が潤んでいる。
「叔母さん」
千郷は朋子に声を掛けても何と言えばいいか分からず、その後の言葉が続かない。
「千郷ちゃん大丈夫?驚いたよね。私もまだ心臓がドキドキしてるの。お兄さんが来たら医師から詳細な説明があると思うけど脳溢血らしいの。今日私は仕事が代休だったので、お姉さんと吉祥寺へランチに行く約束をしてたのよ。阿佐ヶ谷駅で会う約束をしてたけど几帳面なお姉さんが時間になっても来ないし、家電にもスマホにも出ないから嫌な予感がしてタクシーで家に駆け付けたの。そうしたら玄関のところで倒れてて、声を掛けても意識が無く慌てて救急車を呼んだのよ」
朋子は母の妹で仲が良い。朋子は出版社で働いているが、休みの日に買い物など二人でよく出掛けていた。いつものように行くはずだったランチがこんなことになるなんてと、朋子は嗚咽を漏らし手で顔を覆った。千郷は虚脱感で何も考えられず朋子の横にどっと腰を下ろし、集中治療室の扉をじっと見つめていた。健が病院に来たのは、千郷が着いてから暫くしてからだった。それでも東京駅の大手町からだから、かなり急いで来たのだろう。
夫の健が来たことを看護師に伝えると、暫くして集中治療室に招き入れられた。母はベッドの上で軽い鼾をかいて横たわっている。千郷は朝出掛けに「いってらっしゃい」と言い送り出してくれた母とは別人のように見えた。にっこり笑っていた母と血の気が無くぐったりしている母。若い医師は顔を健の方に向け話始めた。
「奥さんは脳溢血を起こしていらっしゃいます。CT検査で頭部にかなりの出血が広範囲に見られ、現時点での手術は無理ですので楽観できない状況です。止血剤は投与いたしましたが、覚悟しておいて下さい」
等々と話す医師の言葉が千郷の耳には届いてこない。千郷はベッドの枠に身体を預け、母の手をそっと握った。母の手をこんなにしっかり握ったのはいつ頃だろう。一人っ子の千郷には母でありながら姉妹のようで買い物に付き合ってくれたり、学校のことやボーイフレンドの悩みなど父に言えないような相談事にも乗ってくれた。でも、子供の頃のように手を繋ぐことはなかった。いつも傍にいて手を繋がなくても心から安心できる存在だったから。いつか母がもっと歳を重ねたら手を取って支えることもあるだろう。しかし医師の言う覚悟は、その夜あっけなく終わった。覚悟をする時間さえも無く、母を支える未来も潰えた。
その後のことは父と叔母が葬儀社との打ち合わせに忙しく動き回り、通夜や告別式の手配が整い、千郷は決められたそれらを会社や美野里たちに連絡した。総務部では社員達の親族に関わる葬儀のマニュアルがある。千郷も書類の手続きを何度かこなしたこともある。事務的な書類の中に、それぞれの悲しみが沁みていたと知った。
親類の他に母の友達や近所の人達。父は大手鉄鋼会社の商社「葵物産」で鋼管部長をしているせいか弔問客が多く、千郷の会社「SIGN」からも課長や美野里、風花ほかの社員、千郷の幼馴染や学生時代の友達なども駆け付けてくれた。それぞれの対応に忙しく告別式の翌日、千郷は頭痛が激しく、終日ベッドの中にいた。忌引き休暇も親だと一週間貰える。その一週間、千郷の時間は止まったままで悲しみさえも。しかし、現実は容赦なく進み、父と二人だけの生活が始まった。朋子も仕事に戻り、父と千郷の生活も会社の歯車に組み込まれていく。佐藤課長は気を使って、有給で暫く休んでもいいよと言ってくれた。でも、千郷は自分の時間を動かしてくれるのは仕事だと思った。会社では美野里や風花を初め、みんなが声を掛けてくれた。いつも通り仕事をし、三人でランチへ行く。その何気ないいつもが千郷を少しずつ癒してくれる。
「おはよう」父との朝はこの一言で始まり、朝食はそれぞれが食べたいものを作り片付けることに決めた。特に父の時間は仕事の関係で接待など不規則になることや出張も多い。お互い気を使うと疲れるからと父が言い出した。
その日、父は出掛けに千郷へ声を掛けた。母が亡くなって一月が過ぎ、納骨も済ませた頃だった。
「昨日、急にサウジへ出張することになった。多分、二週間くらいになると思う。朋子さんへ来てもらうように頼んだからね」
「いつから?」
「明後日」
「私なら一人で大丈夫よ、子供じゃないんだから。それに変な奴が来たら一刀両断よ。私の剣道の腕、知ってるでしょう。叔母さんだって仕事があるし」
「子供じゃないから心配なんだよ。それこそ剣道は子供の頃の話で、よくさぼっていたって母さんが言ってたぞ。それに剣道の試合じゃないんだから、礼儀正しく襲ってくる訳じゃない、いきなりナイフでってこともある。これから先、お父さんが出張になることもあるし、千郷が一人になる時が増えるからな。こういう時は一軒家よりマンションのほうが安心だよなオートロックもあるし、管理もそれなりにして貰えるからね。まあ、そのことは追々考えることにしよう。それに、朋子さんの了解も取ってるよ」
千郷の家は阿佐ヶ谷駅北口から歩いて十分位のところにあり、朋子のマンションは阿佐ヶ谷駅南口から歩いて五分位のところにある。以前は根岸のマンションに住んでいたが、五年前に離婚して姉のいる阿佐ヶ谷に移り住んだ。二日後、朋子は大きな旅行鞄を抱えて来た。
「叔母さん、ごめんなさい。お父さんに一人で大丈夫だからって何度も言ったんだけど私の剣道の腕を信じてくれなくて。ご迷惑かけます」
千郷は内心、いざという時一人じゃ心細かったので嬉しかった。朋子はしょっちゅう来ては姉である瑤子とおしゃべりしていた。
「千郷ちゃん、気にしないで。ここは姉の家っていうより実家みたいなものだから。それに私も一人より二人の方が楽しいし。でも、お互い気を使わないようにしようね、二人とも仕事してるんだから。私が遅くなることもあるし、千郷ちゃんも色々あるでしょう。連絡はスマホでいいよね。彼氏とデートしても、お兄さんには内緒にするわよ」
