たとう紙 (パラレルバージョン)
別に投稿しております「たとう紙」の別バージョンになります。
先に出しました「たとう紙」を書いている途中から、もう一つの方向として頭にあったものを形にしてみました。
こちらでは、妹の千佐子の幼さ、未熟さ、恋に恋する年代の危うさのようなものを描いてみたいと思いながら書きました。
登場する姉妹、咲子と千佐子は名前は前回投稿したものと同じですが、性格も性的な志向も変化しています。パラレルワールドとお考えいただければと思います。
そろそろ軍靴の音も地を揺るがす兆しありし昭和のはじめ。
「その帯留はおよしなさい」
私が着物を着ていると、必ず横から姉が口をはさむ。
好きなように着させてもらったためしがない。
まれに「あら今日は良い取り合わせ」とほめてもらったとしても「でも、ここが」と半襟を直されたり、帯揚げを押し込められたりする。「品をよくするため」だそうだ。
これはきっと私から華を奪う口実だ。
姉……咲子お姉様は二十六歳。誰もが振り返るなまめかしい美しさを持った方。六歳になる可愛いひろ坊もいる。今日はいつものようにひろ坊は連れて来ず、お留守番をさせてきたようで、私は少し寂しかった。……一目、会いたかった。
そういえば、ひろ坊が生まれた時、私は十歳で『オバサン』になったのだった。
母が早くに亡くなり、十歳違う姉は、ずっと私を子ども扱いする。今の私の年には……彼女が十六歳の年には……もう処女ではなかったくせに。
私と父の二人暮らしとは言え、家のことは何でも飲み込んでいる松さんという女中がいるのに、姉は何かしら用事を見つけては帰ってくる。
私はなぜだか知っている。私が幸せかどうか監視するためだ。
「お嬢様」
松さんがふすまの向こうから呼びかけた。この場合姉に対してだ。姉がいないときはこの呼び名は私のものだが、姉が家にいるときは私は昔通りの『嬢ちゃま』としか呼んでもらえない。
「お茶室のご用意ができました」
その声に姉は
「ありがとう。着物をしまったら千佐子と行きます」と答えた。
いらいらと、私は七宝焼きの、クモの巣にかかった蝶をかたどった意匠の帯留をもてあそぶ。それは、母の形見の品がしまわれた長持ちの中で見つけたもので、それに合わせた小さなビロードの小箱の中に、まるで秘密のように大切にしまわれていた。私の一番のお気に入りの品だ。
そんな私の様子を見て姉が「私が和光であつらえた、色石を花束に見立てて組み合わせた帯留をあなたにあげますから。あなたによくお似合いのはずよ」と言った。ぬるりと光る琅玕をはめた指で、結い上げた洋髪をなでつけながら。
一瞬、あの帯留をいただけるの? と、以前姉が身に着けていた時に見ほれたそれが思い出されて心が沸き立ったが、すぐに、もうそんなこと今更何の意味もない、と気持ちはまた、固く沈んだ。姉の私へのご機嫌取りもむなしい限りだ。罪の意識を少しでも打ち消そうとして。そして、満足。自分の思い通りに私を操っていることに。
女学校はやめさせられてしまった。家の格が上がるほど、女学校卒業前に嫁がされている時代である。女学校など卒業した方が恥であると誰もが考える風潮の中、姉が早くに私の嫁ぎ先を決めてきた。父は姉のすることに異論などありはしない。『ご令閨様』なのだから。父は姉を誇り、見上げるように家の中でさえそう呼んだ。
「この子には、ちゃんとした場所を持ってほしいから」
姉はそう言って、地方の旧家との縁組をきめてきた。
なぜ、そんなに早くこの私を、男のおもちゃにしたいのか。
分かっている、そんなこと。彼女があきらめたものを私が持つことなど許せないからだ。
ああ。私の送りこまれるところはとても遠い。もう会えない。きっとこれは……姉の罰だ。
姉は十五で華族の家に入った。
正式な縁組ではなかった。当時、姉の美しさと聡明さは世間に知れ渡っており、身分違いながら、腺病質で知的な面でも障害を持つ御正妻に代わり御殿様のお世話、お付き合いの同行、すべて正妻と同等の『室』としてかかわってもらいたい、と申し入れられた縁組だった。だが、万事取り仕切っているといっても、たとえ呼び名が、「御側室」であっても、そして跡取りを生んだといっても妾は妾だ。
そしてその十五の年に魂を亡くした姉はその抜け殻を富や化粧で塗り固め、見事に華族様の奥を取り仕切っていた。
その姉の『華族様のご令閨のご意向』で私の縁組は決まっていた。うちの家の格を上げ、どうしても消すことのできない『妾』である姉へのそしりを沈めるために。
父は位は高いとはいえ所詮官吏、一介の役人に過ぎない。
くそくらえ。あの人にあいたい。
この帯を解いて、銘仙など脱ぎ捨てて……あの人のために、あの人との約束の時間のために整えたすべてをかなぐり捨てて、あの人とただ肌を、唇を合わせたい。
「千佐子」
姉が私を呼ぶ。
「もうお遊戯の時間は終わりなの。私もそうでした。私たちはみな、大人になってゆかねばならないのよ」
姉は私の魂を絶望の淵へと追いつめる。
「お手紙が来ていたけれど焼き捨てました」姉は続けて言った。心が裂かれたように痛んだ。これも罰なのか?
