転生して早数十年、気づけば老人になっていました。
爛々と輝く太陽が、その存在を主張するように森の中までも照らしているある夏の日。
降り注ぐ陽光をその身に浴びながら1人の老人が杖を片手に森を歩いていた。
髪は白く、着ている服も綺麗とは言い難い程ボロボロになっている。だが、その顔は歳のせいで痩せていると言っても健康そうな色はしているため、ただの浮浪者というわけでもなさそうだ。
老人は、時々歩くのを止めては木々に実っている木の実をいくつか採り、腰に付けた麻袋へと入れていく。
その様子を見ていた森の動物たちは、老人の静かな動きに警戒を解いていき少しづついつもの生活へと戻っていく―――。
◆
俺は、所謂転生者だ。
別に女神とかそんな感じの存在には会ったことはないが、前の世界で死ぬと同時にコッチですぐに目覚めたから転生者だと思ってる。
けど、前世での記憶はそれほど残ってないから知識による無双みたいな事は一切できない。
ついでに、身体能力が異常みたいな事もないからド派手な戦闘も出来ないし、常人離れした能力を持ってるとかもない。
なんとまあ、転生者なのに無能だったのが俺なわけだ。
生まれは平民、育ちは貧民。
生まれた当初は普通の町の一般家庭だったんだけど、両親の酒癖の悪さが最悪の方向に転がっていって夜逃げを決行。
まだ子どもだった俺は、逃げるのに邪魔だって事でその町の貧民街に置いてかれた。
当時、小学校低学年位だった俺は流石に冒険者になれるわけもなく、金の稼ぎ方がないからと盗みをする勇気もないから、ゴミとして捨てられる食べ物を必死に漁ってた。
そんな生活の中で疲弊していた俺は、頭がおかしくなっていたんだと思う。
町の外へと出て行く馬車を見ながらあることを思いついたんだ。
外に出て森へと入れば食べ物がたくさんあるんじゃないかって。
そこで俺は、夜のうちに出発予定の馬車に隠れて町の外へと出て行くことを考えた。
実行する際には見張りの人間も居たりしたけど、ある程度平和な町だから潜り込む奴なんて居ないと思って、うつらうつら眠りかけてる隙を狙って潜り込んだ。
結果としては、成功。見事俺は町の外へと出て、馬車の速度が落ちてきた頃を見計らって逃げ出した。
ボロボロの服に汚い体だったから汚れる事も怪我をする事も気にせずに走って逃げた。
そして、そのまま数十年が過ぎた―――。
◆
「ふぅ……」
静かな森の中で考え事をしていた俺は、近くの倒木へと腰を下ろす。
どこかの猛獣が倒しただろう木の根元は切り傷や凹みが多くある。
この森には、やんちゃな奴がいるようだ。
そんな事を考えながら腰から水筒を取り、口を潤して行く。
その際に目に入るのはシワシワのお年寄りの手……いや、転生して時間が経った俺の手だ。
あの日、馬車から逃げ出してから随分と時間が経った。死にかけた事なんて沢山あるし、自分から死のうと思った事も沢山ある。
けど、どうにかこうにかココまで生きてくることができた。
転生当初の俺からしたら信じられないような現状だけど、これはこれで満足できるような生活だ。
金もあるし、食べ物もある。町に行けば話す相手もいるし上出来だろう。
あとは一生を添い遂げる相手がいれば申し分なしだったんだけど、どこの世界に森を渡り歩く不審者と結婚したがる女が居るかってんだ。
一生独身を決意してからは幾分か心はマシになったけど、それでもたった一人の世界で家族が欲しいっていう気持ちはあった。
自分は捨てられたようなものだからこの世界での家族のあり方はよく知らなかったけど……。
ふと、小さなバッグから一通の手紙を取り出す。
もう何度も開いた痕跡が残るその手紙を開けば、中には可愛らしい女の子の文字で色々と書かれている。
他愛もない最近の近況や嬉しかったこと、悲しかったこと、そして、大会のこと。
読まなくても分かるほどにまでなったその手紙の差出人の名は、メル。
一生独身の俺の可愛い孫娘だ。
「もうすぐだなぁ……」
手紙に記された大会の開催地は王都。
この手紙にはもうすぐ予選が始まると書いてあるけど、届くまでの時間を考えるともうその予選は終わってるはずだ。