瑤子は物静かで、結婚後専業主婦をしてきたせいか家事もそつなくこなし千郷は怒られたことがない。一人っ子だったので争う兄弟がいないせいかもしれない。一人っ子だったことを深く考えたことはないが、友達が兄弟喧嘩をしたりするのを少し羨ましく思ったことはある。そして今度のようなことがあった時、一緒に泣いたり相談したりする姉妹がいたらと心底思った。瑤子に比べ、妹の朋子は次女らしい性格か仕事柄か、ざっくばらんなところがあるので千郷も気楽に話しやすい。朋子は四谷にある小さな出版社に勤めている。元夫は相馬忠通というルポライターで、仕事を通じて知り合い結婚したが子供はいない。離婚の原因は忠通の浮気らしい。その愚痴の聞き役はもっぱら母だったが、母は千郷に何も言わなかった。
「デートするような彼氏がいたら、ボディガードとして頼んでるわ」
千郷は笑いながら言った。
「お兄さんが聞いたらボディガードが狼に見えると思うわ。美人の娘を持つと親としてはおちおち一人に出来ないよね」
それから女二人の適当な?楽しい生活が始まった。
その日は久し振りに美野里と風花の三人でストレス会を開いた。勿論、そのことは朋子に連絡済みだ。
「千郷、お母さんのことは慰めの言葉もないけど、私達はいつまでも千郷の友達だから何でも相談してね」
まずはストレス会の再開に美野里が口火を切った。風花も同じ気持ちだと同意のように頷いた。
「ありがとう。でも、母を無事に納骨できて一区切り付いたわ。これからは前を向いていかなくっちゃ、それこそ母が心配で成仏できないからね。さあ、今日は久し振りに酔いたい気分よ」
「元気が出てきてよかったけど、それはそれで怖い気がするわ。お父さん、サウジに出張中って言ってたじゃない。酔っ払った千郷を担いで叔母さんに届けたら怒られない?その時のために飲ませたのは私達じゃありませんって一筆書いておいて」
美野里や風花は笑いながら久し振りのストレス会で冗談を言い、いつものように会社の噂話で盛り上がった。
「そういえば、経理部の星野さんが結婚するらしいって聞いたけど本当?」
美野里は風花に顔を向けた。星野小夜は同期だが、ちょっと派手な感じで、よく合コンしていると言われている。
「星野さんが新宿のシティホテルに男性と入って行ったのを見た人がいるんだって。何となく聞いてみたけど、星野さん笑ってたわよ」
風花はちょっと首を傾げた。
「本人に聞いたの?同期の結婚第一号かと思ったけどねぇ。まさか不倫じゃないよね」
美野里はちょっとだけ意地悪く言った。
「やあねぇ、美野里が言うと焼餅かと思われるわよ。星野さんはしょっちゅう合コンしてるんだから、ボーイフレンドが沢山いても不思議じゃないわよ」
千郷は美野里を諌めるように言いながら、そういえば私達は合コンしたことが無かったよねと改めて思った。
「あら焼餅じゃないわよ、私だって結婚しようと思えばいつでもできるんだし」
「えっ、美野里って彼氏いたの?」
千郷は美野里の顔をまじまじと眺めた。そういえば、三人で飲み会していても、男性の話題はあまり出ない。誰それの彼氏は何課のあの人じゃないなんて噂をしているが、美野里も風花も彼氏の話をしたことがない。千郷は学生時代のグループで遊びへ行ったりするが、今は特定の彼氏がいない。だから何となく美野里も風花も彼氏はいないだろうと、漠然と思っていた。
「ボーイフレンドくらいは何人でもいるわよ、ねぇ風花」
「そうね、ボーイフレンドの域を中々超えないけど。まさか、千郷はいないの?」
「そりゃあ大学の時、付き合った彼氏がいたわよ。私にだって」
千郷は文学部のサークルで一緒だった河田光治の横顔を思い浮かべた。おとなしい文学青年という感じで、演劇が好きなのでよく舞台を見に行った。でも、好きという気持ちが今一歩進まなかった。人のことなら積極的に動けるが自分のことは何となく引けてしまうし、光治自身も一歩が遠かった。
それから三人でお酒も手伝って恋話を展開させた。ただ、何となくいまいち盛り上がりに欠けた。
「そうだ今度、星野さんに負けじと合コンしようか?」
美野里は少し酔いも回り、対抗心を燃やし始めた。
「やあねぇ、美野里ったら。さっきボーイフレンドくらい沢山いるみたいに言ってたじゃない。それに合コンって何だか男に飢えているみたいじゃない?出会いは運命なんだから」
「千郷は美人だから余裕なんじゃない。私なんか背が低いから課内の男達から子供扱いされてるのよ、頭にきちゃうわ。でも、千郷に彼氏がいないのは不思議よ。性格なのかしら」
風花はまじまじと千郷の顔を見つめた。美野里は風花のほうを向き、それからやおら千郷を見て、またしても風花に頷いた。
「風花、それを言っちゃあおしまいよ。千郷のお節介は持病なんだから」
美野里は目に涙を浮かべながら大笑いをした。
「二人とも傷ついた私をいたわる最初の言葉は何だったの、もう」
その日のストレス会は、それぞれ彼氏がいないことを確認した中途半端な気持ちでお開きになった。
それから何日かして、星野さんが新宿のシティホテルへ行った男性を警察が捜しているらしく、星野さんのことを会社へ聞きにきた。千郷がその話を聞いたのは、三人でランチをしていた時、風花が話したからだ。
「警察が星野さんのことを課長に聞いていたわ。何かあったのかしら?彼女、今日から無断欠勤してるのよね」
美野里は興味津々って顔付きで風花に言った。
「会社を無断欠勤ってことは何かあるんじゃない。ましてや警察が来るなんてただ事じゃないよね、経理部じゃ大変なんでしょう。経理部長あたりが、あたふたしてるんじゃないの」
「美野里、いいかげんなこと言わないほうがいいよ。星野さんは私たちの同期でしょう。同期の仲間なんだから、もし何かあったら助け合わなくっちゃ」
千郷は普段あまり付き合いのない星野さんだが、こういう時こそ助け合わなくてはと思った。
「さすがお節介の持病が出てきたわね。でも、私だって同期の仲間として出来ることがあるならって思うけど」
