31話 その腕の意味
急に静かになった葉月は、ずるずると俺の腕の中から滑り落ちた。
「葉月?」
咄嗟に腕を掴んで身体を支えると、濡れた瞼を閉じて気を失っている様だった。
「姉ちゃん」
聡が慌ててこっちに向かってくる。
気付くとチビ二人は既に葉月の顔を覗きこんでいた。
泣いている時から葉月の尻にくっついていたのかも知れない。
屈んで抱きかかえた葉月を、深江さんに促されて川瀬さんが見てくれる。
「多分昨日から全く寝てない」
聡が俺に言う。
「そうだろうな」
びしょびしょの葉月の顔を手で拭うが、目を開く気配はない。
「しばらく寝かせて様子見て大丈夫だと思うぞ」
川瀬さんの言葉を受けて、頷いた聡が二階に上がっていった。
「姉ちゃん眠いだけだってよ。お前らあそこに座ってろ。聡がすぐ来るから」
「うん」
「分かった」
心配そうな二人の頭をぽんぽんと叩いてから、ぐったりした葉月を抱えて立ち上がった。
「ちょっと待って」
香織先輩が葉月のシャツの一番上のボタンを外して、肩を撫でた。
近くに香織先輩がいることにも気づいていなかった。葉月のことしか見えていなかったらしい自分に苦い気分になる。
「じゃあ、皆座ってて」
そう言うと、ざわつく俺達を無視し進められている葬儀のことを、皆が思い出した様だった。
「もし起きたら、下は心配しないで寝ててって一応言ってみて。葬儀屋さんに任せとけば良いんだしって」
深江さんがそう言うが、俺も無駄だとは思う。
なんせ大好きな婆ちゃんの葬式だし。
頷いてから、葉月を二階に運んだ。
聡に喪主がいないからお前がかわりに座っとけと、下に降りるよう促した。
「姉ちゃん見ててくれる?」
「分かってる」
頷いた聡は、階段をきしませて急いで降りて行った。
2階は洗濯物だらけだった。いつ干したものなんだろう。
昨日も今日も、こいつは泣くのを我慢しながら洗濯していたのだろうか。
外では雨が降り続け、ベランダのトタン屋根を打つ音が煩く響いていた。
薄い布団の中に収まった葉月は寝に入ったようで、かすかに寝息を立てていた。
顔色は良くないが、寝ていると分かり安心した。
どうして無理するんだろうな。
せめて笑わずに泣いてりゃ良いのに。
こんな青い顔して笑われたところで、弟達も心配するだけだってまだ分からないのか。
やっぱり阿呆だな。
葉月の肌にいつもの艶やかさが無いような気がして、気付くと頬に手を伸ばしていた。
先程まで涙に濡れていた頬に手を添え、親指でそっと撫でる。印象を裏切り、憔悴したこの状況にもかかわらず驚くほど滑らかだった
柔らかく愛おしい感覚から離れがたく、前髪の中に手を入れ丸い額を撫でて、また頬に戻る。
そうして無心に撫で続けていると、不意に葉月の瞼が揺れた。
薄く目が開かれ、俺を捉える。
「気分悪くないか?」
本人に無許可で顔を撫で回していたのも忘れてそう尋ねると、葉月が小さく笑った。
嫌な顔や無表情や作った笑顔を見ずにすみほっとしていると、葉月が口を開き何か言ったようだった。
トタン屋根を打つ雨音が煩くて、葉月の声が聞こえない。
「何」
耳を葉月の口元に近付けようと身体を倒した。
首が固い肌触りの何かに捕まり、加わった重さと共に引き寄せられる。
川瀬さんに巻き付く深江さんの腕が頭をかすめたが、それも一瞬のことだった。
似合いもしない武骨なスーツ姿の女の腕は、生々しい花嫁の素肌に圧勝したようだ。
今は、何故この腕が俺の首に巻き付いているのか、この腕の持ち主がどんな顔をして俺を引き寄せているのか、葉月のその行為だけにとらわれていた。
静かに腕が締めつけられ、頬に柔らかい髪が押し付けられる。
首元で深く息を吐かれ、事態を冷静に把握したいという意識さえどこかにもって行かれそうだ。
下は葬儀中だ。変な気にはならない。だが、どうしてこの腕は今現在俺の首に巻き付いているのだろう。
さっきの下でのあれは理解できる。これまで何度も泣かせたし、俺の顔を見て涙腺が決壊したのだろう。
だが今は、泣いてもいないし落ち着いている。これじゃまるで、葉月が。
「何してんだ」
少し非難めいた口調になってしまったが、その大人げなさが雨音で伝わらなければいい。葉月は婆さんを亡くして苦しんでいる。俺を混乱させるからといってこの程度のことで責めていい時じゃない。
首元で葉月が笑った気がした。
「何だよ」
葉月がわずかに首を振った。
「火葬まで頑張るから、充電してるんです」
充電?
「俺で?」
迂闊に期待しない方が良い。縋る奴が他に居なくて、兄貴替わりの俺に甘えているだけだと、そう思っておいた方が良い。
「藤堂さんにハグされると元気出るから」
声の調子が静かな囁くようなものから明るいそれに変化し、腕が解かれる。俺が身体を起こすのと同時に葉月も半身を起こした。
ふっと息を吐いた葉月が、俺に視線を合せてからにこっと笑う。
「下、もう終わっちゃった?」
「いや、坊さんもまだ居るだろ」
「良かった。戻ります」
「ああ」
立ち上がろうとした葉月の腕と背中を支えてやると、素直に寄りかかってきた。ほんの数秒俺の腕に触れていたその手はあっさりと離され、立ち上がった葉月はさっさと俺に背を向け階段をおりていった。
捕まえて、色々と問いたい。もやもやしたものが胸中渦巻いているが、下では婆さんの葬儀が続いている。
この状態で婆さんの冥福を祈ることに集中できる気もしないが、だからといってここでぼんやりしている訳にも苛立っている訳にもいかないだろう。
すぐに自分も階下に足をむけた。




