第05話 出来損ない少女と動き出した関係(マグダリア視点)
紙が捲れる音がする。
それ以外の音がしない空間。
書物が詰まったこの場所は、学園の生徒なら誰でも使用できる図書館。
校舎とは別の場所に立っており、放課後に生徒が利用する。
「………はぁ」
思わずついてしまったため息。
それを隠す様に手で口を押える。
私、マグダリア・フィフティがこのところずっと考えてしまう事がある。
この学園で学生の最上位に位置しているキリュウ・アシュトラル先輩の事だ。
逃げてしまったあの日から、ずっと見つからないように過ごしていた。
ペンダントが壊れた日から、他の生徒のように魔法が使えるようになってから、萎縮する必要もなくなり、明るい顔で屋敷に帰れるようになっている。
相変わらず友人と呼べるものも、話す相手すら皆無だけれど。
それでもよかった。
魔法を使えるようになって、フィフティと呼ばれても、そんなに嫌な事でもなくなった。
まだ自分が王族の血筋の家名を名乗っていいのかという悩みはあったが。
先輩に言われてすっきりしたのは事実。
時間が経って、よかったと思える。
けれど時間が経った今、一番の悩みは先輩に失礼な態度で逃げて来てしまったことだ。
でも先輩に会うことは出来ない。
平民確実の自分が、貴族に会う事さえはばかられるのは、私だけじゃない。
この学校に通う平民は三分の一いる。
王族や貴族に頭を下げる。
それは暗黙のルール。
本来私もそうすべきなのだ。
直接彼らを見てはいけない。
それを私はフィフティの名前があるからこそ、頭を下げなくてもいい。
下げなくても咎められることは無い。
私の口からフィフティ家の者に蔑んでいる事を漏らされれば、私に手を出した者は消されると思われているから。
絡んでくる者はよっぽどの痴れ者か、自分の方が上と思っている短慮な者。
されたとしても私の口からフィフティ家の者に口外するようなことは無いのだけれど。
報復がないからこそ虐めてくる者は減らないのだが、私自身は当然の事だと受け入れてしまっている。
そっと書を横に避け、机に突っ伏した。
目を閉じて息を吐く。
書物の匂いが好きで、よくここに足を運んでしまう。
読書に没頭して陽が沈んで慌てて帰る事も頻繁だ。
だがここ一月、書を読んでも頭に入ってこない。
原因が分かっているのに行動できない。
だから解決しない。
ループしているのに気づいても、どうしようもない。
諦めてしまう事が一番なのに気づいたら考えてしまう。
「………私……好き…だったのかなぁ……」
ぽつりとつぶやいてしまう。
只の憧れ、だったと思う。
けれど“守る”と言われた時から、彼の事を考えない日はなかった。
辛い事を指摘されても、彼が悪いわけではない。
自分が思っていたことを改めて突き付けられただけだ。
彼を責める理由はない。
あの時はなんて酷い人だと思ったけれど、事実をありのままに言われただけだ。
彼はそういう人だ。
探求心が強く、自分の理解を深める。
恨みはない。
ただ……
「………っ」
目が熱くなり、涙が出そうになる。
腕に顔を埋めれば、ブレザーに染みが出来ていく。
生きている世界が違う。
平民は貴族である彼に会う事さえ本来許されない。
同じ学園に居るだけで幸せなのだと、思わなければならなかった。
淡い初恋が散っただけ。
そう思わなければ、呼吸さえできなくなってしまいそうだった。
彼をよく知るヘンリーと数回会った。
ヘンリーに会うたびに強く、彼に会いたいと願ってしまう自分が嫌だった。
会いたい、話したい、あの目に見つめられたい。
これを恋と呼ばずになんというのだろうか。
気づいたら失恋。
なんてお笑い種なのだろう。
フィフティ家なのだから、当然王族などの婚約者を宛がわれるだろう。
平民の自分が、ちゃんと王族の血筋を産めるだろうか。
フィフティ家の為に自分のできる事といえば、それぐらいしかない。
平民の血を嫌がらず受け入れられるかが問題なだけ。
そう考えるようにして、先輩の事は忘れようとここ数日考えていた。
でも最終的には先輩の横に立つ自分を想像してしまって嫌悪する。
いつまで不毛な考えをしているんだと、誰かに叱って欲しい。
グッと手を握りしめる。
こつんっ
私の耳に靴音が聞こえてきた。
思考が途切れ、気配探知を発動させる。
「………!?」
ハッと目を開いたが、体が硬直してしまった。
伏せていた顔を腕から上げられない。
コツコツと自分の方向へまっすぐに向かってくる。
何故という言葉しか頭に浮かんでこない。
「フィフティ」
一月ぶりの低音ボイスが耳に入ってくる。
それだけでまた涙があふれ、ブレザーを濡らす。
声を聞いただけで体温が上がる。
『ああ……どうしているんですか……忘れさせて下さい…貴方は私に会ってはいけない人なの……』
顔を上げられないまま、彼が諦めて去ってくれるのを祈る。
今の状態なら眠っていると思うだろうから。
書を読んでいる体勢でなくて良かったと思う。
これで終わりにしよう。
彼の何の感情も籠っていない声色は、私を突き放しているようにも感じる。
無駄な恋を、だけど忘れられないだろう恋心を抱かせてくれたことに感謝して。
そう思っていると、先輩がさらに近づいてくる足音がした。