次の日は土曜日だったので、千郷は星野さんのことが気になり一人で東長崎にある星野さんのワンルームマンションへ行ってみた。西武池袋線の東長崎駅から歩いて五分。六階建ての三階三○二号室だと事前に会社で調べて来た。総務部の千郷には楽勝だ。六十代くらいの管理人に声を掛けた。警察が来たらしく警戒していたが、同じ会社の総務関係で聞きたいと言うと応対してくれた。ここは美人の千郷がしおらしく言ったのが功を奏した。星野さんは五月十八日から出社していないが出掛けた姿を見なかったか聞いたが、管理人曰く、このマンションは独身者ばかりで出入りなどチエックをしていないと言う。本当は部屋も見てみたいのだが、そういう訳にはいかない。そういえば金沢から心配した家族が出てきたはずだ。金沢に和菓子店をやっている両親と跡取りの兄がいる。千郷はスマホでマンションの正面を初めぐるりと裏のほうまで写真を撮った。星野さんに何か異変が起きた証拠がないかと。それを不審げに見ている中年の男と目が合った。隣にいた若い男がつかつかと千郷の前に来て警察バッチを見せると、住所、氏名などを聞き手帳に書き付けた。
「ここには何の用でいらしたのですか?」
若い刑事は落ち着いて聞き、中年の刑事は千郷に鋭い視線を投げかけてきた。いかにも千郷へ疑いの目を向けている。その視線に負けじと千郷は同じ会社の同期で心配して来たと答えた。
「いいですか?こんな所をうろつかれると捜査の邪魔になりますよ。それとも星野さんの行き先について知ってることがあるんですか?星野さんに頼まれて荷物でも取りに来たのでは。武元辰樹のことについて知ってることは?」
中年の刑事は矢継ぎ早に質問をし、本格的な取調べの口調になってきた。千郷は、ちょっと怯んだ。それこそ署の方でお話をなんて言われたり、会社や父に連絡するなんてことになったら大変だ。確かに心配だからだけでうろついたら警戒される。ここは素直に謝ったほうが得策だ。
「すみませんでした。ただ、星野さんのことが心配で来たんです。もう、帰ります」
千郷は低姿勢で二人に謝った。千郷が駅の方へ歩き始めたら、若い刑事が追いかけて来た。
「友達を心配するのは分かりますが、ことは殺人事件です。山尾井さんもあなたのことを心配してああ言ってるのです。何かあってからでは遅いのですよ。もし、星野さんのことで何か気がつかれることがありましたら、連絡して下さい」
若い刑事は名刺の裏に携帯番号を書いて千郷に渡し、軽く頭を下げてマンションの方へ戻った。名刺には、警視庁捜査一課警部 山処祐路とあった。ああ若いのに警部なんだ、千郷は警察の階級をよく知らないが警部は上の方じゃないかしらと再び名刺に目を落とした。
その夜八時頃、千郷のスマホに見知らぬ番号から電話があった。消え入りそうな声で助けてと。あわてて星野さんと聞き返したがすでに切れていた。千郷はすぐ名刺を貰っていた山処刑事のスマホに電話した。
「山処です」
すぐに反応した声がした。
「今日、星野さんのマンションで会った天野です。はっきり分からないんですが、私のスマホに星野さんらしい声で助けてと繋ってきたんです」
「すぐ行きます」
山処刑事は千郷の住所を確認すると、十分ちょっとで駆けつけてきた。あのときの山尾井刑事と一緒だった。千郷が山処刑事にスマホを渡すと、すぐに発信先の位置情報などを調べ始めた。健も出てきて緊張した面持ちでパトカーを見つめていた。その後、警察は微弱電波を拾い、星野さんの居場所を突き止めた。次の日曜日、品川の倉庫に監禁されていた星野さんと武元さんが無事救出されたと、山処刑事が連絡を寄越した。
「天野さんが星野さんからの電話をすぐに連絡してくれたおかげで、救出できました。ありがとうございました」
「こちらこそ星野さんを助けていただいてありがとうございました。少しでもお役に立てたのなら良かったです」
事件の詳細はテレビや新聞が大きく報道していた。有名モデルの野乃あすみが自室で殺害され、犯人は代議士の芳井議員。不倫疑惑をスクープしようと芳井議員を追いかけていたカメラマンの武元辰樹が、野乃あすみのマンションから出てきたところを写真に撮った。そのことに気づいた芳井議員はヤクザを使って恋人の星野さん共々、拉致したと。すぐに殺害されなかったのは、武元辰樹がSDカードを用心して星野さん宛てに日にち指定で郵送していたからだ。 武元辰樹曰く、まさか芳井議員が野乃あすみさんを殺害した直後だと思わず、 スクープ写真を他社に取られてはと用心しただけだと。警察は当初、野乃あすみと面識がある武元辰樹を容疑者として探していたようだ。それで星野さんのことを聞きに会社へ来たということだった。
星野さんは体調を崩し入院したが、退院すると親子共々千郷の家へ挨拶に来た。
「天野さん、今度のことは本当にありがとうございました。電話のことを警察に伝えてくれなきゃ、殺されていたかもしれません。命の恩人です」
千郷は思わず星野さんを抱きしめていた。
「星野さん、ううん小夜って言っていい?ちょっと聞きたかったんだけど、何で私の電話番号知ってたの?」
「以前、社内で財布を失くした時、総務部へ行ったら天野さんがすぐに捜すけど、もし出てきたら私に連絡してって番号を教えてくれたのよ。拉致されたとき薬を嗅がされて意識がなかったの。どのくらい経ったのか分からなかったけど、気がついた時二人共手足を粘着テープで縛られ動けなかったのよ。その時まだ頭がぼうっとしてたけど、少し離れたところに私のバッグからスマホが少しだけ出てたの。彼が足を伸ばしてスマホを私の手元に引き寄せてくれたので、あわてて番号を探したら天野さんのが出たの。ほら、天野だからあ行でしょ。でも、ヤクザの目を盗んで掛けたからすぐに切られてスマホも取り上げられたの。もう駄目だと思っていたのよ。でも、天野さんが私の小さな声に気づいてくれて」
そう言うと、小夜は泣き出した。この時つくづく千郷は天野であ行で良かったと思った。
「私のこと千郷って呼んでね、同期なんだから。いつから会社へ来られるの?今度、私達のストレス会に参加してね」
「ありがとう。でも、私退社して暫く実家へ戻ることにしたの。そして、落ち着いたら武元さんと結婚することにしたのよ。結婚式の日取りなどまだはっきりしないけど、ぜひ出席してね。東京へ住むことになると思うから、その時はストレス会に呼んでね、千郷」
社内では暫くの間、小夜が巻き込まれた事件の話で持ち切りだったが、二週間も過ぎると何となく断ち切れになった。
退職の挨拶に来た小夜は、「ご迷惑おかけしました」と上司を初め皆にしっかりと挨拶していた。合コンの噂は、武元さんとのことをはぐらかすために本人が言っていたのだ。その退職日、小夜も含めて四人でランチをした時、自然と美野里や風花も星野さんのことを小夜と呼んだ。
