え、あ、スミマセン。
誰もいない薄暗いエントランスを抜けて、エレベーターで上がればアクリルの壁で仕切られた扉があった。
すぐに分かると言われたとおり、迷いもせずに辿り着いたそこに入ることを私は躊躇した。
何となく、言葉では説明できないけれど、正直に言えば今すぐ帰りたいと本能が警告を発しているといったところ。
中二病だと言われかねないが、昔っからこうなのだ。
人が多い場所は、色々な人が発している嫌な気配に満ちていて落ち着かない。
そして、この事務所はヤバイと私の感覚が全力で警告を発している。
そう。ドアノブに手を掛けることを躊躇するほど、澱んだ空気を感じる。
入りたくない、帰りたい。
震える足と手を叱咤して、私はドアを開けた。
エントランス部分が薄暗い上に中が見えないとか、正直それだけで帰りたいぐらい怖い。
親の紹介じゃなければソッコー帰るの決めたのにと、ひたすら泣きたい気分を我慢する。
恐る恐る入室しても、誰ひとり声を掛けて来ない。
想定外のことに、冷え切った手足から更に血の気が引く。
帰りたい帰りたい帰りたい。
心の中で連呼する言葉を表情に出さないように必死に飲み下しながら、私はなるべく手近な机に座っている人に声を掛けた。
「あの、事務所長さんとのお約束で参りました、坂上と申します」
なるべく自然に見えるような笑顔を必死で作るが、刺さって来る視線のせいで既にハリネズミな気分だ。
理由が分からない妙な敵愾心が6割、好奇心が3割、同情心っぽい視線が1割。
既に心の中は情けなくも涙でべしょべしょだ。
突然呼び出された上に、こんな手厚い歓迎を受けるなんて聞いてない!
私は本気で泣きたくなった。
「えっ、あっ、事務所長とですか?」
長いロングヘア―が綺麗な、すらりと細身の女子が慌て立ち上がり、奥へと消えていく。
偉そうなおじさんの机に小走りに寄って行って、必死に何かを訴えている。
この距離で内容が聞こえないのは素晴らしいが、出来れば私を指差さないでくれないかと思うのは贅沢なのだろうか。
「すみませんお客様。受付はあちらなので、あちらにどうぞ」
目の前から飛んで来た言葉に、相手を確認もせずに慌てて指示された方を見る。
確かに冷静になってよく見れば、受付らしき場所は、入り口から向かって左側の方に入ったところらしい。
総務の立て札があり、担当者らしき人が手招きしている。
私もう、泣いて良いかな?
目の前にカウンターがあれば、そこに向かうよね?
約束した時間に来たのに丸無視対応されるとか、どういうドッキリなの? 普通に困惑するよね?
それを非常識みたいに言われたらさ、帰っていいと思うんだよ。
っていうか普通の面接だったら帰っていい案件だよね。
ところがどっこい、これがしがらみっていうものの悲しさよ。
嫌なことがあっても、私の行動の影響を考えて我慢せざるを得ないっていう。
「あ、すみません。今来客中なので、えっと、会議室でお願いします」
ん?
時間指定だったよね?
なんで来客?
混乱する私を有無を言わさずに会議室に案内し、適当な席を勧めて去っていく、これまた若くて細くて可憐な女子に辛うじて笑みを浮かべて礼を述べる私。
たぶん、恋愛シミュレーションゲームだったら礼節の項目はカンストしてるんじゃないかと自分でも思った。
社会人スキル万歳!
スマイルは無料だし、御礼を言うのは息を吐くのと同じ行為だよね、知ってる!!
私の無料スマイルに、可憐女子は僅かに申し訳なさそうな笑みを浮かべてくれた。
あああ、本日初の癒しキター!!!
可愛いと同じぐらい、可憐も正義です!
