五十一話 ディストピア
「……クアニム君?」
アムア先輩の囁き声に従い、僕は視線を向けた。
ソンギ・クアニム先輩の顔は知ってる。奴隷売買の話を聞いたから、外見は確認してあったんだ。
僕の知る美少年、クアニム先輩は、殺人鬼に近付こうとしてる。
既に他の人が取り押さえてるのに、なんで今さら?
嫌な予感がする。偶然とは思えない。
「アムア先輩、ちょっと離してください」
「ダ、ダメだよ! 何するつもり!?」
僕が怪我をしてるから、心配してくれてるのか。
ありがたいけど、今は困る。クアニム先輩は、殺人鬼のすぐ傍にいるのに。
危ないのはクアニム先輩じゃなくて、殺人鬼方だ。
アムア先輩を振りほどいて、僕はクアニム先輩に向かって駆け出す。
背中はめちゃくちゃ痛い。傷は見えなくても、血があふれ出てるのが分かる。
できれば大人しくしてたいところだけど、そうも言ってられない。
僕が急に走り出したから、周囲の人も何事かと見てくる。
そして、クアニム先輩も。
ぎょっとした顔になったクアニム先輩は、短剣を取り出して僕に投げつけた。
投擲用の武器じゃないから、命中はしない。
武器を持ってたってことは、やっぱりか。
クアニム先輩は、殺人鬼を殺そうとしたんだろう。口封じのために。
軽率な行動に思えるけど、学校の同級生を守ろうとしたとか理由をつけるつもりだったのかな。殺人鬼相手なら、罪にも問われないってね。
まあ、捕まえて話を聞けばいい。
「そこの少年を捕まえてください!」
怪我をしてる僕じゃ、クアニム先輩には追いつけない。
他の人に捕まえてもらおうとしたけど、クアニム先輩はもう一本の短剣を取り出して、振り回してる。
「どけぇっ!」
恐慌状態に陥ったように暴れるクアニム先輩には、危なっかしくて近寄れない。
誰も捕まえられず、逃がしてしまった。大失態だ。
もう少し、冷静に立ち回るべきだったか。
できもしないのに、僕が出しゃばらなければ。
いや、反省は後回し。クアニム先輩をなんとかするのが先決だ。
騎士の人に事情を説明して……その前にシロツメかな。
「グ、グレンガー君……もしかして、クアニム君が?」
「詳しくは分かりませんけど、殺人鬼と関係があるんでしょうね。伝え……」
アムア先輩との話の途中で、目の前の景色が歪んだ。
立っていられなくなって、尻餅をつく。
「グレンガー君、死んじゃヤだ! しっかりして」
死にませんよ。
って言って安心させようとしたけど。
声になったかどうか、定かじゃない。
傷が思ったよりも深いのかな。そろそろ限界だ。
この光景を見るのは二度目だ。
前回見たのは、レッド君との試合の最中だっけ。
楽園のように美しい場所。色とりどりの花々が咲き乱れ、小鳥が歌い、小動物が戯れる。
前回は、ここで地獄へと変質した。
今回は違う。楽園は楽園のままで、美しさを保ってる。
だけど、よくよく見れば。
これは本当に、楽園なの?
美しいのは間違いない。見渡す限り、どこもかしこも平和そのものだ。
人間も住んでて、みんな笑顔。
彼ら彼女らは、機械的に同じセリフを口にする。
「絶対的な平和だ」と。
争いはない。痛みも苦しみもない。平等で秩序が保たれた社会だ。
ただ、自由がない。できるのは、絶対神を信じることだけ。
序列二位。誇り高き絶対神、ツァイ・カテネンジャ・グランドナ。
絶対神を信じ、敬い、称賛の言葉を紡ぎ続ける。
ここは、絶対神の創り出した箱庭の世界。
絶対神を信じる者のみが生を許されるディストピア。
否定は許されない。絶対神は絶対だから。
疑問は許されない。絶対神は絶対だから。
拒否も拒絶も許されない。絶対神は絶対だから。
許されるのは称賛のみ。
上辺だけの狂った幸福を、哀れに思った神がいる。
序列一位。
慈悲深き破壊神。
イリ・ナレタ・ボダズナトズ。
僕が目を覚ましたのは、皇都にある診療所だった。
「グレンガー君! 目が覚めた!? 生きてるよね!?」
「……生きてますって」
「よ、よかった……」
僕が倒れた後、アムア先輩は大騒ぎしたらしい。「グレンガー君が死んじゃう!」って。
死にません………なんて言っても説得力皆無か。
急いでお医者様のところまで運ばれて、応急処置を。
意識を取り戻せば、涙や鼻水で顔面をぐちゃぐちゃにしてるアムア先輩が、真っ先に目に入った。
可愛い顔が台無しだ。うっすらと化粧もしてるのに、涙で流れちゃってる。
そういえば、アムア先輩の化粧を褒めたっけ?
僕はきっと、混乱してるんだろう。酷く場違いなことを考えて、思いがそのまま口から漏れる。
「アムア先輩、お化粧、似合ってますよ。綺麗です」
「グ……グレンガーぐんのバガぁ……」
バカって酷い。ちゃんと褒めたのに。
なんか、看護師さんが苦笑してる。「若いっていいわね」ってどういう意味?
思考がまとまらない。僕は何をすればいいんだっけ?
ディストピアの光景を夢に見て……
それは関係ないか。えっと……
「ソンギ・クアニム!」
思い出した! クアニム先輩だよ!
あの人を捕まえないといけない!
「アムアせんっ……つう……」
叫ぶと背中が痛む。
油汗を流す僕を見て、アムア先輩はハンカチでふいてくれた。
「うん、分かってる。今は騎士の人たちが探してるみたいだから、大丈夫だよ。グレンガー君は休んでていいの」
「そ、そうなんですね……」
大丈夫ってことなら、お言葉に甘えて休ませてもらう。
「私がずっとついてるからね。こういう時って、心細くなるでしょ。優しい先輩に任せて」
アムア先輩の声が心に染み入る。先輩もびっくりしただろうに、気丈な人だ。
僕の手を握ってくれた。安心感があって、僕は目を閉じる。
「助けてくれて、ありがとう」
まどろみの中でアムア先輩の声が聞こえ。
握ってくれてる手のとは別の、柔らかい感触も。
なんか、チュッって。




