9話 思いがけない遭遇
予告なく長く中断してしまいすみませんでした。更新再開します。
外回りから社に戻る途中信号待ちで停車していると、すぐそこの鉄の柵を押し開け外へ出てくるあの女の姿が目に飛び込んだ。腕に子供を抱えている。
全く予想しない事態に驚いたのか、何故か心臓が強く打ち始める。
門柱には保育園の名が刻まれていた。
車内の時計を確認すると、終業時刻を過ぎていた。
終業後に子供を迎えにきたのだろうか。子供?
誰の子供だ?
一切残業をしないという噂が思い出される。
もちろん遅くまで働く母親もこの世には沢山いるだろうが、小さな子供がいれば帰れるものなら早く帰りたいと考えるのが当然だろう。
しかし飴を俺の手の平に落とした細い指には、指輪などひとつもなかったとはっきり覚えている。
下世話な考えが頭をよぎるが、それよりも女の様子が気にかかった。
抱いて歩くには大きすぎる様な気のする子供の顔を覗き込み、顔や首に手を当てている。
具合が悪いのかも知れない。
取り敢えず助手席側の窓を開け口を開きかけるが、かける言葉に迷い、先に車を寄せた。
自分に近づいてきた車に不審そうな顔を向けた女と目が合う。
目を見開いて驚いた顔をした。
「どうした?具合が悪いのか?」
女は一度開きかけた口を閉じ、首を振る。
子供は女の腕の中でぐったりとしていてピクリともしない。
「車あるのか?ないなら乗れ、病院に行くんだろ?」
俺のことが気に入らず本当のことを言わないのだろうと、普段の刺々しさが出ないよう努めて穏やかに声をかけた。
しかし女は目を揺らして答えない。俺がどうとかではなく、何か気がかりなことがある様子だ。
「どうした?熱があるんだろ?病院は近いのか?連れてってやるから乗れ」
しつこい俺に文句でも言いそうなものだが、女は情けない顔のまま首を振る。
「良いです。ありがとうございます」
何故か敬語に戻っているが、それどころではなさそうだった。
「良いってどうすんだよ?今にも落としそうだろ」
ぐったりとして彼女に掴まることも出来ない子供はさぞ重いだろう。
「急ぎますから。良いんです。ありがとうございました」
会釈した拍子に子供がずり下がり、思わず手が出そうになった。
運転席から手え出してどうすんだよ。
女の遠さと、いつにない情けなさにイライラして車を降り、既に歩き出そうとしていた女の肩を掴んだ。
「急いでんのは分かってるよ。貸せ、お前も乗れほら」
子供を受け取ろうとするが放そうとしない。
「やめて下さい、病院は行きませんから。急いで帰らなきゃいけないから放してください」
「家に帰れば薬でもあるのか」
女が俺を見たまま押し黙った。
もどかしさに溜息を吐きたくなる。
「辛そうだろ。良いのかよ、病院連れて行かなくて」
そう言うと、今まで視線を泳がせ情けない顔をしていた女が俺を睨みつけた。
「だってどうすれば良いんですか!?病院には連れて行きたいけど、帰らなきゃいけないし」
唇を噛む様子はどう見てもいつものこの女の表情ではなかった。
何かに切羽詰って、今の状況を冷静に把握できないでいるのかも知れない。
もう一度努めて静かに穏やかに言い聞かせる。
「分かった、家には絶対に帰らなきゃいけないんだな。誰かにどっちかを頼めないのか?近くに頼れる奴はいるか?」
女が俺の顔をじっと見て、首を振る。
「深江さんか香織先輩は?会社の近くにはいるぞ、多分。ああでもちょっと時間掛かるかもな」
そう言うと慌てた顔をして激しく首を振った。
子供がずり落ちそうになるので下から支えてやると女が子供を抱きなおした。
「何でだよ。お前可愛がられてるだろ。走って来てくれるぞ、絶対」
女がまた首を振った。
「先輩たちに頼めません。こんな、」
必死な顔で首を振る姿を見ていると、色々抱えていっぱいいっぱいになっているのだろうと窺える。
「お前、こんなって、俺には大事に見えるけどな。まあでも深江さん達じゃ時間掛かるな。俺で良いなら子供病院連れてってやる。お前は先に家帰ってろよ」
女が唖然とした顔で俺を見て固まった隙に、女から子供を抱き取った。
子供を取り戻そうと慌てた女の手が俺の腕の中に入ってくる。
「お前も乗れ。家に送ってやるから掛かりつけの場所教えろ。それで病院終わったらお前んちにこの子供連れて行けば良いだろ?とにかくどんどん時間たってるしこのままじゃ子供がきついだろうから乗れ」
そう言って無理矢理子供を後部座席に寝かせ、それにくっついてきた女も押し込んでドアを閉めた。
掛かりつけだと言う病院の場所を言わせると車ですぐの所だった。家も近所らしい。
しかし保育所から歩けば20分ほどはかかるのではないかと思えた。ましてぐったりした子供を抱えてではもっとかかったかも知れない。
そこで、俺が世話を焼かずともタクシーを使うつもりだったのかも知れないと思い当たった。
気付かずしつこくしてしまったことが我ながら恥ずかしい。
「タクシー使うつもりだったか?」
「いいえ、思いつきませんでした」
何故かほっとする。自分の行動が余計な世話じゃないと思えたからか。
「俺が付き添っとくけど、受付だけでも済ませて行けよ。症状はお前から言っといた方が安心だろ。お前、ここから家までは歩いて行けるんだな?」
「はい。弟に連絡して病院に迎えに行かせますから、それまでお願いできますか」
「ああ、分かった。病院で待ってりゃいいんだな?」
後部座席から女が申し訳なさそうに言った。
「お待たせするかも知れませんけど、大丈夫ですか?」
ミラーで確認するとまた情けない顔をしている様だった。
「俺が家まで届けても良いけど。住所聞いときゃナビで行けるし」
「いえ、あの、出来れば病院で待って貰ってた方が、でもお急ぎなら」
「いや別に急いではねえよ。じゃあ病院にいるわ。弟の名前と特徴は?違う奴に渡したら大事だからな」
女が更に情けない顔をしたようだった。