「まだ日にちは決まってないけど結婚式にはみんなで来てね。ただ、金沢ですることになるけど」
小夜はちょっとはにかむように笑った。私達は仕事を放り出しても行くからと約束して別れた。
久し振りにストレス会を開いた千郷達の話題は、まだ事件を引きずっていた。何と言っても千郷が事件に巻き込まれたということがあるからだ。
「小夜があんな怖い目にあったからトラウマになるんじゃないかと心配したけど、そばに同じ思いを共有した武元さんが付いているから大丈夫だよね。それにもうすぐ結婚するんだから」
「本当に良かったと思うわ。やはり私が前から言ってたとおり、同期で一番先に小夜が結婚することになったわね。私達もうかうかしていられないわ」
美野里は真剣な表情で二人を見た。
「そんなに焦ることないじゃない。運命よ、運命」
千郷はそう言いながら一瞬、山処刑事の顔を思い浮かべた。一般的に言われる刑事のごついイメージとは程遠く、むしろ刑事らしからぬソフトで穏やかな感じがした。もう一度会ってみたいと思ったが、警察官と関わるなんて事件でも起こらなきゃ会うことはない。それは、無論危険と隣り合わせということだ。
「そういえば、今度の事件解決に千郷のお節介病が大いに役立ったよね。職質受けても小夜のことを心配したんだから。その行動力で美野里の彼氏を探してあげたら」
「やめてよ。相手くらい自分で何とかするわよ。それより風花のほうこそ頼んだら」
美野里は軽く風花を睨んだ。
「まあまあ、二人共止めてよ。なにも小夜の結婚で揉めることないじゃない。それより小夜の結婚式に着るドレスを考えたほうが楽しいわよ」
この日のストレス会は、仕事のストレスより小夜の結婚に関しての憧憬へ美野里と風花のすれ違いのストレスが生まれ、気まずい雰囲気でお開きになった。
その年の梅雨は空梅雨で雨は少なかったが、変に蒸し暑かった。また、暑い夏が来るのかと思うと、千郷はちょっと憂鬱だった。寒さに強いが暑さに弱い。あれからストレス会の美野里と風花は何事も無かったように、三人のランチは続いている。六月末の土曜日、たまには外食でもしようと健が言い出し、朋子に連絡を取った。しかし、その日は用事があるからと断られ、結局二人で銀座にあるホテルのレストランでチョット豪華なディナーをした。
「千郷、お前はこういう所へ一緒に来るような男はいないのか?」
健はワインを飲みながら千郷に尋ねた。
「あら、もしいたらお父さんと来ないわよ。なあに、もてない娘を哀れんで誘ったとか?いいわよ、帰ったらお母さんに言いつけるから」
千郷もワインを傾けた。
「そうじゃないよ。お母さんと今のお前の歳には結婚してたなって思ったんだ」
「ほら、プレッシャーかけてるじゃない。そういえば、お母さんが大学を出てすぐに結婚したんでしょう」
「ああ、お母さんは美人だったし、物静かで誰からも好かれてたよ。他の男に取られる前にってね、お母さんが大学を卒業するのを待ってたんだ」
健は、その頃に思いを馳せたのか無口になった。千郷は、お父さんやお母さんのような愛し合う夫婦になりたいと思っていた。ただ、次の日、愛について考えさせられることが起きた。日曜日の朝、昨日は用事があると言っていた朋子が早々とやって来た。前夜、高いワインを飲み過ぎたせいか、健も千郷も寝起きでボーっとしていた。朋子は、勝手知ったるとばかりパンを焼き、ハムエッグとサラダそして美味しいコーヒーを入れてくれた。健と千郷は並べられた朝食を喜んで食べた。何と言っても自分達で朝食の用意をしないで食べられるなんて、瑤子が死んでから初めてのことだった。朋子は二人が食べ終わるのを待ってたかのように、やおら話し始めた。
「私、結婚しようと思うの」
一瞬、健と千郷は顔を見合わせたが、健が落ち着いて話し出した。
「それはおめでとう。朋子さんは、まだ若いんだからいいと思うよ。で、お相手はどんな人なの?」
「相馬忠通さん」
この一言で健と千郷は固まってしまった。無理もない、相馬忠通は朋子が五年前に離婚した相手だった。
「何でまた」
健が不審がるのはもっともだった。朋子は離婚のとき悔し涙を流し、瑤子や健に切々と訴えたのだから、夫が浮気したと。千郷は大学生で詳しい話は聞いていなかったが、後から忠通が若い女と浮気したのが原因だと朋子自身から聞いた。その時は朋子も落ち着いてて、これからは仕事に生きるわって言い切り、事実この五年出版社の仕事に情熱を傾けていた。
「あいつは馬鹿でしょう。だから、すぐ若い女の色香に騙されたのよ。一緒に暮らして暫くしたら女から飽きられ棄てられたのよ。私は他から聞いて知っていたけど、ざまあ見ろって思ったわ。勿論あいつから何も言ってこないし。言える訳ないわよね」
「それなら何で今さら結婚なんて言い出したの?」
「私があいつ以上に馬鹿だからかな。事故に遭ったのよ、先々週。彼の友達から連絡が入ってね。その友達はパニックになってて私達が元夫婦だって知ってたから連絡してきたの、他に連絡出来る人が分からなかったと。事故は、その友達の運転する車が追突され押し出されて街路樹にぶつかったらしいのよ。友達は軽いムチ打ちで済んだけど、助手席にいたあいつは脊髄損傷で下半身マヒ、この先車イス生活は間逃れないの。あいつの両親は亡くなっているし、お兄さんが北海道にいて連絡したら来たけど、酪農をやってるからあいつの面倒は見られないって言うの。朋子さん、せめて入院している間だけでも見て貰えないかって言われたの、退院したら施設を探すからと。結婚生活が十四年よ、十四年。それが長かったのか、短かかったのか分からないけど、少なくてもこれから始まる介護生活は何十年になると思うの。やっぱり、あいつ以上に馬鹿でしょう」
ここまで一気に話した朋子は涙ぐみ、千郷も貰い泣きしていた。だが、さすがに健は落ち着いていた、そして、朋子にやさしく頷きながら言った。
