30話 この腕の中に
週に一度昼飯に誘い無視される。
たまに社ですれ違うと、笑顔で挨拶をされた。
そんな状態のまま2カ月が経とうとしていた。
俺のせいで、最後に葉月が言った通り、美容師に身体を許してしまったかも知れない。
前の男と寝るくらいなら俺と寝れば良い。
いや、どうでもいい男に簡単に身体を許すような女ではないはずだ。
子供と婆さんを放って、息抜き目的だけの男と寝るような女ではないはずだ。
焦燥や後悔の念に苛まれながら、自分の目を信じろという深江さんの言葉を頼りに、疑念や不安を打消しながら日々を過ごしていた。
葉月の髪が短くはならず、生え際が少しずつ黒くなっていくことが救いだった。
中々明けない梅雨空の下、その日も土砂降りだった。
せっかくの休日にすることもなくベッドに転がっていた。
ここのところひどい雨が続いている。葉月家の洗濯物はどうなっているだろうか。
この雨じゃあのベランダには干せないだろう。家の中に干してるに決まってるな。
性懲りもなく、くだらないことに思いをはせている自分に気付き笑える。
この年になって恋煩いを経験するとは思わなかった。
常に葉月が頭の中に居座り、思考のじゃまをする。
その上同時に胸にも居座っていて、重苦しい痛みがずっと続いている。
考えれば考えるほど胸は重くなり、気を逸らそうにも自分の意志では頭から葉月を追い出すことも出来ない。
そんな状態も大して顔には出ていないようで、深江さん以外の誰かに気付かれることはなかった。
まあ今ではもう、深江さんが俺を気にしてくれていても嬉しいとも虚しいとも思わないな。
情けない事この上ないが、脳も心臓も、すっかり葉月に乗っ取られてしまっているようだ。
最近常に手元に置くようになった携帯が鳴った。
諦めもはいりつつ、一応葉月であることを祈ってからゆっくりと目をやるが、表示は深江さんだった。
深江さんからの着信に溜息が出るほどがっかりするなんて、数か月前には考えられなかった。
朝っぱらからなんだろうな。
「はい」
「ねえ、昨日お婆ちゃんお通夜だったわよ?」
いきなり怪訝そうな声で喋りだした深江さんの言葉がよく理解できなかった。
「え?何」
何て言った?
「ミサちゃんのお婆ちゃん、昨日亡くなったわよ。やっぱり聞いてないの?」
予期しない出来事に、返す言葉が出てこなかった。
「来る人も殆どいないからって、お通夜はミサちゃんの自宅でだったんだけど、あんた来てなかったから」
「は、い。聞いてなかったから。他のやつらも?」
「会社からは私だけよ。上に報告だけして断ったみたい。来てたのは弟達の先生とか、ご近所の人とかだと思うけど、ほんとに身内がいないのね」
「そうですか」
誰も連絡してこなかったな。葉月しか携帯持ってないからしょうがないのか。平日に亡くなっていれば聡が友達の携帯使って連絡してきたのかも知れない。
まあでも、電話なんて番号を覚えていればどうにでもなる。
現にチビ達は公衆電話からかけてきていたし。
皆俺のことを思い出す余裕もないのだろう。
「ちょっと!」
「あ、なんですか?」
「しっかりしてよ。13時からお葬式だから来なさいって言ったの。ミサちゃんもあんたには来てほしいと思うわよ。ミサちゃんが良いって言ってるから、香織達にも声かけるわ」
最近の俺らの様子を見ていて、ミサちゃんが可愛い意地張ってるだけよと笑っていた深江さんは、葉月が俺を受け入れやすいように、他の奴らに声をかけるのだろう。
「分かりました」
深江さんの考えが正しいかどうかはともかく、他の奴らも居れば追い返されることはないだろう。
葉月が嫌がったとしても、無視されるとしても、弟達は俺を喜んで迎えてくれるはずだ。
そう信じていなければ行ける気がしなかった。
おそらく礼服のない聡が着るかも知れないと思い、自分が身に着けている物の他に一揃い黒いスーツを持って部屋を出た。
車中で何を考えていたのか全く覚えていないが、気付けば葉月の家の前まで来ていた。
路上駐車の車が既に何台かあり停められそうにもなく、家の前を通り過ぎ近くのパーキングに車をいれてから深江さんに電話をした。
さっき川瀬さんの車が見えたので、もう家の中にいるはずだ。
「はい」
「そこに聡います?一番上の弟」
「ちょっと待って」
聡に電話が渡った。
「藤堂さん?」
硬い声が聞こえる。
嫌っていたとは言え、身近な人間の死に平然としている様な奴じゃないので当然だろう。
「よお、大丈夫か?」
間があった。
「うん俺は」
「そうか。お前着るものあった?」
「服?制服着てるよ」
「ああ、そうか、そうだな。制服があるんだったな」
「どうしたの?」
「いや何でもない。着るかもと思ってスーツ持ってきたけど、高校生だってこと忘れてたわ」
