たったそれだけのことが、
「少し、話しをしようか」
フッと息を吐いて、あなたは微笑む。
そのまま、雑踏を離れてシンと冷えた中二階の通路へと私の背をそっと押しながら、あなたはポツポツと語り掛ける。
「あの時さ、後悔に殺されかけてた俺の、俺たち家族の心を、君が救ったんだよ」
思い掛けない言葉に、俯いていた顔を上げて、その横顔を見つめる。
背中にそっと添えられた手の温もりが、急に温度を上げたような気がした。
「妹が、あいつが、急にいなくなって。俺は、両親は、あのままだったらどうなってたんだろうって、今でも思うんだよ。あの時、君がいなかったら。確実に家族の誰かが欠けてた気がする」
「そんな、こと……」
「うん。小さなきっかけだったとは思う。だけど、あの時の俺は、悲しんでいいってことすら分からなかったから。たったそれだけのことが、酷く難しくて……大人になると、感情を抑えて殺すことばっかり上手くなって、困るよね」
ふふふっと、小さく笑いを漏らしたあなたの目は、相変わらず遠くを見つめていて。
いつの間にかたどり着いていた運河に面した通路の向こうに広がる、黒く揺らめく水面のように静かだった。
「だからさ。無理に笑わなくて良いし、泣きたければ泣けば良い。俺は、欲しいものは自分で手に入れる主義だからさ」
ああ、なんて気障なんだろう。
最高に気障ったらしくて、狙っているとしか思えない台詞に、漫画とかドラマとか小説とかで目にしたり耳にしたりしたら、一笑に付す自信がある、そんな言葉。
だけど、なんでこんなに心に染みるんだろう。
「気障ですね」
思わず憎まれ口を叩いて、誤魔化すように目元を強く擦る。
擦った後で、化粧が縒れてしまったことに気付いて慌てる。
そんな私の様子を、いつの間にか微笑ましく見守っているあなたと目が合って耳まで赤くなった。
夜の闇の中で良かったと思うぐらい、頰が熱い。
「あはは。やっぱりそう思う?」
大きく口を開けて、顔をくしゃくしゃにして豪快に笑ったあなたの表情に、ほんの一瞬苦味が過ぎる。
「あいつにも言われたなぁ。カッコつけ過ぎだって」
続けられた言葉に、その理由を知る。
思わず、手を伸ばした。
吹き抜ける冷たい風に冷えてしまった頰に、そっと触れる。
フレームの向こうの瞳が驚きに見張られて、とろりと優しい色に融ける。
「だけど、悪くないです。……私のためになら、悪くないです」
ちょっと、結構本気でときめいたとか、そういうことは言えない仕様でごめんなさい。
いつか、強がらずに素直に言えるようになったら良いなとは思っているのだけれどね。
「……参ったな」
指先を、吐息と一緒に言葉が滑り落ちていく。
その温もりに、その感触に湧き上がる感情に何と名前を付ければいいのだろう。
私はいつも、この人と一緒にいると知らない感情に振り回されてばかりいる。
言葉数だけは無駄に知っている頭でっかちの私の感情は、言葉に出来ないものばかりで困る。
本当に、困る。
困るのに、これ以上ないほどじわじわと染み込む暖かさは何だろう。
ああ。
やっぱり、この人といると困ることばかりだ。
きっと、私はもうこの手を笑顔で離してあっさり背を向けることなんてどれだけ虚勢を張ったって無理だと思う。
きっと多分、間違いなく無理だ。
「夕飯、どうでも良くなりそう。いや、腹減ってるけど。でもどうでも良い」
モソモソと口の中で何かを呟いているその言葉を裏切るように、お腹から盛大な抗議音が響く。
「あー。もうちょっと、こう、だな」
髪の毛を掻き回して、苛立たしげに自分の腹時計に文句を言うあまりにも情けない姿に、思わず笑いがこぼれる。
何でだろう。
とても格好悪い姿なのに、それすらも愛しいと思う。
手を伸ばして、無防備に抱きついてしまいたくなって我に返る。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。
その距離感は、適切じゃない。
動き始めた感情に、慌ててブレーキを掛けて踏み止まる。
これだから、恋なんて嫌いだ。
感情があふれて止まらななくなって、その感情は真っ直ぐに相手へと向かうから。
私は、私の感情があなたへと傾いていくことさえ止められないから。
受け止めてもらえなければ、立ち竦むしかないような感情の濁流に飲まれて私は自分自身をいつだって見失ってしまうから。
だから、誰かに情を傾けることは苦手だ。
失うことを恐れて、絶えず必死に距離を測って疲れ切っていく自分にさえ気づけずに、我に返った時には関係をぶち壊してしまっているから。
私は、結局のところ石橋をハンマーで叩き壊す感じの阿呆なんだろう。
私はまだ、相手を傷つけない適切な距離が取れているから、今ならまだ間に合うと心の奥で冷静な私が囁く。
これ以上踏み込めば、相手を試して、傷つけて、それでも納得出来なくて関係を壊したくなるよ、と。
「優さん? もしもーし。また何か、小難しいこと考えてるんでしょ?」
いつの間にかぼんやりと自分の思考に浸かってしまった私の顔を、全て見透かしたように原嶋さんが覗き込む、その距離に息を飲む。
ほんの少し、体を傾ければ触れ合うほど近く。
じっと見つめる目の、虹彩まで見えそうでドギマギする。
「大丈夫だよ。俺は、君が思っているほど綺麗な人間じゃないから、今だって必死にしがみついてるし。あ、説明しづらいからこれ以上訊かないで。うん、でもま、腹が減っている以上に、自分でも引くぐらいには飢えてて必死すぎて笑える感じだし」
「えぇ?」
「何でもないよ」
ニッコリと、不自然なぐらい良い笑顔で誤魔化して来る原嶋さんに、口を強く引き結ぶ。
「ふふふ、不満顔も可愛い」
ご、誤魔化されてなんかあげないんだからね!って、早くも決心が揺らぐ私に思わず苦笑する。
だって、理性を揺さぶりに来るとかこれは完全に精神攻撃の域だと思うんですよ、奥サマ!
あーもう、何だかな!
「お腹、すきました。思いっきり食べたい気分です」
思わず、唇が尖るのは不可抗力っていうやつです。
「たっぷり、ガッツリで、お願いします」
私の発言に、原嶋さんがそっと体勢を戻して、口元を覆う。
ん? 私、何か変なこと言った?
「ごめ、俺、もう、なんかもう、うん。駄目かも、駄目だな。うん、ホント駄目」
切なげなため息をつく、その頰が赤い。
ひくひくと動く喉仏の動きを追うともなしに目で追っていれば、ふと視線が絡む。
たったそれだけのことが、私の思考能力を奪う。
視線に熱を感じることがあるなんて、思ってもみなかった。
「ああ、もうガッツリいきたい!」
フイッと視線が逸らされて絞り出された言葉に、首を傾げる。
いや、ねぇ。私だって腹ペコだけどさ。
そんなにお腹空かしてるのかなって、ちょっと可笑しくなっちゃったのは、悪くないと思うんだ。
主人公は、超弩級の鈍さを誇ります(笑)。




