20話 自覚
俺を先に玄関から出した聡は、外に出て薄いドアを閉めた。
外は真っ暗だったが、玄関先には照明もなかった。
「ありがとうございました」
苦く笑う。
「何に対する礼だよ」
「嫌なもん聞かせたのに、笑ってくれてるから」
聡が泣くのを堪えるような酷い仏頂面になっている。こいつもやばそうだな。
さっき姉にした様に、聡の頭を叩き、そのまま掴んで車の方へ払った。
「ちょっと乗れ」
「でも」
中を気にする聡に言い聞かせる。
「ちょっとだけだよ。お前がいても変わらねえんだろ?」
聡が唇を噛んで歩き出した。
路上駐車していた車を少し走らせ、既に閉まっている小さな商店の脇に停めた。
「コーヒーで良いか?」
頷く聡を車内に残し自販機に向かった。
車に戻り熱い缶を渡すと、多少落ち着いたように見える聡が小さく頭を下げた。
腹の中の怒りが少しはましになったようだ。
聡がプルトップを開けるのを待って声をかけた。
「婆さんか?あれは」
聡が俺を見て首を振る。
「俺の婆ちゃんじゃない」
「姉ちゃんのか」
聡が手の中のコーヒーの缶を見つめながら頷いた。
まあそんなとこだろうな。
「あれは酷いな。呆けてんのか」
聡がもう一度頷く。
「俺はあれしか知らねえけど。呆けたせいらしいけど関係ない、どっちにしろ姉ちゃんが」
「そうだな。婆さんのせいじゃなくて痴呆のせいでも葉月がきついことには変わりないな。いつからあの状態なんだ?」
「もうすぐ2年になる」
「2年!?あ、悪い、ちょっと思ったより長かった。2年?あれを?葉月が世話してんのか?病院は」
「もう長くないって言われてたし、金も払えねえし追い出されたんだよ。あんなの引き取らなくて良かったんだ。あの婆のせいで姉ちゃんはずっと…。俺、何も出来ねえし」
聡が膝の上できつく拳を握りしめる。
「お前が手え出すと逆効果か」
「姉ちゃんが一層滅茶苦茶言われる」
だろうな。
「はらわた煮えくり返ってるだろうけど、お前、婆さんの首絞めたりすんなよ」
俯いていた聡が微かに身体を揺らした。
「婆さんが家からいなくなるのは姉ちゃんの為になるかも知れないけど、お前がやるのは駄目だぞ。お前が自分の為にそんなことしてそばにいなくなったら、姉ちゃんどうなるか分かってるだろ」
自分の手元を見つめる聡の緊張した顔に、そんな考えが頭をよぎったことがないわけではなさそうだと思う。
「お前は絶対姉ちゃんのそばにいろよ。お前が何も出来てない訳がない。優しい姉思いのお前がそばにいるってだけで、どんなに葉月が心強いか他人の俺でも分かるよ。婆さんを家から出すのには色々調べないとな。病院も施設も簡単には見つからないだろうし、もちろん金も要る」
知識も何もないので婆さんをこれから施設に入れることが可能な事なのかどうかも分からないが、現状のままでいいはずはない。葉月が病んでしまうのは目に見えている。聡が俺を見た。
「でも、姉ちゃんが」
「嫌がるのか?」
「絶対。でももしかしたら、藤堂さんが話してくれたらどうにかなるかもな」
聡がそう言って懇願するような目で俺を見た。
「待て、過信すんなよ。さっきも言ったけど、俺ら全く親しくもないからな」
聡が明らかに疑いの目で俺を見る。
「お前が驚くほど俺は何も知らないぞ。今も事情はさっぱり分からない。ただあの婆さんはない。あれじゃ葉月がおかしくなる」
「今までがおかしかったんだよ。あんな婆ににこにこ笑って相手して。速攻でおかしくなるのが普通だろ」
「そうだな。あんなこと言われ続けて笑ってんのか、あの阿呆は」
「ずっと笑ってたよ。でも藤堂さんが蒼汰を病院に連れてってくれたぐらいから、糸が切れたみたいになってる」
「切れてんのか?」
聡が頷く。