「朋子さんの人生は朋子さんのものだから口を挟みたくないが、現実は現実だよ。私は介護した経験が無いから何とも言えないが、朋子さんが言うように何十年という時間を簡単に覚悟できるのかな?結婚生活の中で起きたことなら自然と受け入れるだろうが、改めて結婚という先に介護が決まっている。忠通さんも暫く入院するんだろうから、結論を急がず少し考える時間を持ったらどうかな。それからでも遅くはないと思うよ」
朋子も健の言葉を聞き、冷静に考えると言い残し帰って行った。千郷は寂しそうな朋子の後姿を見送ってから健に言った。
「叔母さんの決心に水を差したみたいじゃない」
「千郷、簡単に結論を出すような問題じゃないよ。中途半端な覚悟じゃ朋子さんも忠通さんも後悔するからね」
千郷も愛について真剣に考えた。愛を一瞬なことでなく長く続くことと捉えるならば、愛する覚悟も必要なのかもしれない。
千郷は夏物の服を探そうとクロークの中に入った。結構、大きなクロークで六畳ほどあり、三人はそれぞれ自分の場所を決めてあった。母の一角は手付かずになっている。まだ、片付ける気にもならずそのままだ。母の匂いが千郷を包み、母の服にしがみついて泣いた。前を向いていこうと自分を納得させたはずなのに。暫く泣いた後、下の引き出しが微かにずれているのに気づいた。いつもきっちりとしていた母にしては珍しいなと思いながら、引き出しを開けてみた。ハンカチを箱にきちんと小分けし、その他の小物も用途別に分けてある。几帳面な母らしいなと思って引き出しを閉めようとしたら、奥のほうで何かが引っかかっている。引き出しを全部引っ張り出すと、奥のほうに小さな手帳があった。引き出しの下に隠していたような感じだ。薄っぺらな緑色の手帳は色も褪せて大分年月を経ているようだ。そうっと取り出したが、何か見てはいけない母の秘密が書いてあるのだろうか。どうしようかと躊躇したが、いつかは処分するしかないのだからと思い切って開いてみた。二ページ目に書いてあったのはラブレターみたいだった。
『原田瑤子 様
千年後も愛してる
山処皓介』
それ以外は白紙のままだった。千郷は手帳を持つ手が静かに震えた。母が大切にしていた秘密を覗いてしまったような気がした。原田とあるから若い頃の初恋だったのかもしれない。母は、この先ずっと誰にも見られずにいたかっただろう。そう、突然逝くなんて思わなかったから。千郷は少し息を吐いてから考えた。これをどうしよう。今さら引き出しに仕舞う訳にはいかないし、ここにこっそりと仕舞い込んでいたのは私や父に見せたくなかったんだろう、特に父に。でも、この手帳には母の棄てられない思いが溢れている。千郷は落ち着いてからもう一度、手帳の一文字づつを拾うように眺めた。そして思い出した、山処という苗字を。小夜が巻き込まれた殺人事件のときに出会った刑事。確か名前は山処祐路だった。珍しい苗字だから何か知っているかも知れない。今日は土曜日だけど、刑事は休みじぁないかもしれない。健は昨日から大阪へ出張だ。今回は国内で短期間だし、朋子には例の件もあり頼む事はしなかった。明日帰って来ると言ってたから山処に聞くなら父がいない時の方がいい。千郷は夏服を探すのを止めてリビングへ行った。以前、貰っていた名刺をバッグから取り出し、テーブルの上に乗せた。暫く考えていたが、思い切ってスマホに電話をしてみた。以前と同じように素早く反応した。
「ごめんなさい、以前お会いした天野ですが、今お仕事中ですか?」
千郷は小声で聞いた。
「いえ、今日は非番です。何かありましたか?」
山処は刑事の習性か事件でもあったのかと聞いた。
「個人的なことで、ちょっとお聞きしたいことがあるんですがよろしいでしょうか?」
「個人的なこと?何でしょう?」
山処は怪訝な声を出した。以前事件に関したことで会った女性から急に電話を貰ったら不審に思うであろう。千郷は前置き無しでずばり聞いた。
「山処刑事の関係者で山処皓介という方をご存知ですか?」
「それは、どういうことなんでしょう?意味の分からないことには、お答えできかねますが」
千郷も自分で言いながら、それもそうだと思う。ただ、もし関係ない人だったら母の秘密を明かすのを躊躇われた。千郷が黙ってしまったので、山処が言った。
「これからお会いして昼食でもいかがですか?私はどこかへ食べに行こうかと思っていたところですので。確かご自宅は阿佐ヶ谷でしたよね。私は代々木なので、車で三十分程で行けると思いますが。いかがですか?」
千郷は以前会ってから何となく気になっていた人だったので快諾した。山処皓介のことを聞くには、この手帳を見せるしかない。何となく刑事としての山処に乗せられた気がしたが、会う理由が出来たのも正直嬉しかった。千郷は、慌てて外出の支度をした。そして、手帳も忘れずバッグに入れた。山処は四十分程で来た。
「途中、青梅街道が込んでいたので遅れました」
車はダークレッドのセダンで、お洒落で珍しい色合いだった。千郷がそう感じたのが伝わったのか、山処は照れたように微笑んだ。
「この車は目立つから張り込みに使えないと言われています」
千郷が助手席へ座ると山処は顔を千郷に向けた。
「ファミレスのランチでいいですか?仕事柄どこにでもあるファミレスは駐車できるのでよく利用するんです」
「ええ、かまいません」
山処は早稲田通りから新青梅街道へ出て、通り沿いにあった大きなファミレスに入った。土曜日だったが十一時を過ぎたばかりなので空席が目立った。通りに面した角の席へ案内された。大きな店なのでテーブルの間隔も広く、込入った話もしやすい。山処がハンバーグセットを頼んだので、千郷も同じものにした。山処は山処皓介について話し出さず、雑談しながら食事をした。千郷は星野さんが、あの時一緒に拉致された武元と結婚することなどを話した。
「そうですか。それはお目出度いことですね。二人してあんな目に遭ったのだから、この先どんなことがあってもお互い助け合っていかれるでしょう。次は天野さんの番かもしれませんね」
山処は一緒に食事をしたことで少しくだけた言い方をした。
「残念ながら私はまだ大分先です。山処さんは結婚されているのですか?」
「妻帯者に見えますか?」
山処は笑いながら言った。
「いえ、もし結婚なさっていたら呼び出して申し訳なかったかなと思って」
「結婚はともかく何か困ったことがあったら、いつお電話していただいても構いませんよ」