メルもそれが分かっているから予選の開催地ではなく、本選の場所を書いているんだろう。
距離的には大分あるが、折角の孫娘からの招待を無下にするわけにもいかない。
まずは暮らしていた森から一番近い町へと行く必要があるから、こうして次々と森を歩いているわけだ。
だが、もう少し急いだ方がいいだろうな。動物たちが可愛らしくてのんびり歩きすぎた。
ゆっくりとした動作で腰を上げ立ち上がる。
近くに寄ってきていた小動物たちを一瞥した後、杖をつきながら歩みを再開する。
目指すは、メルが戦いを繰り広げる王都だ。
「ん……?」
そうして、進み始めた直後、静かだった森が一斉に騒がしくなった。
◆
武闘大会の予選が行われた町にて、一人の少女が冒険者ギルドから出てきていた。
藍色の髪に同色の瞳、腰に提げているのは一振りの片手剣のようだ。
冒険者には珍しい女性である彼女は、ウキウキとした表情を隠しもせず先ほど受理した依頼内容を確認する。
「出発は明日の明朝。行き先は王都まで。募集冒険者は五人以上。……良かった、私以外にも受ける人がいて」
その様子は自分の仕事を確認するような雰囲気ではなく、まるで出かけるのを楽しみにしている子供のようだ。
鼻歌でも歌いそうなほど気分よさげな少女は、そのまま自分の宿へと戻ろうとしていると、背後から声をかけられた。
「メルさん、忘れ物ですよ!」
その声に反応して振り返ってみれば先ほど担当をしてくれたギルドの受付嬢が、丸めた紙を片手に走ってきていた。
名前を呼ばれた少女―――メルは、その紙に覚えがあるのか「あっ!」と声を上げたあと自分の体をペタペタと触ってどこにも探し物が無いことに気づき苦笑いを浮かべた。
そんなメルへと追いついた受付嬢は、荒くなっている息を整えて眼前のメルへと目を向ける。
「ふぅ……。ダメですよ? 折角、受理した依頼の受理証を忘れちゃ……」
「あ、あはは……。ごめんなさい、受けれたのが嬉しくて忘れちゃってました」
「全く……」
そう言って困ったように笑う受付嬢は、丁寧に受理証をメルへと手渡す。
そうして渡された丸められた紙を大事そうに鞄へとしまい込んだ少女は、明るい笑顔を浮かべて受付嬢へと頭を下げる。
「ありがとうございました! 今度から気をつけます!」
「はい、気をつけてください。それじゃあ、本選も頑張ってくださいね!」
優しく笑いかけた受付嬢は来た道を小走りで戻っていく。
その姿を見送りながら、メルはある人物を思い出していた。
自分が出場する武闘大会の本選へと招待した、たった一人の家族―――大好きな祖父の事を。
(おじいちゃんも、私が怪我したりして泣いてたら優しく笑いかけて慰めてくれてたなぁ……)
シワシワの手で頭を撫で大丈夫大丈夫と慰めてくれる祖父の顔を思い出し少しだけ寂しくなるも、手紙の配達を依頼した冒険者がしっかりと届けてくれていればその祖父にもうすぐ会えると考えて気持ちを改める。
捨てられていたメルを拾い育ててくれた祖父は、今も元気にしているだろうかと思いを馳せつつ宿へと戻り始めたその時―――大きな破砕音が町に響いた。
「っ!?」
思わず音の発生源へと目を向ければ、遠く町の防壁があるだろう場所から煙が上がっていた。
何があったのか、壁が壊れたのか、魔物が攻めてきたのか、様々な予想をして考えている間に防壁付近を歩いていたのだろう冒険者がギルドへと走り込んでいた。
そして、聞こえてくるのは焦った声。
ギルドから離れた位置にいるメルへと届くのだからかなりの声量なのだろう。
冒険の最中に仲間へと危険を知らせるには適しているだろう。
しかし、今回ばかりはその声量もあまり褒められたものではなかった。
聞こえてきた内容は、この平和な町で暮らす人々にとってパニックを起こすには十分なものだったから。
「魔族だ、魔族が来やがった―――ッ!!」
その言葉の意味を理解した時、一瞬の静けさを齎したあと町中が騒ぎ始めた。
ただ一人、魔族が現れた防壁へと駆け出す少女を別にして―――。