「婆さんにもほとんど話しかけなくなったし、夜隠れて泣いてる」
「そうか。一人で頑張りすぎるなって言っちまったな。余計なこと言ったかもな」
人に頼らず、人の優しさを受けないことで、何とか自力で立っていたのかも知れない。
「いや、それで良いんだよ。俺が同じこと何回言ってもダメだったんだ。笑って大丈夫って言うばっかりで。あれが大丈夫なはずないだろ?」
聡に睨むように言われる。
「そうだな。大丈夫な訳ないな。お前が正しい。良し、しばらく姉ちゃん外に出して良いか?」
「うん。お願いします」
聡が頭を下げたので、目の前に来た頭を撫でてやった。
姉にされた時の様に振り払うこともなく、じっと顔を伏せたままだった。
聡が自ら顔を上げるまで姉とは違う硬い髪を撫で続けた。
『ちょっと出て来い』
葉月にメールしてから聡を送り出した。
どうにかして姉を引きずって来るだろう。
程なく、一人で勝手に葉月が玄関から顔を出した。
車の中から手招くと暗くて殆どこちらが見えないのだろう、怪訝な様子で近づいて来た。
助手席の窓を開けると顔を見せた。
微妙な顔だ。婆さんの暴言を聞かれてどんな顔をしていいのか分からないのだろう。
「何ですか?聡が忘れ物したからもらって来いって言ってたけど、嘘なんでしょ?」
「それは嘘だな。ちょっと乗れ」
警戒を解くように軽い調子で言うが、葉月は困ったような顔をして首を振った。
「10分で良い。聡が泣いてたぞ」
そう言うと、思った通り目を見開いた。
「え?何で?」
「教えてやるから乗れ」
中からドアを開けて押してやると、渋々と言った様子で乗り込んできた。
「と言うのも嘘だけど」
ドアを閉めさせてからそう言うと、葉月が俺を睨んだ。
ドアに手を掛けようとするのを緩く掴んで押さえる。
力など入れていなかったが簡単に止まった葉月の動きに安堵した。
「泣いてはなかったけど、もうちょっとって感じだったぞ」
葉月が俺を見上げすぐに目を逸らした。
身を乗り出し俺から遠い方の腕を掴んだままだったので、顔が近すぎたようだ。
手を放して運転席のシートに背中を戻した。
「何で聡が?」
「お前が心配だからに決まってるだろ。自分は姉ちゃんに何にもしてやれないって言ってたぞ」
弟とおなじように膝で握った自分の拳を見ていた葉月が顔を上げた。
「そんなこと!あの子がいたから、あの子たちがいるから」
俺に訴えるのもおかしいと思ったのだろう、途中で言葉を飲み込んだ。
「あいつらがいるから頑張れてるんだろ?チビ達はともかく、聡にはそう言ってやれよ。お前が大丈夫だって言ったところで、どうせ心配せずにはいられないんだから」
葉月は口を開かない。
「聡にきついって言えば良いんだよ。愚痴でも何でも、それで、聡がいるから助かるって言え。その方がきっとお互いが楽だ。お前ら二人とも今にも潰れそうで見てられない」
そう言うと、俺をじっと見ていた葉月が情けない声で言った。
「きついなんて言ってない。勝手なこと言わないで」
「またかよ。お前がきついのは見て分かるって言ったろ?事情は未だ分からないけど、とにかくお前が辛そうな原因は分かった。勝手なこと言ってる訳じゃない」
どうしてこう頑ななんだろうな。
糸が切れたなら切れたで、さっさと辛いことを認めれば良いのに。
黙り込んだ葉月に軽く息を吐くと、責められたと思ったのか目を閉じて唇を噛んでしまった。
失敗したな。
責めた訳じゃないと伝えたくて頭に手を置くと、目をぎゅっと瞑ったまま身を竦めた。
「お前を責めたい訳じゃない。お前と聡に、それと隆もかな、少しでも楽になって欲しいだけだよ」
「楽になんてならなくても良い」
小さな呟きが聞こえた。
「どうして。自分を辛いままにしておけば良いことがあるのか?」