……だが、私は顔には出さず、復讐をするように姉に言った。
「嫁いでもよいのだけれどお姉さま」
「私、もう清らかとは言えませんことよ」
姉は先ほど私が肩にあて、顔映りを確かめただけで選ばなかった着物をたたむ手を止めた。その沈黙は長く硬く続いた。
やがて姉は「ええ」と言った。「ええ。私もそうでした。気に染まぬことをする前に、一度だけ思いを遂げるのは、『一夜一生』と言うらしいですよ」
姉は着物をたとう紙に包むとひもを結んだ。
秘密をしまうように。
その姉の様子を見ながら私は奥歯をかみしめる思いだった。
違う。私たちのは違う。あなたのように、汚らしくいやらしいものではない。
私は知っている。姉が何をしていたか。姉がどんな女なのか。
姉が嫁いで四年が過ぎ、親戚内でも子のできぬ姉の行く末を案じる声が高まっていたころだった。その声は当時まだ子供だった私の耳にも入った。
「親の高望みで身の置きどころを失いかけている」その声は、身内とは言え、嫉妬と羨望も入り交じり、悪意のこもったものだった。
そのころ、姉がひっそりとうちに帰ってきたことがあった。
大好きな姉が家に戻ったことが嬉しく、私はいつものように姉にまとわりついて離れようとしなかった。なのに、松さんが「嬢ちゃま、今日は私とデパートに行って紀元節に着るお洋服を見て回りましょう」と言い出して、家から連れ出された。
私は、洋服を見るなら姉とでなければだめだ、松さんではだめだと主張したが、いつになく厳しい顔をした姉に「わがままを言わないで」と叱られ、仕方なく家を出た。
家を出てすぐに襟元の寒さに気づき、「嬢ちゃま!」と激しく呼ぶ松さんの声を背中に聞きながら、以前姉にお土産にもらった舶来の襟巻を取りに家に戻った。
家のそばの角を曲がったところで、足が止まった。
誰か男の人が姉に迎えられて家に入るところだった。
あの後すぐに姉はひろ坊を妊娠し、親戚中が、上りゆくものを引きずり下ろせなかった落胆を隠しながら安堵したのだ。
ひろ坊はあの男の人の子どもだ。男女の営みがどういうものかもわからなかった私が一足飛びにたどり着いた結論だった。
ふと見ると姿見の中に、その前に立つ私を姉が後ろから見つめている姿が映っていた。
「大きくなって」
姉はそこで言葉を切るとふうっとため息をつき、続けた。
「本当に美しくなったこと。千佐子」
姉はほほ笑みながら言った。姉はいつも微笑んでいるが、今の姉が浮かべている笑みは、いつも姉が『華族様のご令閨』として取り澄まして浮かべている笑みではなく、どこか懐かしさを含んだ、優しい、そして疲れているような本音からのほほえみだった。
私はその姉の笑みに心を騒がせ、ひるみながらも、決して自分の決意を揺るがせないように、と己に言い聞かせた。
「お茶をたてましょうか」
たとう紙に包んだ着物を長持ちにしまい終わった姉が私を茶室に誘う。
その着物のしまい込まれた長持ちを見て心を固くした。優しい顔をしてみせたって騙されるものか。全部嘘っぱちだ。
たとう紙の中身の着物は私だ。きっちり包まれひもで縛られ、長持ちに押し込められて、やがて嫁ぎ先へ送りつけられる。姉の意のままに。
庭の飛び石の向こうに構えた茶室に向かうため縁側に出ると、沓脱石の上に松さんの手によって草履が二足そろえられていた。これを履いて茶室に行けば、もう母屋へ戻ることはない。私は自分の決意を再度固めようと、大切なものが入っている懐を押さえた。