そうこうするうち食事も終わり、最後にお互いコーヒーを頼んだ。それで一区切り付いたかのように山処が話し出した。
「ところで山処皓介の件ですが、どういうことか話していただけますか?」
千郷はちょっと考えたが会う前から正直に話そうと決心してきたので、バッグから例の薄っぺらい緑色の手帳を取り出した。
「実は四月に母が脳溢血で亡くなったんです」
千郷は母の手を思い出して一瞬言葉が詰まった。山処は千郷が落ち着くのを黙って見てから言った。
「それは、ご愁傷様でした。そういえばお宅へスマホをお借りに伺ったとき、お父様だけが出ていらっしゃいましたね。あの時は、一分一秒争う状況でしたので、お父様にご挨拶しませんでした」
「私は心が震えていました、星野さんの声かどうか心配で。でも、母のことは大分落ち着いて考えられるようになりました。今日、朝から夏服を出そうとクロークに入ったのです。我が家のクロークは少し大きくて、三人それぞれの場所が決まっているんですが、母の服の下にある引き出しがちょっとずれていたので押し込んだんです。でも、奥に何か引っかかっているようなので引っ張り出したら、引き出しの裏へ隠すように挟んであったんです。最初見てはいけない母の秘密のような気がしたのですが、亡くなった今、そのままにして置くのもと思って勇気を出して開いたんです。そしたら手帳の一ページにこう書かれてあったんです」
千郷は、そのページを開いて山処の方へ押しやった。山処は手帳をじっと見てから聞いた。
「この手帳をどうなさるのですか?」
「私は父に見せたくないんです。確かに三十年以上前のことですから今さらとは思いますが、母の心の奥底には年月に関係なく、この方への思いがあったのではないかと。でも処分する訳にもいかないと思ったとき、山処さんと苗字が同じですし、珍しいからご存知じゃないかと思って電話したんです」
「もし、私が知っていると言ったらどうしますか?」
千郷は考えていたことを話した。
「私はこの方について詮索するつもりはありません。ただ、母が亡くなった以上、この手帳を書かれた方に返して欲しいんです。そうしていただけたら私は気持ちの整理が付きます。山処さんから、この方に返していただけないでしょうか?」
山処は、また暫く手帳を見ていた。
「分かりました。では、この手帳の処分は私に一任していただけるのですね。後日、話せることがありましたらお知らせします。この件とは別に、またお食事にお誘いしてもよろしいですか?お付き合いしている方がいらしたら別ですが」
千郷は、自分の顔が少し赤らんでいるのを感じた。
「別に付き合っている人はいません。楽しみにしています」
「それは良かった。ただ、仕事柄急に事件が発生し帳場が立つとなかなか会えませんが、それは勘弁して下さい」
急な再会で祐路と付き合うことを決めた千郷だったが、美野里達に話す訳にはいかなかった。理由なく突然出会ったとは言いにくいし、ましてや手帳の話等論外だ。当分の間、二人には内緒ということにした。あれから祐路と何度かデートしたが、ほとんど夜になることが多かったのは、土日が非番になることが少なかったから。祐路と付き合ってから、東京ではこれほど事件が頻発しているものだと実感した。勿論すべての事件が殺人など凶悪事件ではないし、祐路が対処する訳でもない。ただ事件が発生してもすぐ解決とならず、何週間あるいは何ヶ月と捜査が続く場合もある。簡単に未解決事件が解決するのはテレビドラマの世界だけだと思う。ついつい千郷は新聞やテレビのニュースで殺人事件などに目がいってしまう。
仕事など三人の予定が中々かみ合わず、久し振りのストレス会はお盆を過ぎてからだった。お盆を過ぎても夏真っ盛りで暑いことこの上ない日だった。やはり暑さ寒さも彼岸までということのようだ。三人は、まず冷えたビールで乾杯した。
「本当に久し振りだね、ストレス会。毎日ランチはしてるけど、やっぱり夜のほうが落ち着いて話せるよね、なんたって飲めるし」
一気にビールのコップを空にした美野里は、ふぅと息をはいた。ランチの時も話しているが、この頃は噂に揚がるような話題はなかった。ただ風花が一つ話題を提供した。
「うちの部の吉田さん、結婚するらしいわ。相手は社内じゃないみたいだけど」
「吉田さんって主任の吉田晃さん。確か一年前に離婚したばかりよね。そんなにもてるとは思わないけどねぇ、ちょっと根暗だし」
美野里は経理部の吉田を思い浮かべた。
「あら、でも数字に強いし経理の仕事にぴったりの人じぁない。そういえば吉田さんってやさしい人だよね。前に、私が重い荷物を運んでいたら、黙って持ってくれたのよ。無口だけどちゃんと人のことを見てくれているのよね。あんなにいい人なのになんで離婚したんだろう」
千郷は以前、重い紙袋を提げている時助けてくれたことを思い浮かべた。
「そうなのよ、私なんかミスっちゃったときも黙って直してくれるし、みんなの信頼も厚いのよ。前の奥さんは派手な人で吉田さんのそういうところを見抜けなかったんじゃない。結婚後半年で浮気して出て行ったらしいし。でも、今度の人は大丈夫だって課長が太鼓判押したみたいよ。なんでも幼馴染らしいから、吉田さんの良さを分かっている人なんじゃない」
「結婚といえば、そろそろ小夜から結婚の招待状が届くんじゃない。確か秋頃に式を挙げる予定だと言ってたし。友達が結婚となると、何となく焦るよね」
何杯目かのビールを飲み干した美野里は少し酔いの回った口調になった。
「やだわ、私達まだ二十四歳じゃない、焦るような歳じゃないし。アラサーになってからでも十分よ、じっくり探したほうがいいわよ。吉田さんの前の奥さんみたいに結婚して半年で別れるより、ねぇ千郷」
いきなり風花から話を振られて、千郷はちょっとドキッとした。
「何言ってるの、二人は二十四歳でも私は五月で二十五歳になったわよ。二人とも忘れてたでしょう」
「ごめんね。そういえば、五月は事件のどたばたで美野里の誕生日をすっかり忘れてたわ。今さらおめでとうでもないけど、今日の勘定は風花と二人で奢るから、ねぇ風花」