え……と思う間もなく、彼はなんと私の隣の椅子に座った。
そして書を手に取った気配がする。
私が読んでいたものだろう。
「………ふっ……」
え……と、目を見開く。
『笑っ……た?』
思わず顔を上げそうになったが、辛うじて留まった。
「魔導士が魔導士冒険物を読んでるのか」
しまった、と思う。
ついいつもの癖で冒険物を手に取った。
自分とは違う、強い魔法が使えて勇者と呼ばれるような者に憧れていたから。
すると、そっと先輩が私の頭を撫でた。
ビクッとしてしまいそうになるのを堪える。
「………お前を守るのは俺だ」
そっと囁かれた言葉に、また泣きそうになってしまった。
そんな優しい言葉をかけないで欲しい。
諦められないようなことを言って、自分を揺さぶるのは止めて欲しい。
もう、会わないから。
これが最後にするから。
そんな事を思いながらも優しい手に撫でられ、幸せな気分になることを拒否できず、ゆっくりと眠りに誘われていった。
「………んっ」
意識が浮上し、身じろぎしながら目を開く。
あれから眠ってしまったらしいと理解した私は、周りを見渡そうとしてできなかった。
体の自由が利かない。
「………起きたか」
「………え!?」
上から聞こえた声に思わず見上げると、至近距離に先輩の顔があり、硬直してしまう。
無理もない。
居ないと思っていた人物が目の前にいて、しかも自分を抱きしめているのだ。
さらにじっとりとシャツが肌に貼りついている。
視線に映る先輩の背後には図書館の外壁で薄暗く、陽が沈みかけていた。
図書館が閉まった後まで眠っていたことを理解し、私は真っ青になる。
つまり、締め出された先輩が自分を抱いて外に出、入り口の数段ある階段に腰掛けさせているということで…。
「す、すみませんっ!」
慌てて離れようとしたが、先輩は離してくれなかった。
「せ、先輩…?」
困惑しながら先輩を呼ぶと、先輩はジッと私の顔を見ているだけ。
首を傾げそうになった時、段々距離が縮まってきているのに気づく。
動く間もなく私の唇が温かいものと重なった。
瞬きを数回して思考しようとするが、出来なかった。
目の前には目を閉じている先輩の顔があるだけ。
何が起こっているのか分からなかったが、そっと離れていく先輩の顔を見て、思考が戻る。
「…… 」
口を開いたが、それはまた温かい物に包まれ、声は発せられることがなかった。
「………んっ」
自分の鼻にかかったような声に、ようやく気付く。
自分が先輩と口づけを交わしているという事を。
かぁっと自分の顔が真っ赤になっていくのが分かった。
グッと手に力を込めて先輩の体を押すと、唇は離れた。
パッと口を手で押さえ、涙目で先輩を見る。
何故こんな事になっているのか。
「………すまない」
「………」
「………つい」
ついって何!? と突っ込みたいができない。
心臓が口から出そうなくらい鼓動が早くて。
全力で走った時みたいに呼吸が出来なくなりそうだ。
「謝りに来たのに何をやっているんだ俺は……」
口を片手で覆い、視線を逸らす先輩。
謝りに来たという先輩に私は驚く。
謝られることは何もない。
何もされていないのに。
「先輩……?」
「………ペンダントの件でお前を泣かせてしまってすまない」
「え……」
まさか、あの件を気にしてくれていたのか、とまた驚く。
ブンブンと顔を横に振って、気にしていない事を伝える。
「あ、あれは先輩は何も気にしてなくていいです! むしろ有りがたかったです。これで、フィフティ家に居続ける事を決意できました。婚約者が出来て嫁ぐことになっても、王族の家名を背負って生きていく覚悟も出来たんです! 平民の私が恩返しできるのはこれだけなんだって! 全部先輩のおかげなんです! だから、謝らないで下さい! 私は感謝し、て……」
言葉の途中で途切れてしまったのは仕方ないと思う。
何故なら、ゾッとする程の冷たい冷気が一気に私の周りに発生したせいだからだ。
自分の恋心を吹っ切るいい機会。
もう自分に関わって欲しくないという意思もあったと思う。
彼を見ないように視線を外して、眠る前に思っていた言葉をつらつらと並べ立てた。
混乱のせいか私の言葉はスムーズに出た。
先輩に何も言って欲しくなくて。
自分から突き放されようとして。
だから、先輩の表情がどんどん変わっていく様子が分かるはずもなく。
私の“婚約者”という言葉を聞いてから、先輩の感情が怒りに支配されていく様を。
この時は本当に、全く気付いてなかった。
ゆっくりと腕を掴まれても、
そっと顎に手をかけられて上を向かされても、
自分の体なのに、一mmも動かせられなかった。
「………許さない」
「っ…」
先輩の目が怒りに鋭くなっているのを見て目が潤んできた。
自分のせいで先輩が怒っている事だけは分かる。
また先輩が気にしてしまうかもしれない。
違うんです。
涙が出るのは自分が先輩を怒らせたせい。
先輩は悪くないんだと言いたいのに喉が詰まって言葉にならない。
カタカタと震える体は周りの冷気のせい。
先輩が怖いんじゃない。
必死に口を動かしたけれど、言葉にならない。
ああ、また私は…
「………お前は俺が守るんだ」
「………ぇ」
流れると思っていた涙が止まる。
先輩が私に殺気を向けて来ていたのではないか。
私に怒っているのでは?