躙り口をくぐり茶室に入ると、カタクリの花が一輪、壁に掛けられた魚籠に投げ込みで活けられていた。見ると、その小さな紫の花にアリが一匹はい回っていた。自分の身に見知らぬ手がはい回っているようでゾッとした。
小さな四角い茶室は、まるでわたしを押し込めるためにあつらえた、世の中から切り離された牢獄のように思えた。その牢獄はこの国であり、この時代でもあり……そして獄卒(※)は唇を赤く染め、貼りついた仮面のようなアルカイックスマイルで微笑む姉なのだ。
幼いころからいつも姉の身の上を案じていた。
姉は幸せではないのかもしれない、とも思っていた。
女学校に入り少しものがわかり始めると、三十歳も年の離れた男に弄ばれる(その言葉は早くから知っていたが、意味を知ったのは最近である)日々はどのようなものだろうか、と姉の暮らしに思いめぐらせ同情していた。
姉が私の幸せを許さないほど心をなくしてしまったとは信じたくなかった。
だが、きっとそうだ。姉は己の苦悩から、わたしの青春と幸せをねたみ、壊したのだ。慈母のような顔をして。私の結婚を自分のために仕組んでおきながら、やがて正妻となり自分より安寧を得る妹には罰が必要な人なのだ。
なんと見苦しいこと。なんと情けないこと。魂をなくしただけでなく、この人は人でなし、鬼へと変わったのだ。
私は姉を許さない。死んでも許さない。
私の愛しい人も、やがて嫁ぐ。もう、本決まりで逃げられないと涙をこぼしていた。
可憐な人。優しい人。細く長くしなやかな愛しいその指。華奢な壊れそうな肩。ま白き花の顔に血のような赤い唇。ま白きものに赤い印。あれは、あの日のあれは私たちの涙だったのだ。
富んでいようが貧しかろうが家のため自分の魂を殺し、見も知らぬ、毛むくじゃらの手をした男の慰み者になることは、今の世に生きる私たち女には変わることはない運命だった。
私たちが嫁ぐ前に愛する人に純潔をささげることはせめてもの運命への抵抗だった。
姉が亭主を務め茶をたてた。
たが、なぜか姉は立てた茶を『客』の私によこさずにじっと茶碗を見つめていた。
母屋の柱時計が六時を告げた。約束の時間。「一緒に行こう」とあの人と約束した時間。私は懐に手を滑り込ませずっと隠し持っていた薬包に触れた。
その時、姉がこちらへ向き直り茶碗を作法通り、いったん自分の前に置いた姉は口を開いた。
「千佐子」
そしてため息をつき
「御正室様が身ごもられました」
と言った。
意味が分からなかった。
ゴセイシツサマガミゴモラレマシタ?
私はおそらく阿呆のようにぽかんと口をあけていただろう。
だって、だって……ご正室様はお殿様より十歳ほどお若い方だと聞いたことがあるから、もう四十歳を……もしかしたら四十五歳を超えていらっしゃるのではないかしら? 今の時代の女子のたしなみ通り、物を知らないまま育ち、女学校の行き帰りしか自由のない生活でも、子供を産むのはもっと若い女のすること、と思うだけの常識はあった。それに男爵様は宮家から降嫁されたご正室を『妻として役に立たない』と言って遠ざけておいでなのではなかったの? 『会話もろくにかなわぬからっぽの人形』とさげすんでいたのではなかったの?