涙でべしょべしょだった私のチキンハートが、ちょっとだけ復活の兆し。
だが、しかし。
目の前に出されたお茶が冷めても、なぜか放置されているナウ。
チラリと手元の時計を見る。
15分経過。
お茶がもったいないから、飲もう。
可もなく不可もない、急須で淹れたお茶。茶葉は多分安物。
わざわざお茶を出すというこだわりがあるのに、茶葉にはこだわらないなんて却って今時珍しいと思った私は、この時気付くべきだった。
でも、これまで数々の感覚の不一致を見て見ぬふりをしたのには、理由があった。
「本当に紹介してくれるのかなぁ」
持て余した暇を埋めるように何度も見直しした履歴書と職務経歴書の入った封筒を撫でながら、私はそっとため息をついた。
父曰く、今日来ている事務所は所在地的に遠いので、ここの事務所長さんが伝手で家に近い他の事務所の求人を探してくれるという話しだったのだ。
のほほんと、世の中の全てを信じ切ったような、人の良さを凝縮したような表情の父の顔が浮かぶ。
父の説明を聞いた母の、この世の深淵を見つめる哲学者のような、不審と猜疑に満ちた表情が思い出される。
途端にキリキリ痛み始める胃を、さする。
話が上手すぎると思うのだ。
そこまでしてくれる相手のメリットが、見えない。
そして、約束してきたにもかかわらずこの放置っぷりだ。
原嶋さんの懸念が、より一層現実味を帯びて来る。
「失礼します~」
ノックの音とともに、さっきの可憐女子とは別のちょっと年嵩の可愛い風女子が入って来る。
お盆に載せられた物体の放つ匂いに、思わず眉が下がる。
コーヒーの匂い。
実は何を隠そう、私はバリバリの紅茶党でインスタントコーヒーを飲むぐらいなら白湯の方がマシだと思うレベルでコーヒーが好きではない。
だから、有無を言わさず出されたものが緑茶で良かったと内心思っていたのに。
Oh my gosh!
心の中でオワタ―って大合唱している声が聞こえる気がするのは、気のせいじゃないと思う。
これは、罰ゲームなんだろうか。
それとも、カミハノリコエラレナイシレンハオアタエニナリマセンっていう、有難い聖句の具現化か何かなんだろうか。
私、試されてるの?
「え、あ、スミマセン。そのままでダイジョウブです」
思わず条件反射で立ち上がった、面接中モードの私にコーヒーを持ってきた女性が挙動不審になり、カタコトっぽい発音になって動揺のあまりコーヒーをこぼす。
だが、問題ない。書類はすでに避難済みだ。
慌てた様子でバタバタと出ていった彼女が、手に台拭きを持って戻ってきて、こぼしたコーヒーを覚束ない手つきで拭く。
台拭きが絞れていないせいで、惨状が拡大したような気がするのは気のせいだと思いたい。
思わず相手のことを至近距離でじっと見てしまい、私よりも少しばかり年嵩なのではないかと気付いた私は、妙に凪いだ気分になった。
今なら釈尊の教えを理解できる気がする。
つまり、悟りの境地に到達できそうな気がするんだよ、僕はもうだめだパトラッシュ。
口から出ていったエクトプラズマを誰か回収してくれないか?
「ダイジョウブデスヨー。オキニナサラナイデクダサイ」
こちらまでカタコトになった気分で中身のない言葉を並べながら、やたらと恐縮している体の彼女を見送る。
そして私は、すかさずポケットティッシュで相変わらずベチャベチャな机を拭いた。
流石に、書類に染みが出来るのは回避したいところである。
思わず息をついて、その流れで義務的にコーヒーに口をつける。
「んぐっ」
ひと口飲んで、私は口をつけたことを全力で後悔した。
思わずカップを覗き込んで、中身の色を見る。
紅茶のような、澄んで綺麗な薄茶色。
わぁー! カップの底の模様がくっきり透けてるよー!!
手にカップを持ち、思わず呆然と有り得ない薄さのインスタントコーヒーを凝視すること10秒。
何とか気持ちを立て直した私は、添えられていたクリームと砂糖を全て投入し、その謎の液体を何とか流し込むことに成功した。
出された飲み物を残すことはマナーに反するという、どこかで読んだビジネスマナーのフレーズがひたすらエンドレス再生されるも、あまりの不味さにさしもの私も表情が維持しきれずに涙目になる。
今まで自分自身が嗜好品についてこだわりが強いと思ったことなどなかったけれど、それは間違いだったのかもしれないと空になったカップを見つめる。
放置され始めて30分。
私は、自分に向けられた悪意について真剣に検討すべきか、少しだけ真面目に、考え始めていた。