なのに何故、守るという言葉が出てくるのだろう。
寒くて震えていた体が止まる。
「お前は、俺だけを見ていればいい」
「………!?」
まさか、と思う。
自分の都合のいい解釈をしているのだろうか?
「俺の隣に立っていればいいんだ」
違うなら、なんて解釈すればいいのだろう。
ゆっくりと頬を撫でられる。
壊れものを扱うみたいに、そっと…
「………好きだ。マグダリア」
「っ………」
今度こそ涙が流れた。
嘘だと。
否定出来たらどんなにいいだろう。
実らない恋だと、諦めようとしていたのに。
「頼むから、お前の口から婚約者だの嫁ぐなど、言わないでくれ。誰かに奪われるなど、耐えられない」
ギュッと抱きしめられて耳元で囁くように懇願されれば、夢と思えと言われても無理だった。
「せんぱ……」
「お前が俺を好きでなくても、俺は好きだ。だから、逃げないでくれ」
決して逃げられないように、ギュウっと痛い位に抱きしめられれば、先輩が本気で言っていると気付く。
普段の冷静な彼はどこにいったのだろうか。
何故自分はこんなにもキツく抱きしめられているのだろうか。
これで罰ゲームだったと言われても、そちらの方が嘘だと思ってしまうだろう。
でも、そんな事はもう……
平民だとか、貴族だとか、そんな考えがこの時吹っ飛んでしまった。
後から後悔してしまうかもしれない。
別れろと反対される方が遥かに多いだろう。
でも……
私は腕を上げ、先輩の背に回してギュッとブレザーを握る。
恋焦がれていた彼が今、ここに居る。
欲しかった言葉をくれる。
それだけで、心が温かくなった。
先輩にとっては、自分はその他大勢の一人ではないのだと。
自惚れてもいいのだと…
もう会わないように頑張らなくても……想いを捨てようとしなくていいのだと…
「………わ、たし、も、……好き……です…」
震える声で伝えると、バッと体を離されて凝視される。
泣いてしまってブザイクになってしまっただろう顔を見られると恥ずかしいが、視線は外さないように努力する。
外してしまえば、嘘だと思われてしまうかもしれない。
それは嫌だった。
「………いいのか?」
「………え?」
「………俺が相手で…」
今の今まで離さないと抱きしめていた彼の言葉とは思えず、瞬きを何度もしてしまう。
「その……結構情けない姿をさらしたような……」
今さらながらに、恥ずかしくなったようだった。
ほんのり頬が赤くなったような先輩の顔を見て、顔が思わず緩んだ。
多分、こんな顔を見せてくれるのは、自分にだけだろうと。
優越感に浸らないなんて、無理だった。
「………先輩が……いい…です。………先輩に……そばに…いて欲しい……です…」
「っ……」
私の照れたような笑みを見て、先輩は言葉を詰まらせた。
後から聞いた話では、私の笑った顔が見たかったという。
見たいと思っていた笑顔が今、目の前にあると、心臓が跳ねたそう。
「マグダリア……口づけても、いいか?」
「っ……」
先程強引に奪ったのに許可を求められ、嬉しいやら恥ずかしいやらで頬を染めながら、私は小さくコクンと頷いた。
すると、ゆっくりと先輩の顔が近づき、二人の唇が重なった。
いつの間にか、先輩の作り出した冷え切った空気が無くなり、温かい空気が私たちを包み込んでいた。