そして男爵家には姉以外にもただの慰み者としての妾が二人、そしてお殿さまは家の外にも囲っている芸者上がりの妾がいるという。その誰にも子がなかった。ただ一人ひろ坊がいるだけだった。そのことが意味することも私なりに理解していた。
「殿は私が御殿に入った時に生娘ではないことにお気づきだったのです。殿はわたくしの相手を突き止めたようで、御殿に入って四年が過ぎた時に『お前の相手を調べた。血統も、性質も卑しくはない。あの男の種ならばよい。孕んで来い』とお命じになったのです。……殿は、自分に子種がないと噂されることが我慢ならず、わたくしに子供を産むように命じられました。松さんにわけを話し、協力してもらって宏隆を生むことができました」
姉はここで息を整えるように言葉を切った。
「宏隆には男子として出生の折から、公爵家に嫁がれた殿の同腹の姉君様の産みまいらせた姫様が、許婚としてすでに定められております。殿はご自分の血筋である姪御様を家に据えられることで、血統は保たれるとお考えだったのです」
私は、姉の口から出る言葉が現実とは思えなかった。
「ご正室様は、御殿から出られることもほとんどありません。そしていつも大勢の女中に取り囲まれてお暮しです。『煕子が生むのは間違いなく俺の子だ。俺自身の子だ。畜生が出歩いて孕んだ子とは違う』と殿様はたいそうご満悦なのです。それどころか」姉はそこで言葉を切った。
私は先ほどから、姉の話の恐ろしさに姉の目を見ていられらくなり、顔を伏せ畳をじっと見つめていた。男爵様のあまりのなされように、姉の口から伝えられるそのお言葉に、殴りつけられたような衝撃を受け、全身を固く緊張させてうつむいていた。
だが、その長い沈黙に、恐る恐る顔を上げた。
姉は身震いしていた。そして続けた。
「それどころか狂喜乱舞し、前後の見境もおなくしになり、まだお子が無事に生まれるかどうかもわからないというのに、宏隆を廃嫡するとおっしゃいました」
私は息を飲んだ。
「千佐子。私と宏隆はあの家を出されるやもしれません。それどころか、不義密通の罪で私は投獄されるかもしれない……。そのくらいの事、殿ならばやりかねません。そうなれば宏隆は、あの子の将来はどうなるのでしょうか」
私はあまりの非道に打ちのめされた。もう人ではない。男爵様は鬼だ。
この時代、不義密通は不平等にも妻のほうとその間男に科せられる罪だった。夫はいくら外に女を作ったとて、誰にも責められることはない。
「けれど」姉は顔を上げ、私を見て言った。
「今なら、まだ、間に合うのです。私が囚われ、裁かれる前ならば。宏隆は罪人の子としての世間のそしりを免れる。廃嫡は避けられずとも、家名を名乗り続けることは許されるかもしれません」
私は何かを予感し、心臓が大きく鼓動し、息苦しくなった。
「ああ千佐子。私の大切な千佐子。あなただけは光の中を歩いてほしい。ここから逃げて優しい人たちの中でのびのびと生きていってほしい。あなたの行くところは本当に穏やかなところです。あたたかい人たちです。……宏隆を……お願い……お願いします」
姉は指を震わせながら懐から赤い薬包を取り出すと、中身の粉薬を一気に口に放り込み、自分のたてた茶を口に含み飲み下した。
私の中で時が止まった。
やがて正座した足を崩しながら姉が畳に突っ伏してゆくのが、とてもとてもゆっくりと見えた。
ひどく苦しいのか、もがく姉は着物の裾は乱れ、太ももまでもがあらわになった。整えた髪は蓬髪となり、その表情は鬼の形相に変わった。
私は金縛りにあったようにその場から動けなくなり、助けを呼ぶこともできず、その姉の死にゆくさまを眺め続けた。
やがて数度のけいれんの後、姉は動かなくなった。
赤い口紅を塗った唇に、解け残った粉薬の粒と、吹いた泡が見て取れた。
どのくらい時間がたったのだろう、あたりは真っ暗になっていた。
私とあの人の約束の時間はとうに過ぎてしまった。
誰かの叫び声を聞いたような気がした。
やがて遠くから何人もの大声が聞こえてき、多くの人がこちらに押し寄せてくる気配がした。
あまりに長く茶室から戻らぬことを案じた松さんがこの惨状を見つけ、助けを呼んだのだろう。
私は、これから自分に襲い掛かってくる騒ぎの大きさの予感に恐怖を感じることで、我に返ることができた。
私は自分がこの世に生きていることに気づくと、わなわなと瘧のように体が震えてきた。私は慟哭し、激しく泣きじゃくり始めた。
目の前で姉が死に行く様を見、愛する人との約束を破り(この時私は知らなかったがだが、あの人……瑠璃子は、生きていた。瑠璃子は、姉が私に渡さずに焼き捨てた手紙に『一緒には死ねない。普通に結婚して子供を産み、普通の人生を歩みたい』と書いていたそうだ)、懐に薬を収めたまま、今、この時間にのうのうと一人生きている。
姉がたとう紙に着物をしまっていた姿が思い出された。
包んでひもをかけ、秘密をしまう。
姉は私に自分の秘密を同じように包んで隠すことを押し付けて逝ってしまった。
それは姉のかけた『枷』となり私を生涯縛り付けるだろう。たとう紙のひものように。
私は一人この牢獄に取り残され、現世の後始末の責を負わされたのだ。
だが、涙の意味はそんな恐怖や自責や未来への不安や、極度の緊張から解放された刹那の安堵だけではない。
私は、己が生きていることを、この世にまだ居られることを、体を震わせ、むせびながら、べしょべしょになるほどの嬉し涙を流し、歓喜しているのだ。
貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。m(__)m