◆
静かだった森の中へと現れたのは、二本の角を生やした上半身裸の男。
二本の生えた角だけでも中々の物だが、青黒い肌に森の大木を片手で持てるほどの膂力、左胸に刻まれた不思議な刻印が魔族であることをありありと示していた。
森の外から此方まで歩いて来たのだろう。
男の背後には倒された木々が溢れていて、森の外までの道が出来ている。
そんな自然破壊の現場を目の前にして、片手に持った杖へと体重をかけ息を吐き出すと同時に此処まで歩いてきた疲れを一緒に出す。
近くに森の動物たちは居ない。
もし、眼前の男が急に暴れ出しても被害は少ないはずだ。
「1つ、訊いてもよろしいかのう?」
頭の中では昔のように考えることは出来るけど、口に出して話す時はつい老人のような話し方になってしまう。
別にこれに不満を持ったことはないが、自分は年老いたなと感じてしまう。
まあ、優しそうな雰囲気を感じれるからいいけど……。
俺からの問いかけに掴んでいた大木を投げ捨てて、魔族の男は大声で答えてくる。
「あぁ!? この俺様にジジイ如きが気安く話しかけてんじゃねえ! 今の俺様は、この森使ってストレス発散してる途中なんだよ! 邪魔すんなら殺すぞ!」
腕を組んだ仁王立ちの状態でキレながら答えてくれた内容は、偶然にもこの後訊こうとしていた質問の答えになっていた。
どうやらこの魔族の男は、随分と身勝手な理由で自然破壊をしているらしい。
森ってのは食べ物で溢れていて、一人で生きていくことを決めた子どもにとっては大切な場所だ。
そんな大切な場所をストレス発散なんて理由で破壊されるなんて、あまり許されるべき行為じゃないだろう。
「できれば……そのストレス発散は別の場所でして欲しいんじゃけどぉ……」
「あぁ!? なんで俺様がテメェみたいなヨボヨボのジジイの言う事を聞かなきゃなんねぇんだ!? 俺様は俺様のしたい事をする! 自分より弱い奴の言うことなんて聞く気にならねぇしなあ!」
そう言って再び近くの木を殴り倒す。
どうやらお願いを聞いてくれる気はないらしい。
中々に強い力を持っているから少々我儘に育ってしまったらしい。
この魔族の男は、今まで力でどうにか出来ていたんだろう。
……ここは、年寄りとして少し教えを説こうかな。
物理的な力だとどうなってしまうか分からないから、なんとか話し合いだけで済むと良いんだけど。
「ちと、話をせんか? お前さん」
「あぁ!? なんで俺様が……いや、そうだな……」
俺からの提案に反射的に反抗しようとしていた魔族の男は、何か悪巧みを思いついたかのように笑い、見下すようにして答えてきた。
「いいぜ、テメェの言う通り話をしようじゃねえか」
「おお、良かった。なら、立って話すのも疲れるしその辺りに座ってでも……―――」
存外、話の通じる相手だったようで安心しかけたのも束の間、やっぱりこの男はイメージ通りの魔族だったようだ。
「ただし! 口じゃなく、拳での話し合いだがなあ!」
そう言った直後、魔族の男の拳が視界を埋め尽くす程の距離にまで迫っていた。
◆
崩れかけた防壁へと辿り着いたメルが目にしたのは、赤黒い肌を持った一人の魔族の男だった。
真っ赤な頭髪に爬虫類のような瞳が特徴的なその男は、片手でこの町の冒険者だろう巨漢を持ち上げており、もう片方の手では斬りかかろうとしていた兵士の剣を指の間に挟んで止めていた。
その顔には焦り等の感情は見えず、ただひたすらにつまらなそうな表情で襲いかかってくる人間を戦闘不能へと追い込んでいた。
そんな戦いとも呼べない戦場を見ていたメルは、思わず腰の片手剣を手に取る。
冒険者を始めて数年、大好きな祖父との暮らしの中で培った戦闘センスを活用し大きな危機に陥ることなく実践を養い、武闘大会の予選を通過するまでになった。
そんなメルの人生の中で、ここまで心臓の音がうるさく感じたのは何度目だろうか。
思い出せるのは、大好きな祖父の忠告を無視して行った危険な行為で怪我をして本気で怒られた時か。
恐すぎて涙を流すことはなかったけど祖父の本気の怒りの恐怖は、心の根底にまで刻み込まれた。