頭に手を置いたまま努めて穏やかに軽く聞いた。
「お婆ちゃんが悪い訳じゃないもん」
「そうだな」
同意してやると暫く間が空いた。
「大好きだったんです。小さい時ここに一緒に住んでて。優しくて」
顔を両手で覆ってしまった。
頭を叩いてやる。
「もう何時亡くなってもおかしくないって言われて、お婆ちゃんも家に戻りたいって。だから自分で決めて退院させたのに」
「そうか。優しいなお前」
鼻を啜る音がした。
「優しくなんかない。だから楽になんてならなくて良い」
何か分かってきた気がする。
「お前はそうかも知れないけど、弟達は違うよな?弟達に我慢させたり嫌な思いさせたくはないだろ?」
「そうだけど、でも」
頭をぐりぐりとかき回すように撫でてやると、顔を上げないまま俺の手を跳ね除けようとした。
その手を掴むと驚いた拍子に俺の方を見た。
暗がりでも滑らかな頬が濡れているのが分かった。
葉月が慌てて袖で顔を拭う。
「楽にならなくていいってことは、辛いのは認めるんだな?」
腕を掴んだまま顔を覗きこんで聞くと葉月が目を逸らした。
「お前なあ。辛いなら泣いて当然なんだよ。そうだろ?どっちかにしろ、大丈夫なのか辛いのか。でもよく考えろよ。お前がほんとは辛いのに大丈夫だって言い続けると、聡や隆が駄目になる。お前のこと大好きな弟達は、お前が辛くない振りして笑ってるのが一番きついんだよ。泣いてる方がましだって聡が言ってたぞ。お前が本当に大丈夫なら誰も心配なんかしない。それならそれでいい。大丈夫なんだな?」
下を向いていた葉月が小さな声を絞り出した。
「大丈夫。じゃ、ない」
「よな?で?」
「・・・辛いです」
「良し。こんな当然のこと認めるのに何で2年もかかってんだよ」
俯くフワフワの頭を両手で掴み、胸に引き寄せてその頭と背中をがっちりと抱え込んだ。
「うえ?」
泣きべそ声でもがこうとする葉月を更に力を入れて締める。
「何!?」
愕きで泣くのを忘れている葉月を無視し、話題を戻す。
「聡の前で泣けないなら、ちょっと練習して行け」
腕の中で、葉月がもがくのを止め大人しくなった。
頭は俺の腕に押さえられ胸に埋まったままで表情は窺えない。
「辛いのは当然だ。婆さんのせいじゃなくても、あんなの誰も耐えられない。婆さん引き取ったことを後悔したって、誰もお前を責めたりしない。お前も自分を責めなくて良い」
そう言うと、腕の中の葉月が息を詰めたのが胸に伝わって来た。
「我慢しなくていい。泣いて当然だ。俺だって泣く。いや、泣く前に放置してるかもしれん。それをしないお前は優しい。内心婆さんのことをどう思ってようが、毎日婆さんの為に慌てて家に帰って、酷いこと言われても投げ出さずに世話して面倒見てるんだろ。それだけで婆さんは物凄くお前に愛されてるよ」
ようやく嗚咽が聞こえ始めた。
「たとえ病院に送り返したいと思ってても、早く逝ってくれって願ったことがあったとしても、誰もお前を責めないよ。昔の優しかった婆さんだって、頑張ってる可愛いお前を責める訳ない。だろ?今は痴呆に頭乗っ取られてるけど、本当の婆さんの言葉を俺が代弁すると、そうだな。酷いこと言ってごめんねえ、私を一生懸命世話してくれてありがとうねえ、そんなに頑張らなくてもいいんだよーとか言ってるんじゃないか?」
婆さんっぽい声音でしゃべると嗚咽の合間に唸り声が聞こえた。笑ったかな。
「今お前が辛くても、お前はちゃんと婆さんを大事にしてる。辛いのを隠さなくても良い。お前も自分を責めなくて良い。大丈夫だよ」
頑張って鳴き声は押し殺してはいるが、本格的に泣き始めたようだ。
「泣け泣け」
そう言うと、葉月は俺の背中に両手を回し、ぎゅっと服の裾を握りしめた。