全く頭の回っていなかったらしい自分が馬鹿らしくて、苦く笑いながらそう言った。
「俺?俺が着るかと思ってってこと?」
「ああ、間違えた」
「いや、すげえ嬉しいよ。卒業したら貸して」
「分かった」
「あ、ちょっと待って」
優しい聡に癒され笑っていると、聡が携帯を誰かに渡した。想像がつく。
「おにいちゃん?どこにいるの?ぼくのおうちくる?」
「蒼汰か。もう近くにいるからすぐ行くよ」
「はーい。すぐくるってー」
誰かに報告している。恐らく隆だろう。
普段通り明るい声をあげる蒼汰は、葬式の意味がまだよく分かっていないのかも知れない。
「そろそろ始まるわよ。お坊さんも座っちゃってる。早く来なさいよ」
深江さんが声を潜めていた。
「葉月はどんなですか?」
「泣いてはいないけど、辛そうよ。笑って弟達の相手してるわ。早く来なさい」
「はい」
雨が降っているというのに玄関の薄い扉は開け放たれて、黒い靴と傘が短い軒先にまでずらりと並んでいた。
廊下の奥は、これまで閉ざされていた婆さんの部屋のドアが開かれていて、室内に入りきらなかったのだろう、立っている竹原と小島さんと川瀬さんが見えた。
今まで真っ暗だった廊下の奥が、あのドア一枚が開いたことでやけに明るく感じられた。
竹原が俺に入って来いと手招きし、室内を指差した。
俺は中にスペースが確保されている様だ。
廊下で良かったんだけどな。溜息のような深呼吸をしながら、狭いたたきでどうにか靴を脱ぐ。
葉月が俺をどんな顔で見るのか、確かめるのが怖い。
拒絶されたら俺は酷い顔をしてしまいそうだ。
婆さんの葬儀なのに、不謹慎なことばかりにとらわれている自分も、葉月に申し訳なかった。
大好きな婆ちゃんが亡くなってしんどいだろう。
そして、婆ちゃんの死にほっとしている自分は悲しむ資格がない等と、また阿呆なことを考えているのではないかと思った。
俺を通すために細い廊下の壁に張り付く3人の前を過ぎ、婆さんの部屋だった場所の入り口に立った。
初めて目にした和室の中は、祭壇と黒い人間と坊さんでぎゅうぎゅう詰めだった。
人は多くはないが、部屋が狭かった。
有ったはずのベッドはなくなり、家財道具も小さなタンスくらいしかなかったが、狭いことには変わりなかった。
正面に坊さんが背を向けていて、向かって右側に姉弟が並んでいた。
蒼汰と隆が俺を見つけ嬉しそうに手を振り、声を出そうとした蒼汰が隆に口を塞がれていた。
聡は俺に会釈してから、口を引き結んだまままた祭壇の方に身体を向けた。
聡の向こうにいる葉月はぼんやりと遺影を見つめていた。
聡がそれに気づき、葉月の腕を突いて俺の方を見るように促した。
余計な事するなよと、情けなくも聡を責めたくなる。
葉月がゆっくりと顔を回した。
俺の顔に視線を留めた葉月は、虚ろな表情のまま、じっと俺を見つめ動かなくなった。
しばし見つめ合うが、何を考えているのか読めない葉月の顔に反応に迷い、結局は緩く口角を上げてしまった。
途端に歪んだ葉月の顔に、今が葬儀中で、笑ってみせる場面ではなかったと気付く。
取り繕う間もなく、葉月が立ち上がった。
俯き加減にぎゅっと唇を結んだまま、聡を足で押しのけ、小さい弟達の頭に手をつき、人と人とのわずかな隙間を縫うように近付いて来る。
少し緩そうな、黒いリクルートスーツを着ている。
形見の品を引っ張りだしてきた様だ。
視線を合せることなく目前まで迫った葉月は、そのまま額で俺の胸にぶつかってきた。
葉月が俺の所に来てくれて、酷く安心した。はっと吐きだしたことで、それまで自分が息を詰めていたことに気付く。
俯いたまま固まって動かない葉月の頭にそっと手の平をのせると、降ろされていた両腕が俺の脇腹を滑り、背中に回された。
ぎゅっと上着を掴まれる感触が、可愛くて堪らなかった。
いつもよりしっとりとした髪をぐしゃぐしゃと撫でてやると、それを合図にしたかのように、葉月は大声をあげて泣き始めた。
突然の葉月の泣き声に一瞬途切れた読経も、何事もなかったように続けられていた。
後ろを振り返っていた弔問客もまた前を向く。
深く息を吐いて、ゆっくり髪を撫でると、泣きながら一層強く抱き付いて来た。
安堵と愛おしさでどうにかなりそうだ。
なあ葉月。お前が泣くのは当然なんだよ。
誰もお前が泣くことを責めたりしない。
婆ちゃんを嫌いだったお前がその死を悲しんでも、可愛い孫だったお前が大好きな婆ちゃんの死にほっとしても、こうやって婆ちゃんの為に泣くお前を責める奴なんてどこにもいないんだよ。
頭を撫でていた手をおろし、今まで泣くのを一生懸命堪えていたのだろう馬鹿な葉月を、未だ俺にしがみついて大声で泣き続ける葉月を、腕の中に抱き締めた。