千郷は朋子の結婚話や祐路との出会い、それに続く付き合いで、すっかり美野里の誕生日が抜けてしまった。もっとも、今までそれぞれの誕生日にランチを残りの二人で奢るくらいだった。誕生日は誰にでも来るんだからと割り切っていた。ただ、その日おめでとうの言葉はランチの時に言っていた。今年の美野里の誕生日に、それが抜けてしまった。風花もしまったという顔で謝った。
「いいのよ、おめでとうという歳でもなくなったからね」
「そんなことないよ。誕生日は何歳になってもお目出度いことなんだから。次は十月に風花の誕生日だよね」
千郷は十月の風花の誕生日をスマホのメモにしっかりチェックしておこうと思った。
「その点、千郷はみんなから覚えてもらえていいよね。何たって世界中がお祝いするんだから」
千郷の誕生日はクリスマスなので、確かにみんなも覚えていてくれる。ジングルベルが街中に溢れると、いやでも思い出すらしい。
二人の奢りだからと美野里は結構食べたり飲んだりで足元が怪しくなり、板橋のマンションへタクシーで帰した。
九月に入って祐路から、今度の土曜日が非番になったから、お父さんへご挨拶しに行ってもいいかと連絡がきた。珍しく土日が非番になったからだ。祐路のことは父に伝えてあった。隠すことではなかったが何となく照れくさく八月中旬に思い切って話した。父は事件の時に会っていたが、あの状況ではお互い覚えていないだろうと思っていたが、父はしっかりと覚えていると言った。むしろあの状況だったから印象に残ったらしい。
土曜日の夜、祐路は父に挨拶をした。
「奥様のことお聞きしました。遅くなりましたがご愁傷様でした。今、お嬢さんとお付き合いさせていただいてます山処です。ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
「千郷から山処さんの事は聞いております。千郷をよろしくお願いします。千郷のことはもう分かっておられると思います。しかし、山処さんは刑事さんだから大丈夫だと思いますが、喧嘩した際は千郷に竹刀を持たせないように」
健は笑いながら祐路へ注意するようにと。
「竹刀ということは剣道ですか?それは聞いてませんでした。大変ですね、気を付けなくては」
祐路は千郷の方を見て笑った。千郷は慌てて健を軽く睨むような仕草をした。
「冗談ですよ、私はおとなしいほうかと思っているわ。ねぇ、祐路さんはお分かりですよね」
「ところで剣道の腕前は?」
健は有段者だと笑った。
「それは強敵ですね。防具を用意しておかないといけません」
その夜、健と祐路は和気藹々と話していた。
千郷が祐路を庭先の駐車場に置いてある車まで送り窓に顔を近づけると、祐路は小声で千郷に注意した。
「千郷、星野さんのこともあったけど、お節介は程ほどにね。くれぐれもあぶないことに関わらないで。剣道のことは聞いてませんでした。私の心配事が一つ増えましたよ」
「父は冗談でオーバーに言ってたのよ、本当は子供の頃少し習っただけですから。有段者といっても初段です。今日はありがとうございました。それこそ、私の方がお仕事で何か起こらないかと、毎日祐路さんの心配をしています」
「私のことを心配してくれるのは嬉しいですね。せいぜい怪我しないように気をつけます。また、連絡します、おやすみ」
祐路は窓越しに千郷の顎へ手を当て軽くキスをした。
ストレス会の後、小夜から結婚式の招待状が三人に届いた。千郷達はランチしながら何を着て行こうかということに話題が集中していた。十月といったら金沢は寒いよねとか、ついでに有給取って和倉温泉に一泊しようとか楽しい予定についてあれこれ話していた。
日曜日、久し振りに朋子がやって来た時、健は前夜友人達との飲み会で、千郷は祐路と夜のデートでそれぞれ帰宅が遅くなり、二人でブランチを食べていた。朋子の顔はすっきりしている。
「忠通さんが来月退院することになったの。あれから二人で色々話し合ったけれど、忠通さんは私と結婚しないって言い張り、退院したら一人でやっていくからと。私もお兄さんに言われて軽々しく結論を出すのは駄目だと思って考えたわ。でも、この先一人で生きていくより、大変でも二人でいたいって思ったの。相手は忠通さん以外考えられないし、お姉さんみたいに人生いつどうなるか分からないでしょう。あなたの最期そばにいて欲しいと思える人は誰かって聞いたら、やっと結婚することに同意したのよ。中野に介護施設を併設したマンションがあるの。普通のマンションより廊下や部屋は勿論のこと、お風呂やトイレも広く、部屋の天井にパイプが張り巡らせてあって上から吊ってあるイスに座ると移動出来るようになってるの。勿論、忠通さんは車椅子で移動できるけど、いざという時の設備が整ってるの。隣の介護施設も利用できるし、何かあった時は常駐している看護師さんも頼めるわ。実はあれからヘルパーの講習を受けたのよ、資格も取ったし。出版社は忙しいから辞めるけど、慣れたら在宅で出来る仕事を探すわ。彼の保険もあるし、二人の貯金もあるし、障害者認定もあるからなんとかなるわ」
朋子は話終わると二人を見やった。
「そこまで考えてやるなら私は賛成だよ。確かに人生どうなるか分からないからね。私も瑤子が突然いなくなるなんて考えもしなかった。私達に出来る事があれば言ってくれ。それにしてもヘルパーの資格まで取るなんて、朋子さんの行動力には脱帽だ、忠通さんは幸せ者だね」
千郷は朋子の愛情の深さに感動していた。私もこの先、祐路さんのことを深く思い、思われる二人でありたいと。
千郷は休日を利用して朋子のマンションで荷物の片付けを手伝った。こまごました荷物の仕分けや梱包などは健より女同士の方がやりやすい。また、その時間を利用して千郷は祐路のことを話して聞かせた。そして、母が生きていたらいろいろ聞きたいことがあったのにと。朋子もお姉さんが生きていたら喜んだに違いないと涙ぐんだ。
このところ祐路となかなか会えなかった。成城の豪邸で殺人事件が起こって帳場が立ち、祐路も事件に没入している。
忠通が退院した当日、健も千郷も手伝い久し振りに忠通と会った。
「申し訳ありません。また朋子に迷惑を掛けることになりました」
忠通は身体を折り曲げるようにして健や千郷へ頭を下げた。病気のせいか大分歳を取ったような印象だったが、よく考えたら二人の離婚後、五年も経っているのだ。