そんな昔のことを振り返りながら今の状態を再度、確認する。
普段の倍以上の速度で動き大きな音を伝えてくる心臓に、汗でじっとりと濡れている片手剣を掴んでいる右手。
(これは……認めたくないけど相当怯えてるな、私)
自分の心を誤魔化そうと何とか笑おうとしても全く表情筋は動かない。
この王都から離れた町で行われた予選では他の選手を見た時に勝てるイメージが浮かんでいたが、今のあの魔族には勝てる気がしない。
だが、自分は此処で立ち向かわない訳にはいかない。
冒険者としてこの町で過ごして、愛着だって湧いている。
この町で知り合った人々を見捨てて、戦える自分が逃げる事なんて出来ない。
既に動くことすら出来なくなった冒険者や兵士達を避けながら前方へと進んでいく。
見ず知らずの他人である自分を拾って育ててくれた大好きな祖父ならこんな時、きっと他の人のために戦うだろうと考えながら、一人の少女は声をあげた。
「かかってこい、赤い魔族! 私が相手になってやる!」
呻き声や悲鳴が聞こえていた戦場の中で、メルの声はハッキリと魔族の男へと届いていた。
ゆっくりと動かされる視線は声の主を探し、他の人間よりも小さな一人の少女へと向けられ止まった。
「……お前、本気で言ってんのか?」
自分よりも圧倒的に強い存在から向けられる殺意。
今までに感じたことのないその感覚に、ブワッと嫌な汗が浮かぶ。
あの日の祖父も恐かった。だが、殺意を向けられてはいなかった。
殺意とは、これ程までに恐怖を与えるのか。
「……っ」
答えようとして、口が震えているのに気づいたメルは、自分を情けなく思うと同時に悔しかった。
たった一人の魔族に殺気を当てられただけで動けなくなり話せなくなる自分が、なんとも弱い存在思えたからだ。
祖父に成長した自分を見せようとしていたのに、これでは何も変わっていない。
ジッと此方を見つめてくる魔族へと答えることができなくなっていた。
今、この場で赤い魔族の男に殺気を向けられてメルの様にならない者はいない。
むしろメルは、気絶などをしなかっただけマシな部類に入るのだ。
だが、そんな事はメルには関係がなかった。
今この瞬間、強くなって成長していると思っていた自分の自信が折られようとしている事が何よりも問題なのだから。
大好きな祖父へと再会するために強くなれるよう頑張ったというのに、これでは会わせる顔が無くなってしまう。
自分へと科した条件を達成できず、祖父に再会することも出来ずに死んでしまう。
(それは、嫌だ……!)
パンッと頰を叩き、頭を振る。
こんな暗い気持ちでいたら奇跡的に勝てる可能性があっても勝てなくなってしまう。
突然の人間の行動に、少しだけ驚いた表情をする魔族の男。
今まで狩ってきた人間の中に、殺意を当てられた後に動けるようになった者はいない。
人間とは実に弱く、脆い生き物なのだと思っていた。
自分のような魔族に殺意を向けられて尚立ち向かって来るのは、伝説に聞く勇者や王都にいる手練の騎士程度だと思っていた。
だから、ここまで立ち向かって来た人間には殺意を向けず、恐怖を必要以上与えないようにしてきた。
でないと、少しも楽しめないと思っていたから。
だが、どうだ。
今目の前にいる一人の小さな人間は。
叩いたことで赤くなった頰を携え、殺気を当てた自分を睨みつけてくる。
輝く瞳には、恐怖の色が少しばかり見えてはいるが、立ち向かう意思もハッキリと見せている。
自然と魔族の顔に笑みが浮かぶ。
「お前、良いなぁ。……気に入ったぜ! かかってこいよ、人間!」
両手を広げ、無防備な姿を晒す魔族の男。
そんな隙だらけの敵へと、一人の少女は駆け出していった。
◆
「いたた……」
思わず口に出しながら殴られた左目付近を摩る。
確認する方法がないため詳しくは分からないけど、恐らく青く腫れていることだろう。
治るのに大分時間がかかるだろうけど、目立つ部分はここだけだから町で人とすれ違ってもあまり注目はされないはずだ。
まあ、服の下を見られたら注目されまくるだろうけど……。
