21話 確認
ほんの数分だったかも知れないが、葉月は服を通り越して俺の胸を湿らせる程の涙を流していた。
不意にバイブ音が聞こえ、葉月が顔を俺の胸から離した。
じんわり暖かくなっていた腕の中から離れていく物体が惜しいような心地になる。
嗚咽は収まりつつあったが、余韻が時折葉月の体を揺らした。
葉月はポケットの中身を出してバイブを止めると、袖で顔をぐいと拭ってから、俺を見た。
「お婆ちゃん呼んでるみたいだから」
目が腫れ、気まずそうな、嫌そうな顔だった。
「おう。耳栓して行け」
頭をかき回すと、小さい手で掴まれぽいと払われた。
「止めて下さい。ぐちゃぐちゃになっちゃう」
「婆さんに会うだけだろ?」
微妙な顔をして俺を見ていた葉月は、笑う俺から目を逸らした。
「髪の事でも色々言われるんです」
「お?婆さんの愚痴言える様になったな」
自分でもつれさせた髪を梳くように直してやろうとすると、あっという間にドアを開けて逃げて行った。
「じゃ、急ぎますんで。遅いと怒られるし」
「おう。またな。聡に宜しく言っとけよ」
さっさと助手席のドアを閉め走って玄関に飛び込む葉月の後姿を見送り、びしょ濡れにされた胸元を見下ろして息を吐いた。
きったねえな、と普段ならそう感じることは間違いないのに、そうじゃないのはどういうことだろうな。
婆さんの用事が片付いただろうかという時間を見計らって、家に戻る道すがらメールを送った。
『その鳥の巣みたいな頭は何だって言われたか?明日昼飯行くぞ。日をあけると気まずい顔して無視されそうな気がするからな』
かなり時間を置いてから返信があった。
『男と何してたんだアバズレがって言われました。お婆ちゃん結構鋭いです。明日トンカツが良い』
迷いながら頑張って冗談めかしたことが窺える酷い台詞に、実際はこれ以上の事を延々と言われ続けたんだろう、今までこんな暴言にも泣きそうな顔して笑ってたんだろう、と想像してしまい、不覚にも涙が滲みそうになった。
『やっぱり耳栓だな。高性能の高級品買ってやる』
かなり考えたが、くだらない返答しか思いつかなかった。
「昼間はどうしてんだ?」
飯を食い終わるのを待つのは止めた。
完食させるより話しを聞いた方が良いに決まっているからだ。
「ヘルパーさん頼んでます。私も誰にも頼ってない訳じゃないんですよ」
「当たり前だ、阿呆」
葉月が俺を睨みながら急いでトンカツに噛みついている。
「日曜も頼めば子供だけで外出さなくてすむだろ?」
「いつもは聡が蒼汰を外で遊ばせてくれてるんです。昨日は急にバイト入って、ヘルパーさんも都合つかなくて」
「そういう時に、俺か深江さんか香織先輩か竹原か小島さんに電話するんだよ。頼れる奴いっぱいいるだろ、覚えたか?」
子供に言いきかせるようにゆっくりとわざとらしく全員の名前を並べると、睨まれた。
「分かりました」
ふくれっ面だが素直に返事をした。成長したな。
「『緊急!誰か助けて下さい』て書いときゃすぐ何人か集まる。大体暇な奴らばっかりだし」
葉月がトンカツで頬を膨らませたままモグモグと俺を見る。
「でも、とか思ってんだろ。しばらく他人に迷惑かけたって、そう長いことは続かないんだから気にしないで良いんだよ。失礼な物言いだけど婆さんいなくなるまでだろ?それならなるべくお前が余裕持てる様にしろ。婆さんの相手も余裕ないと一層きついだろ?婆さんと弟の為だと思って、周りに迷惑かけるのはお前が嫌でも我慢しろ」
葉月はモグモグと俺の顔を見たままだ。
「いつまで噛んでんだ。だからすぐ腹一杯になるんだよ。飲み込め早く」
呆れてそう言うと、俺を見たままごくんと葉月がのどを鳴らした。
可愛い。
いやいや、ちょっと待て。確かに顔は可愛いけど、トンカツ飲み込むのが可愛いってなんだよ。
「噛まないと飲み込めないじゃん。無茶言わないで下さい」
膨れる葉月を見ながら考えてみる。
可愛いな。膨れてても笑ってても泣いてても可愛い。
俺に名前を呼ばれて赤くなったのも可愛かった。
特に、俺の服を握りしめて抱き付いて泣いてた時は、顔も見えなかったけど可愛かった。
これは。
「どうしたの?」
このタイミングで首を傾げてその口調はない。
「何でもない」
胡散臭そうに俺を見る眉を顰めた顔さえ可愛い葉月が、息を吐いた。
「もう人に迷惑かけちゃいけないとは思ってません。でも、多分本当にもう大丈夫だと思う」
「はあ?またかよ?だからお前は大丈夫じゃないって言ってんだろ。いい加減にしろよ」
呆れ過ぎて腹まで立ってそう言うと、葉月が膨れた。
「だって、ほんとだもん。藤堂さんがお婆ちゃんの悪口笑ってくれたから、何かお婆ちゃんに色々言われるのも前ほど気にならない気がするし」
「お前は悪口なんか言えてねえ。きつい時は絶対に聡に言え。愚痴言えなきゃきつかったって言うだけでも良い。とにかく腹の外には出せよ。また同じことになるからな」
葉月が唇を尖らせながら不服そうに頷いた。
「後な、お前が例え婆さんの暴言を気にしなくなったとしても、チビ達のことで時間が足りないのは変わらないだろ?困った時はどうするんだった?」
そう子供に確認するように問えば、じと目で俺を見上げながら面白くなさそうに呟いた。
「藤堂さんに電話する」
みんなに連絡する、と言う答えを予想していたので一瞬動揺した。
「良し。それで良い。弟達にもそう言っとけよ?特に聡はお前のこと心配するあまり婆さんの首絞めかねないからな?お前阿呆だから何度も言うけど、聡と婆さんの為にも、お前は辛いのを我慢するんじゃないぞ」
「聡にきついって言ったら一層お婆ちゃんに怒っちゃうじゃん」
「きついけど、嫌だけど、婆ちゃんのことは好きなんだって言ってれば良いんだよ。本音だろ?」
葉月が唇を噛んで頷いた。
「聡もお前が自分に弱音吐いてくれて、少しは楽になってるって分かれば安心する。お前が楽になれば聡の怒りも少しは沈まる。分かったか?」
「分かった」
葉月がトンカツの皿を見つめて押し殺したような声で返事をした。
涙を堪えているようにも見える。
「良し。食え」
まだ半分以上残っているカツを食べ始めた葉月の頭に言った。
「いま言ったこと忘れて、馬鹿みたいにまた一人で抱え始めたら、同じことを何度でも説教するからな」
「忘れないもん」
こっちを見ずに小さく呟いた葉月の声が、まるで俺に甘えているようで、やけに可愛らしく感じた。