「きっと朋子さんは迷惑だなんて思っていないですよ。私は瑤子を失って、
後悔することがありました。あれをしてあげれば、これをしてあげればとね。でも、時間を巻き戻すことはできないから、二人には一日一日を大切に暮らしていただきたいと思いますよ。我々に協力できることは何なりと言って下さい。きっと瑤子も喜んでいると思います」
二人が暮らす中野のマンションは新しく、これからの高齢者施設の一環としていろいろな工夫が施されていた。中野は千郷が通う新宿の途中駅であり、このところ祐路に会えないので、時々様子を見るとの口実で朋子のマンションへ行ったりした。健から邪魔するなと言われたが、忠通たちは歓迎してくれ、夕食をご馳走になることもある。二人の間には気持ちのすれ違いや恨み苦しんだ長いトンネルを抜けた今という時間がある。忠通も朋子も先は長いからゆっくり過ごしていくと。物事は一朝一夕で出来るものではない。
もう一つ愛の暮らしが始まった。小夜と武元の結婚式は小夜の実家が金沢の地元和菓子店ということで、盛大に行われた。小夜の花嫁姿に千郷も美野里も風花も舞い上がり、この日ばかりは結婚を夢見る少女に変身した。その興奮は和倉温泉へ行ってからも続いていた。温泉から上がり、豪華な食卓を前に千郷は告白した。
「美野里、風花、実は話しておきたいことがあるの」
「改まって何の話?小夜の花嫁姿に触発されたとか?」
美野里は、ちょっとからかうよに千郷の顔を覗き込んだ。風花も頷いたみたいだ。
「そりゃそうよ。私だって小夜の花嫁姿を見たら早く結婚したいって思ったもの。この際、誰でもいいかななんて」
「風花、そりゃ私だって羨ましいとは思うけど、誰でもいいなんてね」
美野里は風花に顔を向け、首を振った。
千郷はそんな二人を真剣な眼差しで見つめた。
「私は誰でもいいなんて思わないわ。でも、この人じゃなきゃって人に出会ったの。勿論、結婚を申し込まれた訳じゃないけど、お付き合いをしてるの」
「えっ?」
二人の声が重なり、暫く静かになった。先に声を発したのは美野里だった。
「私達の知ってる人?」
「多分、知らないと思うけど。ほら、小夜が事件に巻き込まれたことがあったでしょう。あの時、小夜からの電話を受けたこと話したよね。それに関連して知り合った刑事さん」
「刑事って警察官よね。全然気が付かなかったわ、あの事件からずっと?」
「うん」
千郷はちょっと顔を赤らめて頷いた。それからは、どんな人なのか、結婚は考えているんでしょう等の質問づけで、その晩は酒の肴にされた。
成城の殺人事件が解決したのは、千郷が金沢から戻ってすぐの頃だった。事件について祐路は当然何も話さなかったが、新聞の記事によると犯人は隣人で殺された人の奥さんと浮気していたらしい。どうであれ、事件が解決したのは喜ばしいことだ。祐路からデートの誘いがあったのは、その事件の事後処理が終わってからだった。
祐路は久し振りだからと豪華な帝国ホテルのレストランを予約してくれた。夜の皇居が眼下に広がり、千郷は帝国ホテルへ来たのは初めてだったので少し緊張していた。
「星野さんの結婚式はどうでした?」
「それはもう小夜の花嫁姿が美しかったわ。私達三人は舞い上がってお互い言葉も出ずにボーッと小夜を見てました。その後、和倉温泉に泊まっても興奮していましたもの。すみません、興奮したせいで、美野里と風花に祐路さんのことを話してしまいました」
「それは構いませんよ。刑事の仕事は危険だからよせと反対されませんでしたか?」
祐路は笑った。
「そんなことありませんわ。ただ、いじられて酒の肴にされましたけど」
「今日は例の手帳について話しておきたい事があります。以前、父や母の話をしたことがありますよね。覚えていますか?」
「勿論、お母さんが祐路さんの幼い頃病気で亡くなったことや、お父さんが芸大の教授で画家でもあると」
祐路は千郷と付き合いだした頃、話してくれた。母親が病弱で祐路は千郷と同じ一人っ子だということを。そして、もう一つ、祐路は東大法学部卒で警察
にはキャリアとして入ったので、今後異動が多くあるとのこと。千郷はどうりで若いのに警部なんだと合点がいった。
「あの手帳に書いてあった山処皓介は私の叔父、つまり父の弟なんです。父の実家、今はありませんが京都です。父が芸大に入って上京した後、弟の皓介が山の事故で亡くなったのです。皓介は中学から山岳部に入り、高校も山岳部でした。亡くなった山は京都近辺の低い山で、到底落命するような場所ではない、これは事故でなく、誰かに突き落とされたのではないかと父は疑っていたのです。ひょっとすると今でも納得出来ないでいるかも知れません。あの手帳は父に見せておりません。文脈からすると自殺の可能性もあるかと思います。もし、自殺だとすると理由が分かりません。結局決定的な事実がない以上、父に見せるのは余計な混乱を招くと思います。千郷が悩んだようにあの思いを簡単に処分していいものか私も悩んでいます。このまま引きずっていくかもしれません。あの愛の重みをこれから二人で背負っていきたいと思っています。覚悟して貰えますか、これからの人生を」
「ええ、祐路さんとならずっと」
祐路はふっと緊張を解いたように笑った。
「良かった、共犯者がいて」
「あら、サスペンスでは共犯者が一番怖いということもありますよ」
千郷は笑いながら出されたステーキにナイフを入れた。
「そうでした。千郷に竹刀を持たせないようお父さんから忠告を受けていましたね」
その夜、千郷は結婚の申し込みをされ有頂天になっていた。ただ祐路は、本当に千郷と結婚してもいいのだろうかという一抹の不安が心の中にありました。千郷が祐路に手帳を渡す際、引き出しが少しずれていたと言った。ひょっとすると健が見つけて戻しておいたのではないだろうか。もし、あの手帳を見たならば、山処という男と千郷が結婚するということは、健にとって妻と娘が山処という家に奪われたと感じるかもしれない。嬉しそうに腕を組んでいる千郷には絶対言えない覚悟が出来た気がした。
ー さらに千年後へ ー
『原田瑤子 様
千年後も愛してる
山処皓介』