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そのキャンドルは本物ですか?  作者: 深海聡


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愛ってそういうものなんでしょうか。

「やー、流石にちょっとは驚いたんだよ?」


 携帯の向こう側で、柔らかな低音が楽しげに震えている。

 驚いたと口にする割に、全くもって余裕たっぷりな話しっぷりに自然と肩の力が抜ける。

 乾いて冷え切った心に、その声が、染み渡る。

 手を伸ばして触れたくなるような温かな感情が乗せられた声に、体が息の仕方を思い出す。

 私は、それでもまだ、この心地良さに慣れてしまうことが怖い。


「お母さんと仲、良いんだね」


「どうなんでしょう? 遠慮がない分、距離は近いと思いますけど」


 何となく敬語で話してしまう自分に気付いて、背中を丸める。

 距離感が分からない。

 自分で引いて来た線が邪魔になって、それを踏み越えられない。

 御都合主義の小説の主人公のように、誰の懐にでも捨て身で飛び込める無謀さなんて、とっくになくしてしまったから、自然体で会話をすることすら緊張し過ぎて口から心臓が出そう。


「ああ、もう駄目だ。携帯じゃ表情分かんないし、もどかしいんだけど、これ」


 たっぷりとした沈黙の後、苛立った声に丸まった背筋が思わずピンと伸びる。

 呟かれた内容に、目が丸くなる。

 今、同じことを思った。


「だったら、明日、会いませんか?」


「んん、実に嬉しいんだけど、そうは問屋が卸さない。業者の作業待ちだったのを明日対応に回して今日早帰りしたから、仕事溜まっちゃったんだよね。あー」


 思わずこぼれ落ちた言葉が、残念そうに断られるのを、ぼんやりと聞く。

 それもそうかと、常に忙しそうな仕事ぶりを思い浮かべて納得する。

 当然だったはずの感覚が、遠くなっている。

 いつでも締めと依頼に追われていた日々が、私にとっては過去でしかない。

 原嶋さんが今いる場所は私にとっての過去なんだと、不意に衝撃を受けた。


「……どうしたの?」


「いいえ、何でも」


「ないって感じじゃないことぐらいは、電話越しでも分かるよ」


 下手に隠すと余計にドツボなんだろうってことぐらいは、良い加減鈍い私にも分かった。

 なんていうか、声が半音ぐらい低い。

 絶対音感なんてないから、かなりざっくり感覚的な印象でしかないけど、いつもより心持ち低い。


「大したことじゃないんですよ?」


「うん」


「大したことじゃないんですけど、私はもう、原嶋さんの職場にはいない人間なんだなって思って」


 本当に、今更だけど。

 自分で望んで、自分から逃げ出した場所なのに。

 それなのに、明日、その場にいないことが少しだけ切ないと思う自分がいる。


「……よし、借りを返してもらうリストを活用しよう」


 勝手に寂しくなって沈んでしまった私の耳に、微かな呟きが届く。

 え、何それ。そんなもの作ってるの、この人。

 センチメンタルな気分が足早に立ち去り、毎度お馴染み現実逃避さんがコンニチハー。


「予定、何としても空けるから」


「や、仕事に穴開けるほどのことは」


「大丈夫、対策はバッチリだから」


 んー。なんか、今、不穏な気配が。

 主に川原さんに危機が訪れる気がするのは、多分気のせいじゃないよね。

 だっていつも連んでたし、いつも一方的に原嶋さんが世話焼いている光景しか見たことがないし、女豹様は別部署だし。

 なんか、申し訳ないとしか言いようがないけれど、それでも、それでも、それでも。


「嬉しい、です」


 忙しい原嶋さんの、わざわざ作り出した時間を独占することが、嬉しくてたまらない。

 もう、顔面崩れる勢いで。

 私多分、今間違いなく変顔してるって自信持って言える。

 この期に及んで気になるポイントがそことか、ホントごめんなさい。


「あ、うん。……うん。ホント頑張るから。絶対俺、頑張るから。意地でも定時で上がるから」


 なぜか勢い込んで、前のめりな感じで畳み掛けてくる原嶋さんに、驚き過ぎて言葉が継げなくなる。


「ごめん。なんか、変な勢いついた。……良い加減、俺も浮かれてんな。カッコ悪」


「そ、んなこと!……ない、です」


 単純な言葉が、緊張し過ぎて上手く出て来ない自分に、恥ずかし過ぎて色々と埋まりそう。

 良い歳して乙女過ぎて、有り得ないし!

 とか、ツッコミを入れてみても熱くなった体温が全く下がらない。

 どうしよう。本気で喉乾いてきたんだけど。

 あああ、沈黙しちゃった。どうしよう、どうしようか、これ。


「クッははっ! 焦ってるの、全部声に出てるよ? 相変わらず、面白いよね。うん、時間と場所決めないとね」


「オソレイリマス」


「笑ってごめんね。だけど、ホント良い。ホントにツボに入りまくり」


 笑いながら早口で喋っていた原嶋さんの言葉が、ふと途切れる。


「ちゃんと言っておかないと伝わらないと思うから、もう一度言っておくけど」


 言葉を噛み締めるような間に、息を詰めて聞き入る。


「俺が好きなのは、坂上さん、君だから。……出来るだけでいいけど。俺の気持ちを、信じていて」


 私の弱い心が揺らいでいるのを見透かされたような言葉に、息を呑む。

 さっきよりもわずかに深くなる声が、心にじわじわと染みて来る。


「必ず、証明してみせるから」


 懇願するような口調に、挑戦的な響きが重ねられる。

 グッと力強く、心を引っ張られたような気がした。


「私は、手強いそうですよ」


 いつか誰かに何気なく投げ掛けられた、私の心に刺さったままの言葉を声に乗せる。


「それは楽しみだね。俄然闘志が湧いて来たよ」


 強気に笑い飛ばされる予想外の展開に再び絶句した私に構わず、原嶋さんは言葉を重ねる。


「坂上さんのお母さん、俺は好きだよ。坂上さんに良く似て、ちょっとばかり娘への愛情が空回っている感じとか、心配し過ぎて時々暴走する感じとか。きっと、もっと頼って欲しいと思ってる」


「でも、もう歳に不足はないし。いつまでも親に甘えている訳には」


「そんなの、大切な人には頼られたいよ。うちの親も分かりづらいところあるけどさ、そこにいれば助けてやりたいと思うのが親心らしいよ」


 そこにいれば。

 たったそれだけの言葉に込められた思いに、胸を刺される。

 心臓がチクチクするような、痛み。


「愛ってそういうものなんでしょうか。……よく、分かりません」


「あー、偉そうに語ったけど今のなし。恥ずかしいから、なしってことで」


 語った内容に盛大に恥ずかしがる原嶋さんに、思わず笑いが溢れる。


「明日、横浜駅に六時半。夕飯、食べよう。……一緒に」


 まださっきまでの恥ずかしさを引きずっているらしい原嶋さんの、少し早口な明日の予定の説明に、私は自然と笑みを浮かべた。


「はい。中央コンコースの崎陽軒の売店前で良いですか?」


「あのガス灯立ってるところだよね。うん、分かった」


「はい。では、おやすみなさい」


「……おやすみ」


 体が羽になったように、ふわふわと落ち着かない。

 明日予定がある。

 そのことがこんなにも心弾むことだということを、私はずっと長いこと忘れていたような気がする。

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