袖を軽く捲ってみれば、腹を殴られる際に掴まれた手の跡がしっかりと残っている。
骨にヒビが入っているような感じもするけど、どうだろうか。
荒れてしまった森の中で杖を使って立ち上がる。
戦いの行方を気にしていた動物たちが遠くから眺めているので、一瞥して立ち去ろうとする。
このまま此処でゆっくりしていては王都の大会に間に合わなくなる。
ただでさえ遅れそうだったのに戦ったんだから、これは大分急がないと厳しいだろうな。
そんな風に考えながら去ろうとしていた時、1匹の魔物がパタパタと青い魔族へと飛んできた。
耳元へと近づいた魔物は小さな声で報告を始めたようだが、草の揺れる音以外しない静かな森の中では少しの距離なら聞こえてくる。
「……」
知能が低そうなあの魔物は恐らく連絡用の奴なんだろうが、もう少し考えることができる奴を連絡用には使った方がいいだろうな。
今、聞こえた内容はちょっとばかし重要過ぎる。
「お前さんたち、ちと悪いがコイツを森の外にでも放っといてくれ」
脚に力を込めながら近づいてきた動物たちへと頼みごとをする。
俺が持っていってもいいが、その場合、町の方角へと持っていくことになるからなぁ。
バッグを背負い直し急ぐ準備を整えていた俺の耳に、動物たちの小さな声が聞こえてくる。
多分、俺が小声で言ったからそれを真似したんだろうけど別に大声でも良かったのに。
町の方角を定めて動物たちに別れの言葉をかける。
「それじゃあ、よろしくのう」
なるべく森を破壊しないよう気をつけながら立ち去る。
戦場となった森の中に、白目を剥いた青い魔族の男を残しながら―――。
◆
「面白くなさそうな町だと思ってたんだが、お前みたいな上物がいてくれて助かったぜ。褒めてやるよ」
赤い模様が身体中に浮かび上がった魔族が笑いながら語りかける。
その視線の先には半壊している町の壁と倒れた兵士や冒険者たち。
そして、他の者よりも倍以上ボロボロのメルの姿があった。
持っていたはずの片手剣は中程から折れて持ち手も地面へと落ち、右腕は折られたりしたのかダランと力なく垂れており、頭から左目を覆うほどの出血、息も荒い。
正しく、なぜ意識を保ち立っていられるのか不思議に思えるほどの虫の息だった。
「はぁ……はぁ……。嬉しく、ない……!」
キッと片目しか開けない右目で魔族を睨む。
なんとか利き腕を犠牲にしながら奥の手である魔法を使って魔族を追い詰めはしたものの、噂に聞く真魔人化によって異常に強くなった魔族によって遊ばれていたメルは、大会へと招待した祖父の事を考えながら悔しさで歯を食いしばっていた。
(折角、おじいちゃんと会えると思っていたのに。困った顔をしたおじいちゃんの手を私が引っ張って王都を案内して、沢山お話をして、久しぶりに一緒にご飯を食べて、一緒のベッドで寝て……。それも出来ないのかぁ……。悔しいなぁ……。)
ポロポロと流れ落ちて行く涙を拭う事もせず、ただひたすらにその元凶たる魔族を睨みつける。
そのメルの表情すら面白いと思うようにより一層笑みを深くする魔族。
すると、幼い少女以外に動ける者が誰一人いないそんな戦場へと一匹の魔物が飛んできて、笑っている魔族へと近づいていった。
そして、魔族の耳元へと行くと何事か話しかける。
「……へえ。他のところも大半が順調に潰せたか。だったら俺もそろそろ戻った方が良さそうだな」
そう言って、拳を握りしめる魔族は、町の防壁を破壊した時同様握りしめた拳を打ち出すような構えを取る。
腕の模様は爛々と輝き始め、その拳に力が込められていくのが嫌でも分かる。
狙いはメルを中心として後ろに倒れている冒険者や兵士たち。
町の人たちは今後の労働力にでも使うつもりなんだろう。もしかしたら力が強すぎて何人かついでに殺してしまうかも知れないが、そんな細かいところまでこの魔族が考えているわけもない。
メルは、そこまで考えて涙を拭き取った。
此処で死んでしまうのなら、その最期の瞬間くらいあの大好きな祖父の孫として誇りを持って死のうと決意し、魔族のこれからの攻撃を迎え撃つように胸を張って立つ。
その一人の人間の堂々とした姿を見た魔族は、笑みを崩さずに呟く。
「名も知らねえ人間、お前は本当に面白れえ奴だったぜ」
そして、力を込めていた拳を前方へと振り抜いた。
少しでも力のある存在を消すために、今後の活動に支障のある奴らを残しておかないために、そして、自分たちに反逆する意思を持たせないために……その圧倒的な力を誇示するように―――。
「―――ちと、待ってくれんか?」
嗄れた老人の声が戦場に響いた。
◆
赤い魔族の男は、確実に拳を振り抜いたはずだった。
立ち向かってきた私たち人間を何もなかったように消し去るために、逃げることも耐えることもできない私たちへと攻撃をしてきた。
その一撃で私たちは死ぬんだと思っていた。
もう大好きなおじいちゃんに会えないと思っていた。
なのに、なのに何故―――
「……お前、何をした?」
怒りを抑えるようにして静かに問いかける魔族の男。
放った攻撃は天空へと行き先を変え、消し去るはずだったものは全て残っている。
そんな状況に自分のプライドを傷つけられたのだろうか。
拳を握り締め体に浮かんだ模様が更に複雑化していく。
もし、また同じような攻撃が来た時は、さっきの倍以上の威力なのは間違いない。
それを分かっているはずの目の前の人物は、何も恐がるものは無いと言うように平然と立っている。
白い髪に、ボロボロの服、右手に持った杖、見慣れたその姿は忘れるはずがないもので。
もう会えないと思っていた人物。
「おじい、ちゃん……!」
震える声で呼びかける。
もう立てるほどの力は残っていない足は、その役目を耐え消えれずに折れてしまい、地面に膝をついてしまう。
そんな情けない姿の私を振り返って見たおじいちゃんは、近づきそっと頭を撫でてくる。
シワシワの手で傷を刺激しないよう優しく。
「頑張ったのう、よう頑張った」
「……っ!」
再び涙が流れてしまう。
今度は悔しさで流す涙じゃない。
「あとは、おじいちゃんに任せてなぁ」
いつもの優しい笑顔を向けられて思わず意識が飛んでいく。
安堵によって溜まりに溜まった疲れが一気に押し寄せて耐えられなかった。
おじいちゃんを一人にするのはダメだ。
私が意識を失くしたらもうこの場に戦える人は誰ひとり居なくなる。
誰も、おじいちゃんを守れなくなっちゃう。
「ゆっくりお休み、メル」
目の前が真っ暗になる直前に見えたのは、無視されてキレた魔族の男が殴りかかる姿と、それを右手に持った杖で受け流しているおじいちゃんの光景だった。
◆
王国全土を対象とした武闘大会の予選期間を狙って行われた魔族による強襲。
大会で戦い疲弊した選手たちにとって万全な状態の魔族たちは、通常の倍以上の驚異を持っていた。
襲われた町は合わせて十以上。
その内、魔族を斃したのはたった二つ。
一つは、武闘大会の存在を知らずに只の観光目的で訪れていた後の勇者がいた町。
聖女と呼ばれるようになる少女と共に現れた魔族を斃し、すぐさまその名を王国全土に知らしめた。
そしてもう一つ、延期になった武闘大会で後に優勝する少女が予選を受けた町。
防壁が半壊し、戦える冒険者や兵士が全員動けなくなった戦場で、たった一人少女が戦った場所。
戦いが終わり目を覚ました者たちが見たのは、斃された魔族と居なくなった少女の姿。
魔族が斃される最期の瞬間を見た者はいない。
だが、まことしやかに流れる噂が一つだけある。
『一人の老人が真魔人化して強くなった魔族を斃した』
信じる者は少ないその噂。
その場で戦った武闘大会を優勝した少女に聞いてもそれに関する事は何も答えない。
いつも苦笑いで返されるだけだ。
だが、それでもしつこく聞かれた際にたった一言だけ答えた。
「魔人を斃すお年寄りも何処かにはいるんじゃないかって私は思うなぁ」
どこか嬉しそうに、誇らしげに答えた彼女の真意を知る者はいない。
―――そして、勇者が魔族に人間を強襲させた魔王を斃すまでの数年間。
人知れず魔物や魔族に襲われる村や町を守っていた一人の老人の存在を、勇者たちは知らない。